昨日通勤の途中、庭先の梅が八分咲きになっているのを見つけて驚いた。今年は10年ぶりの本格的な冬といわれ、連日寒い日が続いているが、春はもうそこまで来ているのだ。しかし、山はまだ真冬、藪山登山のシーズンである。1週間前に埼玉マラソン42.195キロを完走したが、体力はもう完全に回復している。高山に行ってみることにした。高山は静岡市の象徴・竜爪山の東にそびえる美しい双耳峰である。ただし、登る者は希である。この高山から南に続く山稜は静岡・清水市境となって市街地の瀬名地区まで深く延びている。一昨年の10月に、穂積神社から高山を越えてこの山稜の完全縦走を試みた。しかし、高山は無事越えたものの、その後ルートはものすごい蜘蛛の巣地獄と化し、北沼上集落の上部で縦走を断念した。蜘蛛が活動を止めた冬枯れを待っての再挑戦である。
同じコースを辿るのも気が利かないので、今回は清水市の伊佐布集落から直接高山に登り、そこから縦走に移ることとした。ただし登山ルートは極めて分かり難そうである。静岡県山岳連名発行の「静岡県登山・ハイキングコース143選」によると、この伊佐布集落からのルートは「登山口は道標もなく、地元の人に聞かなければわからない」とある。河西哲郎氏も「静岡 花の百山」で道がわからず藪を漕いでいる。
朝6時過ぎ玄関のドアを開けると、日の出前の濃紺の空に今日登る高山が黒々とその端正な姿を現していた。清水駅発7時25分の上伊佐布行きバスに乗る。バスは約30分で庵原川最奥の集落・上伊佐布に着く。本来、ここから高山に通じる尾根に直接登り上げるのだろうが、今日は伊佐布北滝に寄ってから登る予定である。庵原川に沿った車道を奥に進む。約15分で北滝に着いた。平凡な滝であるが、清水市の名勝になっている。早朝のため当然人影はない。滝下から上部に通じる踏み跡をほんの2〜3分急登すると、沢に沿って奥に進む農道に出た。この沢を詰めると高山南稜を天王峠で越えて長尾川最奥の集落・平山に通じる。二万五千図に破線があるが、現在は廃道のようである。
十分ほど進むと、農道は分岐する。戻り気味に上部に通じる農道を辿る。河西哲郎氏はこの地点で、そのまま沢ぞいに真っ直ぐ進んでしまったようである。農道は緩やかに登りながら尾根の先端に廻り込んでいく。道の両側はみかん畑や茶畑で明るい。空は真っ青に晴れ渡り、今日一日の晴天を約束している。分岐から10分ほどで尾根の先端に出た。高山山頂付近から吉原集落に向かって東に延びる尾根から分岐して南に延びるこの顕著な尾根は、太く緩やかで尾根全体が茶畑とみかん畑に覆われている。二万五千図ではこの地点から尾根上に破線の記入があるのだが、道標はおろか登山道もなかった。農道を離れて、茶畑やみかん畑の畔を拾いながら5分も登ると尾根を横切る農道に出る。さらに尾根を真っ直ぐ登り上げる。相変わらず道はなく所々藪を漕ぐ。再び尾根を横切る農道に出る。大きく展望が開けた。これから登る高山の双耳峰が目の前にそびえ立っている。ただしその姿は静岡市内から見る端正な姿ではなく、かなり崩れている。振り返ると、左奥に富士山がすっきりと立ち、目の前には穏やかな駿河湾が広がっている。その奥には伊豆半島が手の届きそうな距離で横たわっている。典型的な駿河の山の景色である。
ここに初めて竜爪山を示す朽ちた道標が投げ捨てられたように地面に横たわっていた。尾根上にも確りした踏み跡が現われる。おそらく高山への正規のルートは伊佐布集落から農道を辿ってこの地点に達し、ここから尾根を辿るのであろう。すぐ上に斜面に張り出した舞台のような作業小屋があり、登り着くと実に展望がよい。展望小屋と名付けよう。明るい茶畑の中を緩やかに登っていくと、廻り込んできた先ほどの農道終点に出る。太陽は燦々と注ぎ、360度の展望が開けたこの緩やかな尾根は実に気持ちがよい。ようやく杉檜の植林に入った。道標はないが踏み跡は明確である。日陰に入るとさすがに寒い。いくらか急となった尾根を左から廻り込むように登っていくと吉原分岐に達した。ここに丸い自然石に彫られた古い道標があった。「右いさふ 左よしはら」と読める。おそらく江戸時代か明治の頃のものであろう。同じような石の道標を昨年高山の北の肩でも見ている。このルートは伊佐布、吉原集落から穂積神社への昔の参拝道であったのだろう。
ほんの1分ほど進むと、何と真新しい林道に飛び出した。一瞬唖然とする。高山から吉原集落に向かって張り出しているこの尾根上に林道が開削されてしまったのだ。静岡近郊の山々は最近急速に林道の汚染を受け出している。残念なことである。林道を辿る。右側に一瞬展望が開け青笹や高ドッキョウが朝日に輝いている。林道が尾根を外れる地点で尾根上にルートを求める。林道は高山の北の肩に向かって工事が進められているようである。
植林の中のものすごい急登である。立ち木に捕まりながら這い上がると、傾斜が緩み見覚えのある高山北峰に登り着いた。杉檜林の中の寒々とした頂である。前回は朽ちた山頂標示一つのみあったが、その後何パーティか登ったと見えて数個の山頂標示があった。三角点の脇には測量用のポールが一本立てられている。
