絲綢之路紀行第二弾   

中国・敦煌で挫折した旅

大怪我をして入院、そして日本への搬送

2010年8月10日

     〜9月2日

 
 第1章 旅の序曲 

 日本人の持つ遺伝子は「シルクロード」という言葉に限りなくロマンを感じるようだ。私もその一人である。いつの日か、唐の都・長安からローマへと続くユーラシア大陸縦断の道をたどってみたいとの夢を抱いている。まず手始めにと、一昨年、シルクロードの東端部分である河西回廊を旅した。古(いにしえ)の長安である西安を出発し、武威、張液、酒泉、敦煌とゴビ難のオアシス都市をたどり、河西回廊の西端である玉門関跡と陽関跡に達した。古来、この二つの関所が中国支配圏の西端と認識されてきた。ここより西は「西域」と呼ばれ、西戎の跋扈する化外の地とみなされていた。たどり着いた玉門関と陽関の向こうには荒涼たる砂礫の大地が地平線の彼方まで続いていた。タクラマカン砂漠である。その砂礫の無限の広がりは私の旅心を著しく刺激した。次なる旅はこの荒涼たる砂漠を越えて、さらに西に進んでみようと。 

 タクラマカン砂漠は南に連なる崑崙山脈と北に連なる天山山脈の間に広がる不毛の砂礫の世界であり、古来、人間の通行は不可能であった。ただし、その砂漠の縁に沿うようにいくつかのオアシスが点在し、シルクロードをか細く繋げていた。砂漠の南の端、すなわち崑崙山脈の北麓を辿る道が「西域南道」、砂漠の北の端、すなわち天山山脈の南麓を辿る道が「天山南路」である。両道は砂漠の西端の街・カシュガル(喀什)で合わさり、さらに西方へと続いていく。 

 このオアシス都市群も他の中央アジアと同様、歴史上多くの民族が興亡を繰り返したが、9世紀以降テュルク系のウイグル族が進出し、各オアシスに居を定めた。このため、このタクラマカン砂漠を中心とした地域は東トルキスタンと呼ばれる。行政的には18世紀に清朝が征服し、新しい土地を意味する「新疆」と名付けた。清朝末期には独立政権が樹立されたが、1949年、人民解放軍が侵攻し占領した。1955年には新疆ウイグル自治区として中国行政区に組み込まれ、以来チベットと同様に中国の植民地支配下にある。何よりも「新疆(新しい土地)」という名称がこの地域への中国植民地支配を如実に物語っている。この東トルキスタンが今回の旅の目的地である。 

 昨年の夏、この地に旅すべく準備に掛ったが、7月5日に首府ウルムチで発生した大規模な騒乱により旅は中止せざるを得なかった。騒乱は支配者・漢族と被支配者・ウイグル族との衝突である。死者197人、負傷者約1600人にのぼる大惨事となった。事件のきっかけは些細なことであるが、長年にわたる漢族の植民地支配に対するウイグル族の鬱積した不満が爆発した事件であった。その1年前には同じく漢族の植民地支配をうけるチベットで同様な騒乱が生じている。第二次世界大戦後西洋諸国の植民地のほとんどが解放され、また、ソ連邦解体により東ヨーロッパ諸国や中央アジア諸国が解放された現在、中国は世界最大の植民地主義国家であり、帝国主義国家である。世界はこの点を強く認識し非難すべきである。そして、各国の弱腰がナチスドイツの膨張を招いた歴史を思い起こすべきである。かつて反植民地主義、反帝国主義運動の先頭に立っていた国の無様な変貌である。歴史は何とも皮肉である。 

 1年待ち、治安も回復したようなので、再び東トルキスタンへの旅を計画した。立てた計画は河西回廊の西端・敦煌を出発点として、天山南路のオアシス都市をたどり最奥の街・カシュガル(喀什)に至り、さらにパミール高原のフンジュラーブ峠4.730メートルをバスで越えてパキスタンのフンザに至るという壮大なものであった。しかし、情報収集をしてみると、パキスタンのフンザ地方でとんでもない事態が発生していることが判明した。今年の1月に大規模な地滑りが発生してフンザ川が堰き止められ、長さ約18キロ、深さ約112メートルにも及ぶ大堰止湖が出現しているとのこと。このため、カラコルム・ハイウェーも水没し通行不能となっている由。さらに、近日中に、堰止湖が決壊する可能性があり、溢れ出す水で地域住民数千人が家を失う恐れがあるとのことである。旅行どころではない状況のようで、パキスタン入国をあきらめる。 
 

