中沢峠、宍原峠、椿峠、富士見峠

興津川・富士川分水稜上の四つの峠を結ぶ山旅 

1996年1月7日

              
 
中河内バス停(820)→登山道入口(900〜905)→宍原峠分岐(910)→中沢峠(945〜955)→中沢山(1000〜1005)→展望台(1010〜1020)→参謀本部(1025)→宍原峠(1035〜1045)→椿峠(1135〜1145)→619.2m三角点(1205〜1215)→497m峰(1235)→国道52号線(1320)→ 上里沢バス停(1325〜1347)

 
 駿河の山はあらかた登り尽くしたが、まだいくつかの山稜が未踏破のまま残っている。高ドッキョウ山稜の中沢峠から東部がその一つである。富士川水系と興津川水系との分水稜線である高ドッキョウ山稜は青笹において安倍東山稜から分かれ南東に続いている。この山稜は甲駿国境稜線でもある。私はすでに青笹から中沢峠までの山稜主要部には足跡を残している。この山稜も中沢峠付近からはっきりしなくなり、四分五裂しながら浜石岳山稜との接点である富士見峠付近に雪崩落ちている。今日ははっきりしない興津川・富士川の分水稜を地図で確認しながら無理矢理たどって国道52号線の乗っ越す富士見峠付近に下ってみるつもりである。中沢峠から地図上の804.4メートル三角点峰を経て宍原峠まではハイキングコースとなっていて心配はないが、その先はどうなっているのか行ってみなければわからない。うまく富士見峠付近に下れるかどうか楽しみである。

 興津駅7時35分発の但沼車庫乗り換え板井沢行きバスに乗る。珍しく同年輩の二人連れの登山者が同乗した。中沢峠から宍原峠までたどるという。「いくらなんでもそれでは半日コースですよ。せめて樽峠からたどったらどうですか」とアドバイスするとその気になった。コースを説明してくれと取り出したのが何と静岡鉄道のパンフレット。地図も持ってないようだ。駿河の山は登山ハイキング地図もないので、二万五千図を読めない者には仕方がないのかも知れない。寒さのせいで興津川からもうもうと川霧が立ち上っている。

 中河内のバス停で下り、中河内川を渡って神沢原川に沿った神沢原集落の中を登っていく。今日は移動性高気圧が日本の真上に位置し、すばらしい晴天が約束されている。ただし、谷間にはまだ日が射さず寒い。風格のある立派な家々が立ち並ぶ神沢原集落は人影もなく静まり返っていた。集落を抜けると谷は二つに分かれ、それに沿うた道も二つに分かれる。左の道も中沢峠に行けるはずであるが、一昨年の4月にたどった右の道を進む。林道を40分歩いてようやく登山口に着いた。

 小休止の後、短い急登を経ると宍原峠分岐。さらに沢ぞいの道を少し進むと最後の水場との標示がある。渇水のためか水は枯れていた。興津川を取水源とする清水市は、正月早々給水制限を始めている。一瞬左の踏み跡に入りかけるが、第六感が働いて正規の道に戻る。谷間にも木漏れ日となって日が射し始めた。樹林の中の尾根をジグザグを切って急登する。ようやく身体が暖まってきた。傾斜が緩やかになると前方に尾根筋が見えてくる。中沢峠はもうすぐと思い足を早めて登り詰めると、この尾根は主稜線ではなく中沢峠東のピークから南西にのびる支尾根であった。二万五千図の破線と異なり、ルートはこの支尾根を乗っ越してから中沢峠に向かう。左から踏み跡が合流する。道標はないが、今朝分かれた神沢原川左沢からのルートであろう。

 9時45分、見覚えのある中沢峠に到着した。峠には前回見掛けなかった立派な道標があり、「中河内峠(中沢峠)」と標示している。二つの集落を結ぶ峠は二つの呼び名を持つことが多いが、この中沢峠も中河内峠というもう一つの名前があったことを知る。中河内峠の名称を主にしているところを見ると、この道標は山梨県側の富沢町が設置したのであろう。すっかり摩耗した二体の石仏が杉の木の根元に安置されている。樹林に覆われた峠は日も射さず寒い。下から鈴を首にさげた白い犬が現われた。続いて黒い犬をつれた鉄砲打ちが登ってきた。鉄砲打ちが入っているとなると藪山は危ない。この一人と二匹が今日山中でであった唯一の生き物であった。

 いよいよ縦走を開始する。いきなりまだ若い檜の植林の中の急登である。最初の小ピークに達する。北側に今日初めての展望が大きく開けた。ここが案内にあった展望台であろうか。移動性高気圧が覆うとき特有のいくらか霞んだ視界ではあるが、目の前には富士山が大きくそそり立っている。今年は雪が少なく、いまだ山頂に至るまで斑模様である。そしてその麓に小さな三角形の山が見える。つい3日前に登った白鳥山である。目を左に転ずれば、天子山塊が複雑に尾根を絡ませながらも一つの山塊としてどっしりと構えている。そのさらに左は平治丿段から貫ヶ岳に続く平坦な尾根が背後の山々を覆い隠している。しかし、そのわずかなへこみの背後にかわいらしい双耳峰・笊ヶ岳がわずかに頭を覗かせている。この790メートル峰は小林経雄氏が「甲斐の山山」の中で山梨県最南端の山としているピークである。氏は中沢山と呼んでいるが何の山頂標示もない。

