歩いて筑波山に登る 

ケーブルカーもロープウェイも振りきって

2012年2月28日

筑波山(女体山)山頂からの展望
                                                         
筑波山神社入口(840)→筑波山神社(850)→表登山道入口(900)→ケーブルカー中間点(940)→男女川源流(1000)→ 御幸ヶ原(1035〜1040)→男体山(1055〜1100)→御幸ヶ原(1110)→女体山(1130〜1150)→屏風岩(1205)→北斗岩(1215)→母の胎内くぐり(1225)→弁慶七戻り(1230)→つつじヶ丘コース分岐(1235)→白蛇弁天(1330)→つつじヶ丘へのルート分岐(1335)→筑波山神社(1345)→筑波山神社入口バス停(1355〜1410)

 
 筑波山は標高わずか877メートルの低山である。にもかかわらず日本百名山の一つに選ばれている。深田久弥は日本百名山の選考に当たり標高1,500メートル以上であることを一つの基準とした。しかし、結果として、自ら定めた基準を破り、この低山を日本百名山の一つとして選ばざるを得なかった。そしてまた、この選定に異論は聞こえてこない。筑波山が日本百名山の一つであることに全ての人が納得したと思われる。

 江戸の昔から、江戸・東京の住民にとって、筑波山は百名山どころか日本二大名山の一つであった。「西の富士、東の筑波」と言われ、富士山と並び称されてきた。千メートルに満たない身の丈にもからず、日本最高峰の富士山と並び称されるとは何たる栄華であろう。それだけの存在感をこの山は持っているということだろう。

 私はこの山の頂を1995年1月に踏んだ。家族全員で筑波山神社に初詣でに行った際に、双耳峰である筑波山の二つの頂き、すなわち男体山、女体山の頂きを確かに踏んだ。しかし、この時の山日記には次のように記されている。『筑波山神社参拝の後、ケーブルカーで男体山と女体山の鞍部である御幸ヶ原に登る。本当は歩いて登りたいのだが、全員反対なのでやむを得ない』。爾来、この山に対し、どうも罪悪感にも似た感情を持ち続けている。「いくら何でも、あれでは筑波山に登ったとは言えないのではないか」と。昨年末から今年初めにかけて筑波山を身近に感じる山域を歩き廻った。筑波山を眺めながら「やはり一度はチャンと登っておかなければいけないだろう」との思いを強めた。

 早朝5時過ぎ、一番列車に乗るべく真っ暗な中、家を出る。高崎線、東武野田線、つくばエックスプレスと乗り継いで、つくば駅着7時37分。筑波山は意外に遠い。さらにバスで40分、スタート地点の筑波山神社入り口に着いたのは8時40分であった。未だ人影の薄い門前町を10分も歩くと標高250メートル地点に建つ筑波山神社に到着した。

 明治の廃仏毀釈以前は仁王門であったと思える立派な随神門を潜り、急な石段を登ると拝殿に達する。筑波山神社は筑波山そのものを御神体とする古代山岳信仰の形を今に伝える古社である。従って本来本殿は存在しない。ただし、現在、男体山山頂に伊邪那岐尊を祀り、女体山山頂に伊邪那美尊を祀り、各々の社殿を本殿としている。おそらく、時代が下がってからの処置なのだろう。

 今日の無事を拝殿に祈り、境内を左に突っ切るとケーブルカーの宮脇駅に出る。17年前はここからケーブルカーに乗ったが、今日は駅の脇に立つ鳥居を潜って表登山道(御幸ヶ原コース)に入る。男体山と女体山の鞍部である御幸ヶ原まで登り約90分の行程である。今日の計画は、男体山、女体山の頂きを極めた後、筑波山の北側に下り、「きのこ山」まで縦走した後、真壁町に下るつもりでいる。筑波山の北側は一切交通の便がないため、下る人はめったにいないが、幸い、現在開催中の真壁町のひな祭りに合わせて臨時のシャトルバスが運行されている。

 よく踏まれてはいるが、露石に木の根が絡みつく悪路が続く。最初は緩やかであった傾斜も、次第に急登が混じる。ただし、急坂は確り階段整備がなされている。最初は杉や赤松の林であったが、登るに従いアオキや椿などの照葉樹林となる。自然林が実によく保たれている。最初は快調に登っていたが、徐々に私の足取りは怪しくなる。続けて2パーティに抜かれる。登山道の隣りをケーブルカーの軌道が走っており、時折車両が行き来する。登山口から40分ほどで中間地点に達した。ケーブルカーの上りと下りがここですれ違うようになっている。設置されたベンチで小休止である。

 さらに登り続けると道は水平となり、緩やかな下りに転じた。トンネルとなったケーブルカー軌道上を横切る地点のようだ。身体はひと息つくが、せっかく登ったのにわずかといえども下るのは癪である。再び登りに転ずる場所が男女川源流であった。斜面から透き通る水が湧きだしている。柄杓が置いてあったので、水を口に含んでみる。湧き水の冷たさが歯に染み入る。