 第2章 北京へ

 前書きが少々長くなった。いよいよ旅に出発しよう。ただし結果として、この旅は目的地の新疆ウイグル地区に達することなく、終わってしまうのだが--------。 

  8月10日、午前10時過ぎにザックを担いで家を出る。今月から日暮里〜成田空港の間に京成電鉄の新線が開通した。京成上野駅からわずか40分ほどで成田空港に着いた。速くて便利だが2,400円の運賃は高過ぎる。従来は1時間かかったが運賃は1,800円であった。進歩したといえるのだろうか。到着した成田空港はどこもかしこも中国人に占領されている。最近中国人の俄か成金の一団をよく見かけるようなった。少々うっとうしい。 

 15時15分、中国国際航空926便は北京に向けて飛び立った。満席であり、周りはすべて中国人である。この航空会社は中国のナショナル・フラッグ・キャリアである。ゆえに、サービスの質は国際標準からはかなり劣る。食事はお粗末な焼きそばだし、食後のコーヒーもない。乗りたくないエアラインなのだが、北京行きフライトはどこも満席で、この便きり予約できなかった。不思議なことに、そろそろ北京が近づいても入出国カードが配られない。催促したら、1枚だけくれたが、他の乗客はどうするつもりなのだろう。みな中国人なので必要ないのかな。 

 18時10分、定刻通り北京空港着。何やらどんよりした天気で、黄砂のためなのか視界が極端に悪い。到着したのは第3ターミナル、北京オリンピックを契機に作られた巨大なターミナルである。それでも人波に従って進むとイミグレーション、バゲッジクレームと容易に入国手続きは済んだ。市内まではいつもの通り地下鉄で向かう。機場線で東直門駅へ、さらに2号線に乗り換えて鼓楼大街駅で降りる。夕闇が迫り、辺りはすでに薄暗い。今日は安宿をインターネットのホテル予約サイトを通して予約してある。「城市庭院客桟」という四合院住宅様式(北京の古い民家様式)の宿である。入り組んだ胡同(路地)の奥にある。北京は十分土地勘があるので地図を頼りに真っ暗となった路地を辿るが少々心細い。それでも駅から15分ほどで過たず目指す宿に辿りついた。 

 暖かい笑顔の出迎えを期待して四合院住宅独特の重いドアを押し開けたのだが、期待はずれ、受付の女性は何とも感じが悪い。バウチャーを持参しているにもかかわらず、宿泊料を払えというのでひと悶着、おまけに「今日は満室なので別のホテルに案内する」とのたまう。車に乗せられ、安定門近くの安ホテルに案内された。何のための予約なのか、帰国後予約サイトを通して文句を言ったら詫び状が届いたがーーー。 
 

 第3章 北京の一日

 8月11日。9時過ぎ、歩いて城市庭院客桟に戻る。今日はこの宿に泊まれる由。典型的な四合院住宅で、なかなか味わいがある建物である。しかし、「昨日はごめんなさい」との挨拶もない。今日は一日北京滞在である。ただし、北京の名所旧跡は前回大方見学済みであり、強いて行きたいところもない。まあ、足の向くまま気の向くままに歩いてみよう。あいにくどんよりした天気で、時折小雨がぱらついている。空気も濁った感じで視界も悪い。城市庭院客桟周辺は胡同の雰囲気をよく残した地域で、典型的な四合院住宅も数多く残っている。北京の下町の雰囲気のぷんぷんする地域である。このため、胡同見物の客を乗せた三輪リキシャ(輪タク)が多数走り回っている。 

