春が駆け足でやってきた。昨日、取り残しの白菜に黄色のつぼみが膨らんでいるのを見てびっくりした。この冬はもっぱら比企の低山を歩いてきた。今日は都幾川右岸の弓立山を目指す。標高わずか427メートルの低山であるが、山名からして何やら曰くのありげである。登山記録を見ると、展望もない至ってつまらない山のようであるが、二万五千図にも山名の記載があり、登り残して置くわけにはいかない。車で行けばわずか10分ほどで登頂できるようであるが、これでは山登りではない。とはいっても、都幾川村営バスは休日は全滅状態である。地図をにらみつつルートをあれこれ考えたが、名案は浮かばない。今日は里歩きに徹しよう。奥比企の里を巡るのも悪くはない。明覚駅から歩いて弓立山を越え、越生梅林に下ることにする。梅もそろそろ見頃だろう。帰りがけの駄賃に越生の小峰・弘法山に寄れば、ひと山稼げる。
熊谷、寄居、小川町と乗り換えて、8時33分、八高線の明覚駅にたどり着いた。駅の跨線橋からの眺めがすばらしい。小さな町並みの背後に見慣れた山々が連なっている。左手にこれから登る弓立山、右手に昨年12月に登った雷電山、その真ん中奥に比企の名峰・笠山と堂平山が朝日に輝いている。
勝手知った道を都幾川村役場に向かう。右手には愛宕山―堂山―雷電山と低い山稜が続き、左手奥にはこれから登る弓立山が意外に高く聳えている。標高の割には存在感のある山である。山頂付近には大きな鉄塔が見える。今日は一日穏やかな天気との予報だが、朝方のためか雲が多い。役場を過ぎ、中学校を過ぎると辿ってきた県道が左に大きくカーブする。この辺りに弓立山登山口があるはずだがうまく見つけられるかどうか、今日の第1関門である。旧道に入るとすぐに登山口を示すしっかりした道標があった。ひと安心である。左手高台に八幡神社があるので行ってみる。境内に人影はない。今日の無事を祈る。
いきなりの杉檜林の中の急登に息を切らすと、雑木林の緩やかな尾根道となる。ハイキング雑誌にも滅多に紹介されない小峰にしてはしっかりした登山道である。右手に木々の隙間から雷電山がちらちら見える。再び杉檜の植林に入ると急登が繰り返される。辺りは静寂そのもので風の音さえしない。左に下る踏み跡が分かれる。道標はなく、下りの場合判断に迷うだろう。
露石のある短い急登を経ると、大岩がいくつも露出した尾根の一角に達する。雄ヶ岩(現地の標示は「男鹿岩」となっている)と呼ばれる場所である。地図を見ると「雌ヶ岩」との地名が雷電山の中腹にある。対になっているのだろう。ベンチがあるので座り込んで朝食とする。陽が燦々と射して暖かい。大岩の上に登ってみると、関東平野が霞み、微かに大宮の高層ビル群が見える。北側には雑木の隙間から笠山と雷電山も確認できる。
階段整備された急坂をわずか2〜3分登ると、なんとそこが弓立山山頂であった。鬱蒼とした杉檜林の中の広々とした平坦地で、真ん中に三角点と山頂標示の木柱が立っている。展望も一切なく、方向感覚すら失いそうな場所である。ひとまず腰を下ろしてみたものの、日も射さず寒々としている。証拠写真を撮る以外する事もない。
弓立山の山名の由来についてはホームページ「旅の道標」に詳しく述べられている。
(http://village.infoweb.ne.jp/~hidakk/tokigawa_densetu.html)
それによると、『天慶8年(945)に武蔵国司・源經基が慈光寺の四囲境界を定めるため、当時「龍神山」と呼ばれていたこの山で蟇目(ひきめ)の秘法をおこなった。經基が四方に放った矢は、北が小川町青山の「矢の口」、東が大字瀬戸の「矢崎」、南が越生の「矢崎山」、そして西が「矢所」に落ちた。それ以降、この山は「弓立山」と呼ばれるようになった』という。
早々に下山に移る。しかし、この山頂は第一歩をどちらの方向に踏み出すかが難しい。目標物とてない深い樹林の中。どこでも歩ける代わりに、踏み跡もはっきりしていない。道標もない。私は山頂に達すると同時に危険を感じ、念入りに方向確認をしておいた。登ってきたのと反対側に10メートルも進むと、しっかりした踏み跡が現れた。大附集落への下山路に間違いなかろう。緩やかにほんの2〜3分下ると、何と、軽トラックが2台道端に止まり、山仕事姿の4〜5人が休憩している。山中初めて出会った人影である。ここから先、軽自動車がやっと通れるほどの狭い地道の林道となっている。左に視界がわずかに開け、今日最後の目的地・弘法山の三角形が微かに見える。
林道を5分ほど下ると、舗装道路に出た。下から見えた大きな鉄塔への道だろう。分岐に道標があり、下ってきた小道を「弓立山500メートル」と示している。山小屋風の一軒家の前を通り下っていくと、別の舗装道路に突き当たる。三叉路の角には立派な馬頭尊の石碑が残されている。道標があり、下ってきた方向を「弓立山」、右を「日枝神社」と示している。右手奥には2〜3軒の民家が見える。もうここは大附集落の上部なのだろう。目の前にはゴルフ場が広がっており、久々に展望が得られる。立ち止まって連なる山稜に目を凝らす。飯盛山からブナ峠、刈場坂峠と続く山稜である。その前に低く盛り上がっているのはつい2週間前に登った大築山ではないか。その右手には椚平の山上集落も見える。うれしくなった。
