周助山から子ノ権現へ

登山道なき尾根を辿り、風情豊かな山寺へ

2000年12月16日


 武甲山(左奥)と武川岳を望む
 
原市場中学前(740)→尾根取付点(745)→シューズケ山頂(815〜825)→ノボット山頂
(845〜900)→林道(920)→501メートル峰(930〜955)→送電線鉄塔(1015)→関東ふれあいの道(1055)→竹寺(1105〜1120)→629.1メートル三 角点峰(1145〜1150)→豆口峠(1200)→子の権現(1240〜1250)→吾野駅(1400)

 
 埼玉県の山は粗方登り尽くしたが、まだ重箱の隅をつついたようないくつかの山が残されている。周助山もそんな山の一つである。二万五千図「原市場」を眺めると、原市場集落の背後から北西へ続く尾根上に「周助山」と記載された435.8メートル三角点峰が目に留まる。ただし登山道の記載はない。もう20年も前から何となく気になっていた。山と渓谷社の「分県登山ガイド  埼玉県の山」にこの山が紹介されている。それによると「読図トレーニングに最適の道不祥の山、単独で真摯に対決したい」とある。また「北アルプスの縦走路より困難な一面があるだろう」ともある。こうまで書かれたら藪山の天才をもって任じる私としては放っておくわけにもいかない。同書によると、二万五千図で周助山とされている三角点峰は実は「ノボット」と呼ばれており、実際の周助山はその一つ手前の「シューズケ」と呼ばれる383メートル標高点峰とのことである。周助山から続く稜線を地図で辿ると竹寺から子ノ権現に達する。原市場集落から尾根末端に取り付き子ノ権現まで歩いてみよう。竹寺の手前からはハイキングコースとなる。竹寺はいまだ訪問したことはないが、風情豊かな山寺のはずである。

 北鴻巣駅発5時24分の一番列車に乗り、大宮、川越と乗り継いで東飯能着7時1分。同じ埼玉県でも何とも遠い。7時13分発の湯ノ沢行きバスを待つ。今日は11月初旬並みの暖かい1日となるとの予報だが、さすがに山麓の朝は寒い。やってきたバスはガラガラであった。7時40分、原市場中学前で降りる。この原市場集落は名栗川流域で一番大きな集落である。何しろ信号があるのだから。

 中学校の裏手に回り込んで、木工所の脇の適当な場所から尾根に取り付く。もちろん道もなく、植林の中の急斜面である。誰かが登った跡が微かにある。尾根に出ると確りした踏み跡があった。どこかにちゃんとした登り口はあるのだろう。桧の深い植林の中を進む。尾根道は小道ともいえるほど確りしており、道なき藪山とは程遠い。小峰を越え、急斜面を登り切るとそこが383メートルのシューズケ山頂である。ただ深い植林の中で、山頂標示はおろか人工物は何もない。これでは証拠写真も撮りようがない。そもそも地図が読めなければ、ここがシュウズケ山頂であることすらわからないだろう。

 小休止後、尾根を北上する。緩やかに下ると、意外なことに小さな道標があった。来し方を「原市場」、右に下る踏み跡を「倉掛峠」と示している。結果的にはこれが周助山山稜唯一の道標であった。尾根道は相変わらず確りしておりこれではルーとファインディングのしようもない。約20分で435.8メートルの三等三角点のあるノボット山頂に達した。深い植林の中で展望は一切ないが、今度は「周助山、ノボット」と併記した消えかけた小さな山頂標示があった。寒々した山頂でひとり朝食の握り飯を頬張る。風の音一つしない。
 
 尾根道をさらに辿る。初めて潅木の藪道となった。藪越しに、隣の尾根の楢抜山、その背後には都県尾根上の棒ノ嶺、蕎麦粒山がちらちら見える。不完全ながら今日初めての展望である。すぐに再び植林の中に入る。2〜3小ピークを越えて進むと、間伐作業現場に達するが人影はない。何本かの桧の大木が道を塞ぐ。ちょっとした急登を経ると、私の二万五千図にはまだ記載されていない林道に飛び出した。林道を横切り反対側の斜面に取り付く。地図上の501メートル標高点峰は南東面が大きく伐採され今日初めて大展望が開けた。切り株に腰掛け、大休止とする。眼下に辿ってきた周助山山稜が魚の背骨のごとく何本もの支稜を派出しながら足元に続いている。その左奥には名栗川下流域が見渡せ、飯能市方面が霞んでいる。左手には二つの顕著なピークを持つ山稜が続いている。地図を合せると、三角形のピークは天覚山、台形状のピークは大高山である。いずれも昔子供を連れて登ったことがある。その奥には関八州見晴台から越上山に続く山稜が連なっている。冬の日が燦燦と差し暖かい。