 展望を楽しんだ後、東から南東に向きを変えた分水稜線上の登山道を進む。ただし、甲駿国境はこのピークで分水稜線と分かれて支尾根に沿って北東に向かっている。ほんの4〜5分で次のピークに達すると、なんと360度のものすごい展望が開けた。ここが案内にある展望台であった。すさまじいまでの展望である。高山、竜爪山、真富士山、青笹と続く安倍東山稜が雲一つない青空を切り裂き、平治丿段から貫ヶ岳へ続く稜線の背後には笊ヶ岳とともに布引山も顔を覗かせている。貫ヶ岳の右はるか奥は真っ白な尖がり帽子の山・白峰北岳である。さらにその右には天子山塊、富士山と並び、愛鷹山塊は霞の中である。このピークは駿河の山においては青笹と並んで超一級の展望台である。

 軽く下って登ると薄暗い植林の中の804.4 メートル三角点峰に達した。地元では三方基地とか参謀本部とか呼ばれているようであるが何の山頂標示もない。ただ、清水五中の1984年5月25日付の登頂記念板が10年以上の風雨に耐えていた。参謀本部との名称は、おそらく、戦前まで三角点の管理を陸軍参謀本部がおこなっていたことに由来するのであろう。山頂は東西に細長くルートはTの字となっている。道標に従い左に曲がる。右にもしっかりした踏み跡が続いているが道標標示はない。ザイルの張られた急坂を転げ落ち、深い植林の中をどんどん下っていくと宍原峠に達した。植林の中で展望はないが静かな好ましい峠である。口元と目元がいやに色っぽい明治33年銘の石仏が安置されている。道標が西へ下る道を「神沢原」、東へ下る微かな踏み跡を「通行不能」と標示している。予想に反して尾根上にも踏み跡が続いており、道標が「椿峠」と標示している。ハイキングコースはここまでと思っていたのだが、さらに稜線上に続いているようである。しかし、「椿峠」とはどこを言うのであろう。もちろん地図にも記載されていないし、まったく聞いたこともない。小休止の後、さらに稜線をたどる。

 もう尾根は弱々しく主稜というものはなくなっている。椿峠へ続くという踏み跡も椿峠がどこだかわからないとなると安心して辿るわけにもいかない。二万五千図をポケットに移し、一つ一つ現在位置を確認しながら進むこととする。次の680メートル峰の登りで「宍原 林道終点」と標示されている踏み跡が左に分かれる。地図を見ると宍原集落から林道が稜線近くまで登ってきている。左側の植林がまだ若いため、萱との藪が少々出てくる。再び手入れのよい杉檜の植林となり、平坦地を過ぎると722メートル標高点ピークに達した。南北に長い平頂である。登山道には点々と道標もある。分水稜線を辿るにはこのピークの下りで尾根筋を離れ、左に90度曲がる必要がある。果たして辿っている登山道はどうなっているのか。うまい具合に登山道も分水稜線に沿って尾根左の平斜面を下りだした。再び尾根筋が現われ鞍部に達した。536メートルの標高点地点である。尾根はますます弱くなりルートは複雑となる。緩く登っていったん左に折れ、すぐに右に折れる。一瞬、植林が薄くなり富士山が見える。ここで二万五千図は「和田島」から「蒲原」に変わる。緩く下って490メートル標高点付近は軽い二重山稜。下り切ったところが椿峠であった。

 峠はまったく展望のない小さな鞍部で、年代不明の石仏がぽつんと寂しくたたずんでいた。小道が乗っ越しており、道標は興津川流域に下る踏み跡を「桑又」、富士川流域へは「宍原」と標示している。さらに続く尾根上にも微かな踏み跡が見られるが、道標は何も標示していない。登山道もここまでであった。いよいよ山勘頼りの地図との格闘が始まる。登りにかかると微かにあった踏み跡も完全に消えた。尾根筋も消え、ものすごい斜面を直登する。登り切ると612.2 メートル三角点から西に延びる稜線に出た。90度左に曲がって緩く登っていく。この稜線にもまったく踏み跡はない。樹林の中でどこでも歩けるのだが、倒木が多く苦労する。三角点が現われ、ここまでルートに過ちがなかったことを確認する。木々の間だから富士山と白鳥山が見える。

 地図を見ると、ここから先は尾根らしい尾根はなくなり、細波のような支稜がてんでんばらばらに富士見峠付近に下っている。一番尾根らしいところを緩く下っていくと497メートル標高点の平頂に達した。ここから先、もう尾根らしきものもなくなった。まさに山中一人孤立したような状況であるが、現在位置は明確に認識できているので精神的な余裕はある。東に向かって急斜面を闇雲に下る。藪が出てきて歩けるところが制約される。だだっ広いピーク状のところに出る。まっすぐには下れないので、左の尾根らしきところに逃げる。この尾根も尽きて、一直線に谷に下ることになった。立ち木にぶら下がりながらなんとか谷に下り着く。微かな踏み跡が現われ、作業小屋が現われた。すぐに茶畑となって下に国道が見える。畔を伝わって国道52号線に降り立った。ついに興津川ー富士川分水稜線縦走の成功である。降り立ったところは目指した通り富士見峠であった。我が読図能力の高さを一人心の中で誇る。

 富士見峠付近は高原状となっており、清水市の宍原スポーツ広場や造成中の工業団地などが広がっている。5分も国道を辿ると上里沢のバス停に出た。時刻は13時25分。もし時間に余裕があれば、さらに浜石岳を越えようと思っていたが、ちょっと無理のようである。13時47分のバスに乗る。