藁科川右岸稜 宇津ノ山からダイラボウへ

絡み合う薮尾根にルートを探し

1995年2月11日

              
 
宇津ノ谷入口(745)→稜線(820〜825)→ロンショウ(845〜900)→鞍部(920)→414メートル峰(935〜940)→野田沢峠(1005〜1020)→西又峠(1140〜1155)→ダイラボウ(1235〜1250)→富厚里峠(1310)→中藁科局前(1345〜1351)

 
 6日前に、雪の中、埼玉マラソン42.195キロを完走した。38キロ地点の最終関門を無事通過したとき、「あぁ、これで今年も完走できるなぁ」との思いが突然湧き上がり、走りながら嬉しくて仕方なかった。今までのマラソンが、1分1秒でもタイムを縮めようと、もがき苦しんでいたのに比べ、初めて経験した不思議な感情であった。それだけ歳をとったのかもしれない。しかし、今日はもう体力が完全に回復している。私もまだ若い。
 
 今日は、藁科川右岸の山・ダイラボウに登るつもりである。実は、ダイラボウは我がオフィスの窓から丸々見えるのである。先般の徳願寺山稜縦走の足跡を窓から目で追っていて、初めてこの山に気が付いた。何ともうかつなことであった。ダイラボウは600メートルにもみたない低山ではあるが、それでも藁科川右岸に沿って続く山稜の主峰である。山頂から好展望が得られ、その変わった名前とあいまって、ハイキングの山として静岡市民に親しまれている。ダイラボウという山名はダイダラボッチの伝説に因む。この巨人伝説は日本の至るところにあるようで、我が故郷の奥武蔵の山々にもある。ダイラボウの山頂部は大きな窪地状の草原となっており、これがダイダラボッチの足跡だという。静岡に住む限り一度は登っておきたい山である。
 
 ダイラボウへの登山コースは藁科川流域及び朝比奈川流域からあるが、一般ハイキングコースを登るのでは如何にも物足りない。宇津ノ山から藁科川右岸山稜をダイラボウまで縦走してみよう。宇津ノ山並の北に続くこの山稜は、いくつもの支稜を集めながら北上し、最後は大井川東山稜に合わさる。途中ダイラボウを盛り上げる程度の弱々しい尾根であるが、志太郡と安倍郡を分ける尾根だけに、至るところに生活の匂いのする古い峠道を残している。地図を眺めると、富厚里峠、西又峠、野田沢峠などの峠名が見られ、その他にも隠された峠道は多いであろう。
 
 新静岡センター7時13分発の藤枝行きのバスに乗る。今回は宇津ノ山とのジャンクションであるロンショウから北上するつもりである。前回の山行きで、丸子川西沢から登ってきたと思われる踏み跡がロンショウの南の鞍部を乗っ越していることを確認しているので、この踏み跡を辿って稜線に達することにする。藁科川右岸山稜上に踏み跡があるかどうかは、縦走記録も見当たらずわからない。しかも、この山稜は主稜線というものがなく、いくつもの支稜が集まったような複雑な地形をしている。今日も地図とコンパスと山勘に頼ったハードな縦走となりそうである。
 
 旧国道1号線を宇津ノ谷集落に向かう。道路脇の白梅が満開で、春が確実に近づいている。集落上部の車道が大きくヘアピンカ−ブする地点で丸子川沿いの林道に入る。今日は移動性高気圧が本州の真上に移動し、天気予報は晴れである。ただしこういう気圧配置の時は、雲が多く、又空気の透明度も悪い。寒くて仕方ないので足早に丸子川左岸ぞいの道を進む。右岸に移るとすぐに西沢東沢分岐である。西沢ぞいの林道をしばらく進み、左に分かれる細い林道に入る。立派な一軒家が現われるが、人の気配はなく現在は出作り小屋となっているようだ。どこかに稜線に登る踏み跡があるはずと注意しながら進む。テープが一つ枝に巻き付けられていて、踏み跡が左斜面を登っている。樹林の中を5分も登ると稜線に達した。まさに目指した地点である。
 
