おじさんバックパッカーの一人旅   

中国・雲南の旅(4)  瀘沽湖と帰還の旅 

 雲南省の秘境・瀘沽湖に寄り、昆明に向け帰還

2008年4月17日

    〜4月28日

 
第六章 帰路の旅(1) 徳欽から香格裏拉、そして麗江へ
 
 第一節 徳欽から香格裏拉へ
 
 4月17日(木)。徳欽から先へはもう進めない。この先はチベット自治区、外国人は現在立ち入り禁止である。外国人を締め出し、その中で何が行われているかは容易に想像つくが、覗き見は出来ない。来た道を戻ることになる。差し当たり、今日は香格裏拉に戻る。あの寒々とした街を想像すると、気は進まないが仕方がない。

 朝7時に起きたときは晴れていたが、時間とともに雲が増していく。先ずはバスターミナルへ行って9時30分発のチケットを購入する。昨夕方、バスターミナルへ今日のバスチケットを購入しに行ったのだが、当日券きり販売しないとのことであった。さすがにここのチケット販売窓口は英語が通じなかった。紙と鉛筆が差し出され、書いてくれとのジェスチャーである。いったんホテルに戻り、9時、チェックアウトする。

 30人乗りの中型バスは80%程の乗車率であった。谷底の徳欽から高度を上げるに従い、梅里雪山が姿を現す。約15分で文明村の展望台を通過。梅里雪山の山頂部は雲で覆い隠されている。しかし、カワカブだけが、その雲を突き抜け、高々と天を指し示している。その神々しい姿はまさに神の坐す山の名に恥じない。しばらく走ったところで「加水」。本格的な登りが始まる地点には「加水」との看板を掲げた給水場が必ずある。ここで車は大量の水(数百リッターと思われる)を給水する。日本を含め他の国では、このような設備も行為も見たことがない。冷却水の補充だと思うがよくわからない。

 バスはひたすら登って4,292メートルの峠を越え、瀾滄江流域から長江流域へ移る。相変わらず誰もこの峠に関心を示さない。バスは長江に向かってただひたすら下り続ける。来るときには気がつかなかったが、大規模な山火事の跡がある。シラビソの林が広範囲に焼けただれている。危険な下りにもかかわらず、運転手は携帯電話を掛けっぱなしである。3時間走り続け、女性の催促でやっとトイレ休憩となった。東竹林寺を過ぎると遥か下方に金沙江(長江)の流れが見えてくる。下りきって奔子欄の街並を過ぎたところで30分の昼食休憩となった。

 13時45分出発。金沙江の橋の袂での検問は、今度は運転手にひと言尋ねただけであった。「『入り』は難く、『出』は安し」である。幸福村を過ぎ、再び厳しい登りとなる。梅の花咲く山里を幾つか通過して、スキー場のある峠を越える。ナパ海を過ぎると行く手に香格裏拉の街並が見えてきた。何と、雨が降りだしたではないか。16時、バスは香格裏拉のバスターミナルに滑り込んだ。

 小雨降る寒々とした街に下り立つと、気分も滅入る。この街は一刻も早く逃げ出したい。すぐにチケット販売窓口に行き、明日の麗江までのチケットを購入する。さて、どこか宿を見つけなければならないが、暖房の効いた暖かい部屋が恋しくなった。ターミナルに隣接した三つ星ホテル・迪慶交通賓館に行ってみたが、ロビーは団体客で溢れている。1人で泊まるところではなさそうだ。暖房の部屋を諦めて、前回泊まった「Tibet Cafe & Inn」へ行く。ここなら勝手知っている。「やぁ、また来たか」と暖かく迎えてくれた。食堂でオーストラリアの青年に会った。チベットを旅行していたが、追い返されたと言っていた。食後、雨も止んだので街に出てみた。広場では今日もチベット族の人々が輪になって踊っていた。