小休止の後、いよいよ縦走に移る。ここからしばらくは勝手知ったルートである。山頂直下を西側から巻いている縦走路に下り、急坂を南峰との鞍部に下る。ひと登りで達した南峰には前回同様何の標示もない。前回はここでルートミスした。向きを南東から南西に90度変えて樹林の中をどんどん下る。前回は薄い踏み跡に思えたルートも、勝手知っているせいか確りした踏み跡に見える。地図にある一軒家を右に見ると、尾根筋も消えてものすごい急な下りとなる。この辺りは踏み跡がいくつか入り乱れており、前回よくぞ迷うこともなくル−トを辿れたものである。下り切ると左側に茶畑が現われる。この辺りは前回は藪とものすごい蜘蛛の巣地獄で、歩くに歩けなかったところである。ところが今回は藪も消え、蜘蛛の巣も見えず、小道といってもよいほどの明るい尾根道となっている。季節によってこれほどルートの状況は変わってしまうものなのか。安心してひと休みする。久しぶりに展望が大きく開けている。静岡市内が眼下に開け、その先には海を挟んで御前崎まで見える。花沢山で盛り上がった宇津の山並が続き高草山や高根山が確認できる。目の前には竜爪山がそびえ立ち、そこから賎機山に連なる尾根が市内に向かって高度をさげながら続いている。この辺りが天王峠のはずなのだが、標示もなく、また伊佐布集落、平山集落に下る道も確認できなかった。
いったん樹林の中に入って緩やかに登ると左側に明確な尾根が分かれる。無線中継基地に至る尾根である。尾根上に確りした踏み跡があり、道標が「山原」と示している。再び茶畑が現われ、平山集落方面から這い上がってきた農道に出た。真昼の日射しがなんとも暖かい。展望も実によいので道端に座り込んで握り飯を頬張る。100メートルほど農道を辿った後、小さな道標にしたがって茶畑の縁から樹林の中にはいる。茶畑、杉檜の植林、照葉樹林の雑木林が交互に現われる。この辺りも前回は藪と蜘蛛の巣でへきへきしたところであるが、今日はその片鱗も見られない。いつしかルートは尾根の右側を巻くようになる。やがて前回力尽きて下った静岡分岐に達した。いよいよここからは未知のルートである。どこまでも水平な巻道が続く。地図上の307.7メートル三角点峰も巻く。時々現われる照葉樹林が何とも気持ちがよい。飽き飽きする頃ようやく道が尾根に戻り、すぐに柏尾峠に達した。
柏尾峠も残念ながら農道に破壊されていた。柏尾集落から登ってきた舗装道路が尾根を乗っ越して帆掛山方面に続いている。しかし、峠のお地蔵様が残されていた。お地蔵様の右側には「天保3年建之」、左側には「明治44年新建之」と刻まれている。思うに、もともと天保3年のお地蔵様があり、明治44年に新たなお地蔵様と代えたのであろう。さらに、明治24年銘の「高田宜和翁之碑」と刻まれた漢文の顕彰碑と昭和54年銘の「雨沢農道落成記念碑」が並んで建てられている。峠には新旧取り混ぜたいろいろな記念碑が建てられるものである。
農道を辿ってもよいのだろうが、稜線上にも確りした踏み跡がある。樹林の中のピークを3〜4越えると、山腹を茶畑に覆われた大きなピークが目の前に現われた。帆掛山とも一本松とも呼ばれるピークである。到達した山頂は「一本松公園」という小公園になっており、ベンチやテーブルが設置されている。山頂直下まで車で来られるためか、幼児連れの家族が遊んでいた。実に展望がよく、眼下に清水市内と美保半島に抱かれた清水港が広がり、駿河湾の背後に伊豆半島が黒々と延びている。日本平も目の前である。北側の展望は山頂に立つ電波反射板が少々じゃまするが、場所を移して眺めれば、端正な姿の高山の双耳峰から辿り来し尾根が足元まで続いている。ベンチに腰掛け、目の前に広がる大展望を心いくまで楽しむ。この山頂には昔から大きな一本松が立ち、駿河湾を航行する船のよき目印となっていたが、昭和50年代に落雷で枯れてしまったとのことである。
道標に従い、緩やかな尾根をのんびりと15分も進むと、最後の目的地・梶原山に達した。ここも帆掛山に劣らず駿河湾の好展望台である。2匹の犬をつれた二人連れが休んでいた。ここは尾根末端の小ピークで、梶原塚とも呼ばれる。鎌倉時代、幕府内の権力闘争に負けた梶原景時がその一族とともに京を目指して落ち行く途中、この山の麓で土豪に追われて一族諸共に滅んだ。山頂に景時親子の供養塔が建てられている。
急坂を下ると、鳥坂分岐を過ぎ、農道に出た。農道をしばらく辿ると瀬名古墳群との表示がある。かつてこの辺りに何個かの古墳があったようであるが、今は跡形もない。尾根がつきた。農道は尾根の西側をジグザグを切って下っている。そのまま尾根を最後まで下ってやろうと藪の中にしばらくルートを探したが見つからない。農道を辿り、瀬名集落の光鏡院の脇に降り立った。予定の行動の終了である。この光鏡院は、今川氏の後見人を任じた瀬名一族の菩提寺である。今はこの瀬名の里もすっかり静岡市街地に組み込まれてしまい昔を忍ぶものはこのお寺のみのようである。
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