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立石バス停→栃沢集落→釜石峠→中村山→樫丿木峠→夕暮山→天狗岳→一本杉峠→横沢集落 |
藁科川と安倍川支流・西河内川を分ける分水稜上に天狗岳という山がある。この山は二万五千図に山名の記載はあるが登山案内の類には一切登場しない。私は安倍奥にどこかおもしろい山はないものかと地図をながめていてこの山を見つけた。地図で見るかぎり山頂部はどこが山頂かわからないようなだだっ広い平坦地である。三角点も標高点もないが、等高線を読むと1,020メートル以上の高さがある。北の肩に一本杉峠という峠があり、藁科川流域の諸子沢集落から西河内川最奥の集落・横沢へ乗越す破線が記載されている。山頂に至る登山道の記載はないが、峠まで登れば稜線上に踏み跡ぐらいはありそうである。しかし、天狗岳だけを登るのでは如何にも物足りない。二万五千図で天狗岳から南に延びる稜線を目で追うと、1,040メートル等高線に囲まれた顕著なピークがある。このピークは地図に山名の記載はないが夕暮山というらしい。その南東には樫ノ木峠という峠名の記載があり、さらにその南は中村山から釜石峠につながっている。できることなら釜石峠から天狗岳まで縦走してみたいものである。中村山は二度ほど登っており、山頂から樫ノ木峠に向けて微かな踏み跡が続いていることを確認している。
2月6日に埼玉マラソンで42.195キロを完走したが、5日の間に身体はすっかり回復している。私もまだ若い。晴天の予報のもと、新静岡センター発7時15分の日向行きのバスに乗る。今回は栃沢集落から釜石峠に登ってみる計画である。藁科川流域の山上集落である栃沢は宇治川先陣争いで名高いあの名馬「するすみ」を生んだ土地であり、お茶を中国から持ち帰り全国に広めた聖一国師の生誕地と云われる集落である。前々からぜひ一度訪れてみたいと思っていた。バスは5〜6人の乗客を乗せて藁科川に沿って奥へ奥へと進んで行く。幾つもの山間の集落を過ぎ、8時24分、立石のバス停に着いた。20〜30分も舗装された急な道を登ると大きな集落にでた。栃沢集落である。集落は期待したほど風情がない。山間の集落特有の重厚な歴史を感じる民家が少なく、新しく建て替えられた家々が目立つ。それだけ豊かなのであろうか。 集落を過ぎ山道に入る。ここに「大川地域振興協議会」の名の真新しい立派な道標があった。この道標は釜石峠まで点々と建てられており、静岡の山では珍しい公的な道標である。道も同時に整備したと見えて沢には真新しい橋が掛けられている。杉檜の植林の中を登る。釜石峠へはこちらが裏道と思っていたが、表道と思った奥長島集落からの登山道よりも確りしている。微かな雪が日陰に現われる。沢筋を離れ、支尾根を急登すると上空が開けて釜石峠に着いた。9時50分である。昨夜作った稲荷寿司を頬張りひと息入れていると、同じ道を50年配の二人連れが登ってきた。「中村山までは道はあるんですかねぇ。大棚山は登れますかねぇ」と相手。「中村山までは道はあります。これから向かうところです。大棚山までは切れ切れの踏み跡です」と私。「詳しいんですね」「まぁ、この辺の山なら」と大見栄を切った。 突先山に向かう二人と別れ、10時、中村山に向け出発する。ここからは一般ハイキングコースを外れる。もう人に会うこともなかろう。勝手知った道を進む。下りの時は何事もなく通過した地点でも、登りの場合は視界が変わり一瞬迷う地点もある。10時25分、ワンピッチで中村山に到着。いよいよここからは未知のルートである。前回確認しておいた藪の中の踏み跡をたどる。スズタケがうるさいが尾根が狭いので踏み跡は明確である。カサっという音で反射的に頭上を見上げると、なんとリスである。樹上をするすると伝わって行く。ほんの微かな音でリスを一瞬に見つけるのは、それだけ神経が磨ぎ澄まされているのだろう。小さなピークを越えてしばらく下ると鞍部に出た。ここから尾根は広がり踏み跡は消える。地図とコンパスで位置と方向をよく確認して植林地帯のはっきりしない尾根を進む。欝蒼とした樹林地帯で藪がないのが助かる。「大昭和製紙」と書かれた杭が目立つ。尾根が狭まると再び藪となり踏み跡も現われる。尾根は植林か藪なので展望は一切利かない。雪は日陰にあるだけである。背よりも高いスズタケの密生地を抜けると樫ノ木峠に出た。11時20分である。 峠は小広く明るい感じの所で、石仏がひっそりとたたずんでいる。この峠道は藁科川流域の日向集落と西河内川流域の内匠集落を結び、昔は東海道の裏街道としてそれなりの賑わいがあったとのことである。しかし、今は辿る人とてない忘れられた峠道である。それでも微かな踏み跡が峠を乗っ越している。日溜まりに腰を下ろし往時を忍ぶ。この山域でよく見かけるY・K氏の道標があり、来し方を中村山、行く先を天狗岳と示している。どうやら天狗岳までルートがありそうである。11時35分、次の目標である夕暮山に向け出発する。 