安蘇の山 深高山から石尊山へ縦走

石尊信仰はなやかりし昔を偲び、雑木林の尾根を

2004年11月6日

                  
 深高山より行道山を望む
 
入名草バス停(905)→ 藤坂峠(925)→ 猪子トンネル入り口(1000〜1010)→ 猪子峠(1020〜1030)→ 粟谷町分岐(1040)→ 深高山(1105〜1115)→ 湯殿山分岐(1135)→ 石尊山(1140〜1145)→ 展望台ピーク(1155〜1230)→ 石尊不動尊(1305)→ 鷄足寺(1330〜1350)→ 小俣駅(1420)

 
 足利市の奥に石尊山という山がある。標高わずか486.4メートルの低山だが、栃木百名山にも選ばれている。その山名から明らかなように石尊信仰の対象となった山である。石尊信仰とは丹沢山系大山に鎮座する石尊権現(明治初年の神仏分離令により現在の阿夫利神社と大山寺に分離された)のご神体たる巨石に対する信仰である。江戸時代全国に爆発的に広がり、大山詣でとして庶民のよきリクレーションとなった。また、この神様(仏様?)は全国あちこちに勧進された。このため、石尊山の山名を持つ山は全国に多々ある。「日本山名総覧」によると、2万5千図に山名記載されている石尊山だけで10座を数えるとのことである。ただし、地図に山名記載のない石尊山はその数倍はあるだろう。奥武蔵の官ノ倉山の隣にも地図に山名記載のない石尊山が存在する。

 足利市奥の石尊山の存在を初めて知ったのは、今年の1月、藤坂峠から行道山へ縦走した際である。松田川を挟んだ向こう側に深高山から石尊山に続く山稜が眺められた。いつかは辿ってみたいとの思いがあった。調べてみると、この石尊山へは小俣川流域から確りした登山道がある。しかし、深高山〜石尊山の縦走を目指すとなると、交通の便がどうしようもない。ウンウンうなって地図を眺めていたらアイデアが浮かんだ。今年1月の藤坂峠〜行道山縦走時に利用した田沼町営バスで名草川奥の入名草まで行き、そこから藤坂峠を越え、松田川を越え、深高山に取りつき、石尊山まで縦走して、小俣川沿いの道をテクテク歩いて両毛線の小俣駅に至る。アプローチも下山後も車道歩きが長いが、このルート以外にないとの思いに至った。

 北鴻巣駅6時57分発の上り列車に乗り、熊谷、羽生と乗り換えて、東武伊勢崎線の足利市駅着8時18分。駅前には8時30分発の寺沢入り口行き田沼町営バスが待っていた。今年の1月に利用したときは、乗客は私一人であったが、今日は私を含めて4人、中に一人登山者がいる。マイクロバスは名草川に沿って一路北上し、9時5分、入名草バス停に着いた。もう一人の登山者もここで降りた。彼は名草巨石群へ行くようである。勝手知った道を藤坂峠に向う。最後の人家を過ぎ、巨石群への道を右に分けると、峠への登りとなる。立派な車道であるが通る車もない。あいにく空はどんよりして、今日一日展望は期待できそうもない。杉檜林の中の坂道を足早に歩く。バス停から20分で切り通しとなった藤坂峠に達する。

 そのまま休むことなく峠を下る。溜め池を過ぎると下方に田んぼの中に人家の点在する中井集落が見えて来る。早朝から田では遅い稲刈りが行われている。信号機のある十字路を過ぎ、松田川を渡ると、道は猪子峠に向けてのやや急な登りとなる。左側では大規模な治水工事が行われている。バス停から車道を1時間歩き続け、ようやく猪子峠の下を貫く猪子トンネルに達した。長かったアプローチもここまで、ここが深高山への登り口である。初めて道端に腰を下ろす。

 トンネル入り口から山中に向う林道を100メートルも進むと細い踏跡が右に分かれる。入り口に「深高山登山口」との標示があった。ようやく山道に入った。いきなり沢に沿った急登である。ただし、ハイキングコースとして整備されている。ひと登りすると、大きく迂回してきた先ほどの林道とニァミスした後、水平な道となる。すぐに猪子峠に到着した。杉檜林の中の何の変哲もない峠であるが、一段上には石の祠もあり、古くからの峠であることが分かる。座り込んでパンを頬張る。ここまで朝から何も食べずに登ってきた。意外なことに、同じルートから一人の若者が登ってきた。こんなルートを登る者が他にもいるとは驚きである。道標が稜線を北へ辿る踏跡を「仙人ヶ岳」と示している。いつかたどってみたいルートである。私は「深高山」と示された南に向う踏跡を辿る。