 
 第二節 香格裏拉から麗江へ

 4月18日(金)。早朝の街を兵士が隊列を組んでジョギングしていった。この街には人民解放軍の駐屯地がある。訓練とは言え、3,300メートルの高地でのジョギングは苦しいだろう。今日も寒々とした曇り空である。いったいこの街のどこが香格裏拉=桃源郷なのかと泣き言のひとつも言いたくなる。8時前にチェックアウトして1路のバスに乗ってバスターミナルへ行く。

 8時30分、麗江行き高速バスは80%程の乗車率で出発した。この「高速バス」の運賃は他の「豪華バス」より10元高い53元である。チケット売り場も別窓口であった。超豪華なバスを期待して、昨日チケットを購入したのだが、代わり映えのしない中型バスであった。おまけに、道端で手を挙げればどこでも停まる。いったいどこが「高速」バスなのかーーー。運転手の携帯電話が鳴ったかと思うと、原野の中の道端で停車。何事かと思ったら、遥か彼方のチベッタンの集落から、爺さんと婆さんが原野の中を懸命にバスに向かって歩いてくる。10分間の停車である。別に急ぐ旅でもないが、10元損した気持ちになる。

 緩く下った後、金沙江に向けての大下りとなる。虎跳峡鎮に下り着き、金沙江沿いの営業所で15分のトイレ休憩。バスを降りると、何とも空気が暖かい。ここは標高約2,000メートル、ようやく3,000メートルを越える高所から下ってきたことを実感する。発車したと思ったら、すぐにガソリンスタンドへ、さらに加水所で停車。「高速」バスの名前が泣く。このバスでも、運転手は携帯電話をかけ続けている。

 金沙江の岸を離れて、長い登りに入る。登りきった山頂部の小集落で農産物の市が開かれていた。このため、小型トラックや耕耘機などが道脇に所狭しと駐車し、一車線がふさがれてしまっている。すれ違いが出来ないために大渋滞である。交互に通行すれば何とかなるものを双方我先にと突っ込むので身動きできなくなっている。数人の警官がいるのだが全く能無し、お陰で200メートルほどを通過するのに小一時間掛かってしまった。それでも13時45分に、何とか麗江の新バスターミナルへ到着した。

 この街は標高2400メートル、陽が射していることもあり、何とも暖かい。宿を探して、麗江古城の街中を散々うろうろした揚げ句、賢林客桟という客桟にチャックインする。部屋は狭くてお粗末だが、1泊70元(約1,050円)と安い。和継芳と言う名のナシ族の女の子もかわいい。ただし、英語は全く通じない。「和」という姓はナシ族で1番多い姓といわれる。代々麗江の支配者であった木氏は、「木」が帽子をかぶり荷物を背負った字として「和」と言う姓を民衆に与えたためと言われる。街に出てみると、相変わらず観光客でごった返している。

 
 第三節 麗江の休日

 4月19日(土)。夜中の11時半、夜遊びから帰ってきた3人連れが、中庭のテーブルに陣取って大声で談笑を始めた。お陰で眠りを妨げられた。中国人は他人の迷惑などという道徳観は持ち合わせていない。このため、朝、目を覚ましたら10時半であった。今日は予定なし、1日のんびり過ごすつもりである。ここまで大きなトラブルもなく順当な旅を続けてきた。また、雨に降り篭められることもなかった。このため大分日程に余裕が生じている。

 朝食兼昼食をすませた後、バスターミナルへ向かう。明日、瀘沽湖へ行くつもりなので、チケットを取得しておきたい。歩いて20分ほどの距離である。麗江古城はテーマパークのような街で、生活の匂いはほとんどしない。それでも周辺部に行くと庶民の生活が垣間見られる。三眼井をみつけた。「三眼井(サンツェンイー)」とは流れる水を三つに区切り、1番上流のきれいな水を飲み水に、真ん中を野菜を洗う場所に、1番下流を洗濯用に分けたナシ族の伝統的施設である。おりしも、民族衣装姿の娘さんが洗濯をしていた。

 古城の南西の出口にマーケットがあった。実に大きいのに驚く。常設店舗の周りに無数の青空店舗が開かれ、ありとあらゆるものが販売されている。ナシ族はもちろん、何族とも知れぬ民族衣装に身をくるんだ人々でごった返している。こんな大きな市場があることなぞガイドブックにはひと言も載っていない。観光客の姿もない。

