おじさんバックパッカーの一人旅

タイ民族の心の故郷 スコータイとその周辺の旅 

伝説の王国の栄華の跡を訪ねて

2004年5月24日 〜28日


 
    第1章 ミャンマーからタイへ

 遠ざかる暗いヤンゴンの灯を眺めながら、私は明日からのことを考えていた。日本への帰国便は28日の深夜、まだ1週間ほど余裕がある。目をつぶると、旅してきたミャンマーの情景が走馬灯のごとく頭を駆け巡る。バガンの風景が浮かんだ瞬間、突然スコータイの名が頭を過った。そうだ、スコータイへ行こう。眼下に明るいバンコクの灯が見え始めたころ、私の気持ちは固まっていた。今朝出発したバガンがビルマ民族の心の故郷であるなら、スコータイはタイ民族の心の故郷である。

 溢れる乗降客の群れ、ひっきりなしに流れるアナウス。到着したバンコク国際空港の情景は、暗く閑散としたヤンゴン国際空港とはあまりにもかけ離れていた。私は、ようやく自由の国に帰ってきたのだとの思いを強く抱いた。夜、ベッドの中でミャンマーとタイについて思いを巡らした。現在ではあまりにも差がついてしまった隣り合う両国。一方は「好感度世界一」といわれ、世界中から人々が訪れる国。他方は「世界の孤児」といわれ、世界中から相手にされなくなった国。どうして、こんなに大きな差がついてしまったのだろう。しかし、振り返れば、両国は強烈なライバル(敵)として歴史を刻んできた。むしろミャンマーの方が優位に立っていた時間が長かったとも言える。今でも、両国民はあまり仲が良くない。O嬢に、タイの素晴らしさを語ったら、「私はタイが嫌いです」と剣もほろほろにはねつけられた。一方、タイ人もまたミャンマーが大嫌いである。
 

   第2章 自由の国・タイ

 今日は5月23日日曜日。朝からカンカン照りである。バンコクもさすがに暑い。やらねばならぬことがいくつかある。先ず最初は、家にE-Mailをすることである。この2週間、私は行方不明になっているはずである。ミャンマーではインターネットは禁止されていた。何もない社会主義国・ラオにおいてですら、自由にインターネットはできたのに。もちろんバンコクでは、インターネットカフェが街に溢れている。

 次に、ファランポーン駅へ行く。スコータイへ行くためのチケットの手配である。昨夜、列車で行くことに決めた。ファランポーン駅は、ちょうど1年前にアユタヤへ行くときに利用したので勝手は知っている。到着した駅は相変わらず大勢の人々で混雑していた。この駅は、英語の標示が完璧になされていて迷うところはない。英語標示がまったくなく、絶望感を感じたヤンゴン中央駅を思い出す。先ず案内所で時刻表を入手し、次にチケット予約センターへ行く。

 タイ国鉄の発券は完全にコンピューター化されている。どの駅からでも、1ヶ月先までの全国全列車の指定席が予約できる。外国人と言えども、どの列車にも自由に乗れるし、料金もタイ人との差別はない。当たり前といえば当たり前なのだが、昨日までミャンマーの現実を見てきた身には、新鮮に映る。明日のバンコク発8時30分、チェンマイ行きSpecisl Expressを予約する。この列車でビッサヌローク(Phitsanulok)まで行き、そこからバスでスコータイに向うつもりである。料金は359バーツ(約1000円)であった。

 
   第3章 タイ民族の心の故郷・スコータイ

 スコータイ(Sukhothai)とは13世紀に成立したタイ民族最初の王朝の名称であり、またその首都の名称である。「スコータイ」は「幸福の夜明け」を意味する。そして、この国家は、タイ民族にとってまさに幸福の夜明けを告げる国家であった。タイの人々は、スコータイ王朝について語るとき、胸に熱い思いが込み上げてくると言われる。単なる古代国家へのノスタルジアではない。タイという国の、タイという民族の、存在の原点。民族としてのアイデンティティをこの王朝に感じるのである。

 スコータイ王朝は不思議な国家である。数世紀にわたり支配しつづけてきたクメール勢力を駆逐して独立を勝ち取ると、あっという間に、国土を現在のタイ国とほほ同じ範囲まで拡大する。そして、クメールのヒンズー教に変わり仏教を広め、法制度を整備し、タイ文字を制定し、中国より陶磁器の製造技術を導入し、等々、現在まで続く、タイの文化、制度の基礎を作り上げる。このことによって、タイ民族は民族としてのアイデンティティを獲得し、以降、民族としての歴史を刻みつづけるのである。しかも、その治世は「水に魚あり、田に稲あり」とうたわれたほど豊かで、また統治は穏やかで万民に対して平等であったと言われる。

 さらに不思議なことに、以上のことを成し遂げると、この国家は、わずか150年で、煙のごとく消え去るのである。滅びるのではなく、14世紀に興るアユタヤ王朝の中にいつとはなしに消え去って行くのである。まさに、「神がタイ民族のために創りたまいし国」とも思える国家である。

