比企丘陵 四寸道から高山不動尊へ 

山伏の駆けた昔の参拝道を辿り、関東三大不動の一つへ

2015年1月10日


 
下ヶ戸薬師堂
高山不動の奥の院(関八州見晴台)
                            
上大満バス停(731)→下ヶ戸薬師堂(734〜739)→北ヶ谷戸橋(759)→全洞院・熊野神社(803〜816)→北ヶ谷戸橋(819)→横吹峠(836〜842)→越生駒ヶ岳分岐(858)→越生駒ヶ岳山頂(902〜909)→四寸道(912)→御嶽神社分岐(915)→御嶽神社(918〜921)→四寸道(925)→大杉(938〜940)→猿岩林道(945)→四寸道入口(951)→猿岩林道(1012)→四寸道入口(1020)→登山道(1039)→関八州見晴台(1055〜1107)→林道(1115)→高山不動入口(1123)→高山不動(1132〜1147)→尾根乗越(1157)→白滝(1213〜122)→不動の滝分岐(1227)→不動の滝(1239〜1242)→不動の滝分岐(1252)→林道(1256)→高畑入沿いの林道(1302)→ぶな峠道(1331)→西吾野駅(1354〜1404)

 
    第一章 四寸道(しすんみち)

 通称「高山不動」で知られる「高貴山常楽院」は飯能市高山地区の山間に位置する真言宗智山派の密教寺院である。関東三大不動の一つとされ、江戸時代には山伏の修験道場として栄えた。その巨大な本堂は重要文化財に指定されている。一度訪問してみたいとは思っているが、未だその機会を得ない。昨年12月、高山不動の奥の院である「関八州見晴台」に我が足跡は達したが、高山不動には到らずに反対側の黒山三滝に下ってしまった。

 この際、関八州見晴台直下の七曲り峠にて「四寸道」と標示された道跡に出会った。「四寸道」とは高山不動への昔の参拝道であり、かつて山伏の駆けた古道である。その存在は以前から知っていたが、現在では道跡は荒廃し、通行は困難と聞いていた。しかるに、目の前にした古道は道型も確りし、私製ながらも道標まである。歩行可能なのか? 帰宅後改めて調べてみると、あちこち林道による寸断はあるものの、大筋で歩行が可能なようである。にわかに、この古道を辿って高山不動まで行ってみたくなった。

 正月明けの1月10日、早朝5時過ぎに勇んで家を出る。未だ夜は明けず、上空には下弦の月が掛かり、その側に木星がひときわ明るく輝いている。いつもの通り、北鴻巣発5時23分の上り一番列車に乗り、大宮、川越で乗り換える。6時半、夜がようやく明けだす。電車の行く手左側に真っ白な富士山が見えてきた。まだ平地は日の出前だが、標高の高い富士山だけが朝日に赤く輝きだした。モルゲンロートである。高麗川で八高線に乗り換え、7時9分、ようやく目指す越生駅に到着した。埼玉県内では東西の移動は大変である。

 7時18分発の黒山行きバスに乗ったのは私と中年のハイカーの二人だけであった。バスを「上大満(かみだいま)」バス停で降り、人気のない街道(越生長沢線)を黒山方面に向け歩き始める。さすが山里の寒さは厳しい。手袋をしていても指がしびれる。朝日が当たるようになれば、少しは暖かくなるだろうが。空は真青に晴れ渡っている。

 ほんの100メートルほど進むと、左手奥に、山を背に半ば木々に隠れるようにして建つ古いお堂のような建物が見えた。注意しないと見過ごしそうである。何の標示もないが、今日最初の目的地「下ヶ戸(さげど)薬師堂」に違いない。畑中の畦道を辿って行ってみる。堂の前に消え入りそうな文字で「下ヶ戸薬師堂」と記された木柱があった。お堂の前には石灯籠が一基だけ立っている。

 四寸道はこの下ヶ戸薬師堂から始まると言われる。このお堂も昔はそれなりに信仰を集めたのだろう。堂内には埼玉県指定有形文化財の下ヶ戸薬師如来立像と越生町指定有形文化財の下ヶ戸薬師十二神将像があるとのことだが、堂外からでは伺い知れない。お堂の裏手に廻ってみると、一筋の道型が背後の山を登って行くのが確認できる。四寸道である。ただし、現在では、この道型はすぐ奥で採石場に突き当たり通行不能となるらしい。このため、四寸道をたどるには、大きく迂回し、その先の「横吹峠」に行かなければならない。