 胡同の雰囲気を味わいつつ、ぶらりぶらりと南西方向に15分も歩くと鐘楼に達した。高さ47.95m、見上げるばかりの巨大な楼閣である。1420年に明の永楽帝により創建されたが焼失し、現在の建物は1747年に修築された。楼内には重さ63トンもの巨大な鐘が設置されており、1924年までは実際に使用されていたとのことである。周辺は多くの三輪リキシャがたむろし、観光客を誘う。そのすぐ南側にさらに巨大な楼閣がそそり立っている。1272年に創建された鼓楼である。東西55.6m、南北34m、高さ31m、戦慄を覚えるほどの巨大な建物である。元から清の時代まで太鼓を打ち鳴らして時を告げた。元の都・大都はこの辺りが中心であったという。鐘楼、鼓楼とも登楼することができるが入場料が両方で70元(約1000円)とバカ高い。外から眺めるだけで満足する。鼓楼の南側の横丁をちょっと進むと什刹海の岸辺に出た。前海と后海を分ける銀錠橋のたもとである。北京有数の名所であり観光客であふれている。雨が降り出したのでいったん宿に戻る。 

 12時30分再スタート。今度は南東方向に10分ほど歩くと南鑼鼓巷に達した。この小道は南北に連なる長さ1キロ弱の胡同の一つなのだが、数年前よりこの胡同沿におしゃれな小店舗が立ち並ぶようになり、北京の新たな名所となった。南に向かってぶらりぶらりと通りを歩く。なかなか雰囲気のよい通りである。民家を改造した小さな店が並ぶ。若者を中心とした多くの観光客が散策している。車も通行禁止のようである。この辺りはもともと太鼓職人、鐘職人、銅鑼職人などがすむ街であったとのことである。 

 南鑼鼓巷の南を区切る地安門東大街に抜け、西に向かう。車の往来の激しい大通りを10分ほど歩くと什刹海の南の端に出た。什刹海は元代のころはかなり大きな湖水であったらしい。その後次第に埋め立てられ、現在では前海、后海、西海の三つの湖水に分かれてしまった。目の前に広がっているのは前海である。ボートの浮かぶ湖水の背後には午前中に訪れた鼓楼の巨大な楼閣が鉛色の空の中に霞んでいる。前海西岸の遊歩道を北上する。湖水に張り出した水上レストランが続く。大勢の観光客が散策しており、遊歩道は三輪リキシャとサイクリングの自転車が行き来する。大都市のど真ん中にこのような自然豊かな地域が広がっている。北京はよい街である。30分も歩くと、前海と后海の境である銀錠橋に達した。今朝方来た場所である。土産物屋や食堂が密生し、多くの観光客でにぎわっている。 

 今度は后海一周を試みる。距離は大分ありそうである。1時間30分〜2時間の行程だろう。西岸沿いのベンチなどが点々とある遊歩道を北上する。前海沿いの道に比べ人影は薄い。30〜40分も歩くと西海との境となる徳勝橋に達した。橋を渡り、今度は東岸の遊歩道を銀錠橋目指して南下する。途中、宋慶齢故居があった。入場料を30元(約450円)も取るので門から中をのぞき見しただけで通り過ぎる。中国の名所旧跡の入場料はどこもかしこもバカ高い。この什刹海周辺には多くの王府(皇族の邸宅)や有名人の旧宅が点在している。湖水では数人が禁止の立て札を無視して水泳をしていた。暫しの後、いささか歩き疲れて銀錠橋に辿りついた。 

 人民元を取得する必要がある。中国銀行がないものかと一日注意していたが見当たらなかった。繁華街となっている地下鉄鼓楼大街駅付近まで歩いてみるが、やはり見当たらない。鼓楼大街駅から地下鉄で3つ目の車公荘駅前に中国銀行があるのを思い出した。そこまで行ってみることにする。もはや営業時間は過ぎているが24時間稼働のATMがあるはずである。地下鉄運賃は2元均一なので往復してもわずか4元(約50円)である。辿りついた中国銀行のATMには、何と、中国語、英語と並んで日本語が表示されたのにはびっくりした。薄暗くなるころ宿に帰りついた。 

 近くの小さな大衆食堂へ夕食に行く。もちろん英語は通じないので筆談である。辛いのは苦手なので「不辣」と書き示すと茄子とピーマンと豚肉の炒め物が出てきた。おいしかった。 
 

