おじさんバックパッカーの一人旅
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2007年10月26日〜28日 |
「国境」と言う言葉は著しく旅心を刺激する。特に、その国境が歴史的事象に綾取られているならば、なおさらである。バンコクから直線距離で北西約300キロ、ミャンマーとの国境に位置するチェディ・サム・オン(スリー・パゴダ・パス)もそんな国境の一つである。この峠は、チャオプラヤ川流域(タイ族の勢力圏)とサルウィン川流域(ビルマ族の勢力圏)を隔てる山並みに開いた通路で、古来、両地域を結ぶ交易路であり、また、軍事の道でもあった。歴史上何度も、この峠を越えてビルマの軍勢がタイへ侵攻した。そしてまた、大東亜戦争中に日本軍の敷設した泰緬鉄道もこの峠を越えてタイからビルマへと向かった。
10月25日(木)。スリー・パゴダ・パスへ行くには、先ず、バンコクの西方約130キロに位置するカンチャナブリーを目指すことになる。「戦場に架ける橋」や「クアエ川マーチ」で知られた観光都市である。カンチャナブリーへはバンコクの南バスターミナルから頻繁にバスが出ている。明日早朝に出発するつもりで、布団に入った瞬間、一つの疑問が突然頭を過った。「待てよ、南バスターミナルはどっちなんだ」。バンコクにはバスターミナルが3つある。一つは市内北端の北バスターミナル。二つ目は市内南部のBTSエカマイ駅近くのバスターミナル。そして市内西端、チャオプラヤ川の遥か向こう岸のトンブリー地区にもう一つ。今の今まで、エカマイ駅近くのバスターミナルを南バスターミナルと思い込んでいた。現在泊まっているスクンビット通りのナナからBTSでほんの三つ目の駅であり、容易に行けると思っていたのだがーーー。 しかし、よくよく考えてみると、カンチャナブリーはバンコクの西方、市内西端のバスターミナルからバスが出るのが自然である。慌てて、布団から這い出で案内書を確認してみる。その結果、愕然とした、南バスターミナルとはチャオプラヤ川の向こう岸のバスターミナルではないか。エカマイのバスターミナルは東バスターミナルとなっている。何で、西にあるターミナルが「南」で、南にあるターミナルが「東」なんだ。ブツブツ文句を言ってみたがーーー。さて困った。南バスターミナルなぞ行ったことがない。どうやって行くんだ。川向こうへはBTSも地下鉄も通っていない。この場に及んで大慌てである。ようやく、511番の市バスに乗れば行けそうなことが分かりほっとする。しかし、ずいぶん時間が掛かりそうである。
1時間弱掛かって南バスターミナルへ到着した。バンコクの北西に位置するのに南バスターミナルなどと名付けるから混乱する。何やら雑然としたバスターミナルで、どこへ行ったらよいのか勝手がまったくわからない。一瞬立ち尽くすが、そこはタイ。すぐに「どこへ行く」と声がかかる。「切符売り場はあそこ。バスはそっち」「コップンクラップ(ありがとうございます)」。無事に7時40分発のカンチャナブリー行きバスに乗ることが出来た。 バスは定刻に発車した。外国人は私1人である。バスは全席指定の冷房車、満席である。発車してすぐにミネラルウォーターが配られた。座席はリクライニングシートだが、タイにおいては、後ろの席の人に配慮して倒さないのが一般的である。この点はいかにもタイ人らしい心遣いで感心するのだが、車内で携帯電話を遠慮なく使用する。我々日本人にとってはいたって耳障りである。両国の文化の違いであろうか。 バスは快調に走って、約1時間でナコーン・パトムの街に入った。乗客の半分が入れ替わる。この街は、タイに初めて仏教が伝わった街といわれ、世界最大の仏塔(高さ120m)が建つことで知られている。さらに1時間走って9時40分、終点カンチャナブリーのバスターミナルに到着した。この街は以前2度ほど訪れたことがある。有名な観光地ではあるが、日本人にはちょっと居心地の悪い街である。欧米では「悪魔のごとき日本軍の悪行が行われた象徴的な場所」と見なされている。 今日はここからさらに北約220キロの小さな街・サンクラブリーまで行かなければならない。