 午後からはやることもない、ふと思い立って獅子山へ行ってみることにする。先日(4月8日)行った際には、入場料95元と聞いて、余りの高額に嫌気が差して入場せずに戻ってしまった。しかし、「隙間なく視界を埋め尽くす甍の波」という麗江最大の景色を見ずしてこの街を去るのも惜しい。二度と来ることもないのであろうから。料金を払い、樹木が茂る獅子山公園に入る。山頂部に万古楼という5階建て高さ33メートルの楼閣が建っている。その最上階に登ると、期待通りの展望が待っていた。黒一色の甍の波が視界の限りを埋め尽くし、不思議なハーモニーを奏でている。麗江を紹介する代表的な映像である。場所を変えると、高く昇った陽の光を浴びて、玉龍雪山がぼんやりと青空に浮かんでいる。この山はナシ族にとって神の坐す山であり、「未だ処女峰である」と多くのガイドブックに記載されているが、「1987年、アメリカ隊が初登頂に成功した」との記事もある。真相はどうなのだろう。

 楼閣を降り、丘を少し下ると、茶店のある展望台があった。帰ってもどうせやることはない。雲南名産の「雲南コーヒー」を飲みながらぼんやりと眼下の景色を眺め続ける。陽が当たってぽかぽかと暖かい。ガイドに連れられた何組もの観光客が現れては去っていく。何と、日本人の団体がやって来た。1人の男性に「日本の方ですか」と話し掛けたら、「日本語が上手ですねぇ」と言われてしまった。どうやら、現地人と思われたらしい。こんな異国の地で、1人ぼんやりと座っている日本人など想定外なのだろう。

 
第7章 モソ族の暮す湖・瀘沽湖(ルー・グー・フー)

 第一節 瀘沽湖へのバスの旅

 4月20日(日)。今日から2泊3日の日程で瀘沽湖へ旅する。瀘沽湖は麗江の北約220キロ、四川省との省境に位置する高山湖で、雲南省最後の秘境とも言われ、風光明媚な所として知られている。また、湖畔に住むモソ(摩梭)族は古くから母系社会を形成しており、今でも通い婚の風習が残っているとのことである。このため、瀘沽湖周辺を現地では興味本位的に「女児国」と表現している。

 朝起きると体調がどうもよくない。2〜3日前から鼻風邪気味であったが、今朝は喉も痛く熱っぽい。3,000メートルを越える高地で寒い思いをしたためだろう。8時30分チェックアウト、バスターミナルまで歩いて行く。バスは33人乗りの中型バス、しかし、乗客は12〜13人でガラガラであった。定刻の9時30分出発、これから約7時間の旅である。乗客のうち8人は4組の若いカップル、外国人はもちろん私一人である。

 うとうとしていて、ハット目を覚ましたら窓の外はものすごい景色、眠気がいっぺんにすっ飛んだ。遥か下に金沙江(長江)の流れが見え、バスは急斜面に刻まれた道を懸命に下っている。実に壮大な景色である。つづら折りを繰り返し、ようやく岸辺に下り着く。あの虎跳峡の大渓谷をくぐり抜けてきた流れかと思うと愛おしい。ここで「加水」のため一時停車。橋を渡って左岸沿いの道を上流に向かいながら次第に高度を上げる。大地を深く削り込み、山々をぬって流れる長江の流れに魅入る。やがて道は長江を離れ、大きな支流に沿って奥へと進む。

 山を越えると盆地が現れ、また山を越えると盆地が現れる。その繰り返しが続く。盆地では稲作が行われており、ちょうど苗代に苗が育っている。幾つ目かの山を越えると眼下に大きな街が見えてきた。寧浪(注 浪は草冠)の街である。13時、バスは街の入り口で、トラックが長蛇の列を作っているガソリンスタンドへ。何で、わざわざ混んでるスタンドへ入るんだ。30分もの停車である。13時45分、街を抜けたところで20分の昼食休憩となった。