 第4章 敦煌へ

 今日は敦煌へ向かう。北京発11時20分、敦煌着16時40分の 中国東方航空(MU)2412便を予約してある。直行便ではなく蘭州経由である。7時30分チェックアウト。受付に誰もいないのでキーを置いて立ち去る。施設は味わいのある宿であるが、接客はなっていない。地下鉄を乗り継いで空港へ。ラッシュ時間だが日本のようには混雑していない。今日もどんよりとした天気で空気がひどく濁っている。9時、空港着。何事もなくチェックインをすます。北京→蘭州、蘭州→敦煌の2枚の搭乗券を渡される。蘭州で乗り換えとなるようである。 

 定刻に離陸。通路を挟んで横三列の中型機で、満席である。私の隣は若い女性、ただし会話はない。国内線にもかかわらず食事が出た。MUはCAより余程サービスがよい。途中少し飛行機が揺れたら隣の女性が激しくもどし始めた。知らん顔もできないので、ビニール袋やティッシュを渡す。約2時間半の飛行で蘭州空港着。機体をチェンジするとかで、全員空港の待合室に降ろされた。蘭州もどんよりした天気で靄が非常に深い。外観はそれなりに立派な空港なのだが、トイレに行ってびっくりした。個室のドアの鍵は全て壊れている。おまけに便器は糞だらけ、とても使えたものではない。中国の古き伝統がこんなところで確り守られている。 

 1時間半ほどの待機で、改めて蘭州を出発。驚いたことに、隣の席が日本人であった。50年配の父親と大学生の息子の二人連れ、北京2日、敦煌3日の個人旅行とのことである。ただし、敦煌空港にはガイドが迎えに来ているとのことで、私の旅とは趣が異なる。私は敦煌のホテルも決まっていないというと驚いていた。1時間40分ほどの飛行で敦煌空港着、2年ぶりの懐かしい空港である。時刻はすでに夕方の17時であるが、北京からはるか西方のこの地ではまだ太陽は頭上にある。空港の背後には鳴沙山の砂山が降り注ぐ日の光に白く輝いている。 

 敦煌空港は市街地から13キロも離れている。しかるに発着便が少ないためか公共交通機関もタクシーもない。このため、空港前にはホテルをはじめとした迎えの車がつめかけている。私は当然迎えの車などない。さてどうしたものかと、ザックを背負ってたたずんでいたら、「こっち、こっち」と声が掛った。迎えのない者のためにワゴン車が1台控えている。市内の希望地まで10元で運んでくれるとのこと、これは助かった。欧米人の若者数人とワゴン車に乗り込む。運転手が各自の行き先を聞く。私はホテルも決まっていないので市内中心地近くにあるバスターミナルを指示すると、運転手は何やら不満そうな顔をする。どうしてだろうーーー。2か所ばかりホテルに寄り、バスターミナルの近くまで来たので降りようとすると、運転手がなにやら喚いて止めようとする。「んんんーー」何か変だ。見ると、2年前にあったバスターミナルがない。敷地には大きな建物が建設中である。聞いてみると、バスターミナルは今年の5月に遥か郊外に移転したとか。ようやく事態が呑み込めた。 

 ワゴン車を降りる。候補として考えていたバスターミナル付属の安宿「汽車站招待所」も姿を消している。さてどうしたものか。どこかホテルを探さなければならない。辺りを見回すと「友好賓館」との看板が目に入った。「賓館」の名前からして安宿だろう。行ってみると、フロントの二人の娘さんは英語が全く話せないが、ニコニコして感じがよい。筆談の結果、宿泊費も180元と適当だし、見せてもらった部屋も大きく立派である。ここに決めた。 

 すぐに街に飛び出す。すでに時刻は18時を回っているが、まだ太陽は頭上である。敦煌の街は2年前に歩きつくしたので熟知している。ぶらりぶらりと街の中心部の沙州市場を目指して歩いていたら、突然中年の男性に「日本の方ですか」と日本語で話しかけられた。何と、彼は隋小礼さんであった。会うのは初めてだが名前は知っている。敦煌において、日本の旅行者の世話をしてくれる人物として案内書にも載っている。日本人のバックパッカーの間ではよく知られた人物である。「一緒に飯でも食おうか」と連れだって沙州市場へ行く。大衆食堂でビールを飲みながら雑談、最近、日本の旅行者が減って商売にならないと嘆いていた。中瓶のビールが1本2元(約25円)とめちゃ安い。 
 