 街道に戻り、黒山方面に向け歩き出す。相変わらず人影をまったく見ない。時折、車が走り抜けるだけである。20分ほど歩くと越辺(おっぺ)川を北ヶ谷戸橋で渡る。「火の見下」とのバス停があるが、火の見櫓はどこにも見当たらない。この地点で右(北)に分かれる小道が、進むべき横吹峠道である。ただし、ちょっと寄り道をしていくつもりである。そのまま街道を更に先に進む。北ヶ谷戸橋から5分も歩くと、左側に全洞院、右側に黒山熊野神社が現れる。目指した場所である。

 先ずは沿うている越辺川を渡って全洞院に赴く。無住の小寺で、本堂だけの佇まいである。門前の説明書きによると、元々は修験系の寺院であったようだが、天文年間(1532年〜1555年)に龍ヶ谷の曹洞宗龍穏寺の末寺となった由。また、説明書きで初めて知ったのだが、境内に渋沢平九郎の墓地があるとのことである。

 以下説明書きの抜粋である。

 『平九郎は慶応4年(1868)5月23日に起った飯能戦争を戦った旧幕府方の振武軍の参謀で、敗走の途中、官軍の斥候隊と遭遇して自刃して果てた。ここからほど近い顔振川畔に平九郎が座して割腹した「自刃岩」がある。その首は今市(現越生市街地)に晒され、胴体は全洞院に葬られた。住職は位牌に「大道即了居士 俗名知らず、江戸のお方にて候、黒山村にて討死」と記した。平九郎は旧名尾高昌忠、榛沢郡下手計村(現深谷市)出身で、同郷の渋沢栄一の義弟である。栄一が渡欧する際に見立養子となって渋沢姓を名乗っていた。享年22歳。村人たちは勇壮な最期を遂げた青年を「脱走様」と呼び、命日には空腹を思いやって、墓前にしゃもじを供えて弔った。なお、本堂前には、当寺住職を勤めていた、俳人松野自得の「白梅のある夜飛びゆき星となる」の句碑がある』

 平九郎の墓地に詣でる。

 街道の反対側の黒山熊野神社に赴く。大きくはないが、何やら霊気を感ずる神社である。この神社は今でこそ「村社 黒山熊野神社」と、ありふれたな神社を装っているが、過去を振り返れば室町時代から江戸時代に掛けて栄えた黒山修験の本拠地なのである。室町時代の修験者・山本坊栄円が、応永5年(1398年)、この黒山の地に関東修験道の一大拠点としての修験道場・山本坊を開き、かつ熊野信仰の霊場として将門宮創始した。山本坊は江戸時代には本拠地を西戸村(現毛呂山町)に移し、京都聖護院本山派修験27先達の一つに数えられるほど繁栄した。しかし、明治元年(1868)発令の神仏分離令、明治5年(1872)発令の修験道廃止令により息の根を止められた。将門宮は熊野神社として再出発し、現在に至っている。

 北ヶ谷戸橋まで戻り、改めて横吹峠を目指す。龍穏寺を示す道標に従い北へ向う細い鋪装道路に入る。曲がりくねった登り道を行くと、三差路となる。道標に従い右に分かれる道に入り、梅久保集落内の入り組んだ道を進む。集落内に人影はまったくない。道は複雑だが分岐には必ず龍穏寺を示す道標があるので助かる。「黒山第一配水場」を過ぎると、集落も終わり、やや急な登り道となる。車が一台やっと通れそうな細い鋪装道路である。

 北ヶ谷戸橋から17分で横吹峠に到着した。何の変哲もない小尾根乗越地点で、うっかりすると通り過ぎてしまいそうである。峠を示す道標の類いも一切ない。西に続く山稜上に割合はっきりした踏跡が確認でき、その入り口の立ち木に、現在地「横吹峠」、踏跡を「四寸道」と記した小さな私製の標示が取り付いている。たどるべき四寸道の入り口を無事に探しだし、やれやれと腰を下ろす。辺りに人の気配もなく、通る車もない。道の反対側にも、こちらは少々薮っぽいが、下ヶ戸薬師堂から続いてきた踏跡が確認できる。踏み込んでみると一段高い地点に2体の石仏が鎮座していた。