 スコータイ王朝栄華の跡は、1991年、「スコータイ遺跡と周辺の歴史地区」として世界遺産に登録された。 
 

   第4章 スコータイへの列車の旅
 
 朝7時、スクンビット通りのホテルを出る。今日24日は月曜日の平日。バンコク名物の交通渋滞のため、駅までの時間が読めない。昨日はわずか15分で行ったのだが。しかし、心配することもなく30分でファランポーン駅についた。タイ語の場内放送は分からないが、列車の発着の状況は大きな電光掲示板を一目見れば分かる。ついついミャンマーと比べてしまう。

 水とパンを購入して列車に乗り込む。駅に改札はない。この点はミャンマーと同じである。列車は3両編成のディーゼルカーであった。全席2等の指定席で、もちろん冷房完備である。車内の状況はだいたい日本のグリーン車と同じである。8時30分、列車は定刻通り出発した。乗車率は70〜80%程度、私の隣は空席である。これから5時間半の列車の旅である。すぐに検札があった。空港のあるドン・ムアン(Don Muang)駅で、かなりの人が乗り込んできた。私の隣にもオバチャンが座った。

 車窓を眺め続ける。市街地を抜けても見渡すかぎりの田園風景とはならない。荒れた湿地帯、小規模な林、集落などが入り混じり、何となく雑然とした景色が続く。車内では予想外のサービスが始まった。コーヒー、紅茶、お茶などの飲み物とケーキが各々に配られだしたのである。飛行機のサービスと同じである。ただしアルコール類はない。そしてこの後、昼食も配られた。これには驚いた。こんなサービスがあるとは知らなかった。タイの国鉄もしゃれたまねをする。持参した水とパンは不要であった。

 廃虚の町・アユタヤ(Ayutthaya)を過ぎ、いくつもの低い岩山が見えてくるとロッブリー(Lop Buri)である。この町は昨年の6月、車で訪れた。名物の猿が街を闊歩しているのが見える。大きな湖の広がるナコンサワン(Nakhon Sawan)を過ぎると、景色は大きく変化した。地平線に至るまで見渡すかぎり青々とした稲田が広がっている。この景色が延々と続くのである。これが『水に魚あり、田に稲あり』とうたわれたスコータイ王朝の豊かさだったのかと、妙に納得した。

 ピッサヌロークが近づくにつれ、不安が生じた。果たしてピッサヌロークでうまく降りられるだろうか。時刻表にはピッサヌローク発車時刻13時55分と記載されている。13時45分、大きな駅で列車が止まる気配。近くの人に確認すると、ピッサヌロークだという。慌てて荷物を担いで乗車口に急ぐ。降り際に再度係員に確認し、低いプラットホームへ降り立った。やれやれである。ふと思いついて、帰りのチケットを予約していくことにする。28日、ピッサヌローク発14時49分、ドン・ムアン着19時20分。これならバンコクへ戻ることなく、直接帰国できる。

 駅舎を出る。目の前にロータリーがあり、脇にSLが飾られている。タイでも、SLはすでに郷愁の代物なのだろう。その背後には大きな街並みが広がっている。ピッサヌロークはバンコクとチェンマイの間にあっては最大の都市である。さて、ここからバスでスコータイへ向うのだが、バスターミナルは郊外にあるはず。待機していたソンテウの運転手が寄って来て、50バーツだという。高い気もするが、相場も分からない。10分ほどで大きなバスターミナルに着いた。ザックを担いで中に入っていくと、いつもの通り、「どこまで行く」と声が掛かる。教えられたバスはちっちゃなおんぼろバスであった。

 10分ほど待つとバスは発車した。乗客は数人。料金は23バーツである。市街地を抜けると、青々とした稲田の無限の広がりが目の前に現れる。おそらく、スコータイ王朝華やかりしころと同じ景色なのだろう。この景色こそ、タイの豊かさの象徴である。ミャンマーにも、無限の稲田の広がりはあった。ただ、季節のためなのか、田にはいまだ稲はなく、2頭だての牛がゆっくりと鋤を引いていた。タイの田には牛は見られない。そこに見るのは近代的な耕耘機である。

 小1時間走ると、スコータイが近づいた様子である。ところがバスは町の中心部には向わず、郊外の真新しいバスターミナルに到着した。案内書では、バスターミナルは町の中心部となっている。私の頭の中の地図も、そこを基準に組み立てられていたので、一瞬慌てる。ここは街のどの辺りになるのかさっぱり分からない。寄ってきたソンテウの運転手に聞けば、この新しいターミナルは2年前にできたとのこと。ともかく、無事にスコータイに到着した。

 運転手に「どこかよいゲストハウスはないか」と言うと、「J&J Gest Houseがいい」と言う。「よし、先ずそこへ連れていけ。部屋を見てから決める」。案内された先は、小川のほとりのバンガロータイプのゲストハウス。部屋を見せてもらうが、いい感じである。エアコンつきで1泊350バーツ。ここに決めた。結果として大正解であった。

 時刻はまだ4時前、スコータイの街を探索してみることにする。現在位置は街の西の端である。史跡公園行きのソンテウの発着所にも近く、便利な場所である。ヨム川(Mea Yom)を渡り、街の中心部に進む。意外と大きくにぎやかな街だ。ATM(現金自動支払機)もあるし、インターネットカフェもある。道を一本はずれてみると、そこはマーケット。人々がひしめき合い、道の両側にありとあらゆる生鮮食料品が並んでいる。
 