 第5章 大怪我そして入院

 8月13日。今日は何の予定もない。敦煌で1日休養である。9時過ぎ宿を出て、敦煌名物の牛肉麺で朝食。沙州市場をひとまわりして、中国銀行で両替、足は党河に向いた。敦煌の市街地を流れる川である。末は砂漠の中に消えてしまう川なのだが、敦煌では水を満々とたたえている。敦煌オアシスの豊かさの象徴である。道路面から3メートルほどの垂直の護岸が水辺をたどる遊歩道に落ち込んでいるが危険というような場所ではない。 

 ぶらぶら歩いていて突然つまずいた。瞬間、身体は空中に投げだされ、次の瞬間3メートルほど下の遊歩道にたたきつけられた。腰に激痛が走り身動きできない。右足の足首から下もしたたか打って感覚がない。ちょうど遊歩道を通りかかった夫婦と少女の家族連れが駆け寄って介抱してくれたが、私はうめくばかりである。中学生か高校生と思える少女は、中国では珍しいことに、英語が話せた。暫し後、父親が背負って道路面まで運び上げてくれた。その上タクシーを呼んできてくれた。この家族連れに大いに感謝する。運転手がホテルのロビーまで運んでくれたが、痛みが激しくどうにも動けない。かなりの重症であることは自覚できる。フロントに救急車の手配を依頼する。その間に、海外旅行保険の契約先である損保ジャパンに「これから病院へ行く」とのみ電話をしておいた。この一本の電話が後々命綱となった。 

 救急車に乗せられ、どことも知らぬ病院に運ばれた。治療に先立って「協議書」と題した書面にサインをさせられた。病院と患者の契約書のようなものだ。さらにデポジット(押金)を要求されたので500元を渡す。海外旅行保険に加入していることを訴え、契約証書を示すが、よく理解できないようだ。証書は英語と日本語で記載されており、病院に英語を解する人はいそうもない。病院とのやり取りは全て筆談でせざるを得なかった。治療室に運ばれ、レントゲンを撮り、足にギプスをはめられる。その後大きな個室の病室に入れられた。腰が痛くて寝返りも打てない。その上、熱が38度5分もあり、意識はもうろうである。 

 第6章 入院生活

 8月13日〜9月2日までの3週間、この敦煌の地で入院生活を送った。病院では英語が全く通ぜず、意思疎通は筆談が唯一の手段であった。また当初は、勝手がわからず大いにまごついた。しかし、医師も看護婦も、突然迷い込んできたこの異国人に親切で、友好的であった。以下異国での入院生活の一端を記す。 

  病院の名は「敦煌市医院」、敦煌の街の東北、かなり郊外に位置する。看護婦に聞いたところによると、半径600キロの範囲で一番大きな病院だとのこと。すなわち、蘭州からウルムチの間で最大の病院ということなのだろう。総合病院で、木々に囲まれた広大な敷地の中に施設が点在している。収容された個室は20畳ほどの広さで、カーテンによって控えの間とベッドルームの2部屋に仕切られている。控えの間にはソファやテレビが設置され、ベッドルームにはトイレが付属している。ルームエアコンは付いているが電話はない。入院病棟は6人部屋が基本で、別棟に数個の個室がある。私の病室はこの病院で一番上等な個室である。 

 入院生活は完全看護ではなく、付添人が必要なようである。病院敷地内に食堂はあるが、入院患者に対する給食はない。付添人が食事の世話をすることになる。私は付添人がいないので、病院が配慮して、看護婦一人を24時間交代で張り付けてくれた。食事は彼女に頼んで病院の食堂か街の食堂から買ってきてもらうことになる。また洗濯も彼女に頼んで街の洗濯屋に出した。種々プライベートな事を頼むので少々気がひけたが、嫌な顔もせずに引き受けてくれた。皆、若いピチピチした看護婦である。彼女たちとの会話は全て筆談であるが、日常生活では特に不便は感じなかった。英語はYes、Noも通じない。 

