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太刀割石
登山口(905)→烏帽子石(920)→畳石(925)→雷杉(930)→弁天池(935)→黒前神社(945)→竪破山山頂(950〜955)→胎内石(1000)→神楽殿(1005)→太刀割石(1010〜1020)→登山口(1045) |
竪破山は茨城県の北部、高萩市の西に盛り上がった小峰である。標高わずか658.3メートルの低山ではあるが、山中に巨岩・奇岩が多数存在するため、巨岩信仰と相まって、古来、神の座す山として崇拝されてきた。また、戦勝祈願の山ともされ、伝説の武将・黒坂命(くろさかのみこと)を始めとして坂上田村麻呂、平貞盛、八幡太郎義家等が奥州遠征の際に戦勝祈願に訪れたという伝説・史実が残されている。山頂直下には黒坂命を祭神とする黒前神社が鎮座している。
以上の通り、竪破山は歴史と伝説を秘めた山であり、関東百名山や日本百低山にも列せられている。前々から一度は登ってみたいと思っていたが、埼玉からはなにぶん遠く、いたって交通不便な上、山頂往復がわずか1時間半程度と、ハイキングにもならない歩行時間である。このため、わざわざ出かけていくのをためらい続けていた。しかし、足骨折リハビリ中の現在、わずかな歩行で登れる未踏の名山の存在はいたって魅力的である。北関東自動車道が開通した現在、充分日帰りで行ってこられる。 早朝5時45分、車で出発する。ルートは羽生I・Cで東北自動車道に乗り、北関東自動車道を経由して常磐自動車道の日立北I・Cで降りるという長距離ドライブである。カーナビで調べると、自宅から登山口まで走行距離194キロ、所要時間3時間48分と標示された。いくら何でも、それほど時間は掛からないだろう。 友部ジャンクションから常磐自動車道を北上する。大事故を起した福島の原子力発電所に向う道筋である。おそらく、進むに従い放射線量は増加しているのだろうがーーー。トラックを中心とした交通量がいやに多い。日立北I・Cの料金所は高速道路を降りる車で長蛇の列。これほどの車は一体どこへ向うのだろう。高速を降りた後は、カーナビ任せ。どこを走っているのかさっぱり分からない。やがて県道60号線から黒坂集落へ通じる道路に入る。登山口までもうひと息である。最初は立派な舗装道路であったが、小さな集落を過ぎるたびに道は次第に細まり、最後の集落・鬼越を過ぎると、すれ違いも出来ない細い地道となってしまった。両側からせりだす草や木の葉が車体をこする。 不安を感じながら進むと、「一の鳥居」の三差路に達した。案内書によると、左の道を少し行ったところに駐車スペースがあるはずである。所が、入り込んだ道はあちこち水流で深くえぐれ、岩角や木の根が浮き出た凄まじい悪路であった。ヤバイと思ったが、戻ることも出来ず、車底をこするようにしてのろのろ進む。何とか広場となった駐車スペースにでて、やれやれである。時刻は8時50分、自宅から3時間、198キロのドライブであった。 駐車場所には意外にも車が1台先着しており、中年の男が一人いた。「いやぁ すごい道でしたねぇ。よほど途中で戻ろうかと思ったのだがーーー。Uターンも出来ないしーーー」。すぐさま同じ言葉が双方の口をついて出た。聞けば、有名な太刀割石を見に来たが、上まで登ろうか止めようか迷っているとのことである。 9時5分、登山を開始する。とは言っても、山頂まではわずか40〜50分程度のはずである。天気予報によれば今日の天気は晴れ時々曇りなのだが、空は厚い雲に覆われ今にも降りだしそうな寒々とした天気である。鬱蒼とした杉林の中のよく踏まれた登山道を登る。ほんの数分で、先ず現れたのが「不動石」。横8メートル、縦3メートル、高さ1.5メートルの大石の上に不動明王が祀られている。元々は、黒前神社の祭りの際に、浜に繰り出す神輿を休ませる場所であったとのことである。さらに数分で「烏帽子石」、烏帽子に似た形の大岩である。説明板には、八幡太郎義家が竪破山の神霊に参拝したときにかぶっていた烏帽子に似ていることから名付けられたと記されている。さらに5分で手形の様な模様のある「手形石」と畳を積み重ねたように大きな石が四段に裂けるように割れている「畳石」が現れる。八幡太郎義家の手形であり、腰を下ろして休んだ石だとの説明である。