   第5章 スコータイ史跡公園へ

 スコータイの遺跡は、スコータイの街から西に14キロほど離れている。主な遺跡は、「スコータイ史跡公園」として整備された城壁内と、その郊外に点在している。地元では、現在のスコータイの街を「New Town」、史跡のある場所を「Old Town」と呼んでいる。Old Townにはゲストハウス近くの広場からソンテウが頻繁に出ている。今日は一日、このOld Townを見学するつもりである。カメラと案内書だけをもって宿をでる。今日も朝からカンカン照り、暑くなりそうである。ソンテウの乗り場に行くと、「どこへ行く」「Old Town」「その車だ、すぐ発車するから乗って待ってろ」である。

 ソンテウはいったんバスターミナルへ寄ってから、Old Townに向う。中型トラックの改造車で、荷台に3列のベンチシートが据えられている。料金は10バーツ均一である。途中に中学校があるので、朝夕は生徒で超満員になる。昔は気後れしたこのローカルな乗り物も、今では平気で乗りこなしている。乗客を拾い、降ろしながら30分も走り、東の城門をくぐると、食堂やコンビニの並んだ小さな街並みが現れる。レンタサイクル屋の前でソンテウは停まり、運転手が「ここで降りたらいいよ」という。私も最初からレンタサイクルで遺跡を廻るつもりでいる。

 オバチャンが愛想よく迎えてくれた。1日20バーツ、遺跡案内図もくれた。何とも安い。ペタルを踏んで、いざ出発である。すぐ先が料金ゲート、ここで入域料40バーツ(約110円)を払う。ただし、この入域料の有効範囲は城壁内だけ、城壁は東西1800メートル、南北1600メートルである。城壁外はまた別途徴収されるらしい。

  
   第6章 民族の英雄・ラームカムヘン大王

 真っ先に訪れたのは城内ほぼ中央に建つラームカムヘン大王(King Ram Khamhaeng)の銅像である。この大王に御挨拶せずして、スコータイ遺跡を見学するわけにはいかない。スコータイ王朝第3代の王・ラームカムヘン(1278−1318)は、今なおタイ国民に敬愛されてやまぬ大王である。タイの歴史上、何百人もの王がいるが、「大王」の敬称をもって呼ばれる唯一人の王である。タイの人々は、この大王の像を前にしたとき、思わず全身に震えを覚えるとまで言われる。

 ラームカムヘン大王の時代にスコータイ王朝は絶頂期を迎える。それまで、スコータイを中心に数10キロの範囲であった領土は、バンコク平原はもちろん、ビルマのバゴー、ラオのルアンプラバン、マレー半島のナコンシータマラートにまで及んだといわれる。しかも、武力により領土拡大した様子はない。各地に跋扈していたタイ族の小勢力が、続々とラームカムヘン大王に忠誠を誓ったのである。さらに、仏教の普及、タイ文字の制定、中国からの陶磁器技術の導入等、以降のタイ民族の背骨となる文化は、すべて彼の時代に基礎がつくられた。

 また、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル軍が、隣国ビルマのバガン王朝を滅ぼし、タイ国境に迫るや、同じタイ族の隣国ラーンナー王国のメンラーイ王、パヤオ王国のガムムアン王と3国同盟を結び、巧みな外交により見事その侵略を防ぐのである。この歴史的出来事は「3王の盟約」として、今もタイの人々に深い感銘を与えている。

 ただし、ラームカムヘン大王は単に神のごとく完結無欠の人物でもなかった。次のような、いたって人間臭い逸話も残されている。このことが、さらに彼の魅力を高め、敬愛の念を強めるのである。
   ラームカムヘン大王はパヤオのガムムアン王と仲が良く、しばしばパヤオに遊びに行
   った。そのうち、ガムムアン王の美しい妃に魅せられ、関係を結んでしまう。これを
   知ったガムムアン王は怒り、ラームカムヘン大王を捕らえ牢に入れる。しかし、この
   男はタイ民族にとってかけがえのない人物と考え、殺すことはせず、もう一人の盟友・
   メンラーイ王に処理を任すのである。
 
 タイの礼儀に従い、膝まづいて大王の座像を見上げる。大王が右手に持つのは、剣ならぬ教典である。その姿は、威厳よりも慈悲に満ちている。いかにも伝説の大王らしい姿である。大王像の前に、一つの鐘が置かれている。この鐘もまたスコータイ王朝の時世を象徴している。スコータイ王朝の各城門にはこの鐘が吊るされていた。そして、国民は誰でもこの鐘を撞いて、王に救いを求めることができたと言う。鐘をそっと撞いてみると、澄んだ音色が、静かに響き渡った。この鐘はイミテーションではあるが。

 
   第7章 スコータイ王朝の夢の跡 (城壁内の遺跡)