 ここからロンショウまではつい3週間前に辿った道だ。ひと休みの後、2段に分かれた約150メートルの急登に挑む。尾根筋に登り着いて左に少し進むと、道の真中に412.3メートルのロンショウの三角点があった。これほど明確な三角点を前回はなぜか見落としている。尾根筋はここから向きを北から東北東に変えながら緩やかに象山へと続いている。ただし、藁科川右岸山稜への縦走ルートはここで尾根筋から離れて左の急斜面を下らなければならない。三角点のほんの10メートル先に白いテープがあり、微かな踏み跡が急斜面を下っている。どうやら目指すルートのようだ。三角点から尾根を100メートルほど進んだところに展望のよい伐採地があるので行ってみた。目の前に南アルプス深南部の山々が広がっているのであるが、前回よりもさらに視界は悪く、微かに黒法師岳を確認できる程度であった。戻って樹林の中の斜面を下る。踏み跡は確認できるが、ものすごい急斜面である。下り切ると茶畑の広がる明るい鞍部にでた。この鞍部を朝比奈川流域の谷川集落と藁科川流域の飯間集落を結ぶ小道が乗っ越している。何らかの峠名はあると思うのだが何の標示もない。宇津ノ山並と藁科川右岸山稜はこの鞍部によって大きく寸断されている。
 
 鞍部の反対側の斜面に取り付く。急に明確となった踏み跡も登るに従い再び細まる。約15分の急登で、尾根筋に登り着く。414メートルの標高点ピークである。ここに犬を連れた男の人がいた。地元の人のようである。ダイラボウまで行くというと驚いた様子で、「道は知っているのか。この先踏み跡が複雑で、気をつけないと朝比奈川側へ下ってしまう」と心配してくれる。この地点はT字路になっていて、野田沢峠へのルートは尾根を右に辿る。いよいよここから藁科川右岸山稜の縦走開始である。緩やかな尾根を進むと、右手に伐採地が現われ、富士山が微かに見える。二万五千図をザックからヤッケのポケットに移す。ここからは地図で現在位置を一つ一つ確認しながら進まなければならない。見通しの利かない藪山では、現在位置がわからなくなったらお手上げである。細い踏み跡が稜線上に続いているが、この踏み跡だって注意しないと何処に引き込まれるかわかったものではない。尾根は左にカーブしながら緩やかに下る。手入れの悪い檜の植林と照葉樹林の藪に、竹藪まで混ざっている。なんとも雑然とした藪道である。緩やかに下っていくと、踏み跡が次第に明確になり、野田沢峠に達した。
 
 なんとすばらしい峠であろう。思わず感嘆の声を上げる。この峠を朝比奈川支流野田沢川奥の野田沢集落と藁科川支流飯間谷川奥の飯間集落を結ぶ確りした小道が乗っ越している。一段高いところには瓦葺きの立派な地蔵堂があり、7体の石仏が鎮座している。左右の6体はまだ新しい地蔵尊、真中の1体は何の仏なのだろうか、文久元年(1861年)酉9月の銘がある。地蔵堂の中を覗き込むと、各地蔵尊の後ろにすっかり摩耗し首の折れた地蔵尊が隠れるように並んでいる。この地蔵堂は昭和63年に改築されたとのことなので、おそらく地蔵尊も新しく安置されたのであろう。確りした小道、改築された地蔵堂、この峠が今なお生きていることがわかる。この石仏は、何百年にわたって、この峠を越えた人々の悲しみや喜びを見続けてきたのだ。風の音さえしない静かな峠に一人たたずむと、この峠を越えていった幾多の人々の姿が頭の中に浮かび上がってくる。
 
 ここまでは迷うことなく無事にやって来れた。ここから西又峠までは、地図を見ると尾根の入り組みはさらに複雑で、かなりのルートファインデイングが予想される。地図を改めて頭に叩き込み出発する。幸い、尾根上には細いながらも踏み跡がある。地図を細かにチェックしながら慎重に進む。2〜3小ピークを越えると一面茶畑の広がるなだらかなピークに達した。茶畑の縁の確りした小道を進むと、もう一人の私が話しかけてきた。「藪山の自称超能力者よ、この道で本当にいいの」。 私が答える。「道が怪しいことなんかとっくにわかっているよ。もう少し進んでみて判断するつもりでいるんだ。さっき左側の藪に微かな切れ目があったのをめざとく確認してあるんだ」。 やはりこの道は違うようだ。戻ってさきほど見つけてあった藪の切れ目を探る。藪の中に微かな踏みあとらしき気配が続いている。どうやらこれが縦走路のようだ。しかし、入り口にはテープ一つなく、この踏み跡を見つけられる者はそうはいないだろう。
 