藪の中の踏み跡に飛び込む。いきなりの急登であるが、踏み跡は思いのほかしっかりしている。ルート上のスズタケが頻繁に折られている。先行者がルート確認のため意識的に折りながら登ったものと思える。ここから夕暮山までのルートは、尾根なりに進むと内匠集落へと延びる支尾根に引き込まれる危険があり、尾根の分岐点に注意を払うことが必要だ。10分ほど急登を続けると尾根が北から北東に向きを変えた。藪越しに夕暮山が初めて姿を現す。尾根の屈折点を過ぎると急に踏み跡が怪しくなった。笹折りは続いているのだが、狭い尾根にもかかわらず踏み跡がないに等しい。地図とコンバスを出して検討する。注意していたはずだが、内匠集落へのびる支尾根に引き込まれた可能性が否定できない。確認のため、先程の尾根屈折点まで戻る。やはりルートは間違っていない。安心して、藪を分けながら狭い尾根を辿る。しばらく進むと支尾根分岐点に達した。この地点には赤テープがしっかり巻かれ注意を促すようになっていた。やはり迷いやすい地点なのであろう。藪が薄れ、再び傾斜が増す。雪が現われだし、その上に今日登ったと思える真新しい単独行者の足跡がある。私以外にもこんな藪山に登る物好きがいるとみえる。そのまま急登を続けると山頂に達した。12時10分である。山頂は広々とした緩やかな高まりで、北側が植林、南側が灌木となっている。展望は利かないが明るい。雪が10センチほど一面に積もっており、ついさっきまで誰かがいた気配である。 ひと休みした後、いよいよ天狗岳を目指す。ここからが今回の山行き最大の難関である。うまく行けるかどうか。ルートと思える切り開きもないのでコンパスで方向を確認し、灌木を押し分けて北面に出る。すると目の前にすばらしい雪原が出現した。まばらに灌木の生えた緩やかな斜面に足跡一つない雪原が大きく広がっている。積雪は20センチもあろうか。雪上には点々とウサギの足跡がある。歓声をあげて雪を蹴たてて斜面をかけ下りる。何と気持ちの良いところだろう。尾根は広々としていてどこでも自由に歩けるが、コースサインは何もなく、尾根筋もはっきりしないのでルートファインデングは難しい。注意深く雪原を進む。 いくつかの緩やかな起伏を過ぎると雪原は終わり小さなピークが現われた。地図上の999メートル峰と思える。尾根は緩く右に曲がっているようであるが、ピークは一面スズタケの密生で、どこから取り付いていいのかわからない。ままよとばかり薄そうなところからスズタケの密生に飛び込んだ。稜線上に獣道ぐらいはあると思ったが、それらしき気配はなく、背よりも高いスズタケの密生の中に孤立してしまった。スズタケは積もった雪の重みで首を垂れており、かき分けると雪を頭上に降らせながら跳ね返って顔を傷つける。たまったものではない。強引にこの密生を突破して右手の植林地帯に逃げる。植林地帯に入ると微かながら踏み跡が現われひと安心する。さらに進むと尾根が広がり踏み跡は不明となる。わかりにくい尾根筋を細心の注意を払いながら進む。急な斜面を登ると再び微かな踏み跡が現われる。どうやら天狗岳の一角に達したようだ。藪っぽい樹林の中を進むと、突然天狗岳山頂標示が現われた。ちょうど13時である。ついに天狗岳までの縦走が成功したのである。高みとも思えない樹林の中の山頂はまったく人の気配もなく静まり返っていた。 13時15分、一本杉峠に向け出発する。ここからは道もしっかりしており、至るところにコースサインがある。もう心配することは何もなさそうである。急坂をぐんぐん下っていくと約15分で一本杉峠に達した。ここはなんとすばらしい峠であろう。林の中の小さな鞍部であるが、名前の通り樹齢数百年と思える杉の大木が一本生え、傍らには石仏が立たずんでいる。鞍部の真中には苔蒸した寛政七年銘の古い石の道標があり、西へ下る道を「もろさわみち」、東に下る道を「よこさわみち」、稜線上を北に向かう道を「おふまみち」、南に向かう道を「こしこえみち」と記している。往時の賑わいが聞こえてくるようである。このすばらしい峠に出会えただけでも藪をかきわけここまで来たかいがある。今日は中村山、夕暮山、天狗岳の三つの山を越え、釜石峠、樫ノ木峠、一本杉峠の三つの峠を知った。三つの山はどれも展望の利かない藪山であったが、三つの峠はどれも石仏のたたずむすばらしい峠であった。静岡市周辺の山々は登山道とてまともにない藪山ばかりであるが、そのかわり、どこの稜線にも埋もれた昔の峠が昔のままの姿で残されている。奥武蔵の峠道のほとんどが自動車道路に変わってしまったのに比べ、なんとすばらしいことか。 13時50分、このすばらしい峠に別れ、雪で滑りやすい谷筋の峠道をゆっくりと横沢集落へと下っていった。西河内川を隔てた目の前には大岳が大きくそびえ立っている。なかなか格好いい山である。いつか登ってみたいものである。15時5分、横沢のバス停に着く。静岡行きのバスは15時49分であった。
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