 大王像の南に広がるのが、この遺跡群の最大の見どころ・ワット・マハタート(Wat Mahathat)である。スコータイ王朝においてもっとも重要な王室寺院跡である。3方を濠に囲まれた200メートル四方の境内には、209基の仏塔、10の礼拝堂。8つの堂、4つの池が配されている。中央に建つのは、スコータイ独自の様式である蓮の蕾型の仏塔である。二列に並んだ柱の奥には巨大な座仏像が安置されている。仏像はいずれも白い漆喰で固められているが、数百年の年月が、黒い汚れとなって、全身を覆っている。この王室寺院の建立は、スコータイ朝建国の王・シー・インタラティット(1238年即位)によってなされたが、その後、歴代の王により多くの増改築が繰り返された。

 ワット・マハタートの東に何もない空間が広がっている。わずかにラテライトで縁取りされた土盛りが確認できる。ここが宮殿跡である。「神の家は石造り、人の家は木造り」のため、数百年の時を経た今、何も残されていない。その空間にたたずみ、はるかなる栄華の昔を頭の中に描く以外にない

 13世紀から14世紀にかけて、東南アジアの政治情勢は大きく変化した。長らくインドシナ半島に覇を唱えてきたアンコール王朝が衰退し、また、北方に興った大帝国・モンゴルが東南アジアまで南下し、ビルマの大国・バガン朝を滅ぼし、メコンデルタまで侵攻する事態が生じた。この激動の中で、7世紀頃から東南アジア各地に南下、定住していたタイ族系民族が一気に活動を活発化させる。インド・アッサム地方ではアホム族によりアホム王国が、上ビルマではシャン族によりインワ王朝が、タイ北部ではラーンナー王国が、ラオではランサーン王国が、それぞれ建国される。

 1238年のスコータイ王朝建国もこの流れの一環であった。アンコール王朝の配下にあったタイ族の国・ラート国の王・パームアンは同じくタイ族の国・バーンヤーン国の王と協力して、スコータイを攻め、アンコール王朝の太守を追放する。パームアンは王位を盟友に譲り、ここにシー・インタラティットを初代王とするスコータイ朝が成立する。
 
 ワット・マハタート南の森の中に、トウモロコシ型の典型的なクメール様式の仏塔が三基見える。ワット・シー・サワイ(Wat Sri Sawai)である。ラテライトとレンガの二重の塀に囲まれた境内に入る。誰もいない。仏塔には、ヒンズーの神々の浮き彫りがはっきりと確認できる。この寺院はもともとヒンズー教寺院であったが、後に仏教寺院に改造されたものである。建立は12世紀と考えられ、スコータイ遺跡の中にあっては最古の建造物である。即ち、スコータイ王朝建国以前のアンコール王朝時代の建物であり、スコータイの歴史を語る建物である。

 池の中に浮かぶ島に、実に優雅な遺跡が見える。ワット・サ・シー(Wat Sa Si)である。橋を渡り行ってみる。スリランカ様式の釣鐘型の仏塔が建ち、その前に本堂の跡の柱が2列に並んびいる。その奥には漆喰の座仏像がほぼ完全な形で残されている。水に囲まれたこの遺跡は、その美しさのためか、見学者の姿が 絶えない。

 その南側のワット・トラパン・トーン(Wat Trapang Thong)も池に浮かぶ島の上の遺跡である。ワット・サ・シーとまったく同じ構造で、座仏像も同じ姿で安置されている。たたし、こちらの仏塔はスコータイ独特の蓮の蕾型である。しかも、この仏塔の上部に、スコータイ芸術の粋と言われる遊行仏が完全な姿で残されている。このスコータイ遺跡には、いろいろな形の仏塔が残されており、その辿ってきた歴史を知ることができる。

 茶店で一息入れ、再び自転車を走らす。この史跡公園内は、芝生と木々によってきれいに整備されている。通る車も少なく、自転車を走らすのに実に快適である。シーズンオフのためか見かける人影も少ない。さらに、いくつかの遺跡を回る。いずれも半ば崩壊した遺跡ではあるが、それでも、アユタヤの遺跡のように、破壊の跡が無いので、気分が滅入ることはない。

 ラームカムヘン国立博物館に行く。本館入り口正面を飾るのは、ブロンズ製の遊行仏である。そのあまりの美しさに、しばし感動のため息を漏らす。そのしなやかな姿は、まるで美しい音楽を聞くかのようである。この遊行仏(Walking Budda)という仏像形態はスコータイにおいて初めて生み出された。まさに、スコータイ美術が生み出したの最高傑作であろう。そしてまた、スコータイという豊かで平和な時代を象徴している。その他、リンガ(男根)、ヨーニ(女陰)も展示されている。アンコール遺跡で頻繁に見られたものであり、クメール文化の影響の大きさを伺い知ることができる。
 

   第8章 スコータイ王朝の夢の跡 (城壁外の遺跡)

