東海道古来の難所 宇津の山々を縦走

大日本坂から満願峰を越えて宇津ノ谷峠へ

1994年12月10日

              
 
小坂集落(800)→日本坂(850〜855)→花沢山(915〜930)→日本坂(945)→水分大神(955〜1000)→満観峰(1035〜1100)→蔦の細道(1220〜1235)→宇津ノ谷峠(1310〜1315)→宇津ノ谷集落

 
 静岡、清水の市街地の広がる静岡平野は、前面を海、三方を山々に囲まれている。登呂遺跡に見られるように、古代より人々は温暖で海幸山幸の豊富なこの地に居を定めた。また戦国の昔は敵の進入を防ぐに適した地でもあった。一方このような地形は、市街地の発展を制約し、また競争を嫌う村落共同体的風土を育み、現在においてはこの地域の経済的停滞の原因ともなっている。
 
 静岡平野の北東に立ちはだかる壁は浜石山稜であり、この山稜には先月足跡を印した。西から南西に掛けて立ちはだかる山並が宇津の山々である。南アルプス白峰南嶺から四分五裂して続いてきたこの山並は、太平洋に大絶壁となって落ち込み、西からの陸路を完全に遮断している。古来より東海道の難所であり、古事記や伊勢物語など多くの歌や物語に登場する。日本武尊は日本坂においてこの山並を越えた。現在は国道50号線、東名高速道路、東海道新幹線の三本の日本坂トンネルがこの下を貫いている。平安時代になると、さらに北側の鞍部に道が開かれた。この道は「蔦の細道」と呼ばれ、今もハイキングコースとして昔の面影をとどめている。中世になるとさらに少し北側の宇津ノ谷峠に道が開かれた。現在は国道1号線の新宇津ノ谷トンネルがこの下を貫いている。
 
 オフィスの窓一杯にこの宇津の山並が広がっている。山並の最後の高まりである花沢山から垂直の絶壁が一直線に太平洋に落ち込んでいる様子がよく見える。この絶壁の続く海岸を大崩海岸といい、現在でも海岸沿いの通行は不可能である。前々からこの宇津の山並を歩いてみたいと思っていたが、標高300〜500メートルの藪山であるので、冬枯れの季節を待っていた。
 
 新静岡センター発7時28分の小坂公民館行きのバスに乗る。今日の計画は、小坂(おさか)集落から日本坂に登り、花沢山を往復した後、稜線を北西に辿り、満観峰を越えて宇津ノ谷峠付近まで縦走するつもりである。花沢山と満観峰の間はハイキング案内もありコースに心配はないが、それより北の稜線は縦走記録も見当たらず、歩けるかどうか行ってみなければわからない。バスは最初から最後まで私一人の貸し切りであった。
 
 8時、小坂集落着。小坂川に沿った集落の中を歩き始める。予報は晴れ時々曇りであったのにもかかわらず、空はどんよりと曇り、今にも降りだしそうな天気である。周囲の山々は霞み、展望は期待薄のようである。小坂集落はすばらし雰囲気を持った山村である。「小坂の里」との呼び名がふさわしい。静岡市は街並が汚く、いささか歴史的情緒に掛けるが、その周辺の集落はどこもすばらしい雰囲気を持っている。今私が辿っている道は、古事記にも登場する古代奈良朝以前の東海道、「やきつへ(焼津辺)の道」である。周囲の斜面は蜜柑畑と茶畑である。この小坂の里は蜜柑の産地としても名高い。道が二つに分かれる。右の道は満観峰へ向かう。私は日本坂へと向かう左の道を辿る。
 
 小さな道標に導かれて、林道から外れて左の小道を辿る。藪っぽい道だ。茶畑に出て、すぐに先ほど分かれた林道の終点に出た。今日はそれほど寒くない。ここでヤッケを脱ぐ。茶畑の縁を登っていくと、8時50分、あっさりと日本坂に達した。小さな鞍部で、一段高いところに地蔵堂がある。この峠を日本武尊の率いる大和朝廷の軍勢が東国平定を目指して越えていったのは何時のことであろうか。古事記の世界である。焼津側の花沢集落に向かって立派な遊歩道が下っている。誰もいない静かな峠で、じっと耳を澄ませて古代の人々の足音を聞こう。「焼津辺に わがいきしかば駿河なる 阿倍の市道に逢いし児らはも」。 この坂を詠んだ万葉集の一首である。
 
 稜線を南東に辿り、花沢山に向かう。踏み跡程度の荒れた道である。すぐに茶畑の縁のものすごい急登となる。背後で物音がして、振り向くと小型の獣が藪を横切った。痩せ尾根を経て、樹林の中を登ると山頂に達した。小広い山頂にはJ・Rの無線反射板が二基建てられていて情緒はない。電波の通り道だけ樹林が切り払われていてわずかに展望が得られる。北東側は眼下に用宗港、その先には波静かな駿河湾と日本平が見渡せる。南西側には志太平野の低い山並が続いている。証拠写真を撮って、もとの道を戻る。正面に三角形の丸子富士が霞んでいる。日本坂から今度は満観峰を目指して稜線を北西に辿る。ここからはよく整備されたハイキングコースとなった。ただし、樹林の中で展望はない。少しの登りを経ると右側は荒れた茶畑となる。「水分大神」と刻まれた嘉永六年銘の石碑があった。「みくまりのかみ」と読む。水の神様である。西暦1853年の江戸時代末期の石碑である。
 