 MRI(磁場共鳴分析装置)もあり、施設や設備はなかなか立派な病院なのだが、やはり中国の田舎の病院、病院管理・運営という面ではかなりいい加減である。トイレにトイレットペーパーもなく、洗面所に石鹸もない。看護婦や医者が石鹸で手を洗うのは一度も見なかった。ベッドのシーツも気が向いたら交換ということらしく、3週間の入院期間中、交換は2度だけであった。病室の掃除もかなりいい加減である。検査室に行くと、室内からはガラガラポンの麻雀の音、一区切りつくまで暫し廊下で待たされる。整形外科病棟に車椅子は1台だけ、患者の移動はもっぱら寝台車である。私の病室の控えの間には灰皿が用意されているのには驚いた。病棟の廊下では喫煙が行われている。 

 毎朝8時30分ごろ、主治医の黄先生が「ニーハオ」と愛想よくやってきて、回診する。時には院長もやってくる。ここでの会話も筆談である。私の病状は腰骨圧縮骨折と右足踵骨折である。当分の間ベッドから起き上がってもいけないと指示された。もちろん、トイレにも行けない。大便は警告を振り切って這うようにしてトイレに行ったが、小便は尿瓶を使わざるを得ない。何とも情けない。腰の骨折が脊髄に影響を及ぼしている場合は手術が必要と宣言されたが、どうやらその心配は免れたようである。右足はギプスで固められている。退院のめどを尋ねても言葉を濁す。ベッドに横たわっているだけの毎日が続く。窓の外は生い茂る木々が見えるだけである。夜9時に暗くなり、朝7時に明るくなる。その間は長い長い夜である。単調な毎日が過ぎていく。 

 ある日、検査室から寝台車に乗せられて病室に戻ると、部屋の中に院長以下医師と看護婦がずらりと整列している。その真ん中に見知らぬ男性が二人。「んんん、何だ、これは」。男の一人が「広島大学医学部教授の○○です」と名乗る。もう一人も「上海大学の○○です」と日本語で名乗った。聞けば、この病院と広島大学および上海大学は友好関係にあり、今日二人の教授を迎えて講演会が開かれた由。その会合で、「実は日本人が入院している。その病状について診察して意見を聞かせてほしい」と病院側が頼んだらしい。どうやら診療技術交換のモルモットに私が選ばれたということのようである。広島大教授より「傷は大丈夫、大ごとにはならない」と日本語でささやかれてひと安心した。 

 入院生活で苦痛となったのはシャワーを浴びられないことである。看護婦さんが毎朝顔と手足は濡れタオルで拭ってはくれるがーーー。入院3週間、ついに一度もシャワーは浴びられなかった。まぁ、空気が乾燥しているのでそれほど臭いはしないと思うが。また、歯も磨くことができなかった。何とも気持ちが悪かった。 
 

 第7章 旅行保険会社と通訳の張君

 入院した翌日、落ち着きを取り戻すとともに、大きな心配が生じた。私がこのような事態になっていることを誰も知らないのである。携帯電話も持参していないし、部屋にも電話はない。もちろんベッドからは起き上がれない。家族および契約している旅行保険会社と連絡を取りたいのだが、取りようがない。また、病院も旅行保険についてよく分かっていないようなので支払いの心配もある。 

 夕方であった。付添の看護婦の携帯電話が鳴った。彼女が電話機を私に押しつける。「んんん」と思い耳に当てると、日本語が飛び込んできた。「ここにいましたか。病院へ行くと電話をもらったので、折り返しホテルに確認したら、入院したらしいとの話。ただし、どこの病院かわからないとの事だったのでーーー。少々探しました」。保険会社・損保ジャパンの北京支店からの電話であった。涙が出るほどうれしかった。「これで助かる。もう心配はいらない」。以降、毎日のように電話をもらった。この電話が唯一の楽しみでもあった。「困ったことがあったら何でも言ってください」と言われ、家族への連絡も、支払いについての病院との交渉も、病状についての病院からの聞き取りも、全てやってくれた。さらに嬉しいことに、「日本への搬送を考えるが、しばらくは絶対安静で移動困難です。その代わり、通訳を手配しましょう」と言ってくれた。「保険会社はそこまでやってくれるのか」。大いに感激した。この病院は損保ジャパンの契約病院ではなかったようだが、病院への支払いは損保ジャパンが直接やってくれることになった。 