 昼食を済ませ、再び炎天下に飛びだす。午後からは城壁外に点在する遺跡の訪問である。北の城門・サーン・ルアン門(Sam Luang Gate)より城外に出る。城壁は三重となっており、3メートルほどに板レンガを積み上げたものである。城門のすぐ前に、台座と漆喰の座仏像のみ残るワット・メー・チョン(Wat Mae Chon)がある。さらに100メートルほど進むと、大きな濠に囲まれた一角に突き当たる。ワット・プラ・パイ・ルアン(Wat Phra Phai Luang)である。ワット・マハタートに次ぐ重要寺院であった。境内は1辺600メートルの濠に囲まれ広大である。自転車を降り、小さな橋を渡って境内に入る。草原を横切り遺跡に近づく。郊外の遺跡は城壁内の遺跡ほど完璧には環境整備はされていない。誰もいない。崩壊はかなり進んでいるが、クメール様式のプラーン(仏塔)が残されている。と言うことはスコータイ朝建国以前の12世紀の建立だろう。その後、次々と増設されたらしい。

 戻って、濠に沿った道を西に向う。車も通らず、人影はない。10分ほどペタルを漕ぐと、目指すワット・シー・チュム(Wat Sri Chum)に達した。スコータイを紹介する書物には必ず登場する有名な遺跡である。広さ32平米、高さ15メートルの屋根のない部屋一杯に巨大な座仏像が納められている。壁の厚さは3メートルもあるという。入場料30バーツを払い、参道から近づくと、小さくくりぬかれた壁の間から、漆喰で固められた白い仏像が見えてくる。まるで牢獄に閉じこめられたような実に異様な姿である。バガンのマヌーハ寺院を思い出す。一体何を示唆しているのだろう。

 さて、ここでしばし考えた。さらに遺跡巡りを続けるなら、次は城壁の西の丘の上にあるワット・サパーン・ヒン(Wat Saphan Hin)なのだが、ここから3キロはある。しかも案内書には「西側は昼でも人通りがなく、一人では行かないように」とある。おまけに、カンカン照りの中を動き回り、体力もかなり消耗している。さてどうしようか。とは言っても、宿へ帰っても仕方がない。時刻もまだ2時、行くッきゃない。タイに入ってから、体調は絶好調である。

 ターク方面に向う街道を西に進む。通る車もほとんどなく、周りは畑と森で、人家も少ない。真夏の太陽が頭上から強烈な熱線を浴びせる。前方に見える小高い山が次第に近づいてくる。ワット・サパーン・ヒン(Wat Saphan Hin)まで700メートルとの道標が現れ、左に入る小道を示している。山裾に沿った小道を進む。確かに考えようによっては物騒なところだ。やがて、登り口についた。山頂に向って、大きな石を積み上げた参道が一直線に登り上げている。サパーン・ヒンとは「石の橋」を意味するという。雑木林の中に続く「石の橋」を登る。周りは人の気配がまったくなく、やはり少々怖い。途中に、蓮の蕾型の仏塔が1基あった。15分ほどで山頂に達する。そこには巨大な立仏像が、厚いレンガの壁を背に、東を向いて立っていた。標高約200メートルの山の上だけに展望がよい。緑の森に包まれた大地が地平線まで続き、その中からいくつかの仏塔の先端が突き出ている。遺跡の石に腰掛け、一人しばし見とれる。

 もとの道を戻るのも癪である。地図を見ると、辿って来た山裾沿いの道をそのまま進めば、西の城門に出られそうである。小道は緩やかな登りとなって森の中をうねうねと続く。進むに従い、森の中に次から次と遺跡が現れる。いずれも小規模なものだが、一つ一つに、タイ語と英語の説明板が設置されている。さすが世界遺産である。やがて畑中の道となった。相変わらず遺跡が次々と現れる。最初は、いちいち自転車を降り、説明文を読み、写真を撮っていたが、そんなことをしていたら切りがなさそうである。いったいこの周辺にはどれだけの遺跡があるのだろう。案内書には300ヶ所以上とあるが。しかし、考えてみれば、バガンには2000以上の遺跡があった。

 ようやく西の城門・オー門(Oh Gate)をくぐり、城内に入った。さすがに咽がからからである。自転車を返し、ソンテウに乗って宿へ帰る。夕方からものすごい雷雨となった。
 

   第9章 J&J Gest House

 ひょんなきっかけで、このゲストハウスに泊まることになったが、実に居心地がいい。結局4泊した。もっとも、最初から最後まで宿泊客は私一人であったが。少々シャイな御主人はベルギー人、いたって愛想のいい奥さんはタイ人である。二人とも30代だろう。子供は二人、11歳の女の子と0歳の男の子である。女の子は、混血の気配がまったくないので、奥さんの連れ子と思われる。それに、従業員として、まだ10代と思える娘さんとおばさんである。ゲストハウスの名前の由来は、御主人と奥さんの名前の頭文字がどちらも「J」であることに由来する。さらに、二人の子供の頭文字も「J」。従って、近々、ゲストハウスの名前も「4J」とするのだと笑っていた。

 御主人は英語、フランス語、オランダ語、タイ語の4ヶ国語を話す(ベルギーの国語はフランス語とオランダ語である)。奥さんはタイ語と、英語。二人の従業員はタイ語Onlyである。「私は日本語Onlyだ」と言ったら、「英語とタイ語もうまいではないか」と持ち上げてくれた。

 お客が一人ということもあり、実にAt Homeに過ごすことができた。入り口の横が食堂になっており、頼めば何でもつくってくれる。最後の晩は、奥さん自ら豪華なタイ料理をつくってくれた。推奨できるゲストハウスである。

