富士川右岸の孤峰 白鳥山

新年初登りは白峰三山の大展望台

1996年1月4日

              
 
本成寺(805)→小ピーク(910〜915)→白鳥山(920〜950)→工事中林道(1005)→林道(1010)→車道(1050)→本成寺(1110)

 
 1996年の初登りは富士川右岸の弧峰・白鳥山となった。本来年末に登る予定でいたが、だらしなくも風邪を引き、年を越してしまったのである。この山は甲駿国境稜線上に位置し、山梨県最南端部の山でもある。他の山並とまったく遮断された独立峰で、標高わずか568メートルの低山ではあるが、20万図にもその名が記載されている。しかし、登山ハイキングの対象とはなっておらず、私は地図を眺めていてこの山を見つけた。中腹に神社記号があり、麓の峰集落から破線が通じている。この神社まで行けばおそらく山頂に通じる踏み跡ぐらいはあるであろうと見当をつけていた。その後、山村正光氏他著の「甲斐の山旅・甲州百山」にこの山への登山記録が載っているのを見つけた。それによると、山村氏も私とまったく同じ考えで、中腹の神社記号を目指し登っているのに驚いた。実際には神社はすでになく、跡地があるだけのようであるが、そこから予想通り山頂へ踏み跡があることを知る。登山ルートは見つけたのだが、この山は麓から一時間半もあれば登れる低山、しかも他へルートを発展させようの無い弧峰のため、丸一日を潰すのがもったいなく、なかなか登山意欲が湧かない。しかし、「静岡の百山」にも名を連ねており、言わば静岡、山梨両県で百山に選ばれている山である。一度は登っておきたい。

 白鳥山の名は、日本武尊の白鳥伝説によるとも、城取山の名から来ているともいわれる。日本武尊がこの地で亡くなり白鳥となって飛び去った伝説があるとのことだが、古事記によればこの故事は現在の三重県でのことである。また、後者の説にしても、山頂に砦を築いたのは武田信玄説(甲斐国史)、徳川家康説(庵原郡誌)、今川氏輝説があり一定しない。この山はフォッサマグナ上にあるため、歴史上何回も崩壊を起こしている。特に安政元年の大地震の際には大崩壊を起こし、崩壊した大量の土砂が富士川の流れを変えてしまった。地図を見ると、確かに白鳥山の麓で富士川は大きく蛇行している。

 7時、車で家を出る。今年の正月は暖かな穏やかな日が続き、今朝も穏やかに晴れ上がっている。いまだ雪のほとんどない富士山がモルゲンロ−トに輝いている。国道五二号線を北上し、富士見峠付近から富士川河畔に抜ける。約一時間走って登山口となる峰集落の本成寺に着いた。前山の向こうに富士山が山頂部だけを見せている。本成寺は二万五千図にもその名が記載されている。なかなか風格のある寺で、境内の由緒書によると、日蓮聖人も滞在したことのある寺とのことである。車を寺の駐車場に放り込む。

 さて、白鳥山はこの辺りから登ることになるのだが、道を聞こうにも境内は静まり返り人影もない。お墓の横の小道を上にたどる。竹林を抜けて上の台地に出ると、ここが集落となっていて数軒の民家がひっそりとかたまっている。誰もいない。困ったなと思ったら、何と芝川町の立派な道標が白鳥山登山口を示している。白鳥山も登山対象になったようである。民家の庭先を抜け、竹藪の中を急登すると三叉路に出た。ここにも芝川町の道標があり、左の踏み跡を「塩出」、右を「白鳥山」と示している。どうやら山頂までルートの心配はなさそうである。杉檜の植林の中の山道となった。道は深くえぐれた明確なものであるが、最近はあまり歩かれてないとみえ、所々アオキなどの灌木が枝を張ったり、崩壊したりしている。おそらく昔、木馬道として利用されたのであろう。風の音一つしない樹林の中を登りながら、はたと気が付いた。何と昼食の握り飯を車に忘れてきたではないか。ザックの中は食べ物はゼロ、水筒の水だけである。もう20分近く登っているので戻るのもわずらわしい。どうせ正午までには下山できるであろう。

 突然伐採現場が行く手を塞いだ。切り倒されたばかりの杉檜が折り重なり、踏み跡はその中に消えている。とても歩けたものではない。藪を漕いで苦労しながら伐採現場を迂回すると再び深くえぐれたル−トが現われた。やれやれである。相変わらず樹林の中の単調な登りが続く。アオキの木がいやに多い。山村氏の書いている石段が残っているという神社跡は現われない。どうやら先程の伐採地がそうであったのだろう。傾斜が緩み開けた平坦地に出た。木馬道跡も終わり踏み跡に変わる。左から弱い尾根スジが合流し、わずかな急登を経ると小ピークに達した。木々の間だから白鳥山山頂が見える。