ミニバス(ワゴン車)の便があるはずである。バスターミナルの隅で一服していたら、いつもの通り声がかかった。「どこへ行く」「サンクラブリー」「ミニバスのオフィスはあそこだぁ」とバスターミナル背後の建物を指さす。行ってみると、ちょうど10時発の15人乗りのワゴン車が出発するところであった。12〜13人の乗客を乗せてすぐに出発したのだが、市街地を抜けたと思ったら、運転手の携帯電話が鳴って出発点に逆戻り。新たに1人を乗せて再出発である。15分のロス、まったくもぉ。 クウェー・ノーイ川に沿った道をで奥へ進む。意外なことに、こんな辺境の地なのに素晴らしい道である。通る車もほとんどなく、ワゴン車は時速100キロもの猛スピードで飛ばす。約1時間走って、ナム・トクのガソリンスタンドで給油兼トイレ休憩。現在、泰緬鉄道の終点となっている地点である。さらにしばらく走ると、軍の検問所があった。国境が近いことが感じられる。1人1人身分証明書をチェックする。私は、パスポートを出すのが面倒くさいので、知らん顔をしていたら、顔をちらっと見ただけで何も言われなかった。ナム・トクから1時間走り、トン・パ・プムの小さな街並みのドライブインで2度目のトイレ休憩となった。これで行程の2/3は来たことになる。 ここから道の情況が変わった。ゴツゴツした岩山が間近となり、道は左右にカーブを繰り返し、上り下りの坂道の連続となる。ただし、確りした2車線の舗装道路であることに変わりはない。左手にカオ・レム・ダム湖が沿うようになる。1983年に建設されたタイ最大のダム湖である。出発してから約3時間、ようやく湖の北端の街・サンクラブリーに到着した。 小さな街並みの道路端でバスを降ろされたが、方向がさっぱりわからない。ガイドブックに載っているバミーズ・インというゲストハウスへ行くつもりなのだがーーー。目の前に「ポリス」と「インフォメーション」の二つの看板を掲げた小屋があった。行ってみると、上半身ランニングシャツ1枚の男が慌てて服を着て英語で対応してくれた。警察官とも思えないがーーー。簡単な地図をもらい、バミーズ・インへの道を聞いて歩き出す。小っちゃな街で、5分も歩くと街並みの外に出た。途中道筋がわからなくなり、民家で女の人に道を尋ねたのだが言葉が充分に通じない。彼女はやおら持っていた携帯電話でどこかに電話して、その電話機を私に押し付ける。何と相手は先ほどのインフォメーションの男であった。 改めて、ゲストハウスを目指す。意外に遠い。今日はいまだ朝飯も昼飯も食べていない。その上真昼の太陽が頭上から照りつけ、背中のザックがやけに重く感じられる。田舎道をとぼとぼと20分も歩き、14時、ようやく目指すゲストハウスに到着した。カオ・レム・ダム湖に面した斜面に建つバンガロースタイルの宿で、部屋は超簡素、ベッドがあるだけである。ただし展望はよい。サンクラブリーの「見所」となっている長大な木造橋が見渡せる。 遅い昼食後、先ずは木造橋に行ってみる。この橋はカオ・レム・ダム湖に流入するソンカリア川の河口にかかる橋で、「タイで1番長い木造橋」と言われている。急坂を湖畔に下る。湖上には筏の上に建てられた水上住宅が多数浮かび、独特の風景を描きだしている。橋は、長さ約1キロ、幅約5m、湖面からの高さ約5m、水面に打ち込まれた丸太の上に横板が敷き占められている。ただし、穴ぼこだらけで足下に注意しないと危険である。真ん中だけ縦板が敷かれ、以前は2輪車も通行していた様子だが、いまは歩行者専用となっている。意外なことに、点々と街灯が設置されている。この橋が観光用ではなく、生活に密着した交通路である証なのだろう。のんびりと橋を往復する。 未だ日暮れまでしばしの時間があるので街まで行ってみる。実に小さな街だ。街並みは市場を中心に200m4方きりない。それでも、病院、警察署、学校がある。国境の街だけにこの街の住人はモン族やカレン族が多い。いずれもミャンマーの軍事政権からの迫害を逃れて国境を越えてきた人々である。街で見かける女性はほとんどが巻きスカート(タイメン)姿、ミャンマー独特の化粧・タナカで頬を真っ白に染めている女性も多い。 見るべきものもないので早々に宿に戻る。明日、チェディ・サム・オンに行き、さらに、ミャンマーへ入国するつもりでいる。ビザなしの1日入国が可能なはずである。しかし、宿で確認してみると、現在国境は閉鎖されているという。ことし9月に発生した大規模な争乱の影響だろう。残念だが仕方がない。宿の宿泊者は、タイ人2家族と白人の男性1人だけである。
