おじさんバックパッカーの一人旅   

戒厳令下のタイ深南部紀行

「イスラムのタイ」への旅

2007年11月22日

    〜12月4日

 
 クメール遺跡を巡る旅を終え、11月21日に無事にバンコクに辿り着いた。日本への帰国便は12月6日、まだ2週間の余裕がある。予定通り、タイ深南部へと旅立つことにする。本来、この地域は2005年5月〜6月に旅した「マレー半島縦断とジャワ島の旅」の際に訪問する予定であったのだが、ペナン島での病気入院というアクシデントのため、行くことが出来なかった。2年越しの宿題として残っている。

 ただし、タイ深南部は現在危険地域である。タイからの分離独立を目指すイスラム過激派のテロ活動が激化しており、外務省からも「渡航の延期をお勧めします」の危険情報が発令されている。避難勧告に次ぐ強い警告である。外務省の危険情報には「南部3県(ナラティワート県、パッタニー県、ヤラー県)及びソンクラー県の一部(ジャナ郡、テーパー郡及びサバヨーイ郡)に渡航・滞在を予定されている方は、どのような目的であれ渡航を延期することをお勧めします」と記載されている。細心の注意が必要である。
 
 11月22日(木)。今日は夜行列車でタイ最南端、マレーシアとの国境の街・スンガイ・コーロクに向かう。昨日取得しておいた手持ちのチケットは、ホアランポーン駅発13時、スンガイ・コーロク着翌日10時45分の快速171号の2等寝台である。1時間前に駅に行くと列車は既に入線していた。いつもの通り、夕食用にパンと水を購入して乗り込む。列車は定刻に発車したが、バーン・スー・ジャンクション駅まではノロノロ運転、何年経ってもこのいらいらは改善の兆しがない。

 向かいの席はハジャイまで行くというおばさん。最初私をタイ人と思ったらしく、タイ語でぺらぺら話し掛けてきたが、日本人と知ると黙ってしまった。それでも菓子など分けてくれる。斜向かいの席は黄色い衣を着た僧侶。英語が少し話せる。ナコーン・シー・タマラートのワット・プラ・マハタートの僧とのことで、話が弾んだ。私が一昨年訪れた寺である。通路を挟んだ横の席は若いプーイン(女性)。乗車している雑用係の男がひっきりなしにやって来て、何やかんやと話し掛ける。

 私の車輌は冷房車である。例によって冷房が利きすぎ寒くて仕方がない。前方車輌は冷房なしの寝台車。開け放たれた窓から入る風が実に気持ちよさそうである。約2時間走ってナコーン・パトムで最初の停車。窓外に世界一高い仏塔の姿を求めたが見ることは出来なかった。ペチャブリーを過ぎると窓外には奇っ怪な姿をした石灰岩の岩山が幾つも現れる。その背後に真っ赤な夕日が沈んでいく。ホアヒンに約1時間遅れの18時過ぎに到着、ベッドメーキングが始まった。22時過ぎチュンポンに到着、ここの名物なのだろう、発泡スチロールのどんぶりに入ったカオ・トム・ガイ(鳥肉入りお粥)を売りに来た。わずか20バーツ。このカオ・トンは忘れられないほど美味かった。
 
 11月23日(金)。Phatthalungで夜が明けた。車窓にはゴムの木の林が続く。7時半、2時間遅れで列車はハジャイのプラットホームに滑り込んだ。バンコクに次ぐタイ第二の大都会である。私にとってもなつかして街である。乗客の大半が下車し、車内は数人を残すのみとなる。ふと見ると、前の座席に携帯電話が置き忘れている。慌てて、降りて行ったおばさんを追いかける。列車はすぐに発車した。いよいよタイ深南部である。

 デッキに出て、気持ちよい風を受けながら移り行く景色を眺める。列車は低い山並みの間を縫うように走る。時々現れる小さな街の様子は明らかに今までと異なる。街ゆく人々はムスリムの服装である。仏教国タイのもう一つの顔、イスラムのタイにやって来たのだ。車内での人々の会話も、聞きなれたタイ語ではない。11時30分、どこでどう取り戻したのか、わずか45分の遅れで終点スンガイ・コーロク駅に到着した。ここはもうタイ最南端、マレーシアとの国境の街である。