 また幾つかの山を越えて進むと、ゲートがあり、全員バスを降りて入域チケットを購入させられる。80元(約1,200円)と安からぬ金額である。バスは再び山を登って行く。道は細まり、アスファルト舗装から石畳に変わる。路肩処理もされておらず曲がりくねる山道は怖い。標高3,400メートルほどの峠を越えると木々の間から眼下に湖が見えた。瀘沽湖である。バスは湖に向かって下りだすが、途中で停まり、運転手が何か言うと乗客はバスを降りだす。ん! どういうことなんだ。運転手に聞くと(もちろん言葉は通じないが)、カメラのシャッターを押すジェスチャーをする。どうやら展望台があるようだ。皆の後を付いて行くと、予想どうり展望台に出た。視界一杯に湖が静かに横たわっている。長く伸びた吐布半島が湖を二つに分け、半島の先には小さな里務比島が浮かんでいる。湖には船の姿は見られない。向こう岸はもう四川省のはずである。はるけきも来たかなとの思いが強い。

 バスは湖畔に下り、点々と乗客を降ろしながら集落の中を進む。そして、バスステーションらしき小屋の前で停まった。運転手に「終点か」と聞くと、まだ先に行くとのジェスチャー。どこで降りたらよいのかさっぱりわからないが、終点まで行くことにする。すでに、バスに残っているのは私と1組のカップルのみである。16時30分、ホテル前の広場でストップ、ここが終点だという。と言われても「ここはいったいどこかいな。集落の外れのようだが」。いずれにせよどこか宿を確保しなければならない。ガイドブックに載っていた「摩梭風情園」はどこかと運転手に聞くと、近くにいた女性に「連れていってやれ」と頼んでくれた。

 ホテルの裏はもう湖であった。岸辺の遊歩道に沿ってホテルや食堂、土産物屋が並んでいる。この道が集落のメインストリートのようである。「摩梭風情園」は数分の距離であった。大きな四合院住宅で広々とした中庭をロッジ風の建物が囲んでいる。門をくぐり庭に入るが、誰もいない。戸惑っていると、奥から若い女性が現れた。片言の英語を話せる。部屋を見せてもらってびっくりした。ツインベッドの大きな部屋で、バスタブまである。おまけに、歯ブラシ、石鹸、シャンプーもそろっている。電気マット、湯沸かし器、テレで付きである。窓からは湖の大展望が得られる。これで1泊60元(約900円)だという。大喜びでチェックインする。案内してくれた女性は20歳の格則永都(Ge Ze Yong Du)さん、モソ族で学生だという。実にチャーミングである。この村では日常何語が話されているのかと聞いたところ、モソ語との答えであった。

 
 第二節 モソ族と通い婚

 モソ族は瀘沽湖周辺にのみ居住する総人口1万人程度の極少数民族である。このため、中国政府からも民族集団として認められていない。ただし、独自の言語や社会制度を持つ独立した民族であることは疑いない。モソ族を特に有名にしているのはその独特の社会制度である。家系は女系であり、家長も女性である。また、結婚は妻問い婚である。女性は年頃を迎えると家族とは別棟の部屋を与えられそこで寝起きする。男は夜に人知れず好意を持つ女性の部屋を訪ね、朝には自宅へ帰る。夫婦が同居することはない。子供が産まれると、子供は女性の家族によって育てられる。父親が扶養することはない。したがって、男も女も一生涯を自分の実家で過ごす。財産はすべて女性に所属する。子供は血縁としての父親が誰であるかは承知しているが、家族としての父親は持たない。

 日本も古代においてはこのような家族制度であったらしい。それにしても、人口1万人ほどの極少数民族が、よくぞ周辺民族に呑み込まれることもなく、独自文化を持ち続けたものだと感心する。それだけこの地が辺境であったのだろう。
 