岩山の裾を左に回り込みながら緩やかな坂道を登ると、高原状の地形となり、割合大きな集落に出た。峠と同じ名前のチェディ・サム・オン村である。茶店の前でソンテウは停まり、「ここが終点。チェディ・サム・オンはこの道を200mほど行ったところだ」と運転手が告げる。中央分離帯まである素晴らしい道が緩やかな下り坂となって、さらに先に続いている。この先、人家もない国境に向かう道がなぜこんな素晴らしいのか不思議に思う。しばらく進むと、道は円形の広場に突き当たった。その真ん中に、真っ白な小さなパゴダが三つ並んでいる。目指すチェディ・サム・オンである。 チェディ・サム・オンは歴史を秘めた峠である。このことは、この峠が4カ国語の名称を持つことからも伺い知れる。タイでは「チェディ(仏塔)・サム(三つ)・オン(峠)」と呼ばれ、ミャンマーでは「パヤー(仏塔)・トン(三つ)・ズー(峠)」と呼ばれる。また、英語では「スリー(Three)・パゴダ(Pagodas)・パス(Pass)」と呼ばれる。さらに、日本では「三塔峠」と呼ばれた。歴史上何度も繰り返されたビルマによるタイ侵略、その主要ルートはこの峠であった。1765年、ビルマ・コンバウン朝の大軍がこの峠を越えてタイのアユタヤを目指して進軍していった。栄華を誇ったアユタヤ王朝は14ヶ月間包囲された後、1767年4月7日のビルマ軍の総攻撃により滅亡する。 1942年、この峠に遠く離れた極東の島国・日本の軍勢が現れる。そして何と、数十万の人々を使役し、峠を越える鉄道の敷設を始めるのである。死の鉄道と呼ばれた泰緬鉄道である。累々たる屍を積み上げた難工事の末、1943年10月、鉄道はついに完成する。しかし、この鉄道も1945年の日本軍の敗退により、その短い寿命を終えるのである。 その後もこの峠は悲劇を見つめ続けてきた。ビルマ国内で度々興る争乱と少数民族の反乱、軍事政権による抑圧。その度に、多くの人々がこの峠を越えてタイへの悲惨な逃避を繰り返した。今も、タイ側国境付近には点々とモン族やカレン族の難民集落があり、何時の日か、再びこの峠を越えて故郷へ帰る日を待っている。 広場の隅にタイのイミグレーションがあった。その斜向かいにはミャンマーのイングレーションがある。ただし、その真ん中にある遮断機は無情にも降ろされている。タイのイミグレーションには係官が詰めていた。「国境は閉鎖かい」と話し掛けると、「いや、タイは開いているのだが、ミャンマーが勝手に閉鎖している」と極めて論理的な回答が返ってきた。通常なら、ビザなしにミャンマーへ1日入国が出来るのだが、諦めざるを得ない。閉鎖されたミャンマーのイミグレーションのベランダでは、係官だろうか、1人の男が長イスに寝そべっていた。1人の托鉢姿の僧が、すべての情況を無視するがごとく、遮断機を潜り、悠然と国境を越えてビルマ側へと下っていった。係官も見て見ぬふりをしている。 両国イミグレーションの間の草むした道端に、5mほどの鉄道線路が残されていた。脇に小さな立て看板がある。遮断機を潜り、ミャンマーに数メートル不法侵入して、ビルマ語と英語で書かれた消えかけた文字を判読すると"MYANMAR THAI JAPANESE OLD RAILWAY<1942>"と読める。この鉄道線路こそわずかに残された泰緬鉄道の痕跡なのだ。泰緬鉄道はタイのノンプラドック(ナコーン・パトムの西数キロの街)とビルマのタンビューザヤットを結ぶ総距離415キロの鉄道である。この鉄道の敷設によりシンガポールからビルマの各地まで鉄道線路が繋がった。ミッドウェイ海戦で破れ、制海権を失った日本軍がビルマ戦線への補給路として、わずか1年余りの突貫工事により完成させた。