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佐渡バス停(1220)→佐渡山(1235〜1240)→手児の呼坂(1300〜1310)→110メートル峰(1320)→徳願寺(1330〜1340)→徳願寺山東峰(1405〜1410)→徳願寺山西峰(1420〜1425)→歓昌院坂(1445〜1450)→牧ヶ谷集落(1505)→耕雲寺分岐(1515)→耕雲寺(1520〜1525)→服織中学校前バス停(1545) |
藁科川右岸に沿って続いてきた山稜の一つが徳願寺山の盛り上がりを最後として静岡平野に没している。しかし、よく目を凝らしてみると、没したと思った山稜が、未練がましくといおうか、しぶとくといおうか、標高わずか百メートルほどの丘陵となってなおも一キロほど南東に続いている。この丸子地区と手越地区の間に横たわる丘陵を佐渡山(サワタリヤマ)というらしい。もちろん地図に名前など載っていないが、この丘陵の麓にすむ奥島嬢から聞いた。大した高度ではないのだが、この丘陵は東海道大動脈を遮る形となるので、交通上至って邪魔な存在である。静岡市内から丸子に至る国道1号線も旧東海道もこの丘陵のために「く」の字に曲げられている。昔からこの遠回りを嫌い、本道を外れて丘陵を直接横切る近道があった。この近道を「手児の呼坂」といい、古来多くの歌に詠まれている。佐渡山はわざわざ登るほどの山ではないが、この手児呼坂だけはぜひ一度訪ねてみたい。
伊豆の山へ行くつもりであったが、起きたのは10時半であった。懸案の佐渡山から手児の呼坂へ行ってみることにする。二万五千図の「静岡市西部」をポケットに入れ、カメラとストックだけを持って正午前家を出る。この季節に藪山へ行くにはストックは必需品である。蜘蛛の巣を払い、草むらの蛇を追う必要がある。12時20分、佐渡バス停で下りる。今年はゴールデンウィ−クの頃より冷夏の気配であるが、今日は初夏の陽気。Tシャツ一枚で来た。梅雨の近いことを思わせる高湿度で、晴れているのか曇っているのかわからない空模様である。国道1号線より、尾根末端に左側から取り付く。尾根上部に向かう確りした歩道がある。一段上に西宮神社という小さな社があった。すぐに尾根の中腹を巻く農道に出る。ここに静岡市教育委員会の「佐渡山古墳群」との説明板がある。近くに約7基の小さな古墳があるという。尾根上に道はないが、茶畑、みかん畑の畔を適当に拾いながら高みを目指す。あっさりと佐渡山に登り着いた。山頂部は小さな杉林となっていて西面の茶畑の縁に102.8メートルの4等三角点を確認する。もちろん何の標示もない。眼下に丸子の街並が広がり、行く手には徳願寺山が大きくそびえている。三角点の10メートルほど先には古墳跡らしき小石の散乱している場所がある。 畑の畔を強引に鞍部に下り、中腹を巻いてきた農道に出る。ここからは尾根上に明確な小道が現われる。茶畑の縁を登り、杉林の中を進む。二つほど小さなピークを越え、下るとそこが目指す手児の呼坂であった。イメージ通りの好ましい小さな峠である。今はもう通る旅人もいない細い小道が鞍部を乗っ越し、市教育委員会の説明板がなければ、それとも知れない。 「左和多里の手児にい行きあひ赤駒が足掻き速み言問はず来ぬ」 「東路の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿はなしに」 「東路の手児の呼坂越えて去なば吾は恋ひなむ後にあひぬとも」 万葉集にこの地を歌った三首が残されている。 雑木の茂る尾根道を行く。所々にすばらしい照葉樹林が現われる。しかし、すでに夏草ガ繁茂しだし、蜘蛛の巣もうっとうしい。約110メートル峰を下ると再び農道に出会う。みかん畑の縁を少々進むと徳願寺に達した。実は、昨年の1月、宇津ノ谷峠から長駆ここまで縦走し、さらに佐渡山まで行こうとしたがルート不明で果たせなかった。ようやく今、1年半ぶりに念願を果たしたことになる。徳願寺山の中腹に建つ今川氏ゆかりのこの寺は好ましい寺である。よく手入れされた境内はしんと静まり返り人の気配もしない。ここで下ってもいいのだが、まだ時間がたっぷりあるので、徳願寺山を越えて歓昌院坂まで縦走してみることにする。ここから先は勝手知った道である。 農道を2〜3分たどり、登山道に入る。この登山口は何の標示もなく、知っているものにしかわからない。杉檜の鬱蒼と茂った樹林の中を登る。薄暗い林床にコアジサイの薄紫の花やハナミョウガの赤白の穂が所々彩を添える。ジュズネノキの小さな白い花も見られる。登るに従い間伐材が登山道を埋める。山頂近くで登山道を見失うが、構わず高みを目指す。30分弱の登りで徳願寺山東峰に登り着いた。平坦な杉檜の深い樹林の中で、山頂を示す標示は何もない。一服後、吊り尾根をたどり西峰を目指す。確りした踏み跡がある。好ましい照葉樹林を過ぎ、375.8メートル三角点峰である西峰に達した。人の気配のまったくしない静かな頂である。 樹林の中の急坂を滑るように下る。送電線鉄塔に出ると照葉樹林の尾根道となる。下り切ったところが歓昌院坂である。丸子と藁科川流域の牧ヶ谷集落を結ぶこの峠道は古来東海道の間道であった。平安の頃は、牧ヶ谷集落の先の「木枯らしの森」に通じるため、むしろ東海道の本道であったようである。江戸期には、駿河一国33ヶ所観世音菩薩霊場第13番札所である丸子の歓昌院から第14番札所である牧ヶ谷の耕雲寺に通じるお遍路道として利用された。小道が切通しとなって小さな鞍部を越えている。手児の呼坂と同様好まして雰囲気を残している。ひと休み後、峠道を牧ヶ谷へ下る。樹林の中の少々荒れた急な坂道である。5分も下ると舗装道路に出、少し進むと牧ヶ谷の集落であった。まだここまでは静岡市の街並は押し寄せていない。振り返ると今越えてきた徳願寺山が見慣れぬ鋭峰となって高々とそびえ立っている。古い立派な家並みの中を進むと、立派な地蔵堂がある三叉路にでる。ここが耕雲寺分岐であった。時間があるので耕雲寺に寄ってみることにする。300メートルほど小川ぞいの道を進むと斜面を背にした耕雲寺に出る。この寺には江戸初期キリシタンの武士を匿った義僧の物語が残る。境内は人の気配もせず静まり返っていた。山里の静かな禅寺である。三叉路に戻り、集落内を進むとすぐに藁科川に出る。川の中州には「木枯らしの森」の小さな丘が見える。清少納言が枕の草子で「森は木枯らしの森」と愛で、多くの歌に詠まれた有名な歌枕の地である。牧ヶ谷橋で藁科川を渡ると服織の里。古代、服織部が住み着いたといわれるこの里は今ではもう静岡の街並に飲み込まれている。待つほどもなくバスがやってきた。 |