 ホームに降り立つ。とたんに、自動小銃を携えた数人の完全武装の兵士に出迎えられた。ただし、目が合った瞬間、にっこりと微笑む。やっぱりここはタイである。駅舎を出る。真昼の太陽がまぶしい。「この街随一の高級ホテル」と案内書にあるゲンティン・ホテルへ行く。一瞬入るのをびびるほど立派なホテルであったが料金は610バーツと安い。昼食後、早速街に飛びだす。ただし、この街には「見所」と呼べるところはない。あてもなく街中を歩く。街は駅の南側に発達している。それなりに大きな街だが、高層ビルなど一つもない。デパートもショッピングセンターもない。駅近くに市場はあるが、街の中心となるようなにぎやかな商店街もなく、何とも特徴のない街である。ただし、街中に兵士も警官の姿もなく危険な匂いはしない。街の南の端には置屋街があった。休日になるとマレーシアの男どもが押し寄せるのだろう。日が暮れると、街中心部の道路に大規模な屋台食堂村が出現した。
 
 11月24日(土)。今日は国境を越えてマレーシアのコタ・バルに行く。ここまでやって来たら、やはり国境を越えてみたい。朝9時にホテルをチェックアウトして、線路沿いの道を歩いて国境に向かう。タイの鉄道はスンガイ・コーロクが終点だが、線路はそのままマレーシアへ続いている。現在国境越えの列車は運行されていないが、いつでも運航が可能なように線路はよく整備されていている。国境に付き物のあやしげなマーケットはない。約10分でタイのイミグレーションに着いた。バラック建ての粗末な小屋である。前の道路は国境越えの車で混雑し、窓口も数人が列を作っている。ただし、外国人の姿は見られない。

 窓口で、係官がニコニコしながら何か言うがよく聞き取れない。英語か、はたまたタイ語か。聞き返したら、何と、あやしげな発音で「コンニチハ」と日本語で言っているではないか。「クン・パーサー・イープン・ダイマイ(あなたは日本語が話せるのか)」とタイ語で冗談を言い返すと、「ダイ・ダイ(Yes,Yes)」と答えて大笑いする。「帰りもここを通るのか」と聞くので、「明後日、帰ってくる」と答えると、「待っているよ」と愛想がいい。いい気持ちでタイを出国した。陸路での国境越えは、たいていどこでも、イミグレーションの係官との会話がある。ブスッとしている空港のイミグレーションとは雰囲気が多いに異なる。

 国境の小さな川を渡り100mほど歩くと、マレーシアのイミグレーションである。こちらも、ネッカチーフをかぶった女性の係官が愛想がいい。「Welcome Malaysia コンニチハ」と英語と日本語で話し掛けてくる。税関検査も日本人と知るとフリーパス、何ともほのぼのとする国境である。タイ側にもマレーシア側にも兵士どころか警察官の姿も見られない。タイ側には戒厳令が引かれているので緊張した国境を想像していたが、何とも平和な国境であった。これで晴れてマレーシア入国である。

 マレーシア側の国境の街はランタウ・パンジャンという小さな街である。今日はここからバスで約40キロ先の大都市・コタ・バルへ行くつもりである。バス停はどこかなとイミグレーションから真っすぐ延びる広い通りを50メートルも行くと、タクシー乗り場があった。そこの商店でマレーシア・リンギを入手し、さらに50mも歩くとバス乗り場があった。しかし、いくつかあるチケット窓口はいずれもKL等への長距離バスが標示されており、コタ・バルの標示がない。尋ねると、「コタバル行きのバス乗り場は向こうだ」と来た方向を指さす。バス停を探しながらタクシー乗り場に戻る。屯している運転手に再び尋ねると、「イミグレーションまで戻り、左に曲がって真っすぐ行った街中だ。だだし1キロあるよ」とにやにやしながら言う。こうなれば意地でもバスで行ってやる。

 テクテク歩いて街中のバスターミナルへ行く。ちょうどコタ・バル行きのバスが発車するところであった。さすが発展著しいマレーシア、冷房完備のきれいなワンマンカーである。乗客はムスリムスタイルのおばさんばかりである。ところが何と、バスは先ほどのタクシー乗り場の近くで停まるではないか。バスターミナルまで歩くことはなかったのだ。どうやら、タクシーの誘いを断ったため、運転手に意地悪されたようだ。この地点にはバス停を示す標示は何もない。タイではこんな意地悪はないのだがーーー。

 バスは途中Pasir Masのバスターミナルに寄り、大きな川(クランタン川)を渡りるとコタ・バル市内に入った。時計台のあるロータリーを過ぎ、バスは市内中心部のバスターミナルに到着した。1時間20分のドライブであった。