 わずかに下って5分ほど最後の登りに耐えると、待望の白鳥山山頂に達した。本成寺から休憩も入れて1時間15分であった。山頂は杉檜の欝蒼とした小広い平坦地で、三角点のみがぽつんと置かれていた。山村氏は小さな山頂標示が一つだけあったと書いているが、山頂標示は一つもない。珍しいことである。そう云えば道標も登り口にあったのみである。やはり白鳥山は登山ハイキング対象としてはまだ認知されていないのであろう。

 山頂をそのまま横切り、萱との中の微かな踏み跡を10メートルほど進むと、案内の通りの大展望が開けた。感動の一瞬である。眼下に富士川が蛇行し、その奥に真っ白な山並みがくっきりと浮かび上がっている。見紛うことなき白峰三山である。駿河の山からこれほどはっきりと白峰三山を見たのははじめてである。北岳は安倍奥の山々から眺めるよりその鋭さをいくぶん欠いているが、それでも鋭い三角錐となって天を衝いている。そう云えば北岳にもう数年ご無沙汰している。富士川の左には八紘嶺から七面山に続く稜線がたち塞がっている。原生林の美しいあの稜線をたどったのはもう一年半も前のことだ。七面の大ガレが赤茶けた口をぱっくりと開けている。この稜線の背後にわずかに頭を出している山が三つ。右の真っ白な山は赤石岳だろう。真中のかわいらしい双耳峰は笊ヶ岳、その左は私の大好きな布引山のはずである。一昨年の夏、あの山の頂から富士を眺めた。気づかなっかったが、この白鳥山もきっと見えていたはずである。さらにその左に目を移せば、真っ黒な篠井山のぎざぎざとした岩峰がでんと居座り、その背後には十枚山から天津山へと続く安倍川東山稜の山々が冬の日に輝いている。富士川から右は天子山塊の山々である。毛無山が緩やかな弧を引き、それに重なり天子ヶ岳の独特の山容が確認できる。思親山、白水山も確認できる。何とも云えないすばらしい大展望である。時間の経つのも忘れただ見入る。

 気が付いたら30分も経っていた。名残惜しいが下山にかかる。もと来た道を引き返すのは嫌である。西側の塩出集落に下ってみることにする。山村氏の下ったル−トである。果たしてうまく下れるかどうか。もちろん道標もないし、踏み跡もあるのかないのか。樹林の中を少しくだってみるが、どうもピンとこない。少し左にルートを振ってみたら赤テ−プと微かな踏み跡が見つかった。塩出集落へのルートのようである。15分も下ると、突然山腹を横切る工事中の林道に出た。道路端が絶壁となっていて下りるのに苦労する。再びルートを見つける。すっかり荒廃しているが、2〜3メートルも幅のある小道の跡である。5分も下るとまたも山腹を横切る林道が現われた。ここで完全にルートを失った。仕方がないので、構わず樹林の中を下り出す。下へ下へと下ればどこかで山麓を通る車道に出るはずである。微かな踏み跡らしき気配が現われ、さらに下ると、いつのまにか深くえぐれた木馬道跡らしきルートに乗った。とは云っても、完全に荒廃し切っており、アオキをはじめ下草が繁茂していて大変である。

 やがていつのまにか踏み跡の状況が変わり、山腹を左に巻くように下り出した。もはや木馬道の跡ではない。何となく昔の小道の跡という感じで、よく見ると道脇の斜面に石を積んで整備したような跡も見られる。もちろんすっかり荒廃しており、現在は使われていないことは明確である。どこに下り着くかわからないが、おもしろい、この古道の跡らしきものをたどってみよう。テレビアンテナ用と思えるケ−ブルを横切る。山村氏はこのケーブルに沿って塩出集落に下ったとある。所々道は崩壊し、たどるのもそれなりの苦労はある。ついに車道に達した。下り切ったところは峰集落の西の新トンネルの手前であった。

 帰ってから河西哲郎氏の「静岡 花の百山」を読んでいたら、この白鳥山が載っていた。それによると私のたどった古道の跡らしきものは、やはり「身延道」と呼ばれた昔の身延山への参拝道であった。河西氏は塩出集落でこの古道の存在を聞き、わざわざ登り直している。

 新年初登りの山は無事終わった。すばらしき展望と、まったく期待していなかった古道跡をたどると云うおまけも付いて。今年も駿河の山を大いに登ってみよう。