 夕方、永都ちゃんが「モソ族のダンスを見に行かないか」と誘う。30元の会場と90元の会場があるというので30元を選択する。連れていかれたのは。村内の大きな四号院住宅の中庭。既に大勢の観客が集まっていた。やがて庭の真ん中に火が焚かれ、華やかな民族衣装で着飾ったモソ族の若い男女30人ほどが笛の音の伴奏に合わせ輪になって踊り始めた。テンポの速い独特のリズムである。30分ほど踊った後、今度は観客を輪の中に呼び込んだ。こういう時、中国人は日本人よりよほどノリがよいとみえ、多くの人々が輪の中に飛び込んでいった。

 
 第三節 瀘沽湖遊覧

 4月21日(月)。朝目を覚ましたら9時であった。素晴らしい天気である。今日は1日この湖の辺でのんびり過ごすつもりである。ここは標高2,688メートル、寒くもなく暑くもなく快適な気温である。湖畔を散歩する。人影は薄く、閑散としている。瀘沽湖は面積約50平方キロメートル、十和田湖よりもわずかに小さい。最深部は93メートルにも達し、中国の湖の中で2番目に深い。特筆すべきはその透明度である。12メートルあるという。見た目にも水は実に澄んでいる。湖の北側には、モソ族が神の坐す山として崇める獅子山がその台形の山容をそそり立たせている。

 15分ほど湖畔を歩くと、船着き場に出た。この湖は水質保全のため、エンジン付き船の運航は禁じられている。従って、乗合いの遊覧船はない。民族衣装に身を包んだ若者の漕ぐ小舟が観光客を待っている。ただし、観光客の姿はない。ひとまず宿に戻り、明日の麗江までのバスについて永都ちゃんに尋ねると、「一緒にチケットを買いに行こう」と言ってくれた。連れだってバスステーションへ行く。彼女が、時々行き会う人と声を交わすので、「何語で話しているの」と聞くと、「モソ語」との答えである。

 無事明日のチケットを購入し、彼女の勧めで船に乗ることにする。一緒に船着き場に行く。彼女が値段交渉をしてくれた。沖合の里務比島往復で、乗合いなら1人35元だが、他にお客がいないので貸し切りとなり、60元だとのこと。ただし、船仕立ては豪勢である。漕ぎ手として男性2人、舵取りとして女性1人、いずれも華やかな民族衣装姿である。オールが水を切る音のみが湖面にこだまする。女性がきれいな声で歌を唄いだした。私にも日本の歌を唄えという。いろいろ聞きたいことはあるのだが、何せ言葉が通じない。湖面には他に船影は見えない。

 30分ほどで、里務比島に着いた。小さな島だが、山の上に里務比寺というチベット仏教寺院がある。境内からの展望は絶佳である。お寺にお参りをしたら、寺男が線香を手渡してくれた。再び船に乗って帰る。午後からはもうやることもない。ぶらりぶらりと村の中を歩く。モソ族はチベット仏教徒である。あちこちに小さなチョルテンがある。その周りを、二人の老婆が、手持ちのマニ車を回しながら、いつまでも巡り続けていた。

 
 第四節 麗江への帰還

 4月22日(火)。9時30分、永都ちゃんと別れを惜しんで、バスステーションへ行く。今日もいい天気である。気掛かりな風邪の兆候もそれ以上悪化しないのでひと安心である。待合室には4組の若いカップルがいたが、1人が話し掛けてきた。英語で答えると慌てて退散した。どうも私は外国人には見えないらしい。しばしば中国語で話し掛けられる。

 10時、定刻通り33人乗りの中型バスは発車した。船着き場前で大勢乗り込んで80%ほどの乗車率となる。峠を越えると小さな盆地、さらにひと山越えると紅橋の小さな街並に入る。この辺りの家々はすべてロッジ風の丸太造りである。瀘沽湖畔のモソ族の家もすべて丸太造りであった。土産物屋でトイレ休憩の後、またひと山越えて寧浪の街の手前で昼食休憩。寧浪は割合大きな街である。来たときと同じガソリンスタンドでまたも給油、以降、山を下りたり登ったり。やがて眼下に長江が現れた。長江を渡ったドライブインで加水休憩、麗江に向かって1,300メートルの登りに入る。ジグザグを切ってひたすら登り、17時過ぎ、ようやく麗江の街に帰り着いた。