 バスを降りると南国の太陽が照りつけ、さすがに暑い。タンシーの運チャンが何人も声を掛けてきたが、歩いて案内書に載っているサファー・インというホテルを目指す。15分も歩き、地図の示す場所に行き着いたのだが、そこにあるのはロイヤル・ゲストハウスと標示されホテルで、目指すホテルがない。しばしうろうろした揚げ句、そのホテルで聞いてみると、最近名前を変えたとのこと、ただし今日は満室だと断られた。仕方がないので、途中にあったHotel Temengongへ行く。ところが、このホテルも満室と断られてしまった。これは困った。案内書を頼りに炎天下をテクテク歩いて、ダイナスティ・インというホテルへ行く。ところが何と、110リンギ、130リンギ、160リンギの部屋があるが、今日は160リンギの部屋きり空いてないという。160リンギといえば約5000円。2000円以下のホテルに泊まるつもりでいたので大幅な予算オーバーである。「今日はどこのホテルも満室ですよ」とフロントは言うし、この炎天下、これ以上歩き廻る気力もない。2泊することを条件に144リンギにまけてもらってチャックインする。たいして上等な部屋でもない。おまけに、300リンギのデポジットを要求され、ATMを求めて市内をうろうろ。マレーシアに来たことを後悔する。

 ひと息ついた後、街に出る。街ゆく女性の多くはムスリム・スタイルである。マレーシアはイスラム教を国教とする。そしてまた、街には漢字が溢れている。マレーシアの華人人口比率は26%であるが、都市部においては当然比率はもっと高い。真っ先にツーリス・トインフォメーション・センターへ行ってみたが、土曜日のためかクローズしていた。市街地の北西部にカルチャー・ゾーンというテーマパークのような街並が整えられていて、各種の博物館が並び建っている。その中の戦争博物館へ行ってみた。展示の大半が大東亜戦争における日本軍のマレーシア侵攻に関するものであった。日本軍は1941年12月、ここコタ・バルに上陸。マレー半島を英国植民地支配から解放し、シンガポールへと進軍する。マレー人にとっては解放軍であったが、英国植民地支配の一翼を担った華人にとっては侵略軍であった。日本軍もまた華人を徹底的に弾圧した。展示の内容は日本軍に対する悪意に満ちている。この街に満ち溢れている華人を考えると、このような展示内容も仕方ないのかも知れないが。

 夕食を食べに行った食堂の従業員も華人であった。戦後、祖父の代に福建省から移住してきたという。当然漢字の読み書きも出来た。マレーシアは憲法において、マレー人、華人、インド人を分け隔てしている(ブミプトラ政策)。従ってマレーシアの華人はマレーシア国民である前に、華人社会の構成メンバーである。このため「貴方は何人か?」と質問すると「Chinese、またはMalaysian Chinese」との答えが返ってくる。タイの華人は「コン・タイ(タイ人)」と答えるし、シンガポールの華人は「Singaporean」と答える。この点多いに異なる。
 
 11月25日(日)。朝、目を覚ましたら9時であった。今日は1日コタ・バル市内の探索である。10時過ぎ宿を出る。先ずはクランタン州立博物館へ行ってみたが、見るべきものもない。昨日クローズしていたツーリスト・インフォメーション・センターに行ってみる。中に人がいるようだが、ドアも閉まり何となく入りにくい。どうしようかとたたずんでいたら、中なら男が飛びだしてきて、「中へどうぞと」招き入れられた。男はいやに愛想がいい。自分の名前を名乗った上、中にいた二人の男を「これは私の弟の○○、そっちは息子の△△」と紹介する。パンフレットと地図をもらって、カルチャー・ゾーンへ行く。マレーシアの伝統的な建物である王室風俗博物館(イスタナ・ジャハール)とハンディクラフト博物館を見学し、さらに、王室博物館(イスタナ・バトゥ)に行く。案内書では水色の建物となっていたが、塗り替えられたと見えて黄色の建物であった。イスラム博物館は昨日も今日も休館であった。

 博物館巡りを終え、街の東側に行ってみる。こちらは下街となっていて、人と車でごった返している。いったんホテルに帰り、街の西側を流れるクランタン川の辺に行く。大きな川だが、岸辺に水上レストランがあるだけで面白いことは何もなかった。