 四寸道をたどる。道幅1.5メートルほどの確りした小道である。ただし、降雨による流水のためか、道中央が深く侵食されている。辺りは鬱蒼とした杉檜の植林である。道は地図上の368.9メートル三角点ピークの南面を巻くように進む。このピークは「越生駒ヶ岳」と呼ばれているらしい。どこかで山頂に至る踏跡が分かれるはずである。このピークに登ることも今日の楽しみの一つである。所が、ピークを巻き終わっても分岐が現れない。見過ごしてしまったのではないかと心配になる。ピークを完全に巻き終わり、稜線に戻るとそこが分岐であった。赤く塗られた道標が、戻り気味に登っていく細い踏跡を「越生駒ヶ岳」と示している。やれやれである。

 雑木林の中の踏跡を5分も登ると山頂に達した。「駒ヶ岳ファンクラブ」による赤く塗られた山頂標示と四等三角点「黒山」が迎えてくれた。視界は余りよくない。木々の間から北方がちらちら見える程度である。座り込んで持参の握り飯を頬張る。朝からここまで何も食べずに登ってきた。この三角点峰が「越生駒ヶ岳」なる山名を持つことを今回初めて知った。国土地理院の二万五千図にも昭文社のハイキング地図「奥武蔵・秩父」にも山名は記されていない。いったい何時、かかる山名がついたのだろう。また、途中の道標や山頂標示を設置している「駒ヶ岳ファンクラブ」なる団体のホームぺージを覗いてみると、日本全国の「駒ヶ岳」なる山名の山は18座とされており「越生駒ヶ岳」は認定されていない。一方、ウィキペディアの「駒ヶ岳」の項を覗くと、「越生駒ヶ岳」を含め、全国20座をリストアップしている。

 四寸道に戻る。数分進むと、右側の急斜面を一直線に登っていく踏跡が現れた。標示は何もないが、事前調査によると、この奥に御嶽神社があるはずである。行ってみることにする。凄まじい急斜面をよじ登ると、左から緩やかに登ってくる小道に突き当たった。小道を右にしばらく進むと尾根の先端に建つ祠に行き当たった。御嶽神社との標示がある。社殿前には大きな岩が二つ意味あり気に並んでいる。東方、北方に視界が開け、低く連なる山並みが見える。掲げられた説明書きによると、この地方では明治中期から末期にかけて御嶽信仰が盛んとなり、当地に神社が建立された由。四寸道とは関係なさそうである。四寸道に戻る。

 ほんの2〜3分進むと、御嶽神社を示す道標があり、小道が右山腹を登っていく。先ほど途中で出会った御嶽神社に続く小道だろう。ここから登るのが正解であったようである。四寸道は山腹を左から巻くようにして緩く、急に登り続ける。相変わらず鬱蒼とした杉檜の植林の中である。道幅1.5メートルほどの確りした道だが、道標の類いは一切ない。この道はおそらく現在は林業関係者が利用しているのであろう。

 少々急な登りに耐えると、左手に一本、異様な樹型の巨木が現れた。樹齢300〜400年の大杉である。この杉は確実に四寸道の賑わいを眺めたことだろう。その先で明確な踏跡が左に分かれるが、もちろん何の標示もない。四寸道はすぐに鋪装道路である猿岩林道に飛びだした。この地点には道標はおろかテープさえもない。カーブミラーが立つだけである。反対側から来た場合、果たして四寸道にうまく入れるかどうかーーー。

 林道には車の姿はまったく見られない。5〜6分林道を進むと左側の潅木に幾つかのテープが見られ、小道が分岐している。標示はないが、この小道が四寸道のはずである。道はうねうねと緩やかに、急峻に登り続ける。相変わらず道幅1〜1.5メートルほどの確りした道である。ルートファインディングの必要はまったくない。

 久しぶりに視界が左側に開け、青空を切り裂く稜線が見える。傘杉峠、顔振峠方面であろうか。稜線まではまだまだ距離がありそうである。やがて、ゆったりとした尾根状の地形となった。猿岩林道が右側すぐ下に接近し、しばし平行する。今度は右側に大きく視界が開けてきた。飯盛山、飯盛峠方面だろうか。林道と離れ、道は急登に変わる。