持参の案内地図では、この突き当たった車道を真っ直ぐ横切るルートが記されているが、それらしい道はない。ガードレールを乗り越えて樹林の中を探ると、踏み跡が見つかった。深くえぐれた立派な小道である。ただし、最近はほとんど利用されていないようだ。おそらく、車道開削前の、大附集落から日枝神社に向かう道であったのだろう。樹林の中を数分辿ると、民家の脇から立派な舗装道路に飛び出した。車道を大附集落の中心部に向かう。広く開けた明るい斜面に、大きな家々が散開している。いかにも奥比企の山村らしいなんとも味わいのある山上集落である。現在はミカンの産地として売り出している。200メートルほど進むと、「大附」のバス停があった。1日2本、都幾川村営バスが役場と結んでいる。ただし、休日の今日はお休みである。一段下に「大附ふれあいの里」があるので寄ってみた。お土産物と簡単な食事ができるようになっている。
さて、ここから越生梅林に下るのだが、道がさっぱりわからない。結果として、勘と幸運に助けられ、集落最下部まで最短ルートを辿れたが、逆から来た場合は絶望的だろう。もちろん、曲がりくねった車道を辿れば相当遠回りとなるが確実ではある。まずは、バス停からさらに50メートルほど先に進むと右側に八幡神社があり、その右下を通る地道の小道を下る。馬頭尊の石碑などあり古道と思われる。しばらく下ると舗装道路に降り立つ。どっちへ進むべきかしばし迷う。左に50メートルほど進んでみると、下へ向かう地道の小道を見つけた。この道も地蔵仏や馬頭尊が頻繁にあり、昔からの道のようである。やがて民家の庭先をかすめて、越生梅林に向かう道路に降り立った。あとは一本道である。
車のときおり通る舗装道路をひたすら歩く。だいぶ腹も減ったが、梅林まで我慢しよう。途中、「柳沢の馬頭尊」などもあり、また、民家の庭先には梅の花が咲き誇っている。振り返ると越えてきた弓立山がゆったりと聳えている。
30分も歩くと、にわかに車と人が湧きだした。越生梅林が近づいたのだ。空き地という空き地が駐車場となり大混乱の様子。人波に付いていくと梅林に達した。入場料400円。さすが名の知れた梅林、2ヘクタールの園内に約1200本の梅の古木がびっしりと並び、5分咲の花をつけている。木々の下では、家族連れ、恋人同士、団体と、各々お弁当を広げ、あるいは花見の宴を楽しんでいる。場違いのところに迷い込んだ登山姿のオッサンもひとり片隅に腰を下ろし、握り飯を頬張る。
「入間川 高麗川越えて都より
越し甲斐ありき 梅園の里」
佐佐木信綱
ふと足元を見ると、イヌノフグリのかわいらしい紫の花が一面に咲いている。まさに早春である。
早々に梅林を退く。次に目指すは弘法山である。道標に従い都幾川左岸の道を進む。しばらく行くと梅林の喧噪は遠ざかった。わざわざ梅園に行かずとも、この辺りの畑はすべて梅林である。まさに越生の里は春の息吹に満ち満ちている。弘法山の南面に達すると、道標が左に入る小道を「弘法山」と示す。枕木で階段整備されたやや荒れ気味の急坂を登ると中腹の広場に出た。弘法山についての説明板があり、次のように記載されている。
弘法山は高房山とも言い、以前は山頂に浅間神社、中腹に弘法山
観世音、山麓に見正寺があって全山信仰の対象として知られ、特
に弘法山観世音が弘法大師の作と伝えられていることから、弘法
山とも呼ばれるようになった。弘法山は越生町周辺ならばどこか
らでも眺められ、『新編武蔵国風土記稿』にも「四辺は松杉生ひ
茂りて、中腹に妙見寺あり、夫より頂まで殊に険阻の山なり。頂
に浅間の祠を建て、祠辺よりの眺望最も打ち開けたり。先ず東の
方は筑波の山を始めとして、比企、足立、江戸を打ち越えて、遠
く房総の山々を見渡し、南は八王子の辺までのあたりに見え、西
は秩父ヶ岳及び比企郡笠山、乳首山など連り、北は三国峠より信
州、越州の高山みえたり。」と記され、海抜二百メートル足らず
の山にしては異例の扱いを受けている。なお、現在は妙見寺はな
く、ここには観音堂が建立されて安産子育の観音様として参拝者
が多数訪れている。ここに奉納する縫いぐるみの「乳房の絵馬」
は、民俗信仰の上からも注目されている。
観音堂に詣で、山頂を目指す。杉檜林の中をわずかに登ると山頂に達した。山頂は諏訪神社の社が鎮座する小平地だが、周りを樹木が覆い「新編武蔵国風土記稿」に記された展望は得られない。この弘法山は標高わずか164メートルの小峰であるが、二万五千図にも山名が記載されている。そして何よりもこの山を特徴づけるのはその姿である。端正な、まるで人工的に作られたような三角錐がぽんと平野の隅に置かれている。何とも目立つ山である。おそらく、古代においては神奈備山であったのだろう。
南面より望む弘法山
小休止の後、東面に下る。こちらが正規の参道とみえ、しっかりした道である。越生の駅を目指す。振り向くと、田圃の向こうに弘法山の三角錐がぽこりと盛り上がっている。道標に従い小道を抜け、車の渋滞する県道を駅に向かう。狭い道だが、この街道は昔の鎌倉街道である。土蔵づくりの商家など残り、味わいがある。12時45分、越生駅にたどり着いた。小さな旅の終着である。 |