八紘嶺から七面山へ

どこまでも続く原生林の中の縦走路

1994年6月27日

              
 
梅ヶ島温泉(805)→ 富士見台(920〜930)→八紘嶺(1020〜1035)→第二三角点(1210〜1220)→希望峰(1315〜1325)→七面山(1340〜1350)→敬愼院→羽衣(1555〜1600)→角瀬集落(1640)

 
 登ってみたい山には、「憧れの山」と「気になる山」の二種類がある。憧れの山とは恋する山である。今、私が最も恋い焦がれている山は南アルプス深南部の池口岳である。一方、気になる山とは、一度は登っておきたいと思う山である。七面山はこんな私の気になる山の一つである。七面山は日本200名山にも選ばれた信仰の山である。古くは七面明神信仰にもとづく真言密教の修験の山であり、七面明神が日蓮宗の守り神とされてからは日蓮宗の聖地となった。その中腹1,700メートル付近に建つ敬愼院には年間数万人の信者が登るという。しかし、このことだけなら私の興味の外である。私の気になる最大の理由は、この山が、安倍川水源の山・八紘嶺から尾根続きの山であることである。私の意識からすると、この山は山梨県に位置するといえ安倍奥の山なのである。安倍奥のこれほど有名な山を登り残しておくわけにはいかない。もちろん七面山にだけ登るのなら簡単である。身延側から信者と一緒に立派な参道を登ればよい。しかし、私の目的は八紘嶺から稜線を縦走して七面山に達することである。このルートは古くは安倍川筋から七面山への巡礼ルートであったという。もちろん現在は山慣れた人にのみ許される縦走ルートである。

 ルートは決まっているのだが、この計画の実行には難問がある。コースが長いことである。どの登山案内を見ても、敬愼院に1泊、場合によっては、さらに梅ヶ島温泉にもう1泊する行程となっている。合計歩行時間は10〜11時間である。しかし、わざわざ泊まり掛けで行く気も起きない。なんとか日帰りで踏破できないものか。もう一つは、下山後の交通の便の悪さである。七面山登山口から身延までのバスは、14時53分の次は17時58分である。しばし計画の実行をびびっていた。

 覚悟を決めて行ってみることにした。一番のバスに乗れば梅ヶ島温泉着8時30分頃、七面山登山口発17時58分のバスまで9時間半ある。1年で一番日の長い今の時期なら飛ばせばなんとかなるであろう。私の足はまだ衰えていない。梅雨の最中の今日の降水確率は、午前30%、午後50%である。降られるのはむろん覚悟の上である。新静岡センター発6時17分のバスに乗る。おばちゃん5人パーティが乗り合わせた。梅ヶ島温泉着8時5分、予定よりも早い。八紘嶺をピストンするというおばちゃん達は、私が七面山まで行くと聞いてびっくりしていた。彼女等を置き去りにして登山道に入る。この道を登るのは3度目であるが、以前の印象とは異なり、檜の植林地帯は枝打ちされたせいか意外に明るい。確りした道を快調に登る。どうやら先行パーティがいる様子である。やがて男女2人のパーティを追い越す。私が先頭となったようで、時々蜘蛛の巣が道を塞ぐ。安倍峠に通じる車道に出る。ひと休みしたいところだが、富士見台までがんばろうとそのまま通過する。

 9時20分、富士見台着。周囲はすべて雲に覆われ、今日は富士山のすばらしい展望は得られない。もとより覚悟の上である。ひと息入れた後、山頂を目指す。灌木の中に山毛欅の大木がそびえる。すっかり盛りを過ぎたツツジの落花が所々山道を彩る。10時20分、あっけなく八紘嶺山頂に達した。梅ヶ島温泉から休みも入れて2時間15分で到着したことになる。標準コースタイムは3時間20分だから相当早い。今日は実に快調である。

 この山頂は2度目であるが、天気がよければ見えるはずの南アルプスの展望も今日は厚い雲に覆われていてあいにくである。誰もいない山頂でパンを一つ頬張ってすぐに出発する。ここからが今日のメインエベントである。隈笹の中の道を下る。七面山への道は踏み跡程度と思っていたが、意外に確りしている。しかも最近整備し直したと見えて、隈笹が刈り取られ、真新しい赤テープが点々とつけられている。どうやらルートの心配はまったくなさそうである。緩やかな上下を繰り返しながらもどんどん下る。地形は意外に複雑で、尾根筋ははっきりしない。雪で道が明確でない冬期にはルートファインディングに苦労しそうである。やがて案内にあるインクライン跡の小平地にでる。ここが最低鞍部である。

 緩やかな上り下りが続く。次第に深山の趣が増し、安部奥の山というより南アルプス深南部の雰囲気である。到る所倒木が道を塞ぐ。変に倒木を退けたり切り取ったりの整備がされていないのがよい。潜り、乗り越え、跨ぎ、原生林の中を進む。辺りは静寂そのもので、小鳥の声のみが谺する。進むに従い、ますます原生林は深まる。やがて笹も消え、大原生林となる。苔蒸した倒木が到る所に横たわり、山毛欅や樅の大木が鬱蒼とそそり立つ。思わず感嘆の声を上げる。南アルプス深南部そのものである。原生林の中を霧が流れ幻想的雰囲気を醸し出す。何処までも原生林が続く。1864メートル峰と思われる緩やかなピークに至る。樅を中心とした原生林の直中である。余りの美しさに、しばし腰を降ろし森の精の声に耳を傾ける。一人でこの森を独占しているのは幸せの極致である。