 踏み跡は次第にはっきりしてくる。藪を抜け、301メートル標高点峰との鞍部に達すると再び小さな茶畑が現われた。踏み跡はいつしか確りした小道となり、この301メートル峰を左から巻に掛かる。樹林の中の小道を辿るが、どうも不安となる。意を決して、小道を捨て藪を分けて尾根に這い上がってみる。尾根の上は茶畑となっていた。山頂で茶畑は終わりその先は藪が広がっている。ルートはここで左に90度カーブするはずである。地図を信じて、藪を分けると、微かな踏み跡が再び現われる。この辺りは必死に地図を読みながらの前進である。
 
 小ピークを越えて緩く下ると踏み跡もほとんど途絶え、地図上の約320メートル峰への急登となる。息せき切って登り着く。事前の地図読みで、このピーク上でのルートの取り方が今回の山行きの最大の関門と考えていた。ルートは西北から北、さらに西から北と細かに方向を変えなければならない。微かな踏み跡を辿ると案の定行きづまってしまった。白テープがあるが、その先は樹林の急斜面でありルートではない。注意しながら引き返えしてみるがルートは発見できない。初めてコンパスを取りだしルートを慎重に検討する。もう一度行き詰まった地点まで行ってみる。地図上の354.5メートル峰に続く尾根が左に分かれるはずなのだが、どうしてもこのルートが発見できない。この地点の白テープをつけた人も迷ったと思われる。方向はわかっているので、戻り気味に藪の中の斜面をトラバースする。小さな支尾根に這い上がると、微かな踏み跡が見つかった。目指す西又峠へのルート思われるが念のためルートを逆に辿ってみる。すぐに354.5メートル峰に続くと思われる尾根にでて、この尾根を左に辿ると迷った地点にでた。この入り口は藪に阻まれとても発見できるような状況にはなかった。正規のルートと確信できたのでひと安心である。次第にはっきりしてきた藪道を進むと切り通しの上にでた。西又峠である。
 
 朝比奈川支流西又川奥の西又集落と藁科川支流小瀬戸谷川奥の小瀬戸集落とを結ぶこの峠は、立派な舗装道路が通りなんとも情緒がない。峠のお地蔵様とてなく、野田沢峠と比べなんと落差の大きいことか。意外にも道端に道標があり、ダイラボウまで90分と記されている。案内書にはなかったが、ここからダイラボウへの登山道があるようだ。峠に3台ほどの車が止まっているが登山者のものなのだろう。立派となった登山道を登る。道標も到る所にあり、もう地図を見る必要もない。峠からダイラボウ山頂まで高度差320メートル、道標の90分はオーバーである。空身なら1時間で400メートルは登れる。緩やかな登りが続く。ときおり右側に視界が開け、藁科川方面が見える。中年の男女パーティと擦れ違う。今日初めて出会う登山者である。やがて弓折峠への道を左に分けるとあっさり山頂に達した。見込み通り峠から40分の行程であった。
 
 山頂部は案内の通り、二重山稜のようになっており、山稜の間がダイダラボッチの足跡といわれる草原となっている。東側の山稜に櫓があり、登ると静岡市内から駿河湾方面に展望が開けている。ただし今日は霞みの中である。360度の展望と聞いていたが事実はだいぶ違う。ここに元気のよい4人連れのオバちゃんたちが休んでいた。草原の奥には丸太作りの避難小屋も見える。これで今日も計画通り無事縦走完了である。
 
 小休止の後、富厚里峠に向け下山に掛かる。草原を横切り西側の山稜に登ると、ここに561.1メートルのダイラボウの三角点があった。樹林の中を下ると陶器で作られた「白雪姫と7人の小人」の像が場違いのように並んでいる。茶畑に出るとショウジョウバカマの群生地である旨の立て札があるが、周囲にそれらしき草は見当たらない。「静岡 花の百山」の著者河西哲郎氏は、最後の百山目にこの花を求めて家族でこの山に登っている。オバちゃんたちを追い越して樹林の中を走るように下ると、富厚里峠に達した。朝比奈川流域の玉取集落と藁科川流域の富厚里集落を結ぶこの峠も、車道が乗っ越している。ただし、立派な地蔵堂の中にお地蔵様が安置されており、昔の雰囲気を残している。藁科川を目指して車道をどんどん下る。下り切った富厚里集落は紅梅が満開であった。幸運にも5分待ちでバスがやってきた。
 
 今回の山行きも、藪山の縦走のスリルを充分に楽しませてくれた。ダイラボウはたいした山ではなかったが、野田沢峠というすばらしい峠を知った。いつの日か富厚里峠からさらに稜線を大鈴山に向け北上してみたいものである。