 当然、ニューバスターミナルへ着くと思っていたら、何と、新市街の「高速バスターミナル」へ到着した。少々慌てる。ここから宿を予定している古城までは2〜3キロある。とぼとぼと歩く。少々侘びしい。古城入り口まで来ると、若い女性が話し掛けてくる。言葉はわからないが、差し出された名刺を見ると客桟の客引きのようだ。宿の当てもないので、付いていってみる。着いたところは、四方街から獅子山を少し登った奥まった所の「萍聚客桟」。部屋もかなり狭く、トイレも現地スタイル。ただし、60元(約900円)と安い。もう夕方6時であり、どうでもいいやという気持ちになってチェックインする。

 ところが、この客桟、何とも気持ちのよい実にすばらしい宿であった。オーナーのおばさんと息子の若者が実に感じがよい。頼んだら夕飯も作ってくれた。

 他の麗江の家々と同じくこの客桟も四合院住宅で中庭を建物が囲んでいる。中庭の真ん中に大きな桜の木があり、赤く熟したサクランボがたくさん成っている。その樹の下に椅子とテーブルがあり、いつでもお茶の用意がしてある。外から帰ると、おばさんがここでお茶を入れてくれる。宿泊客はみなこのテーブルに集まってくる。サクランボを頬張り、買ってきた果物や菓子を分けあいながら雑談に花が咲く。私も違和感なく仲間に入れてもらえる。北京から来たという若者が英語が話せるので、通訳をかって出てくれる。いつまでも留まっていたい宿である。

 
第七章 帰路の旅(2) 麗江、大理、昆明、そしてバンコクへ

 第一節 束河古鎮

 4月23日(水)。日程に余裕があるし、居心地もいいので、もう1日この宿に留まることにする。朝起きると、一点の雲もない青空が広がっている。束河(シューホー)古鎮へ行ってみることにする。束河古鎮は麗江古城の4キロほど北西にあるナシ族の街である。いわば麗江古古城とも言うべき街で、麗江地区においてナシ族が最初に開いた街である。また、茶馬街道の要衝でもある。最近、麗江古城が余りにも観光地化されたため、それを嫌って、このミニ麗江古城とも言える束河古鎮を訪れる観光客が増えている。束河古鎮もまた、麗江地区の1部として世界遺産に認定されている。

 束河古鎮への行き方を聞くと、オーナーのおばさんと宿泊者一同が一生懸命教えてくれた。「今天我去束河古鎮 到怎麼走?」と問うと、「尓去束河坐11路到1元1張票汽車」の答え。さらに「汽車站在那里?」と聞くと、「在百信商場対面坐車逹出去大水車」と書いてくれた。了解である。要するに、古城入り口の大水車の先の百信商場前から11路のバスに乗ればよい。運賃は1元である。さらに、「迷ったらこれを見せなさい」と「我要到束河古鎮」と書いてくれた。

 9時出発、バス停はすぐわかった。11路のバスもすぐにやってきた。念のため、乗り際に運転手に「束河古鎮」と書いたメモを見せる。バスは香格裏拉大道を北上する。以前、白沙古鎮へ行くためにヒィーヒィーいいながら自転車を漕いだ道である。郊外に出たところで三叉路にぶつかる。運転手が「ここで降りろ」と身振りで示す。道標が左に行く道を「束河 1公里」と示している。バスは右に曲がって行く。通る車もない広々とした道を歩く。左手には玉龍雪山が濃い春霞の中に消え入るように浮かんでいる。