 1日コタ・バルの街をほっつき歩いた。道は広く街並もきれいだ。屋台や露店もない。トゥクトゥクも、サムロー(輪タク)もソンテウもバイタクもない。街を走っているのはセダン型のタクシーときれいなバスと乗用車である。声を掛けてくる怪しげな人もいない。しかし、街はなぜかよそよそしい。2年前に旅した西海岸の各都市で感じた雰囲気と同じである。「やっぱりこれがマレーシアなのか」と少々がっかりする。猥雑さの中から溢れ出るエネルギーを感じるタイ、心休まる微笑みの国・ラオス、少々危険の匂いがするところが魅力の・カンボジア。旅をしてきた国々が何となく懐かしい。
 
 11月26日(月)。今日は再びタイに戻る。ランタウ・パンジャン/スンガイ・コーロクで国境を越え、ナラティワート県の県都・ナラティワートまで行くつもりである。九時半、ホテルをチェックアウトとして、バスターミナルからバスに乗る。運転手に「Thai Borderまで」と言ったのだが、珍しく英語が通じない。乗客の一人が通訳してくれた。マレーシアはアジアにおいて英語が最も通じる国の一つである。今度はランタウ・パンジャンのバスターミナルまで行くことなく、イミグレーション前で下りる。マレーシアのイミグレーションの女性係官が「オハヨウゴザイマス」と日本語で挨拶する。私が「スラマット・マラム(おはようございます)」とマレー語で挨拶を返すと、にっこり笑って出国印を押してくれた。歩いて100メートルほど先のタイのイミグレーションに向かう。他に、歩いている者はいない。タイのイミグレーションの男性係官は「アリガトウゴザイマス」と来た。私は「コップン・クラップ(ありがとうございます)」とタイ語で返す。この国境は行きも帰りも実に気持ちがよい。これで晴れてタイのスンガイ・コーロクへ入国である。
 
 いよいよこれからタイ深南部を旅することになる。内戦状態にある超危険地帯である。タイ深南部とはマレーシアと国境を接するタイ南部3県(ナラティワート県、ヤラー県、パッタニー県)である。この3県は仏教国タイにあって異色の県である。イスラム教徒が人口の3/4を占め、話されている言葉もマレー語である。すなわち、人種的、文化的にはマレーシアに続くイスラム文化圏に属する。この辺りは歴史的にも国境線が南のイスラム圏と北の仏教圏の間で度々変更されてきた。先ほどまで滞在していたコタ・バルを州都とするクランタン州も1909年まではタイ領であった。従って、この地域は昔から潜在的であれ、顕在的であれ、タイからの分離独立の動きがあった。

 2004年頃からこの動きがにわかに過激となる。おそらく世界的なイスラム過激派の動きに連動してのことだろう。東南アジアのイスラム過激派テロ組織・ジュマ・イスラミーヤの介入もあるようだ。各地で爆弾テロが頻発し、警察、学校、銀行、仏教寺院への襲撃が相次いでいる。タイ政府は深南部三県に戒厳令を布告し封じ込めに躍起となっているが、未だその活動の衰える気配はない。ただし、マレーシアはこの動きに関与する姿勢は見せていない。従って、国際紛争とはなっていない。

 イミグレーションを出たところで、屯していたサイカー(自転車の横に座席を着けた乗り物)の人のよさそうな運転手に「ナラティワート行きのミニバス乗り場へ連れていけ」と指示する。タイ南部では公共のバスはあまり発達しておらず、代わりに、民営のマイクロバスやワゴン車による「ミニバス」が発達している。目的地点まで行ってくれるし、場合によっては迎えに来てくれるので大変便利なのだが、乗り場が行き先によってばらばらなので外国人には利用しにくい。乗り場は駅前であった。10分後の10時30分に出るという。隣の雑貨屋でマレーシア・リンギをタイ・バーツに両替してもらう。

 9人乗りのワゴン車は時刻通り出発したが市内を一回りし、宅配の荷物と乗客1人を拾って、ようやく郊外に出た。例によって道はものすごくよい。乗客どうしの会話はマレー語が使われている。途中2ヶ所軍の検問があった。ただし、通常の国境検問と違い、兵士は完全武装である。明らかに反政府武装勢力への対応である。見かけた仏教寺院は周りを大量の鉄条網でぐるぐるに取り囲まれている。イスラム過激派である武装勢力は仏教寺院を襲い、僧侶を殺害し続けている。1時間走ると左手に大きな座仏を見る。ワット・カオ・コンだろう。高さ24メートルあり、タイで最も大きいと座仏言われる。やがて街並みに入った。ナラティワートである。運転手が乗客各々に降りる場所を聞く。私は案内書にあったタンヨン・ホテルを指示する。大きな立派なホテルであった。ただし、料金は650バーツと安い。