 第二三角点峰への急な登りに掛かる。突然左手に展望が開け、木々の合間になんと南アルプスが見えるではないか。いつのまにか雲の上に出たのだ。足元に雲海が広がり、笊ヶ岳、聖岳が谷一つ向こうに聳え立っている。まさか今日展望が得られるとは思わなかった。しかも原生林の中から仰ぐ雲海をともなっての、とびっきり上等の展望である。感激が極まった。すぐに頂に達する。展望はないが原生林の中の静かな静かな頂である。再び腰を降ろしパンを頬張る。尾根筋がはっきりしてきてダケカンバの原生林に変わる。相変わらず倒木が続く。どうやら私は夢の世界に迷い込んだようだ。何もかも忘れ、ただこの深い原生林の中に静かに身をおこう。緩やかな上り下りが続く。高度計は2千メートルを越えた。次の目標である希望峰ほうはもう近そうである。

 あれほど続いた原生林が薄れ、灌木の藪っぽい道となる。突然左手が大きく開け、視界いっぱいに南アルプス連山が広がった。雲海の上に布引山から笊ヶ岳に続く白峰南嶺の稜線が浮かび上がり、その背後には南アルプスの主稜線・上河内岳、聖岳、悪沢岳が谷筋の残雪に身を飾りながら続いている。塩見岳以北は雲の中である。カメラの出番だ。あの双耳峰の美しい笊ヶ岳は私の恋する山の一つだ。この夏どうしても登りたい。ほんのひと登りで希望峰に到着した。ここも展望がよい。先を急ぐことも忘れ、天の与えてくれたこの美しい展望を楽しむ。ここまで来れば七面山はもう目と鼻の先である。

 すっかり藪っぽくなった平凡な道を進む。自然林の中ではあるが、もうあのすばらしい原生林の雰囲気はない。地形は実に複雑であり、丘状のピークや窪地が点在する。どれが七面山なのだろうかと思いながら緩やかに登っていくと、あっさり山頂に達した。山頂には人影はなかった。小平地となった山頂には立派な石の展望盤がおかれているが、雑木に囲まれて展望はない。わずかに木々の隙間から笊ヶ岳が見える。この頂は何となく人の匂いがぷんぷんして、まったく落ち着かない。おまけに小さな蠅が群れをなしており、長く留まっている気も起きない。あの大原生林の道を辿って、ようやく到着した山頂にしてはいささかがっかりである。早々に山頂を辞す。ここからは日蓮宗の聖地である。すっかりムードのなくなったハイキングコースの様な道を下る。右手が大きくガレている。有名な七面の大ガレである。やがて下のほうに敬愼院がちらちら見えてくる。ここからすぐ下の敬愼院まで道に迷い迷った。いくつかの広い道が交差しており、七面山頂を示す道標はあるものの下りの道標がない。適当に進むと敬愼院裏手の池に出てしまった。大きな青大将が草むらに寝そべっている。道を戻ってなんとか敬愼院に達する。

 敬愼院は千人もの宿泊可能な宿坊を備えた大寺院である。辺りは凛とした聖地特有の空気が流れ、非教徒の私も思わず身を正さざるを得ない。2人、3人と登ってきた信徒たちが静かに宿坊に消えていく。私も今日一日の無事を七面明神に感謝する。もう下るだけであり、どうやらバスの時刻には十分余裕がありそうである。ここで再び進むべき道に迷った。裏参道を角瀬に下るつもりであるが、どっちへ行っていいのかさっぱりわからない。周りに信徒が何人かいるのであるが、どうも道を尋ねる雰囲気ではない。仕方なく、表参道と思えるが、山門からまっすぐ下る参道に踏み込む。1人、2人、3人と、小人数の信徒たちが登ってくる。みな身繕いは登山者と区別はつかないが、擦れ違うと「ご苦労さまです」との挨拶がある。シーズンオフと見えて、案内書にあった白装束の集団はいない。ジグザグを切った山道の参道が何処までも続く。道は確り整備されているとはいえ、傾斜もかなりあり、登り3時間の行程は信者にとって相当な苦労であろう。ゴミ一つない参道はさすが聖地である。途中休憩所を兼ねた寺院がいくつかある。5人ほどの白装束の一行が登ってきた。先頭に立つのは腰が90度も曲がった老婆である。果たして上まで行けるのか。南無妙法蓮華経のお題目が口から漏れている。信仰の一念とは恐ろしいものである。

 飽き飽きする頃ようやく羽衣はごろもの表参道登山口に到着した。ここにも参拝者用の数件の旅館がある。春木川沿いの舗装道路ひたすら角瀬に向かう。心ならずも表参道を下ってしまったので仕方がない。40分も歩くとようやく角瀬の集落に達した。しかしバスの時刻まで1時間半もある。どうしたものかと思案していると、何とタクシー会社があった。しめたとばかりタクシーを奮発。身延駅まで5,500円であった。

 それにしても、あの大原生林の中の道は、何とすばらしかったことか。