 数日後、「保険会社に通訳を頼まれた」と、一人の若者が見舞いの花束を抱えて現れた。地元の旅行会社に勤めるという27歳の張建傑君であった。日本語もうまく、なかなかの好青年である。勤務時間は私が決めればよいとのことなので、毎日朝8時30分〜9時30分の1時間来てもらうことにする。ちょうど回診の時間帯である。彼は「日本語を勉強したいので、勤務時間外も病室にいていいですか?」となかなか熱心である。事実、以降も毎日3時間ほど私の話し相手になってくれた。翌日には奥さんの手作りだと言って、鶏肉のスープを保温ジャーに入れてたくさん持ってきてくれた。 

 彼はなかなかのインテリである。中国の歴史にも日本の歴史にも詳しい。また、社会や政治の変化にも関心を持っている様子である。このため、暇にまかせて議論を吹っ掛ける。「ここで毛沢東の悪口を言うと公安に逮捕されるか、国外追放になるかなぁ」と私。「大丈夫ですよ」と彼。「やっぱり晩年はおかしかったね」と私。「そうですねぇぇ」と彼はあいまいに答える。「世界の三大美女を知ってるか」と私。「楊貴妃とクレオパトラと小野小町です」と驚くことに正確な答えが返ってくる。「それでは中国の4大悪女は誰」と私。「呂后、則天武后、西太后、もう一人は私の口からはーーー」と彼は言葉を濁す。そのくせ「毛沢東もなんであんな女に惚れたのですかねぇ」と云うから面白い。「革命後の政治家で一番人気のある人は誰」と質問すると、迷わず「周恩来」との答えが返ってきた。「この国は共産主義国家か?」ときわどい質問をすると、「当然でしょう」と少々むきになって答える。「共産主義国家だというなら、都市部の富裕層と内陸の貧民のますます拡大する貧富の格差をどう説明するんだ。すでに資本主義国家だろう」と私が危険な言を発すると、黙って悲しそうな顔をした。 

 「暇でしょうから」と彼が家から手持ちの日本語の本を持ってきてくれた。何冊かの推理小説の中に中勘助の「銀の匙」があったのには驚いた。まさか敦煌の病院のベッドの上で「銀の匙」を読むとはーーー。日本語の本がもっと欲しいというので、帰国したら送ってやる約束をした。 
 

 第8章 日本への搬送

 8月も終わりに近づいたころ、損保ジャパンの日本本社から電話があった。「敦煌の病院と日本の医療スタッフの打ち合わせの結果、そろそろ搬送可能との結論が出たので、9月2日に日本から迎えに行く」との話である。ようやく日本に帰れる。万々歳である。その日の来るのを毎日指折り数えた。 

 9月1日夕方、二人の男女が病室に現れた。待ちに待った人、日本からの救援メンバーである。男性は東京T病院の心臓外科医であるK先生、女性は緊急援助を専門とする会社のSさん。彼女は看護婦資格を保持しており中国語が堪能である。二人ともインターネットで検索すればそのプロフィールが確認できる著名人である。まさかこれほどのメンバーが来てくれるとは夢想だにしなかった。病院との医療引継ぎの打ち合わせも無事終了した。デポジットの500元も返してくれた。いよいよ明日は日本に帰国することになる。 

 9月2日、日本に帰る日である。早朝から目が覚める。ただし、まだベッドの上に身を起こすのが精いっぱいで、歩行はできない。看護婦さんに手伝ってもらって荷物をパッキングし、3週間ぶりに服を着て準備を整える。やがてK先生、Sさんがやってきた。主治医の黄先生も引き継ぎ資料を抱えてやってきた。看護婦の李ちゃんも控えている。通訳の張君も姿を現した。10時、寝台車に乗せられ病室を出る。3週間住み着いたこの病室ともお別れである。 