過酷な工事であったため、数万の犠牲者が出、死の鉄道と呼ばれた。そしてまた、この鉄道によりビルマ戦線に送り込まれた多くの日本兵は、生きて再びこの峠に帰り着くことは出来なかった。広場を挟んだ反対側に、草むした小さな仏堂が建っていた。"The Border Peace Temple Thai-Japan 25 April 2002"の文字が門柱に刻まれている。万感の思いを込めて、そっと仏像に手を合わす。 広場を土産物屋や食堂が半円形に取り囲んでいる。その裏側は竹垣でしきられている。この竹垣が国境である。見ていると、その竹垣に開けられたの隙間から人々は自由に出入りしている。国境が閉鎖されていることなどお構いなしである。国境に暮す人々のたくましい生活力が見て取れる。 かわいらしい三つのパゴダに別れを告げ、もと来た道を戻る。それにしても、国境に向かって何とも素晴らしい道を造ったものだ。このことが、現在のタイとミャンマーの力関係を如実に示している。いったん事あれば、この道を使って大規模な兵力の移動が可能なのだ。ミャンマーに対する無言の圧力なのだろう。 茶店前のソンテウの乗り場に戻ると数人の男女が談笑していた。「こっちの椅子に座れ。彼女がソンテウの運転手だぁ、しばらく待ちな」と親切に椅子を勧めてくれた。30分ほど待って女性の運転するソンテウはようやく出発した。集落内を1回りして、大きな荷物を抱えたおばちゃん数人を乗せ、一路サンクラブリーへ向かう。11時過ぎにはゲストハウスに帰り着いてしまった。 昼食後、木造橋の対岸の村に行ってみることにする。Wang ka村というモン族の村である。木造橋から対岸を眺めると、遥か彼方の 丘の上にまるでお城のような大きな建物が微かに見える。多分、案内書にあるワット・ワン・ウィワッカラームだろう。遠そうだがあそこまで行ってみよう。橋を渡り終わると小さな商店街があり、何台かのバイクタクシーが客待ちしていたが、別段声も掛けてこない。案内所でもらった地図を頼りに、急坂をヒィーヒィーいいながら登る。家々が点在している道を進むと、市場があった。昼下がりのためか閑散としている。坂を下り、再び坂を登る。南国の太陽が真上から照りつけ相当な暑さである。 小一時間歩いてようやく目指す寺院に到着した。実に大きな寺である。橋から見えた巨大な礼拝堂が目の前にそそり立っている。本尊の前では多くの人々が熱心な祈りを捧げていた。この寺はワット・モンとも呼ばれ、周辺に暮すモン族の人々の心の支えとなっている。モン族も熱心な仏教徒である。もとの寺院はカオ・レム・ダム湖の湖底に沈んだため新たに建てられたものとのことである。 この寺からさらに2キロほど先に、Phra
Chedi Buddha Kaya Jumlongという新たなモン族の寺があるとのことで行ってみることにした。坂を下り、30分も歩くと、駐車場となった広大な広場に出た。その奥に、仏教最大の聖地・ブッダガヤのマハーボーディ寺院の大塔と同じ形の巨大な四角錐の仏塔がそそり立っている。タイでは珍しいインド型寺院である。こちらも参拝者で賑わっていた。この寺院にはひとつの伝説がある。巨大な仏塔の地下には、密かに大量の武器弾薬が隠されていると。時来たらば、モン族は決起し、祖国ミャンマーに攻め入るための準備として。最近のミャンマー情勢を見れば、いかにもありそうな話しである。
すぐに12時45分発のバンコク行きバスに乗り込む。隣に座ったおばさんが、何と、日本語ぺらぺら、4年間埼玉県の春日部で働いていたとのことである。もう1度日本に働きに行きたいが就労ビザが下りないと嘆いていた。バンコクが近づくと渋滞が目立つようになる。トイレに行きたいのだがーーー。15時、バスはようやくバンコクの南バスターミナルに到着した。やれやれである。すぐに40番の市バスでホアランポーン駅に行く。明日、コラートへ旅立つつもりなので列車のチケットを取得しておく必要がある。16時過ぎに駅に着いたのだが、何と、チケット予約窓口は16時でクローズであった。駅近くの安宿にチェックインする。 |