 昼食後、早速街を探索する。辻辻には完全武装の兵士が立ち、装甲車がパトロールしている。襲撃が続く銀行の前はバリケードが築かれ、街は厳戒態勢である。街行く人々の70〜80%はムスリム・スタイルである。話されている言葉もマレー語が多い。もちろん、タイ語は100%通じる。ただし、南部方言と見えて、私には聞き取れない。ホテルのフロントの女性に「この街では普通何語が話されているのか」と聞いてみると、「タイ語。ただし、全員マレー語も話せる」との回答が返ってきた。

 高層ビルこそないが県都だけに大きな街である。街は海岸に沿って細長く発達している。街の中心の十字路には時計台が立てっている。海岸線は複雑で、川なのか海なのか、島なのか岬なのかよく分からない。橋を渡って海に行ってみる。松に似た大木の生い茂る林が公園風に整備されていて、その先には砂浜が広がっていた。小屋掛けの食堂や土産物屋が並び、多くの家族ずれが休日の午後を楽しんでいる。そこにはテロにおびえる影は見られない。日が暮れると、軍のパトロールがより一層目立つようになる。21時を過ぎると通りから一切の人影が消えた。
 
 11月27日(月)。今日はここから北西95キロの街・パッタニー県の県都パッタニーに向かう。昨晩、フロントの女性にパッタニー行きのミニバス乗り場を聞いたところ、「電話をすればホテルまで迎えに来てくれる」との事であったので、電話するよう頼んでおいた。ところが、約束の朝9時を過ぎても迎えの車が来ない。電話をするのを忘れたか、受けたほうが忘れたのか。フロントの女性は代わっていたので、改めて電話をしてもらう。ようやく10時に迎えのミニバスがやって来た。バスは市内を廻って客を集め、パッタニーへ向かう。相変わらず道は素晴らしくよい。途中検問はなかった。ただし、パトロールする装甲車の上では、完全武装の兵士が機関銃を構えている。

 約1時間半のドライブで、パッタニーに着いた。今朝ホテルのフロントで紹介してもらった"C.S.パッタニー・ホテル"で降ろしてもらう。ところが、降り立ったホテルは見るからに超高級ホテル。「同等クラスのホテルを」と言って紹介してもらったのだがーーー。それにしても、観光地でもないこんな田舎に何でこんな立派なホテルがあるのだろう。恐る恐るフロントへ行くと1泊1500バーツとのこと。思ったほどの値段ではないが、それでも予定の2倍以上である。仕方ないか。

 昼食を済ますと、すぐに街に飛びだした。高層ビルこそないが、街は相当大きい。先ず目指すのはタイ南部で最も美しいと言われるクラン・モスクである。道は遠かった。あやしげな地図を頼りに、街の中心を流れるTani川を渡り、小一時間歩いてようやく到着した。案内の通り、実に美しいモスクであった。四隅にミナレットが建ち、白とレンガ色の建物はなんとも目に優しい。係員が誰もいないので勝手に上がり込む。入り口には「男女が手を繋いではいけません。履物を脱ぎなさい。禁煙。服を着なさい」と英語とタイ語で注意書きが書かれていた。

 バイタクを掴まえ、7キロほど郊外にあるこの街のもう一つの「見所」、クルッセ・モスクに向かう。明代の中国人の建てたこの街最古のモスクとの説明である。煉瓦造りの平屋建てのモスクで、一見、廃虚のようであるが、現役のモスクとのことである。バイタクの運転手はムスリムとの事で、礼拝室へ上がり込んでいた。もちろん、異教徒の私は礼拝室には入れない。いったんホテルに帰り、改めて街中をあてもなく歩き廻る。ナラティワートに比べると警備は薄い。銀行の前に兵士がいる程度である。また、ムスリム・スタイルの人は50%程度で、ナラティワートに比べるとずっと少ない感じである。明日は、ヤラー県の県都・ヤラーへ行く。
 