その一段上には山肌から水が湧き出ており、コップが置かれていた。喉を潤し、先を急ぐ。 少し急な階段整備された登りを経ると、平坦な巻き道となる。「雷杉」と標示された杉の木があった。説明書きによると、昭和30年代に落雷を受け、木は真っ二つに裂かれたが片側が生き残った由。さらに炭焼き小屋跡を過ぎると、弁天池に達した。登山口からちょうど30分である。水溜まりのような小さな池の岸に東屋が建っている。 ルートはここで二つに分かれる。そのまま真っすぐに緩やかに登って行く道は竪破山最大の見所である「太刀割石」に向う。右の斜面を登る道は鳥居と随神門を潜って山頂直下の黒前神社へ向う。私は当然後者のルートを選ぶ。山頂に達するのが第一目標であるのだから。随神門を潜る。門の左右には左大臣と右大臣が鎮座している。元々この門は仁王門である。門の主が入れ替わり、門の名称までもが変わったのは明治の排仏毀釈の結果である。本来の主・仁王様は門の背後の狭い部屋に押し込められていた。 随神門背後の石段を登ると黒前神社と太刀割石を結ぶ水平な道にぶつかる。道標に従い右にルートを採ると、すぐに広場に達した。山頂に至る急斜面をバックに現在は神楽殿と呼ばれ、排仏毀釈以前は釈迦堂と呼ばれたお堂が建つ。その前に「船石」「甲石(かぶといし)」と呼ばれる二つの巨石が横たわっている。船石はその形が船に似ているための単純な命名である。一方、高さ3.5メートル、外周12メートルの甲石は少々曰くがある。案内板には次の通り記されている。 「元禄(1688年)以前は『竪破和光石』と呼ばれ、薬師如来が隠されている石として信仰され、正面に石をくりぬいた祠があり、その中に薬師如来の12神将像(現在は6体)が祀られています。水戸光圀翁が仏教色の強い『竪破和光石』を『甲石』に改名したと言われています。」
神殿に参拝し、ほんの数10メートル緩やかに登ると、そこが山頂であった。無論人影はまったくなく、木々に囲まれた小さな裸地の真ん中に山頂標示と658.3メートルの三角点のみ見られる。山頂から展望は得られないが傍らに高さ10メートルほどの鉄製の展望台が設けられている。登ってみると四方に大展望が開けた。どちらを向いても山また山が累々と続いているのだが、この山域は今回が初参、山々をまったく同定できない。視界がよければ筑波山や富士山までも見えるとのことだがーーー。今日はどす黒い雲が空を覆っている。 道標が「胎内石」まで150メートルと標示している。行ってみることにする。山頂を乗り越す形で反対側に続く細い踏跡を下ると、目指す大岩に到った。岩窟のある岩壁である。解説板によると「黒坂命が奥州遠征の帰路、この山の麓で休んでいたところ、一人の童子が命を馬に乗せてこの洞窟に案内し、休ませた」とのことである。 早々に最後の目的地「太刀割石」に向う。うまい具合に巻き道の踏み跡があったので、山頂および黒前神社を通らず直接神楽殿に下った。ここで、老夫婦にであった。軽登山靴を履き、ザックを背負ったハイキングスタイルである。今日山中で見かけた唯一の人影であった。随神門の上部を抜け、尾根伝いに5分も進むと、目指す「太刀割石」が眼前に現れた。 この巨石が竪破山最大の見所である。巨岩が真っ二つに切り割られ、一つは切り口を上に向けて地上に横たわり、他方は立ったままである。切り口は周囲20メートルのほぼ円形、切断面はまさに包丁でスパッと切ったごとくに滑らかである。到底、自然の仕業とは思えない情景である。ただ、ただ、唖然と見つめる。言い伝えによると、 「八幡太郎義家が奥州遠征の際にこの山で戦勝祈願をし、野宿をした。義家は眠りの中で黒坂命に出会い一振りの黄金の太刀を授かった。目覚めるとかかる太刀が目の前に置かれており、太刀を抜いて巨岩めがけて降り降ろすと、岩は真っ二つに切り裂かれた」とのことである。後年、水戸光圀公がこの山に登ってこの石を見、「最も奇なり」と感銘し、「太刀割石」と名付けたと伝えられている。 これで竪破山の踏破は終わり、あとは下るだけである。「太刀割石」前のベンチに腰掛け持参の握り飯をほお張る。幸い誰もいない。いささか歩き足らないが、長年の懸案であった竪破山登頂を無事に果たした。10時45分には車に戻りついた。時刻が余りにも早いので、帰路は高速を使わず一般道路を辿った。距離165キロで、ちょうど15時に家に帰り着いた。 |