 15分も歩くと、タクシーやワゴン車が多数駐車している広場に突き当たり、立派な楼門を潜って束河の街に入った。赤ん坊を連れた女性がしきりに何か誘うが、さっぱりわからない。街中を当てもなく歩き回る。石畳の道が四方八方に延び、清流が柳並木の道脇を流れる。その清流のきれいなこと、これ程澄んでいては金魚も棲めない。麗江古城の流れには金魚がたくさん泳いでいる。道に沿ってナシ族の伝統的な家並みが続く。多くは土産物屋や客桟、食堂である。街の構造は、基本的には麗江古城と同じであるが、こちらの方が俗化していないだけに遥かに好ましい。清流に掛かる大きな石の太鼓橋があった。上を通る道は茶馬古道である。街中は観光客を乗せた馬が多い。チーマー、チーマーと声を掛けてくる。騎(チー)馬(マー)だろう。街の真ん中には四方街がある。街の北側に行くと、きれいな泉がこんこんと湧きだしていた。玉龍雪山の融雪がここで湧きだすのだろう。

 呼びかける声に振り向くと、昨日、瀘沽湖からのバスで一緒であった若い男女が茶店から手を振っている。よく気がついたものだ。「茶馬古道博物館」があった。入場無料なので入ってみる。昔の過酷なキャラバンの様子が写真や使われた道具によって説明されている。いい博物館だ。再びバスに乗って麗江古城に帰る。

 明日の日程を考えた。茶馬古道の要衝であった「沙渓」はどうかと思いおばさんに相談すると、首を横に振る。行く価値がなさそうなので大理に戻ることにする。バスターミナルまでチケットを買いに行こうとしたら、おばさんが「その必要はない」と、電話でチケットを手配してくれた。夕方、同宿の女性が、西瓜や葡萄をたくさん買込んで帰ってきて皆におすそ分けしてくれた。

 
 第二節 再び大理古城へ

 4月24日(木)。朝7時半におばさんがドアをノックしてくれた。寝坊していないかとの気遣いである。8時半、チェックアウトする。おばさんが門まで見送ってくれた。何とも素晴らしい宿であった。今日は晴れているのか曇っているのかわからないような天気、玉龍雪山も霞の中で見えない。今日のバスの発車場所は「長水路省旅高速バスターミナル」だという。こんなバスターミナルあるのだろうか。地図にも載っていない。何となく不安である。「古城出口からタクシーに乗れ。5元だ」と教えられている。タクシーに乗ると、何事もなく目指すバスターミナルへ到着した。料金もメーター通り5元である。中国のタクシーはいたって安心である。この点は完全に先進国である。

 このターミナルは「省旅高速バス」の専用ターミナルであった。9時30分、バスは定刻に発車。このバスはどうやら最高級のバスらしい。42人乗りの超豪華バスで、運転手も女性の車掌も制服姿である。乗客も皆紳士、大声で騒ぐ者もいない。発車してすぐにミネラルウォーターが配られた。80%程の乗車率で、いい具合に私の隣は空席であった。珍しいことに、白人の若いカップルが乗っていた。しかしこの二人、途中で1番後部座席でいちゃつきだし、疑似セックスまがいの行為を始めた。見かねた車掌が歩み寄って注意し、止めさせた。いい恥さらしである。もっとも、彼ら欧米人は恥という文化を持ち合わせてはいない。

 しばらくは高原状の地形が続く。麦が青々と茂り、ナシ族の集落が点在する。大きく下ると、黄色く熟した麦畑に変わる。約50分走り、鶴慶の街並に入る。山を越え、平地に下り、また山を登る。この繰り返しが幾度となく続く。山は松の純正林であり、平地では麦畑のなかに苗代が見られるようになる。現在、大理から麗江に向けて鉄道の建設が進んでおり、時折トンネルの建設現場が現れる。1時間15分ほど走り、お土産物屋で10分間のトイレ休憩。このバスは大理下関行き、大理古城に行くには途中下車する必要があるので、車掌にその旨伝える。やがて樹木のない岩山を大きく下ると耳海が見えてきた。大理まではもうすぐである。ここまで下ると、麦の刈り入れが進んでいる。まもなく大理古城到着と思ったら、大きなドライブインで停車。30分の昼食休憩だという。