 11月28日(火)。9時、チェックアウト。フロントでヤラーへの行き方を聞いたのだが、「タクシーを呼びましようか」との答え。「ミニバスはないのか」と聞いても、「さぁーーー」である。高級ホテルのフロントは概して地元の情報に疎い。仕方がないので、バイタクを掴まえ、「ヤラー行きのバス乗り場へ連れていけ」と指示する。連れていかれたところはクラン・モスクの近くの乗合いタクシーの乗り場であった。運賃が高いのではないかと心配したが、ヤラーまで50バーツとミニバス並みの料金に安心する。「もう1人来るまでしばらく待て」とのことで15分も待つと、乗客5人がそろって出発した。車は大分古い大型のベンツである。相変わらず道は素晴らしい。100キロ以上の猛スピードで飛ばすが、メーター類はまったく動いていない。わずか45分でヤラーの街並に入った。降りる場所を聞くので「Railway Station」と言ったが英語はまったく通じない。「サターニー・ロットファイ(鉄道駅)」と言い直す。10時15分、駅近くのヤラーラマ・ホテルにチェックインする。今度は380バーツと安い。

 すぐに街に飛びだす。街は同じ県都でもナラティワートやパッタニーと比べると大分小さい。駅周辺が繁華街になっているが、そこから少し離れると商店街は途切れる。この街の唯一の見所となっているラク・ムアン(市の柱)を目指す。ラク・ムアンとは都市の守り神として建てられた聖なる柱で、タイの多くの都市で見られる。バンコクのラク・ムアンは王宮の隣に祭られている。駅前から南に真っすぐ延びるメインストリートをひたすら歩く。商店街を抜けると、道は車道、2輪車専用道、歩道に分かれた素晴らしい並木道となる。周りは大きな敷地を持った学校や官庁などの施設が続く。美しい街並である。強い日差しを並木の木陰で遮りながらひたすら歩く。2キロほど歩くと時計台の建つロータリーに達する。さらに1キロほど歩くと目指すラク・ムアンに達した。大きなロータリーの真ん中に周りを池で囲まれた立派な祠が建っていた。1962年に建てられたものでヤラーの象徴となっている。ラク・ムアンの隣に警察署があった。周りは鉄条網でぐるぐる巻きにされ、厳重な警備が敷かれている。

 遅い昼食後、街中をあてもなく歩き廻る。到るところ兵士が立ち、装甲車がパトロールを続けている。空には軍のヘリコプターが低空で飛び続け、いやが上にも街は緊張に包まれている。ムスリム・スタイルの人は50〜60%で、パッタニーよりはイスラム色が強い。日暮れとともに、街の人通りはばったりと絶えた。夜間外出禁止令が出ているのだろうか。
 
 11月29日(水)。今日は戒厳令下の深南部3県に別れを告げ、南部最大の都市・ハジャイに向かう。8時半、チェックアウトしてホテルのすぐ近くのミニバス乗り場に行く。お客が集まらず、20分ほど待たされた後、私1人を乗せて出発。市内をぐるぐる廻り何とか乗客5人を集める。車は丘陵地帯をひたすら走る。すれ違う車も少ない。途中トイレに行きたくなったので車を停めてもらう。路線バスではないので遠慮することもない。2時間半走ってようやくハジャイに到着した。駅前で降ろしてもらう。

 街の中心部近くの安宿にチェックインする。すぐに駅に行き12月3日のバンコク行き夜行列車の2等寝台を予約する。これでどうやらバンコクへ、そして日本へ帰れる。街中をぶらりぶらりと歩き廻る。この街は2年前に訪れており勝手は知っている。街はにぎやかであり、兵士の姿も見られないが、この街も危険地帯であることには変わりない。外務省の危険情報によれば10月6日に市内で17個もの爆発物が発見されたとの事である。9月末にも5個の爆発物が発見されている。昨年(06年)9月には実際に爆発が起こり外国人を含む多数の死傷者が出ている。注意しなければならない。ただし、この街は今まで旅した深南部の街と異なり、イスラム色はほとんどない。ネッカチーフをかぶっている女性も見られなければ、モスクも見当たらない。街は漢字が溢れ、街全体がまるで中華街である。中華食堂も多く、「魚鱗(フカヒレ)」「燕窩(燕の巣)」の看板が目立つ。夕食に燕窩を食べてみたが、それほど美味いものでもない。
 