 再び猿岩林道に飛びだした。方向感覚からして、林道を左に進むことは明らかなのだが、左方向へは緩やかな下りとなっている。「ほんとに左でいいのか?」ちょっと疑問だ。地図で進む方向を確認する。「せっかくここまで登ってきたのに何で下るんだ!」。上空に見える稜線を睨み、ブツブツ言いながら林道を緩く下っていく。7〜8分歩くと、林道は左に大きくカーブする。この辺りに、再度四寸道へ続く分岐があるはずである。右手を探ると色あせたテープが2〜3本潅木に巻き付いているのを見つけた。その地点から沢状となった急斜面が登り上げている。どうやらこの荒れた急斜面が四寸道らしい。

 ここまでの四寸道と状況が一変した。ゴルジュと呼ぶには少々大げさだが両岸の切り立った狭い沢底の急斜面を登る。足下は大石小石がゴロゴロ。危険というほどではないが、難路である。左側には巨岩が屏風のごとく並び立っている。ゴルジュを抜けると岩の上に立つ石仏を見つけた。寛政10年(1798年)銘の刻まれた馬頭観音である。この急峻な悪路がかつて賑わった四寸道であることの証拠である。

 ルートは急斜面をジグザグを切っての登りに変わる。稜線まではもうすぐと思うが続く急登に息が切れる。「七曲り」と呼ばれるのはこの辺りなのだろうか。やがて傾斜が緩み、ポンと稜線に飛びだした。見覚えのある樹林の中の小さな鞍部、つい2週間前に訪れたばかりの「七曲り峠」である。ここで辿ってきた四寸道は関八州見晴台から顔振峠へと続く登山道と合流する。従って、四寸道の終点である。辺りに人影はない。無事に四寸道を辿りきった満足感にしたり、峠に座り込む。
 

  第二章 関八州見晴台(奥の院)と高山不動尊

 ひと休み後、関八州見晴台に向う。足下は確りした登山道に変わったが、第一級の急登である。黙々と急登に耐える。前方上空から人声が聞こえてきた。峠から15分ほどの重労働の末、ついに今日の最高地点・関八州見晴台771.1メートルに到達した。数人のハイカーが休んでいる。考えてみると、今朝、バスを降りてから初めて出会う人影である。山頂は大きく開けた裸地で、真ん中に高山不動尊の奥の院となるお堂が鎮座する。周囲は大きく開け、まさに関八州見晴台の名前に羞じない大展望が広がっている。2週間前も同じ展望を得たが、今日の方が視界がよい。

 先ず目が向くのは西方である。奥多摩の山々の背後に真っ白な富士山が神々しい姿でそそり立っている。その右に奥武蔵の山々が並び、三角形の武甲山の姿がひときわ目立つ。この山は傷ついたと言えども、未だ奥武蔵の山々の盟主としての貫録は失っていない。その更に右には埼玉県の誇る名峰・両神山が孤高を守っている。

 場所を少し移動して南方を眺める。檜洞丸、蛭ヶ岳、丹沢山などの丹沢山塊がひと塊となり、その左に少し離れて大山の三角形が確認できる。問題はその左の地平線である。僅かに白い輝きが細い線となって見える。相模湾だ!   何と相模湾が見えたのだ。とてつもなく嬉しくなった。更に目を左に振る。新宿副都心の高層ビル群が見える。その更に左だ。ロウソクのごとき細い一本の棒が青空に向って伸び上がっている。紛う事無きスカイツリーである。何と視界がよいことか。

 再び場所を変えて東を望む。足下から関東平野が広がる。熊谷の街並みが見える。その右側は鴻巣辺りなのだろう。おそらく我が家も見えているのだろうがーー。地平線の彼方にうっすらと筑波山を確認することができる。

 しばし展望を楽しんだ後、次の目的地・高山不動尊に向う。少々急な山頂直下の明るい道を下るとすぐに鋪装林道に行き当たる。しかし、すぐに再び登山道に入る。幾つものパーティが続々と登ってくる。高山不動→関八州見晴台は奥武蔵ハイキングのメインコースである。再び林道に下り立ち、標示に従い少し下ると、過たず、高山不動尊に達した。

 本堂の前に立つ。埼玉県の重要文化財に指定されている巨大な木造建築である。その巨大さに一瞬度肝を抜かれる。しかし、精緻さ、優雅さは感じられず、「ただバカでかいだけ」との印象である。建物内に人の気配もなく、その巨大さと相まって一層空虚な雰囲気が募る。本堂横のベンチに中年のハイカーが一人休んでいる以外、境内に人影はない。本堂正面の急な石段を下ると、天然記念物となっている樹齢800年の大銀杏が大きく枝を広げていた。
 

