出牛峠越えと横隈山

困民党の歴史を刻む峠を越え、踏み跡薄い薮山へ

2001年1月3日

 
 
野上駅(800)→犬塚橋(825)→出牛峠(855〜920)→出牛集落(930)→いろは橋(945)→平沢集落(1000)→車道終点(1005〜1015)→住居野峠(1035〜1045)→林道(1055)→登山口(1100)→横隈山山頂(1110〜1125)→TVアンテナ(1135〜1145)→沢戸集落(1155)→ 杉の峠(1210)→上武橋(1240)→鬼石町病院前バス停(1245)
 
 
出牛集落より横隈山を望む
 
 この冬はもっぱら登り残した埼玉県の小峰に登っている。今日の目標は北秩父の横隈山(よこがいさん)である。横隈山は荒川水系と利根川水系〈神流川水系〉との分水稜上の小峰である。まともな登山道もない藪山で、二万五千図にも山名の記載はない。おまけに山頂直下まで林道も上ってきており、わざわざ登りに行くほどの山ではない。実は、今日のお目当ては横隈山ではなくその途中の出牛峠(じゅうしとうげ)越えと出牛集落である。

 出牛峠は秩父地方と児玉地方を隔てる不動山を主峰とする山稜上の峠で、旧野上町〈現長瀞町〉中野上集落と皆野町出牛集落を結んでいる。この峠は単に集落と集落を結ぶローカルな峠ではない。古来、中山道と秩父往還を結ぶ重要な峠であった。いわば秩父地方の北の玄関口であり続けた峠である。四方を山に囲まれた秩父地方にとっては外界と結ぶ窓が重要である。現在では寄居町に抜ける荒川沿いの道と飯能市に抜ける正丸峠越えが主要な窓であり、いずれも国道と鉄道が開通している。しかし、大正3年に荒川沿いの秩父鉄道が秩父まで開通するまでは、北へのルートが最も重要な窓であった。児玉地方に抜け、中山道を利用して江戸〈東京〉へ、京・大阪へと向かったのである。したがって、秩父新道と呼ばれる秩父地方と外界を結ぶ最初の車馬通行可能な道路も出牛集落を経て児玉町に通じるもであった。この道路は明治19年に建設される。出牛集落は今では知る人も少な小さな山村にすぎないが、江戸期から明治にかけては一大宿場町であった。なんと! 数軒の遊郭まであったという。これらのことからも、出牛峠がいかに重要な峠であったかがわかる。

 明治17年11月4日の昼下がり、500〜600名の武装した農民の一隊がこの出牛峠を越えて児玉地方へと進軍して行った。中山道を攻め上り東京を占拠して革命政権を樹立するという壮大な志を胸に。大野苗吉率いる秩父困民党の軍勢である。しかし、同日深夜、児玉町郊外の金屋において帝国陸軍と激しい戦闘の結果壊滅する。大野苗吉は戦死、敗残の兵は再び出牛峠を越えて故郷秩父へと敗走した。これにより、天皇制打倒と人民民主主義を求めた秩父困民党の挙兵は失敗に終わる。そして時代は天皇中心の国家主義へと向かうのである。秩父市街を見下ろす荒川左岸の音楽寺に次のような碑文が刻まれている。

   「われら秩父困民党 暴徒と呼ばれ 暴動と呼ばれることを拒否しない」
 
 熊谷発7時13分のいつもの電車に乗って、野上着8時。がらがらの電車を降りたのは私ただ一人であった。国道を突っ切り、駅前の道をまっすぐ進む。勝手知った道である。空は真っ青に晴れ渡り、朝日がまぶしい。しかし山里の寒さはさすがに厳しい。人影のない小さな町並みが尽き、道が右にカーブすると、朝日に輝く不動山が目の前にそびえ立った。昨年の11月にこの山に登った。12月に辿った長瀞アルプスの低い山並みは左手に続いている。程なく県道長瀞・前橋線に出る。通る車とてない県道を足早に進む。この県道は出牛峠道の代替の車馬通行可能道路としてとして大正6年に開削された。唐沢新道と呼ばれ、出牛峠の西を迂回して出牛集落へと通じている。程なく犬塚橋のほとりに出る。ここで出牛峠道が分かれる。前回は気がつかなかったが古い石の道標がある。大正11年1月銘で「右 峠ヲ経テ出牛ニ至ル  左 唐沢ヲ経テ出牛ニ至ル」と刻まれている。おそらく当時、車馬は新道を進み、人は峠道を採ったのだろう。
 
 峠道に踏み込む。入り口はゴルフ場への取り付け道路となっているが、すぐに犬塚沢沿いの地道の林道に変わる。15分も進むと林道は尽き、いよいよ昔のままの峠道が出現する。深くえぐれ道型は確りしているが、倒木と薮が時折道を塞ぐ。もはやこの峠道はハイカーが時折利用するだけなのだろう。雑木と竹薮の混ざった雑然とした道を緩やかに登っていく。この道を困民党も辿ったかと思うと感慨が深い。疲れを覚えるまもなくあっさりと峠に登りあげた。しかし、いささか腹の立つことに、峠は立派な稜線林道で破壊されてしまっている。通る車とてない路面に座り込んで朝食兼用の握り飯をほお張る。上空では風が唸りをあげているが、日差しがぽかぽかと暖かい。