 11月30日(木)。朝起きると雨が降っている。今日はハジャイの北東約30キロに位置するソンクラーへ行く。ソンクラー県の県都である。ハジャイが活気溢れる商業都市なのに対し、ソンクラーは大学や博物館や官庁のある文化都市である。そしてまた、ビーチを持つ保養都市でもあり、沢木耕太郎の「深夜特急」の舞台にもなっている。1ヶ月半にわたる長旅の垢をここで落とすことにする。前日フロントでソンクラー行きのミニバス乗り場を聞くと街の北にあるマーケットの近くだという。歩いていける距離ではない。小雨降る中バイタクでミニバス乗り場に向かう。バイクはマーケットまでは行かず街中の商店の前で停まり、運転手は「ここで待てばバスは来る」と言う。待つほどもなく数人の乗客を乗せてワゴン車がやって来た。

 ワゴン車は、例によって、市内をあちこち廻り乗客を集めてようやく郊外に出た。何と雨が激しく降りだした。乗客の間に笊が回されてきた。運賃を入れるらしい。隣の男に幾らだと聞くと25バーツだとのこと。車はわずか30分ほどでソンクラーの街並みに入った。運転手が各乗客の降り場所を聞く。さて困った。ホテルも決まっていないし、どこで降りようか。「Museum」と言ったが通じない。そのうち車は止まり、「ここで降りろ」と言う。見ると目の前にツーリスト・インフォメーションがある。運転手が気を利かせてくれたようだ。激しい雨の中、事務所に逃げ込む。

 事務所には女性がいたが英語はほとんど通じない。どこか宿を見つけなければならない。ガイドブックにあるアプリトゥス・ゲストハウスは既に廃業したとのことで、アムステルダム・ゲストハウスを紹介される。傘をさして行ってみると、このゲストハウスも廃業していた。仕方がないので、近くのQueen Hotelにチャックインする。ホットシャワーとエアコンがついて350バーツと安い。
 外は相変わらず雨が降り続き、時々激しく降る。宿にいても仕方がないので傘をさして街に出る。この都市はタイ湾とソンクラー湖を隔てる砂洲上に位置する大きな街なのだが、中心部は10万都市とは思えないほど小さく、かつ、お粗末であった。まともな商店街さえない。もちろん高層ビルなど一つもない。食堂も見当たらず昼食に困った。

 先ずは近くの国立博物館に行く。実に立派な中国様式の建物である。この建物は1777年〜1901年までソンクラー国主であったソンクラー家の邸宅である。タイ南部は南下してきたタイ族(仏教徒)と元々この地に暮すマレー族(イスラム教徒)の接触地点であり、昔からタイの政権にとっては極めて統治しにくい地域であった。このため18世紀後半よりタイの政権はこの地に多くの華僑を住まわせ、彼らに統治を代行させてきた。現在、ハジャイがまるで街全体が中華街のようであるのはその名残である。これら華僑の中から福建省出身の呉譲が力を得、1777年にソンクラー国主の地位に就く。以降1901年まで8代にわたり、ソンクラー家の統治が続いたのである。博物館の道路を隔てた北側に、高さ2メートルの古い城壁が50メートル余り続いている。この城壁は1830年代にソンクラー家の当主により造られたものである。

 ソンクラーには昔鉄道が通じていた。駅舎はそのまま残っていたが、線路は既になかった。街中には他に見るべきものもなく、相変わらず雨が降り続けている。気分は憂うつである。ホテルに戻り、窓の外を覗くとHONDA, TOYOTA, PANASONIC の大きな看板が見える。何やら嬉しくなった。明日はビーチに行ってみよう。
 
 12月1日(金)。朝、賑やかな楽団の音に眠りを破られた。窓の外を覗くと、中学生の楽団を先頭に、黄色いシャツ姿の多くの人々が行進している。現在この黄色いシャツはタイ中に氾濫している。黄色はタイの王室を象徴する色、国王の長寿を願って、昨年からこの黄色いシャツを着ることが国中に爆発的に広がった。ここまで広がると何やら大政翼賛の匂いがして少々気持ちが悪い。ネッカチーフをかぶったムスリムの娘さんがこの黄色いシャツを着て行進している姿は何となく奇異である。12月5日は国王の誕生日である。