    第三章 不動三滝

 これで、今回の山行の計画としての行動は終了である。しかし、時刻はまだ正午前、もう少し活動できそうである。不動三滝を巡って西武秩父線の西吾野駅に下ることにする。不動三滝とは高山不動尊の周囲にある大滝、白滝、不動の滝の総称である。ただし、この三滝は手持ちの昭文社の地図にも二万五千図にも載っておらず、行き方がよくわからない。ただし、あちこちに道標があるようだ。何とかなるだろう。

 「西吾野駅、不動三滝」を指し示す道標に従い不動尊から北西方向に山腹を緩く斜登する小道を進む。道は西に大きく伸びる尾根に登り上げた。三差路となっていて、尾根上を西に下っていく道を「西吾野駅」と標示している。どうやらこの道は「萩の平茶屋コース」と呼ばれるルートと思われる。尾根を反対側に下っていく道は「西吾野駅、白滝」と標示されている。私はこちらの道を選択する。鬱蒼とした杉檜林の中をジグザグを切ってグイグイ下っていく。初老の男性と若い娘さんの二人パーティがヒィーヒィー言いながら登ってきた。親子と思える。うらやましいかぎりだ。結果的にはこのパーティが今日山中で出会った最後の人影であった。

 谷に下りついた。道標が谷の対岸を登っていく道を「西吾野駅、不動の滝」、谷の上流に向う踏跡を「白滝、100メートル」、谷に沿って下る踏跡を「西吾野駅」と標示している。上流、すなわち「白滝」に向う。所が200〜300メートル進むも、一向に滝は現れない。よほど引き返そうかと思うころようやく白滝に到着した。落差4〜5メートルの2本の滝が垂直の岩壁を落下している。まぁ、箱庭的優雅さはあるが、いかんせん流量が少な過ぎる。こんなもんかと納得して分岐に戻る。

 「西吾野駅、不動の滝」の道標に従い対岸の支尾根に登り上げると、再び分岐があり、尾根を上方に登っていく小道を「不動の滝 10分」と示している。尾根を下っていく小道は「西吾野駅」と示されている。不動の滝を目指す。途中少々荒れた小屋を見る。おそらく地図に記された大山祗神社であろう。更に奥へ進む。滝は思いのほか遠かった。12〜13分足早に進むと、小道はようやく谷に下り、大岩壁の下に出た。こんな所にこれほどの岩壁があるのは少々驚きである。その岩壁から細い水滴が滴り落ちている。これが不動の滝である。場は豪快であるが滝というにはあまりにも水量がない。分岐に戻る。

 さて、残りは大滝なのだが、大滝を示す道標には一切出会わない。これは困った。道標が「西吾野駅」と示す尾根を下るとすぐ下に数軒の人家が現れた。しかし、小道は集落には入らず、その上部を通過し、細い鋪装道路に突き当たった。道標は来し方を「高山不動」と示しているだけで、鋪装道路の右も左も何も示していない。さぁ困った。どっちへ行ったらよいものか。尋ねようにも付近人家もない。山勘で右に進む。道路はくねくねと下り続け、確りした鋪装道路に突き当たった。ここにようやくまともな道標があった。下ってきた細い鋪装道路の先を「白滝、高山不動」、到達した鋪装道路の下って行く先を「西吾野駅3.5キロ」と標示している。地図で確認すると、この鋪装道路は「高畑入り」沿いに高畑集落に続く道路と思われる。どうやら大滝は諦めざるを得ないようである。西吾野駅に下ることにする。

 ひたすら谷に沿った立派な鋪装道路を歩く。車にも人にも出会わない。途中何と、「大滝 500メートル」との道標があり小道が谷沿いに奥に続いているではないか。一瞬、行ってみようかとも思ったが、もはや疲れた。そのまま駅に向うことにする。確りした鋪装道路を歩くこと30分、つい2週間前に辿った「ぶな峠道」に行き当たった。あとは勝手知った道を駅に。13時54分、無事に西吾野駅に到着した。小さな冒険山旅の終了である。
 

 登りついた頂  
     越生駒ヶ岳       368.9 メートル
     関八州見晴台     771.1 メートル
    
                                  

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