石神峠から白水山へ

日蓮聖人の越えた峠から積雪の薮尾根を辿る

1998年1月15日


 
天子湖入口バス停(855〜900)→大田和集落(920)→石神峠(940〜950)→693m峰(1025〜1030)→白水山(1106〜1130)→北ヶ谷戸集落下降点(1215)→砕石場上(1315)→第一鉄塔(1355〜1400)→第二鉄塔(1420〜1430)→車道(1500〜1510)→稲子駅(1520〜1602)

 
 今年の初登りは天子山塊の白水山である。天子ヶ岳から雨ヶ岳まで続く天子山塊の主稜線はすでに踏破ずみであるが、この山塊にはまだ気になる山がいくつか残されている。五郎峰、五宗山、三石山などである。白水山もその一つである。この山は天子ヶ岳から富士川に向かって派出した甲駿国境稜線上の一峰である。この山稜を白水山の北方で越える石神峠は古代より存在したといわれる歴史を秘めた峠で、一度は訪れてみたいと思っていた。今日はこの峠から南に山稜を縦走し、白水山を越えて行けるところまで行ってみるつもりである。
 

 一昨日の8日夜、関東地方は大雪に見舞われ、静岡県下も大雪注意報がでた。静岡市内は雨であったが、昨日眺めた富士山は麓まで真っ白であった。果たして天子山塊はどうだろう。念のため、いつものジョギングシューズの代わりに軽登山靴を履き、ザックにロングスパッツを詰めてきた。静岡発7時の列車が動き出すと、ちょうど日の出時刻と重なり、街並の背後に連なる赤石岳、聖岳、上河内岳等の南アルプス連山が見事なまでにピンクに染まっている。モルゲンロートである。その前に屏風のように立ち塞がる大無間連峰も新雪を被り、すっかり鼠色となっている。列車が進むと、同じく新雪を朝日に輝かせている安倍川東山稜の山々が見え出す。さらに、富士川の鉄橋に差し掛かると、正面に天子山塊の山々が広がる。いつもは鈍重に見える毛無山が白く染まり、今日は嫌に輝いてみえる。富士山はまさに美の極致である。富士駅ホームで身延線を待っていたら運転手が話しかけてきた。「どこまで行くんだい」「芝川町の奥まで」「白鳥山かい」「いや、白水山へ」「だいぶ雪があるよ」。

 8時55分、天子湖入口バス停で芝川町町営バスを下りる。ここが石神峠への登り口である。日陰にはまだ雪が残っている。人家の裏側に見落としそうな小さな道標があり、石神峠への登り口を示している。二万五千図を見ると、峠道は中腹の大田和集落まで実線となっているので車道をイメージしていたが、完全な山道であった。よく踏まれた小道をジグザグを切りながら高度を上げる。今日の天気予報は「午後から曇り、夜には雨」と下り坂であるが、上空はまだ青空である。しばらく植林の中を登ると墓地に突き当たり、右に折れてトラバース道となる。道は薄いアイスバーンとなって歩きにくい。すぐに人家が二軒現われた。大田和集落である。しかしどの家もすでに廃屋となっているようである。雪道となった小道は深い樹林の中を緩急をつけて登っていく。道標は一切ないが、分かりにくい分岐にはテープがある。軽アイゼンを持ってこなかったのは失敗である。凍り付いた雪の斜面は滑りやすい。

 9時40分、石神峠に登りついた。薄暗い樹林の中の小さな切り通しで、一段上に、石仏や板碑があり古い峠の雰囲気を醸している。この峠は昔日蓮聖人も越えたという。峠をそのまま下れば佐野川を塞き止めた天子湖に出る。しばしの休憩の後いよいよ白水山に向けての縦走に移る。杉檜の欝蒼とした樹林の中の雪道である。どの程度の踏み跡があるか心配したが、稜線上には割合しっかりした踏み跡がある。しかし、踏み跡は時々尾根を外れる。作業道とも思えるので、あまりこだわるとどこかに引き込まれる危険もある。忠実に稜線を辿る。登りの場合余りルートファインデングに気を使う必要もなく、ひたすら高みを目指せばよい。峠から先は道標はおろかテープ一つない。この山に登るのは物好きな者に限られるのだろう。相変わらず左足首が痛くキックステップもできないので急登には苦労する。重ね重ね軽アイゼンを持ってこなかったことを悔いる。所々倒木が目に付く。大きな檜が根こそぎ倒れている。一昨年9月に上陸した台風17号によるものだろう。