 急登が続く。さらに二人に抜かれる。下ってくるハイカーとも何人かすれ違う。思いのほか歩いて登り下りする人が多い。最後の長く急な階段を登り詰めると、ようやく御幸ヶ原に達した。広場となっていて何軒かの茶屋が建つ。北側に大きく展望が開け、望遠鏡も設置されている。備え付けのベンチに座り、パンを頬張りながら展望に見入る。朝から何も食べずにここまで登ってきた。目の前に長々と横たわる山稜は、つい10日前に辿った御嶽山、雨引山、加波山と続く筑波連山である。加波山南の鞍部に建つ2基の風力発電機がはっきりと確認できる。その左遥か彼方に目を凝らすと、真っ白な山並みが微かに見える。日光連山である。男体山、女峰山がその形から何とか確認できる。御幸ヶ原は標高約800メートルだが、風もなく陽の光が暖かい。日陰にも雪はまったく見られない。

 ひと休み後、先ずは男体山山頂を目指す。御幸ヶ原から15分ほどの行程である。ひと登りと思ったが、意外にきつい。登り着いた山頂には伊邪那岐尊を祀った小さな祠が建ち、その隣りには測候所の巨大な電波塔が建っている。山頂の周りは木々が枝を張り、わずかに隣りの女体山の頂が見えるだけで、展望は得られない。17年前の登頂の際の山日記には『秩父の山並の背後に真っ白な富士山が浮かび上がっている』と記されているのだがーーー。山頂付近では日陰にわずかに残雪が見られた。

 御幸ヶ原に戻り、今度は女体山に向う。この時間になると筑波山山頂部も観光客で賑わいだしている。ハイカーに交じって、明らかにケーブルカーやロープウェイで登ってきたと思われるおじさん、おばさんたちに出会う。女体山への登りは緩やかである。ただし日陰に残雪がはっきり見られるようになる。山頂直下で、今日下るつもりの筑波高原キャンプ場への道を確認し、伊邪那美尊を祀る祠の裏手に登り上げる。そこが大きな露岩が積み重なった山頂で、筑波山の最高地点である。数人の登山者が先着していた。その一角に875.9メートルの一等三角点も確認できる。

 露岩の上に陣取り、大きく開けた視界に眼を巡らす。加波山から続く筑波連山の山稜が足下まで続き、その山稜の背後に、愛宕山、難台山、吾国山と続く東筑波連峰の連なりがはっきりと見える。昨年の11月に足跡を残した懐かしい山稜である。持参の二万五千図「筑波」を眺めていて面白いことに気がついた。この女体山山頂に875.9メートルの一等三角点が記載されている。そしてその隣りに、三角点と並ぶようにして877メートルの標高点が記載されいるのである。目の前の状況を観察すると、三角点から2メートルほど離れた露岩の方が確かに三角点より1メートルほど高い。ちなみに、手持ちの各種書物・案内書の類いを調べてみると、筑波山の標高としてほとんどの書物が、三角点の標高を採用している。これもまたおかしな話ではあるがーーー。

 展望を楽しんだ後、下山に移る。予定通り北面を下るつもりで、確認しておいた筑波高原キャンプ場へのコースに踏み込む。所が何と! このコースは、かちかちに凍った雪が氷雪となってべっとり張り付き、とてもでないが滑って歩けない。10メートルほど下ってみたが、とうてい無理と諦める。低山と言えやはり冬山、アイゼンを持ってくるべきだったと反省する。諦め、白雲橋コースを筑波山神社に下ることとする。下り約95分のコースである。

 白雲橋コースは、登ってきた御幸ヶ原コースと異なり、大岩の間を縫う岩場の連続するルートであった。ただし、危険を伴うコースではない。次々と現れる大岩に、どうかと思うような適当な名前が付けられている。屏風岩、大仏岩、北斗岩、母の胎内くぐり、高天ケ原、弁慶七戻り、等々。このコースは大駐車場のあるつつじヶ丘から女体山に登るコースと途中で合流しているので、ハイカーとは言い難い人も登ってくる。ブーツを履いて登ってくる若い女性にはびっくりした。

 つつじヶ丘からの「おたつ石コース」分岐を過ぎると、人影は急に薄くなる。樹林の中の岩道をのんびりと下る。ただし、段差の大きい岩場の下りが多いので、未だ回復不十分の足首が痛くなりだす。白蛇弁天との標示のある祠を過ぎ、つつじヶ丘からのコースと合流すると、すぐに筑波山神社に下り着いた。筑波山登山の無事の終了である。これで、「筑波山に登った」と、胸を張って言うことができる。

 そのまま門前町を神社入り口のバス停に向う。13時55分、無事バス停に到着した。つくば駅行きのバスは14時10分、わずか15分の待ち時間であった。
   
登りついた頂  
   筑波山(女体山)  877 メートル 
    

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