 ホテルをチェックアウトしてバイタクでビーチに向かう。2キロほどの距離である。すぐに目の前に大きな大きな海が現れた。タイ湾である。その海岸に面した1等地に素晴らしいホテルが建っている。B.P.Samila Beach Hotel & Resortである。「深夜特急」の中で沢木耕太郎が散々びびった揚げ句泊まったホテルである。今日はここに泊まるつもりでいる。それにしても立派なホテルだ、私も少々びびる。しかし、料金は海に面した部屋で1280バーツと思いのほか安かった。最も「深夜特急」では120バーツとなっている。部屋も大きく、ベランダまであって完璧である。窓から波静かなタイ湾が見渡せ、沖には島が見える。

 洗濯を済ませ、海岸に行ってみる。大きく広がる砂浜の中のちょっとした岩場に、人魚の像が建っている。この人魚はソンクラーの象徴であり、絶好の記念撮影のスポットである。海岸に観光客の姿は多いが、海で泳いでいるものはいない。せいぜい子供たちが波と追いかけっこをしている程度である。観光客にムスリム姿の人が目立つ。今日はイスラム国の休日、どうやら皆マレーシアから遊びに来たらしい。ここは国境から車で2〜3時間の距離である。直射日光は強いが、海風が実に心地よい。海岸沿いには海鮮料理の食堂が軒を並べている。

 午後から近くの山の上に見える仏塔に行ってみることにする。案内所でもらった地図にはRoyal Pagodaとある。さぞかし景色が良いだろう。15分も歩くと麓に着いた。何と山頂までケーブルカーがある。ただし、運賃がタイ人20バーツ、外国人30バーツと差別料金である。この差別料金がなくならないかぎり、タイは先進国とは言えない。この山はタン・クアン山といい標高105mある。猿がいっぱい住み着いていた。山頂からの景色は素晴らしかった。眼下にソンクラーの街が広がり、右側にはソンクラー湖が真昼の太陽に輝いている。振り返るとタイ湾が水平線まで続いている。

 夕方海岸を散歩していたらタイ人のおばさんにタイ語で「トイレはどこか」と聞かれた。どうやら、私もタイ人に見えるようだ。これで1ヶ月半にわたる旅が終わる。明日、ハジャイに1泊してバンコクに戻る。
 
 12月2日(土)。朝目を覚ますと小雨が降っていたが、すぐに止んだ。10時チェックアウト。ホテルの前からハジャイ行きのバスに乗るつもりでホテルを出ると、屯していたトゥクトゥクの運チャンが、「バスはなかなか来ない。街まで行ってミニバスに乗るほうが便利」と言う。それもそうだとトゥクトゥクに乗り込む。街まで行って驚いた。大通りや旧駅前広場は隙間なく無数の露店が並び、大勢の人々でごった返している。昨日までの寂しい街からは想像出来ない光景である。今日が休日のためだろうか。

 ハジャイ行きのミニバスはすぐに出発した。駅で降ろしてくれと言ったのだが、駅までは行かないと言われマーケット近くで降ろされた。それでも駅まで歩いて10分ほどであった。繁華街の外れのホテルにチェックインする。550バーツと安い。することもないので、ワット・ハート・ヤイ・ナイへ行ってみる。2年前マレーシア、インドネシアを旅した際に安全祈願をしてもらった寺である。しかし、本堂には顔見知りの僧はおろか、僧侶は誰も居らず残念であった。
 
 12月3日(日)。今日はいよいよ夜行列車でバンコクへ戻る。手持ちのチケットはハジャイ発14時18分快速170号である。バンコクへは翌朝7時40分に着く予定である。もはややることもないので、午前中は街をブラブラ。どこもかしこも道路工事中で土ぼこりがひどい。発車時刻1時間前に3輌のみホームに入った。ヤラー始発の列車と連結するようである。乗り込んでうとうとして目が覚めたら、列車はまだ停まったままであった。1時間遅れの15時10分、ようやくヤラーからの列車が到着し、バンコクへ向け発車した。今回は冷房なしの2等寝台車である。開け放たれた窓から入る風が実に気持ちがよい。日本ではもうこのような列車の旅は味わえなくなってしまった。最初はがらがらであった車内も、停車するたびに乗客が増え、満席となった。やがて日が暮れ、ベッドメーキングが始まる。

 タイの列車は全車両すべて禁煙であるのだが、デッキで吸うのは大目に見られている。時々タバコを吸いに行くのだが、その度に1人の中年の僧侶と出会う。すっかり仲よくなってしまった。しかし、僧侶がタバコを吸っていいのだろうか。

 翌朝8時、列車は懐かしいバンコク・ホアランポーン駅に到着した。無事、争乱のタイ深南部からの生還である。
                         (完) 

 

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