 玄関先では院長、お世話になった医師や看護婦の皆さんが見送りのために集まっていた。一患者の退院を院長自らが見送るなどとは破格の待遇である。この中国辺境の地の人々は礼を知っている。思えば何とも居心地のよい病院であった。突然迷い込んできた異国の患者を暖かく迎い入れてくれた。私の中国に対するイメージも大きく変わった。これこそ本当の日中友好である。空港まで病院の救急車で送ってくれるという。さらに、主治医の黄先生と看護婦の李ちゃんが空港まで見送りに来てくれるという。私は救急車のベッドに寝かされた。10時、「再会(サイツェン)」の声に送られ車は病院を後にした。 

 空港で二人と最後の別れをし、ロビーに入る。ここから私は車椅子である。私のザックはK先生が担いでくれている。著名な心臓外科医をポーター代わりにするとは罰が当たる。搭乗する飛行機は11時45分発のCA1288便である。損保ジャパンは私の身体をおもんばかってファーストクラスを予約してくれている。車椅子に乗ったままタラップを係員が3人がかりで担ぎあげてくれた。ファーストクラスは12席あったが乗客は我々三人だけである。定刻離陸、眼下に荒涼たるゴビ難とその中の緑のオアシスが見える。サービスの悪いCAだが、ファーストクラスはさすがに別待遇である。定刻14時35分に北京空港に降り立った。一般乗客はタラップを降りてバスで空港ビルに向かったが、私は車椅子に乗ったまま特殊なリフトで地上に降ろされ、別のバスで空港ビルに向かう。乗り換えるJLのチェックインカウンターまでCAの係員が車椅子を押して案内してくれた。 

 イミグレーションで出国手続きをしてJLの特別待合室に入る。搭乗する飛行機は16時40分発羽田行きのJL24便である。ここでも損保ジャパンはビジネスクラスの座席を用意してくれた。定刻21時、飛行機は無事に夜の羽田空港に着陸した。哀れな姿だが、それでも何とか日本に帰りついた。敦煌の病院と保険会社に感謝しよう。ここでも我々は一般乗客とは別行動、車椅子のまま特殊なリフトで降ろされ、イミグレーションも一般カウンターとは別カウンターであった。空港ビルの前には、私のために搬送用救急車が待機していた。ベッドに寝かされ、車は夜の都内を走り抜ける。向かうは、保険会社が用意してくれた埼玉の自宅近くの病院である。真夜中の12時前、車は病院に到着した。ここまで付き添ってくれたK先生とSさんにお礼をいう間もなく私は検査室に搬送されてしまった。当分の間、今度はこの病院で入院生活を送ることになる。 

 振り返ってみると、今回の旅行は結局失敗であったのだが、代わりに何とも貴重な体験をした。過去にも、マレーシアのペナンやタイのバンコクで入院をしたことはあるが、いずれも近代的な病院で英語がよく通じる環境であった。今回の入院は、中国の奥地で、しかも言葉が全く通じない環境にあった。しかし、そのことがさして苦痛ともならず、3週間もの入院生活に耐えられたのは病院の居心地がよかったからに他ならない。そのことは、その後経験した日本の病院での入院生活と比べることによりはっきり自覚できた。日本の病院は、確かに効率的で運営マニアルも確りしている。しかし、どこかよそよそしく、温かみがなかった。人と人との心の交流は言葉の通じない中国のほうが遥かに濃密であった感じがする。 

 そして何よりも感動したのは、保険会社・損保ジャパンの何とも素晴らしい心温まる援助である。正直に言えば、海外旅行の度に保険は掛けるものの、保険会社がここまで面倒を見てくれるとはまったく期待していなかった。まさにその支援の程度は驚きであった。窮地に陥った私を親身になって、本気で助けてくれた。わずか数千円の保険料を払っているにすぎないのに、利益を目的とする企業活動の範囲を遥かに越えると思われる援助の手を差し伸べてくれた。保険会社・損保ジャパンの実力とその心意気に心から感動した。後で聞いたところによると、敦煌の病院への支払いは約160万円、救援費用は約256万円掛かったとのことである。 
                                         (完)
   

 

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