 飽き飽きする頃傾斜が緩み、広々とした平頂に達した。地図上の693メートル標高点峰である。小休止後、5メートルほど下って急登に入る。登り切って平尾根に達すると右側が雑木林となって木々の間に今日初めての展望が開けた。安倍東山稜から七面山に続く尾根が見渡せる。七面の大ガレは新雪で真っ白である。倒木がにわかに多くなり、ルート確保に苦労する。急登に入ると目の前にすさまじい光景が現われた。大倒木帯である。数十本の檜の大木が絡み合っていく手を塞いでいる。どうやって通過したものか、しばし立ち止まって考えてしまう。何とか倒木帯を抜けると、そこが白水山山頂であった。雪帽子を被った三角点をそっと撫ぜる。山頂は欝蒼とした樹林の中で、朽ちた山頂標示が二つばかり立ち木に打ち付けられているだけである。倒木の雪を退けて座り、持参の握り飯を頬張る。さすがに山頂は寒い。

 11時30分、山頂を出発する。尾根筋を追って緩やかに下り出すと、私の自慢の第六感が警告を発し出す。地図で確認すると、ルートは山頂で90度左に曲がることになる。そのようにルートをとっているつもりなのだが。念のためコンパスで確認してみると、何と、南西に延びる支尾根に引き込まれている。山頂に戻り、南東に延びる尾根を改めて探ると尾根筋とともに確りした踏み跡が見つかった。しかし私の感覚からすると登ってきた方向に戻る感じでどうもすっきりしない。おそらく、山頂直下の大倒木帯を突破する際に大きく迂回したので方向感覚がずれたのだろう。それにしても私の第六感は大したものである。確りした踏み跡をどんどん下るが、それでも感覚的にピンと来ない。コンパスで再度間違いのないことを確認する。

 突然左側に視界が開け、大きな大きな富士山が中腹に雲をまといながら薄雲の広がった空に浮かび上がっている。さらに下ると、670メートル標高点の鞍部に達した。ここが北ヶ谷戸集落への下降地点である。道標はないがテープが巻かれ、その地点であることを示している。どの記録を見ても縦走はここで打ち切られているが、予定通り私はさらに稜線を辿ることにする。途端に今まで続いてきた踏み跡が絶えた。もはや人の歩いた気配はない。二万五千図にはここから先も稜線上に破線が記されているので踏み跡ぐらいあると思っていたのだが。尾根は右側がまだ若い檜の植林、左側が手入れの悪い植林となっていて、その間は藪が繁茂している。灌木と檜の枝をかきわけかきわけの前進となった。やがて尾根は二重山稜のような複雑な地形となり判然としなくなる。二万五千図をヤッケのポケットに移し、頻繁にチェックしながら進む。足がそろそろ限界である。一歩歩く度に痛みが走る。

 左にカーブしながらの下りに入ると突然確りした踏み跡が現われた。ちょうど尾根筋も消えてルートファインディングの悩ましいところなので助かった。下り切ると痩せ尾根に達した。左下が砕石場になっており、工事用の車道が登ってきている。足の状態も悪く、よほどここから下ろうかと思ったが初志貫徹することにする。再び踏み跡が細くなった。469メートル標高点峰を越え緩く下ると、突然明治17年銘の小さな石の祠が現われた。二万五千図にはこの付近から佐野川流域に下る破線が記されている。この踏み跡は見当たらないが、おそらくこの地点は昔の峠であったのだろう。平坦な尾根を微かな踏み跡を追って進むと、アオキの森となった。そこを抜け、緩やかに下って鞍部に達すると左側稲子川流域に確りした小道が下っている。右佐野川流域にも微かな踏み跡が下っている。地図にない道である。ひと登りすると送電線鉄塔に出た。視界が開け、すっかり雲に覆われた空に富士山が浮かんでいる。

 394メートルの緩やかな標高点ピークを越えると、尾根筋も踏み跡も消えた急な下りとなった。遮二無二下ると再び送電線鉄塔が現われ、ルートの正しさが確認できた。そろそろ辿ってきた尾根も終わりである。予定ではこの地点から地図に記されている破線を稲子川流域に下るつもりである。破線の道がなくても送電線巡視路があるだろうと見当をつけてきた。探してみたが地図の破線に相当する踏み跡はなかった。代わりに、佐野川流域に確りした小道が下っており、さらに送電線に沿って尾根通しにも確りした踏み跡が下っている。一瞬迷ったが尾根通しの踏み跡を下ることにする。いずれにしてもこれだけ確りした踏み跡なら無事下界に導いてくれるだろう。次の鉄塔を経てさらに下ると3本目の鉄塔が現われ、何とここで尾根が尽きた。ものすごく大規模な工事が行なわれている。大規模に尾根を削りとり、さらに大きな貯水池を掘っているようである。何を造るのやら。重機がいくつも置かれているが幸い今日は工事をしていない。しかもこの工事現場の上部で辿ってきた踏み跡は絶えてしまった。仕方なく慎重に工事現場に下る。さらに下山ルートを求め、藪の中を探ると微かな踏み跡を見つけた。しめたとばかり踏み込む。藪道を下るとようやく稲子から十島に通じる県道に降り立ち、さらに10分ほどで稲子駅に到着した。無事の下山である。

 無人駅の小さな待合室で一人列車を待ちながら、辿り来し尾根をぼんやりと眺める。

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