 
   第10章 シー・サッチャナーライへのバスの旅

 スコータイ三日目、今日は、シー・サッチャナーライ(Sri Satchanalai)へOne Day Tripをする。この町はスコータイの北約50キロに位置し、バスで約1時間の距離である。スコータイ時代、シー・サッチャナーライ、ピッサヌローク、カンペーン・ペッ、ピチットの四つの町は王の直轄地とされ、特別な地位にあった。特に、シー・サッチャナーライは代々副王の居住地で、スコータイとは双子の都市と呼ばれていた。当時の遺跡は、現在「シー・サッチャナーライ遺跡公園」として整備され、世界遺産である「スコタイ遺跡と周辺の歴史地区」の一翼を担っている。

 今日も朝からカンカン照りである。先ずはソンテウでバスターミナルへ行く。ここからシー・サッチャナーライ行きの直通バスが出るとゲストハウスで聞いてきた。「シー・サッチャナーライ、シー・サッチャナーライ、ーーー」と、うろうろしていれば、乗るべきバスはすぐに見つかる。再度、車掌に行く先を確認してバスに乗り込む。バスは10人ほどの乗客を乗せて、100キロ近いスピードで北へ向う。タイの道路はどこでも実に立派である。40分ほど走ると、にぎやかな街並みに入った。スワンカローク(Sawankhalok)の町と思われるが、よく分からない。町の中心部まで来るとバスは停まり、車掌が「このバスはここが終点。前に停まっているバスに乗り換えろ」という。どうも勝手がよく分からない。もちろん、英語はまったく通じない。ともかく乗り換え、改めて、このバスがシー・サッチャナーライ行きであることを車掌に確認する。

 実は、シー・サッチャナーライの史跡公園はシー・サッチャナーライの町の12キロ南にある。従って、町まで行かずに、途中の史跡公園入り口でバスを降りる必要がある。車掌に「史跡公園入り口で降ろしてくれ」と頼んだのだが、どこまで通じたかは多分に疑問である。私のタイ語の実力もこの辺が限界である。ともかくあとは車掌を信じる以外にない。

 バスは街並みを抜け、国道101号線を快調に走り続ける。ところが、30分ほど走ると、再びにぎやかな街並みに入って停まった。乗客がぞろぞろ降りだす。ん! ここはどこだ。慌てて車掌に声を掛ける。途端に車掌が慌てだした。私の手を掴むや、広い道路を一目散に横切り、ちょうど道路の反対側に停まっていたバスめがけて走り込んだ。そのバスの車掌に何やら叫び、私をバスに押し込む。言葉は分からないが事態は飲み込めた。どうやら私を下ろすのを忘れてしまったらしい。

 3台目のバスで、来た道を戻る。10分ほど走るとバスは停まり、車掌がここだという。ようやく目指す場所に着いたようである。やれやれ。言葉が通じないと苦労も多いが、これもまた旅の楽しさである。

 
   第11章 シー・サッチャナーライ史跡公園

 バスを降りると、目の前にちっちゃなレンタサイクル屋があった。おばあちゃんが一人店番をしている。英語はまったく通じないが、ともかくここで自転車を借りる。1日20バーツ。おばあちゃんが「向こう。向こう」と指さす小道を進むと、すぐに吊り橋に出た。これで現在位置も判明した。下を流れるのはヨム川である。吊り橋をわたると、巨大なクメール式プラーンのそそり立つ遺跡の前に出た。ワット・プラ・シー・ラタナー・マハタート(Wat Phra Sri Rattana Mahathat)である。プラーン前には柱だけの本堂があり、その奥に漆喰の座仏像が安置されている。プラーン背後には、巨大な柱に挟まれ、身動きできないような巨大な立仏像がある。ワット・シー・チュムの仏像と同じ雰囲気である。この寺院は12世紀に建立され、その後増改築が繰り返されたとのことである。草むらを歩いていて、思わず、足がすくんだ。目の前にサソリがいたのである。幸いすでに死んでいたが。この辺りには生息しているという証拠である。気をつけないと危ない。

 ヨム川沿いの道を西に向う。今日も照りつける太陽の光が強烈である。道沿いに点々と小さな遺跡がある。のんびりと2〜3キロ自転車を漕ぐと、城門跡に到着した。城壁の内部に入る。この史跡公園は、素晴らしい環境に整備されている。チークの樹海がどこまでも続き、その中に遺跡が点在する。樹海の中は人影も見られず静まり返っている。

 チェックポイントで入園料40バーツ払い、先ずは最大の遺跡・ワット・チャーン・ローム(Wat Chang Lom)へ行く。13世紀にラームカムヘン大王により建てられた寺院である。寺院の前には象が待機していた。100バーツで園内を一周してくれるとのこと。境内に進む。誰もいない。柱だけ残る本堂の奥に、スリランカ様式の大きな仏塔が聳えている。その基部は2段となっていて、上段は座仏像が取り囲み、下段は象が取り囲んでいる。象は漆喰が剥がれレンガが剥き出しになっているが保存状態は良い。チャーン(Chang)とはタイ語で象のことである。