 小さな一峰を越えると、再び迂回してきた林道に出会う。ただし、路面に降り立つこともなく、すぐに左右に分かれる。緩く登ると峠状の鞍部に出た。山道の十字路となっていて道標があり、反対側に下る踏跡を「粟谷町」と標示している。私は「深高山」の標示に従い、右に続く尾根道に踏み込む。峠の一段上には石の祠が鎮座している。何という名前の峠なのだろう。この地点でようやく、深高山から石尊山に続く主稜線に達したことになる。

 すぐに厳しい急登となった。ただし、確り階段整備されており、不安はない。一気に登りきり、平坦となった雑木林の中の尾根道を辿る。突然、「ガサ」という音、思わず立ち止まって足下に目を凝らすと、何と、体長1メートルほどのアオダイショウが落ち葉で埋った登山道を懸命に逃げていく。冬眠前の最後の活動だろう。思わず「頑張れよ」と声を掛ける。辺りはクヌギやコナラの雑木林だが、今年はきれいには紅葉していない。半分枯れたような茶色に染まっている。しばらく緩やかな尾根道を辿ると、状況が一変して、岩盤の露出したものすごい急登となった。ザイルが張られっぱなしである。ただし、これを登りきれば深高山山頂のはずである。

 11時5分、ついに山頂に飛びだした。登り始めてから1時間もかからずにたどり着いた。快調な足取りである。石の祠の祀られた山頂は無人であった。今日初めての展望が南側に開けている。灰色に濁った視界の先に行道山がひときわ高く聳え立っている。標高わずか442メートルの低山にはとても見えない。北側に聳えるはずの仙人ヶ岳を是非眺めてみたいと思っているのだが、雑木が茂り視界が得られない。握り飯をほお張りながらひと休みする。

 雑木林の中の変化のない尾根を行く。小さな上下があるだけである。男性の単独行者とすれ違う。しばらく進むと、湯殿山分岐に達した。左(南)に弱々しい踏跡が分かれるが、真新しい立て看板があり「湯殿山方面登山道崩壊のため通行禁止」と記されている。わずかに進むと、突然、石尊山山頂に着いてしまった。一瞬唖然とする。狭い尾根の高みとも思えない登山道上に立派な山頂標示が立ち、傍らには三角点も確認できる。標示がなければ誰も山頂とは気がつかないような場所である。展望もなく、何とも張り合いのない頂きである。ひとまず腰を下ろしてみたものの、所在がない。先へ進むことにする。案内書によるとこの先に展望台があるはずである。

 いったん下って、少し登ると今度はいかにも山頂らしいピークに達した。展望台ピークである。開けた山頂部は芝生で覆われている。ただし残念ながら、周囲は樹木で囲まれ、名前に反してすっきりした展望は得られない。周囲には小俣第2小学校などと記した板切れがあり、小学生の集中登山の跡が窺える。山頂に腰を下ろし、握り飯をほお張る。山頂直下には石尊神社奥宮の社殿も鎮座している。山中にしては立派な社である。どうやらこのピークが本来の石尊山であったと思われる。

 持参のデジカメの調子が悪く、あれこれいじり回しているうちに思わぬ時間を取ってしまった。しかし、あとは下るだけである。下りに入って驚いた。登山道の状況が一変したのである。今までの平凡な尾根道がうそのように、凄まじい岩道となった。しかも相当な急坂である。さすが、巨石信仰の石尊山だと妙に納得しながら、慎重に岩道を下る。それにしてもこんな悪路を小学生が集団で登るのであろうか。ようやく岩道が終わり植林の中の穏やかな下りとなる。点々と「○○丁目」と記した石柱が現れ、この道が昔からの石尊山登山道であったことが分かる。「女人禁制」と記された大きな石柱を見て、さらに下ると石尊不動尊に下り着いた。無事の下山である。

 小俣川沿いの里道をのんびりと駅を目指す。周りは刈り入れのすんだ田んぼが広がっている。振り返ると、石尊山が高々と聳え立っている。ただし、南面が採石により大きく傷つけられていて痛々しい。神の坐す山に、こんなことをしてよいのだろうか。駅まで、1時間も歩けば着くだろう。30分近く歩くと、集落奥の高台に、大きな建物が見えてきた。鷄足寺であろう。寄ってみることにする。かなり大きな立派な寺である。足利市のホームページには次のように記されている。

 鷄足寺  1100年以上も昔、定恵上人によって開創された名刹で、
 真言密教の大本山です。初めは世尊寺といいましたが、天慶の乱(939
 〜940)の際、平 将門を調伏したところから勅命により鶏足寺と改めました
 
 さらに車道を歩き駅を目指す。そろそろ疲れを覚えたころ、ようやく無人の小俣駅にたどり着いた。まさに計画通りの、何のハプニングもない山行であった。

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