 出牛集落へ下る峠道に踏み込む。直下に古びた石柱の道標が残されている。「右 野上樋口道」と刻まれている。大正6年4月銘である。峠道は空堀と思えるほど深くえぐれているが、切り倒された雑木が道を塞ぎ通れない。昔この峠道は幅6尺もあったという。雑木林の中の薮をかき分けながら峠道を追う。林を抜けると茶畑が現れ、人家が現れ、峠からわずか10分で西福寺の脇で今朝方別れた県道に下り立った。ついに出牛の里にやって来たのだ。ここが明治の中頃まで宿場町として繁栄を極めた里なのか。道の両側に家々がびっしりと建ち並び、茶屋や旅籠が10軒もあったとい里なのか。旅籠の二階からは遊女が手招きをしていたという。しかし、見渡す出牛の里は町並みというような人家の密集もなく、県道に沿って新建材の家々が歯抜けしたようにぽつりぽつりと建つ、何やら埃っぽい平凡な集落であった。昔の面影を求め、峠を越えてやってきた現在の旅人は少々がっかりして県道端にたたずむ。実は出牛集落は大正9年の大火により、昔の町並みはすべて失われてしまったのだ。それでも、わずかに昔の栄華の痕跡とも言うべきものが今に伝わっている。埼玉県の有形文化財に指定されている出牛人形浄瑠璃である。西福寺の前に出牛浄瑠璃の道具を保管する倉庫があり、前に次の様に記された説明書が立てられている。

       出牛人形浄瑠璃道具一式
  出牛は、江戸時代から宿場としてにぎわいました。特に、上州
  と秩父の往来に、また中山道本庄から児玉を経て秩父の道は秩
  父街道といって、本庄・小鹿野間の乗り合い馬車が開通すると
  益々にぎわいました。また、秩父札所巡礼の道でもあり、絹の
  道でもあったのです。この人形は、そうした時代に宿場出牛の
  芸能として長い間発展してきたものです。
  胴下着に元文二年(一七三七年)文化八年(一八一一年)など
  の紀年があります。彫刻をほどこした上下芸座がありますが、
  これには安政二年(一八五五年)卯孟春武州榛沢郡手斗産弘山
  彫とあり、この頃が出牛人形の爛漫であったと思われます。
  首かしらは大きく気品があり、衣装も豊富です。また、一メートル程
  の人形を主遣いといって、首と胴を左手で操り右手で人形の右
  手を、左遣いといって人形の左手を、また足遣いの三人からな
  る、大阪文楽と同系のものです。
  首五三、手一三、足一三、胴一八、衣装一五四点、他に大道具、
  個道具、掛小屋に用いた芸座二基、引幕等数十点があります。
  大正三年の上演を最後に五〇年間の断絶がありましたが、地元
  の人たちの努力で人形浄瑠璃は復活しました。
                   出牛人形浄瑠璃保存会
                   皆野町教育委員会
                   皆野町観光協会
 県道を児玉に向かって歩く。沿うている川は小山川である。この川は深谷市北部で利根川に合わさる。深谷小学校に通っていた幼少の頃、この下流部に遠足でいった記憶がある。大河のイメージが残っているが、足下の川はほんの小川である。行く手にこれから登る横隈山が見える。県道を15分ほど歩き、いろは橋で平沢集落に向かう道に入る。行き詰まりの山村に向かうにしては立派な車道である。通る車とてないいくぶん傾斜の増した道をすすむ。やがて数軒の家が斜面に点在する平沢集落に到着した。人影もない。最後の人家を過ぎると辿ってきた道は尽きる。

 さていよいよ今日の第二幕、横隈山登山である。とはいってもこの山はまともな登山道がない。いくつかの案内はあるのだが、ルートはどうも判然としない。自らの判断で登るしかなさそうである。道路終点から山中に向かう踏み跡が二つある。ひとつは確りした踏み跡で、右に山腹を斜高している。もうひとつは沢沿いに奥へ進む弱々しい踏み跡である。意外なことに横隅山を示す児玉山の会の立派な道標があるのだが、どちらの踏み跡を示すのかはっきりしない。私の頭に描いているルートは、足元の小沢をつめて稜線に達し、そこから稜線沿いに山頂に達する道筋である。常識的には右に登る確りした踏み跡を選択するのだろうが、どこへ導かれるかわからない踏み跡より、頭に描いたルートを採るのが薮山歩きの基本である。沢沿いの微かな踏み跡に踏み込む。すぐに沢は二股に分かれた。ルートは右の沢である。しかし、残念なことに、踏み跡は左の沢へと続いている。仕方がないので、沢を詰めることにする。わずかな水量であり、足を濡らさずに歩ける。しかし、流木が多く、遡行もそれなりに大変である。先行き不安を感じながらしばらく沢を詰めると、再び二股に分かれた。ルートは今度も右だ。ところが、嬉しいことに、確りした踏み跡が現れ、ルートの沢沿いに続いている。おそらく、道路終点で右に斜高した踏み跡が沢を高巻きながら続いてきたのだろう。やがて、沢は詰めに入った。踏み跡は沢筋を離れジグザグを切りながら一気に稜線に向かう。