 向かい側のワット・チェディ・チェット・テーオ(Wat Chedi Chet Thaeo)に行く。ここで日本人と会った。若い男女3人がガイドに案内されてワゴン車で廻っている。この寺院の特徴は各時代を象徴する7種類の仏塔が建つことである。中央にスコータイ様式の蓮の蕾型の大きな仏塔が建ち、その周りをさまざまな様式の33基の仏塔が囲んでいる。

 その隣がWat Suan Kaeo Utthayan Yai さらにその隣がワット・ナーン・パヤ(Wat Nang Phaya)である。ここで危うく命を落とすところであった。草原を歩いていたら、一瞬足が止まった。何と! 何と! 目の前にグリーンスネークが鎌首を持ち上げて攻撃態勢をとっているではないか。もう一歩踏みだしていたら確実にやられていた。グリーンスネークはコブラよりも猛毒と言われる小型の緑色の蛇である。それにしてもよくぞ気がついたものだ。草原の中では完全に保護色となっていて、いったん目を離すと再度見つけるのに戸惑うほどである。これも山の中で薮漕ぎをしていて獲得した防衛本能か。神に感謝する。今日は文字通り、蛇蝎に出会った。

 城壁内の東南部は何もない広大な樹林となっている。ここが王宮跡である。それを示す標示のみがぽつんと立っていた。スコータイの王宮跡と同様、木造建築は何も残らなかった。城壁内の北側には低い丘陵が連なっている。その上に寺院遺跡が残されている。ラテライトを積み上げた長い階段を登るとワット・カオ・パノム・プレーン(Wat Khao Phanom Ploeng)に達した。台座の上に座仏像が残されている。その尾根続きの丘にワット・スワン・キリー(Wat Swan Khli)がある。巨大なスリランカ様式の釣鐘型チェディがあり、樹木の間から眼下に広がる樹海が眺められる。

 昼となったので、公園の片隅にある茶店に行く。それにしても今日も暑い。結局、遺跡公園で出会ったのは日本人の一組だけであった。途中いくつか遺跡を覗きながらのんびりと引き返す。貸自転車屋のおばあちゃんは木陰ですやすやお昼寝中。お客など来るわけもないし。おばあちゃんとお話ししながら(ただし、言葉はまったく通じない)、いつ来るとも知れぬバスを待つ。傍らにジャックフルーツの木があり、実がたわわになっている。珍しそうに眺めていたら、おばあちゃんがもぎ取って、皮を剥き、バナナの葉に盛って持ってきてくれた。木陰に座り、二人で頬張る。何とものんびりした、タイの田舎のひと時である。

 
   第12章 再度スコータイ史跡公園へ

 城壁の東側と南側がまだ未踏のまま残っている。勝手知ったソンテウに乗り、前回と同じ店で自転車を借りる。今日も朝からカンカン照りである。道路を戻り、東の城門・カンベーン・ハク門(Kam Phang Hak Gate)より城外に出る。この門は、道路の開削で破壊されたのか、遺構は何も残っていない。川を渡ってワット・チャーン・ローム(Wat Chang Lom)へ行く。まったく同名の寺院がシー・サッチャナーライにもあった。構造も同じである。釣鐘型のスリランカ様式の仏塔の基部を32頭の象が取り巻いている。寺院を飾る動物はいろいろあるが、実在の動物としては象が唯一である。

 次に訪れたのは、ワット・トラパン・トン・ラーン(Wat Traphang Tong Lang)である。この寺院は、スコータイ美術の最高傑作があったことで有名である。アーチ型の入り口を持つ立体型の本堂の三面をかつては美しいレリーフが飾っていた。特に、南側の、天女に囲まれて天から降りてくる仏陀の像は美の極致と讚えられた。残念ながら現在は崩れ落ち、仏陀の下半身が残るのみである。それでも、そのしなやかな腰回りに、かつての美しさを想像することはできる。

 田んぼの中に、大きな仏塔がぽつんと建つワット・チェディ・スン(Wat Chedi Sung)を見て、城壁の南側に向う。照りつける太陽のもと、唯ひたすらペタるを漕ぐ。広い道だが、めったに車も通らない。時折現れる遺跡が眼を和ませてくれる。ワット・ムンランカ(Wat Mum Langka)、ワット・シー・ピチット・キティ・カリヤラム(Wat Si Pichit Kiti Kalyaram)、ワット・チェディ・スィ・ホーン(Wat Chedi Si Hong)を経、小一時間掛かって。ワット・チェトゥポン(Wat Chetuphon)に達した。田んぼの中の草深い遺跡であるが、城南最大の遺跡である。誰もいない。昨日のこともあり、草むらを歩くのは何となく怖い。大きな箱形の本堂四面に、かつて、結跏、倚臥、佇立、歩行の巨大な仏陀の浮き彫りがあった。ただし、残念ながら。現在は遊行像の首から下が残るのみである。それでも、優雅な遊行仏にスコータイ文化の香りをかぐことができる。