 再び深い植林の中を辿る。もう少し歯ごたえのあるルートかと思ったが、地図を見る必要もない。確りした踏み跡が尾根上に忠実に続いている。単調な尾根道を進み、ちょっとした急登を経ると送電線鉄塔に出た。南西に下る仁田山峠への踏み跡を見送り、尾根を忠実に北へ向かう。送電線巡視路となったとみえて、踏み跡は小道ともいえるほど立派となった。ただし、相変わらず道標はない。次の鉄塔の立つ急斜面に達すると再び大展望が開けた。目の前に棒ノ嶺から日向沢ノ峰、蕎麦粒山と続く都県尾根が高々と聳え立っている。同定の支点は蕎麦粒山である。小さな三角形のこの山はよく目立つ。送電線にそって平坦な尾根道を進む。左側は伐採跡で都県尾根が見え続けている。ルートはやがて送電線と分かれ、右に折れる。この地点で初めて北西側の展望が開けた。大持山と武川岳が妻坂峠をはさんで聳え、峠の背後には奥武蔵の盟主・武甲山が鋭角の三角形を聳え立たせている。いずれの山も実に堂々としており、すっかり惚れ直してしまった。

 一峰を越えると、突然ハイキングコースに飛び出した。「関東ふれあいの道」と名付けられたハイキング道が小殿集落より登ってきている。ここからは道標完備の道である。道標に従い、竹寺への巻き道に入る。約10分で医王山薬寿院八王寺、通称竹寺に達した。山腹の竹林に囲まれた緩斜面に茅葺きの本堂等いくつもの寺や神社が広がっている。期待通りのノンビリとした奥武蔵の山寺である。環境庁・埼玉県連名の説明盤によると「寺の特色は、明治元年の神仏分離令にもれたことでお寺とお宮が同居しているところにある。秩父の三峰、都下の高尾、御岳山と同じ山岳仏教の系統をひく。明治維新に行われた神仏分離令以前の混淆の姿をそのまま伝えるのは、この八王寺が東日本唯一のものである」とのことである。散り残った楓の赤と竹の緑のコントラストがすばらしい。まさに日本の初冬である。ぽつりぽつりと車で来た行楽客の姿が見える。日向のベンチに座り、ノンビリと握り飯を頬張る。隣で犬も日なたぼっこしている。

 ハイキングコースを子ノ権現に向かう。山腹を斜行して鞍部に登りあげる。コースは次の629.1メートル三角点峰を左から巻きに掛かるが、ハイキングコースを歩くのも味気ない。忠実に稜線を歩いてみる気になった。微かな踏み跡を辿って三角点峰に登りあげる。樹林の中に三角点名称「南」の二等三角点がぽつんとあるだけであった。下りは踏み跡も怪しくなった。構わず薮を掻き分けると過たず豆口峠に出た。ここで巻いてきたハイキングコースと合流する。峠には小さな避難小屋が建ち、微かな踏み跡が乗越している。さらにハイキングコースを進む。今日初めてハイカーとすれ違った。かなりの歳の夫婦連れである。ちょっとした急登を経ると、久しぶりに左側に展望が開けた。目の前にラクダの背のような二つの瘤が青空をバックにくっきりとそそり立っている。伊豆ヶ岳と古御岳である。初級ハイキングの山にしてはなかなかの山容である。休んでいたら向こうから声高に話しながら男女三人連れの外人がやってきた。どうもフランス語のようだ。すれ違いにボンジュールとでも挨拶しようかと思っていたら、向こうから「 コンニチハ」ときた。苦笑いである。

 すぐに子ノ権現に達した。今から22年前、当時4歳の長女を連れて伊豆ヶ岳から縦走してきたことがある。久しぶりである。天台密教系の寺院で足腰にご利益があるという。3年前、丹沢で骨折した左足首が完治しないのでお祈りしておこう。境内はひっそりしている。ベンチで座っていたら猫がやってきて私の膝の上にうずくまる。日差しがぽかぽかと暖かい。時刻はまだ1時前、伊豆ヶ岳を越えて正丸峠まで行ってみようかとも思ったが、そろそろ足が痛み出している。おとなしく吾野に下ることにする。樹林の中を20分も下ると降魔橋に達し、ここから谷沿いの細い舗装道路となった。ただし通る車とてない。ぽつりぽつりと人家が現れるがほとんどが廃屋である。こんな山間の地などにはもう人は住まないのだろう。やがて集落に達し高麗川に突き当たる。左岸沿いに国道299号が走るが、右岸沿いの小道がルートとなっている。ちょうど2時、人影まばらな吾野駅に到着した。飯能行きの電車は10分待ちであった。

 周助山山稜は期待していたような地図読みルートではなく、静けさだけが取り柄の植林の尾根で少々がっかりであった。奥武蔵には静岡の山のように必死に地図を読まなければならないようなルートは残っていないのだろう。

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