 登りあげた稜線は樹林の中の暗い小さな鞍部で、苔むした石柱の道標がある。ここが案内にあった住居野(すまいの)峠のようである。辿ったルートに間違いはない。石柱には次の通り刻まれている。

     北面には「本泉村字平沢ヲ経テ國(神)」「住居野ヲ経テ鬼石」。
  東面には「秩父郡金沢村更木」「若泉村ヲ経テ鬼石」。
  南面には「太駄村青(年団)」。
  西面には「立太子記念」。
 
 この峠は地図にも記載はないが、かつては山中の十字路であり、交通の要衝であったのだろう。辿ってきた踏み跡はどうやら昔の峠道であったようである。反対側、住居野集落に下る踏み跡は道型は微かに残るものの薮に隠されている。小休止の後、尾根を北へ辿る。尾根上には確りした踏み跡がある。緩やかに登っていくと椎茸栽培場が現れ、尾根は丁字路となる。確りした踏み跡は右の尾根に続いているが、ルートは左の尾根である。この辺りは正確な地図読みが必要である。やがて尾根は広がり尾根筋は消える。樹林の中の平斜面を構わず登りあげると二万五千図に記載されている地道の林道に出た。ここまでのルートの正しさが確認できる。林道を右に緩やかに登る。大きなヘアピンカーブを過ぎると広場が現れ、ここに横隈山登山口と記された小さな道標があった。急斜面を立木を支点にして右の尾根に登りあげる。潅木の間に初めて視界が開け、左側眼下に神流川と鬼石の町並みが見える。その背後には御荷鉾山等の西上州の山々が見え隠れしている。緩やかな尾根道に石碑が点々と建っている。「御嶽座王大権現」、明治4年銘の「武尊大権現」、明治5年銘の「 御嶽大神国常立 尊  」。この横隈山は信仰の山でもあるのだろう。すぐに待望の山頂に達した。21世紀最初の頂である。
 
 山頂は雑木林に囲まれた小平地で、三角点と児玉山の会の山頂標示がある。北側に木の間隠れにわずかに視界が得られる。足元にゴルフ場が広がり、その先に鬼石の町並みが見渡せる。背後には榛名山も霞んでいる。上空は相変わらず強風が唸りを上げているが、山頂はぽかぽかと暖かい。山頂に座り込んで握り飯を頬張る。至福のひとときである。何を好んで正月早々名もない藪山に一人やってきたのだろう。さて、下山路を決めなければならない。ただし、もと来た道を戻るのは嫌だ。眼下にみえる鬼石の町に下ってみよう。そんなに遠くはない。とはいっても、ルートは自分で切り開かなければならない。地図をよく読み、ルートを北東に採る。潅木の中のものすごい急斜面を滑り落ちるように下る。微かに尾根筋はあるが踏み跡らしきものは全くない。ルートファインディングも難しい。やがて確りした尾根に下り降りた。ここにテレビアンテナがあり、左斜面を下る踏み跡が現れた。やれやれである。方向からしてこの踏み跡を辿れば目指す沢戸集落に下れそうである。薄暗い桧の植林の中の踏み跡を辿る。落ち葉に隠され、初めははっきりしなかった踏み跡も次第に明確となる。アンテナから10分も下ると人家が現れた。沢戸集落である。開けた斜面にいかにも山村らしい大きな家々が数軒点在している。集落の中の小道を進むとすぐに今朝ほど分かれた県道に降り立った。今日も山中一人の人影も見ることはなかった。振り返ると、下ってきた横隈山が大きく聳え立っている。

 後はこの長瀞・前橋線をひたすら歩けば鬼石の町に達するはずである。杉ノ峠を越え、いくつものヘアピンカーブを過ぎる。眼下の鬼石の町並みが次第に近づいてくる。バスもないのでただひたすら歩く以外ない。ついに神流川に掛かる上武大橋に達した。この橋を渡れば群馬県、鬼石の町である。町中に入った。鬼石から本庄行きのバスがあるはずである。しかし、一体どこがバスターミナルなのだろう。町中はがらんとしていて人影もない。町役場を目指す。すると町立病院が現れ、その前にバス停があった。時刻表を見ると1時間に1本の本庄行きバスがわずか2分の待ち時間でやってくる。正月早々何と幸運なことか。すぐに無人のバスがやってきた。21世紀の山登りも無事終了である。

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