 これでスコータイ遺跡のほぼすべてを見終わった。タイの人々が愛してやまないスコータイ王朝の跡を目で見、全身で感じた。私もどうやら、この伝説の王朝の虜になったようである。南門であるナモ門(Namo Gate)より城内に戻る。昼食後、再度、ラームカムヘン大王の像に詣でる。やはりスコータイを去るに当たって、最後にこの偉大なる大王に御挨拶しておかねばならないだろう。像の前にたたずむ。誰もいない。輝く南国の太陽のもと、その表情はいたって穏やかに見えた。

 早い時間に宿に帰り着いた。最後にもう一つ行くところがある。サーン・プラ・メー・ヤー(San Phra Mae Ya)である。ラームカムヘン大王の母の霊を祀るお堂である。ヨム川沿いの道をテクテク歩く。地図では近そうに見えたが、なかなか着かない。あきらめて引き返そうとしたときに、ようやく到着した。観光地ではないので、特に標示はない。小さなお堂の中に、花に囲まれ、金色に輝く小さな像が安置されていた。地元のひとに深く信仰されている、いたってローカルな神様である。
 
   第13章 タイで一番美しい仏様  ピッサヌロークへ

 いよいよ今日は帰国する日である。別に里心は起こらないが、失業の身、職安に行かねばならぬ日程がある。ピッサヌロークまで戻り、そこから列車で空港のあるドン・ムアンに向う予定である。「4J」に別れを告げ、バスでピッサヌロークへ向う。今日は朝から小雨がパラついている。来るときは小型のボロバスで料金は23バーツであったが、今日は大型の冷房バス。その代わり料金は33パーツ取られた。隣の席は若いプーイン(女性)。流暢な英語で話しかけてくる。ピッサヌロークのバスターミナルに無事たどり着く。ここから駅に行くのだが、寄ってきたバイタク(オートバイタクシー)のニーチャンが、どうしても50バーツを譲らない。距離からして20バーツで充分だと思うのだが。談合ができているのか、サイカーやソンテウの運チャンは寄ってこない。仕方がない。

 駅の荷物預かり所にザックを預け、いざ、ピッサヌロークの市内見物である。列車の発車時刻は14時49分、4時間半ほど余裕がある。ピッサヌロークは古くからナーン川(Mae Nan)河畔に開かれた商業都市である。スコータイ時代は王の直轄地として特別な地位にあった。しかし、1960年の大火で、古い街並みはすべて焼失してしまった。この町の最大の見どころはワット・プラ・シー・ラタナー・マハタート(Wat Phra Sri Ratana Mahathat)に安置されるチンナラート仏である。高さ3メートルのブロンズ製でタイでもっとも美しい仏像として有名である。先ずはワット・ヤーとも通称されるこの寺を目指す。

 駅からサイカーに乗ったのだが、運転手が何と、中年の女性。おばちゃんの漕ぐ自転車の横に乗っているのは何となく気恥ずかしい。タイは男女平等社会であるが、典型的な肉体労働のこの仕事にオバチャンとは珍しい。料金は30バーツであった。到着した寺院は、参道に多くの露店が並び、境内も大勢の参拝者でにぎわっていた。

 何はともあれ、チンナラート仏の納まる本堂に詣でる。広い本堂は、ひれ伏し祈り続ける人で混雑していた。その奥の薄暗い祭壇に金色の仏像が確認できる。強引に、一番前まで進み出てみたが、祭壇は暗く、確とその美しいお顔を拝見すことはできなかった。この仏像はタイにおいて、あのエメラルド仏の次に重要な仏像と言われている。

 本堂横に巨大なクメール式のプラーンが聳え立っている。案内書によると、この寺の建立は1357年とあるが、その年号は、おそらく、チンナラート仏が納められた年なのだろう。プラーンの存在から考えても、それ以前の12世紀に建てられた寺があったと思われる。そもそも、「ピッサヌ」とはヒンズー教の神・ヴッシュヌ神、「ローク」とは世界を現す言葉である。おそらくこの地は、クメールの時代から聖なる地であったのだろう。

 雨が降ったりやんだりしている。市内をぶらぶら歩いて、駅まで戻ることにする。ナーン川沿いをのんびりと歩く。遊歩道として整備されている。大きな川だが、真っ茶色に濁っている。川岸には名物の水上生活者の船が何隻か見られる。約30分で駅に着いた。駅前には金のネックレスや指輪を売る店がずらりと並んでいる。

 発車まで、まだ1時間以上時間があった。駅のベンチに座り、発着する列車、乗り降りする乗客をぼんやり眺め続ける。駅には「Railway Police」の腕章を付け、ベレー帽をかぶり、実にかっこいい制服を着た数人の警察官が常駐している。治安維持が本務なのだろうが、気軽に乗降客の世話もしている。ベンチに座り続ける私が心配になったのだろう。一人がやって来て「どうしましたか」と訪ねる。「この列車を待っている」と切符を見せる。やがて列車が来るころ、わざわざ私のところに来て「次の列車がそうだ」と声を掛けてくれる。優しい心遣いである。

 やってきた列車は、来たときと同じ3両編成のオール2等車。座席は満員であった。次第に暮れ行く車窓をぼんやり見つめながら、ミャンマーで過ごした2週間、タイの田舎で過ごした1週間を振り返る。この国は何と豊かで、そして平和なのだろうと思いながら。
       
       (完)
       

 
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