 廻沢方面への小道が左に分けると、434.1 メートル峰への急な登りとなった。階段のつけられた登りを黙々と進む。ふと顔を上げたら、目の前に中年の単独行者が道を譲って待機していた。まさか私以外に人がいるとは思わなかったのでびっくりする。三角点を過ぎ、暗い樹林を抜けると目の前に饅頭形の満観峰が現われた。山頂はよく手入れされた茶畑で囲まれている。10時35分、山頂に達した。すばらしい山頂である。山頂部は芝生が敷き占められ、ベンチとテーブルがいくつも設置されている。360度遮るもののない展望が開け、周囲の山々が墨絵のように霞んでいる。展望盤によると富士山も見えるようであるが、今日はどんよりした天気でまったくその姿は見えない。誰もいない山頂でのんびりと昼食をとる。
 
 さて、問題はここからである。辿ってきたハイキングコースはここから北に折れて丸子富士、朝鮮岩へと向かっている。私は南西に向かう稜線を辿って宇津ノ谷峠方面に行くつもりである。目指す方向には、道標はおろか踏み跡もない。果たして稜線は辿れるのかどうか。茶畑の畔を抜けて偵察に行く。樹林の中の稜線はなんとか歩けそうである。意を決して出発する。稜線はひとまず南西に向かいすぐに西に向きを変え、さらに北へ向かう。かなり複雑であり、よく地図を頭に叩き込んでおかなければならない。茶畑を抜け、樹林の中に入る。うまい具合に目指す稜線に乗ったようである。稜線上には切れ切れながらも微かに踏み跡らしきものがある。所々に赤布もあり、私以外にも物好きにこの稜線を辿った者がいると見える。尾根の屈曲点を注意深く進む。杉檜の手入れの悪い藪尾根であるが、冬枯れのため、歩くのにそれほど困難はない。小さな瘤を越えながら次第に高度をさげる。
 
 急な登りを経ると小ピークに達した。左側が伐採地となっていて展望が大きく開ける。地図上の340メートル峰のはずである。眼下には特徴のない低い山並がうねうねと続き、地図とにらめっこしても、どこがどこだかさっばりわからない。この先稜線は緩く下った後、左に90度カーブする。どうやら誤らずルートに乗ったようだ。ものすごい急な下りを立ち木を頼りに下ると、今度はステップもとれないほどのものすごい急登に変わる。地図上の298.4 メートル三角点峰への登りである。登り着いた山頂部は伐採跡のものすごい藪で、まったく踏み込むことが不可能であった。左右どちらかから巻くより方法がない。まず右側から試みたが行きづまってしまった。戻って左から試みる。左側には割合明確な踏み跡があるが、作業道と見えて南側の支尾根に続いている気配である。方向感覚だけを頼りに、樹林の中の踏み跡のまったく絶えた斜面を下る。スズタケの密生をかきわけてひと下りすると茶畑が現われ、あやまたず、蔦の細道に飛び出した。ここまで無事縦走成功である。
 
 この蔦の細道は平安時代の東海道である。伊勢物語の中で在原業平はこの地を「するかなる うつの山辺のうつつにも 夢にも人にあわぬなりけり」と詠んでいる。峠にはこの歌を刻んだ石碑が建てられていた。宇津ノ谷峠を目指してさらに稜線を西に辿る。道標はないものの峠から踏み跡が稜線上つけられている。緩く登ってピークに達すると、踏み跡が絶えた。ここに、意外なことに、老夫婦が座り込んで御弁当を広げていた。問うと、「吐月峰に行けると思って踏み跡を辿ったら、道がなくなって困ってしまった」とのんきなことをいっている。どうやら蔦の細道から迷い込んだようである。藪を漕いで稜線を辿る。二つピークを越えて三つ目のピークで少々戸惑った。すぐ下に宇津ノ谷集落が見えている。地図を読み返して、左に大きくカーブを切る。再び尾根筋に乗ったようである。突然無人の大きな建物が現われた。何かの施設と見えて、大きな送風機がうなっている。標示もなく無気味な建物だ。ここでまたルートに少々迷ったが、右にカーブする尾根に添って舗装道路が上がってきているのでこの道を下る。200メートルほど進むと、道路は尾根を突っ切る。この地点で道路を離れ、ものすごい急斜面を遮二無二立ち木にぶら下がって滑り落ちると、なんとそこが旧東海道の宇津ノ谷峠であった。
 
 もはや通る人とてない小さな小道が尾根の切り通しを乗っ越している。この小道が鎌倉時代から明治九年に最初の宇津ノ谷トンネルが開通するまでの東海道である。多くの旅人が、軍勢が、そして大名行列がこの地点を越えていったのだ。小さな案内板があり、この地点を越えた最後の大名行列は明治天皇であったと記されている。暗い谷間のような切り通しに一人座っていると、行き交う旅人の話声が聞こえてくる。辺りは静寂で風の音とてしない。
 
 時刻はまだ1時少し過ぎ、さらに縦走を続けてもよいのだが、ここから先は下山道が求めにくい。小道を宇津ノ谷集落に下ることとする。地蔵堂跡などのある小道を20分も辿ると、集落上部の旧国道1号線宇津ノ谷トンネルの入り口に達した。この昭和5年に開通したトンネルは「昭和のトンネル」といわれ、今は旧道となって通る車も少ない。ここから5分ほどのところにある「明治のトンネル」といわれている宇津ノ谷峠に最初に掘られたトンネルに行ってみることにする。トンネル入り口には柵が設けられて車は通れないが、中にはカンデラ風の電灯が点され歩けるようになっていた。戻って、宇津ノ谷集落に入る。集落は昔の東海道の雰囲気をよく残しており、各家に屋号が掲げられている。さらに15分も下ると国道1号線の新宇津ノ谷トンネル入り口のバス停に達した。この昭和34年に開通したトンネルが今の東海道である。その隣には新たに平成のトンネル工事が進んでいた。待つほどに1時55分のバスが5分遅れでやってきた。