高ドッキョウと信玄の軍用峠道 

甲駿国境の三つの峠と主峰を越える山旅

1994年4月24日

              
 
大平集落(905)→徳間峠分岐(950〜1000)→徳間峠(1035〜1040)→高ドッキョウ(1140〜1155)→樽峠(1255〜1310)→平治の段(1340〜1345)→中沢峠(1415〜1420)→林道(1500)→神沢原集落→中河内集落(1535)

 
 興津川奥の甲駿国境稜線上に高ドッキョウという変わった名前の山がある。標高は1,133.5メートルと、さして高くはないが、中河内方面から眺めるとまるで烏帽子のような独特の山容をしている。伝説によると、昔、山頂から修験僧の唱える読経の声が麓まで聞こえたため高読経と呼ばれるようになったといわれている。しかし、語源的にはドッキョウは関東地方の山名に点在するドッケの訛ったものといわれている。秩父地方には芋ノ木ドッケ、三つドッケ、高ドッケ、黒ドッケなどの山名がある。このドッケは古代朝鮮系の言葉といわれている。高ドッキョウの西の鞍部に徳間峠、東の鞍部に樽峠がある。いずれも甲州の福士川流域と駿州の興津川流域を結ぶ峠であり、戦国の昔、武田軍が駿府に攻め入った道筋といわれている。特に樽峠は、信玄が駿河攻めのために整備した軍用道路といわれ、信玄自身が越えた峠道である。

 春の一日この甲駿国境稜線を辿ってみることにした。今日の天気予報は曇り時々雨である。駄目かなと思いながら朝起きると、明るい太陽の光が窓の外に溢れている。この興津川奥の山々は、公共交通機関を利用するといささか不便である。清水まで電車、そこからバスを但沼車庫で乗り換えて大平着9時5分。山行きとしてはいささか遅い時間である。1ヶ月前に、青笹から徳間峠まで縦走してこの大平集落に下ったが、今日は同じ道を逆に徳間峠に向かう。朝方晴れていた空も、予報通りすっかり雲に覆われ、林道を進むうちに小糠雨が降りだした。前回下ったときには感じなかったが、この林道も意外に傾斜がきつい。雨に追われるようにピッチを上げ、徳間峠分岐に到着する。分岐には登山者のものと思える数台の車が止まっている。ここからは登山道である。

 この徳間峠道は前回の経験で緩やかな登りやすい道との意識がある。前方でにぎやかな人声がして、男女数人の中高年の登山者が休んでいる。快調に登るとあっけなく峠に到着した。今日は調子がよい。小雨の降り頻る峠には誰もいず、雨に濡れたお地蔵さんと1ヶ月ぶりに再会した。周囲の山々はガスに閉ざされ視界はない。小休止の後、稜線を高ドッキョウに向かう。いきなり、痩せた山稜のものすごい急登である。ザイルがいたるところに張り巡らされている。小ピークを越えるとキレットに出た。山稜がスパッと切れており、両側から浸食された稜線は人一人がやっと立てるほどの狭さである。3メートルほどの垂直の絶壁をザイルを頼りによじ登る。ここの通過は年寄り子供ではちょっと無理であろう。その後も極端に痩せた山稜の上り下りが続く。張りめぐされたザイルなしではとても通過できない。赤紫色のやまつつじがいたるところに群生しており、実にきれいである。足元にはイワカガミが白い可憐な花を咲かせている。

 展望が利かない中で緊張を強いられると知らない間に高度が稼げる。913メートルの標高点を過ぎると清水方面展望台との標示のある小ピークに達する。あいにくガスが渦巻き展望はない。「高野こうやマキ経由大平方面」との標示のある踏み跡が右に別れる。高野マキとは地図にない地名でありどこを指すのであろう。登山道には要所要所に「清水市少年自然の家」のポール状の標識があり助かる。静岡市の山と違い清水市の山はよく登山標識が整備されている。行政の姿勢の違いであろう。やまつつじの咲き誇る痩せ尾根をさらに進むと、次第に傾斜は緩やかとなり、尾根も広がって笹の切り開きの道となる。雨は上がったようだが、濡れた笹のため全身びしょ濡れである。徳間峠からちょうど1時間で高ドッキョウ山頂に達した。案内書のコースタイムは2時間であるので相当早い。

 山頂は小広い所で、周囲は雑木に囲まれ展望はない。わずかに北方が開け中腹だけの富士山が真正面に見える。中年の夫婦と中年の単独行者が休んでいた。この単独行者とは後で再会することになる。両パーティとも車で来て山頂往復のようだ。3人が出発し、一人で昼食の稲荷寿司を頬張っていたら、徳間峠方面より単独行者が登ってきた。やおら缶ビールを取り出しラジオをがんがんかけだした。趣味が違う。逃げるように出発する。

 すぐに「湯沢峠経由大平方面」との標識があり、立派な登山道が別れる。小ピークを幾つか越えて樽峠に向けどんどん下る。狭い尾根であるが徳間峠からの登りほど極端には痩せてはいない。大きくガレた縁に出ると南側の展望が開けた。低く立ち込めた雲のもと、清水市、駿河湾、伊豆の山々がよく見える。さらに下る。天気はいくぶん回復し、時々薄日が差す。足元にはイワカガミの花が群れている。行く手木々の間に平治の段から貫ヶ岳へ通じる平坦な尾根が見える。やがて傾斜が緩やかとなり尾根が広がった。樽峠は近そうである。足元には紫のすみれの花が咲き誇っている。気持ちのよい尾根である。

 樽峠に到着した。峠はゆったりした尾根の鞍部で草原が広がり気持ちのよいところである。確りした小道が乗っ越し、傍らにはすっかり摩耗して輪郭もはっきりしない小さな石仏が安置されている。今から四百数十年前、武田信玄自ら率いる甲斐の大軍がこの峠を越えて駿府に攻め入ったのだ。誰もいない峠に一人座り耳を澄ますと、馬のいななきや甲冑の擦れ合う音が聞こえてくる。この石仏は信玄を見たのであろうか。ここから板井沢集落に下ってもよいが、時刻もまだ早いのでさらに縦走を続けることとし、平治の段に向かう。いきなりものすごい急登である。調子のよいときの急登は一気に高度が稼げて気持ちがよい。登り切ると笹の中の緩やかな道となり、平治の段に達した。ここから貫ヶ岳への立派な道が別れている。行ってみたいが、往復2時間かかるので今日は時間がない。小休止の後、中沢峠に向かう。薄暗い植林を抜け、平凡な尾根をいくつものピークを越えながら進む。展望もなくまったく飽き飽きする尾根である。足もとのすみれの花とイワカガミの花のみが目を楽しませてくれる。それにしても通る人とて希な尾根道はよく整備されている。

 中沢峠に到着した。平凡な峠であるが、大きな杉の木の根元に小さな二体の石仏が寄り添って安置されている。甲斐側にも小道が下っている。この先さらに宍原峠までの縦走も可能だが、バスの時刻を考え、ここから神沢原集落に下ることとする。樹林の中を緩やかに下ると沢に出た。冷たい水を口に含む。すぐに宍原峠道と合流し、林道に出た。再び雨が降りだした。やがて神沢原集落に入る。集落の周りはこんな急斜面までと思える所もすべて茶畑である。15時35分、ようやく中河内のバス停に到着。ベンチに座ってバスを待っていると乗用車が止まった。見れば高ドッキョウの頂で会った単独行者であった。勧められるままに静岡市内まで送ってもらった。彼は高野マキへのルートを下ったが、興津川本流に橋はなく、靴を脱いで徒渉したとのことである。