 やがて崇聖寺の三塔が見えてきて、13時15分、大理古城の東側に着いた。バスを降りる。ここから古城の中心まで1.5キロほどある。タクシーの運チャンが声を掛けてきたが無視。やって来た8路のバスに乗ろうとすると、運転手が「ダメだ」というように何か言いながら手を振る。意味がわからず、かまわず乗り込むが、何と、わずか1停留所でバスはストップ。街はお祭りのようで、街中への車の乗り入れが全面的に規制されている。まったくもぉ。バスを降り、歩き出す。

 今日の宿はあてがある。麗江の萍聚客桟のおばさんが「桂苑居客桟」と言う宿を紹介してくれた。住所を頼りにようやく目指す客桟を探し当てた。ところが、出て来た若い女は、爪楊枝をくわえたまま「空房間没有(ヨウコンファンジェン・メイヨウ)」を繰り返す。何とも感じが悪い。頼まれたって泊まってやるものか。さて、どうしよう。客桟はいくらでもあるのだが、どこがよいのか皆目わからない。復興路まで行き、ベンチでひと休みしていたら、目の前の客桟から親父が出て来て招き入れられた。部屋を見せてもらうと、大きな部屋で1泊60元(約900円)と安い。チャックインする。「雲南大理愛斯花園客桟」という宿である。ぺー族だという管理人夫婦が非常に愛想がいい。

 街の賑わいについて宿の親父に聞いてみると、「三月街民族節」というぺー族の祭りだとのこと。大理最大の祭りである。蒼山門城外の三月街が祭りの中心で、そこから人が溢れ出てくる。人波に従い、三月街に行ってみる。蒼山門をくぐり、国道を横切って三月街に入る。蒼山門周辺の広場にはメリーゴーランドや見せ物小屋が設置され、祭り気分を盛り上げている。国道は、溢れ出る人波に占領され、車が恐る恐る通行している。三月街は蒼山に向かって真っすぐ延びるかなりの坂道である。道の両側どころか真ん中にも無数の露店が店を開き、何族ともわからない民族衣装の人々でごった返している。その中をさらに天秤棒を担いだ物売りが行き来する。食料、日用品、衣服、玩具等々あらゆるものが売られている。どこまで進んでも露店と人波が尽きない。

 「三月街民族節」は7世紀中頃の唐代に始まったといわれる。観世音菩薩がこの地に現れ説法した。これを機会に雲南西部の各地から人が集まり大規模な市が立つようになったとのことである。毎年陰暦の3月15日から21日まで催される。
 明明後日に昆明に戻るつもりである。今度は列車で行こうと思い、チケットを予約するため旅行代理店に行ってみた。しかし、すべて満席とのこと、バスで戻らざるを得ない。夕食がてら菊屋に行き、バスチケットを予約する。大理まで下ってくると本当に暖かい。日が暮れても、セーターなしで過ごせる。

 
 第三節 ワーサー(ワ色)への小旅行

 4月25日(金)。今日は耳海対岸にあるぺー族の小村・ワーサーへOne Day Tripする。毎月陰暦の5,10,15,20,25,30日に大きな市が立つという。今日4月25日は陰暦の3月20日、市の立つ日である。行き方が少々難しい。大理下関からバスに乗ることになるのだが、大理下関には、地図を眺めただけでバスターミナルが8つもある。ワーサー行きバスはいったいどのターミナルから出るのやら。昨夜、宿の管理人のおじさんに聞くと、「古城から8路のバスで『客運服務中心』へ行け。そこからワーサー行きバスが出る」と教わった。

 朝、目を覚ましたら9時であった。大寝坊である。慌てて出発する。ところが、バス停に8路のバスが来ない。通常、蒼山門から出発して、古城の中心部を横断した後、下関へ向かうのだが、祭りのため経路が変更されてしまっている。仕方がないので古城の東城外の大通りに出る。ここなら麗江などの北部から下関に向かうバスやワゴン車が通るはずだ。しかし、バスは頻繁に通るのだが全然停まってくれない。ようやく1台のミニバスが乗客を降ろすために停まった。その隙に強引に乗り込む。バスの標示は「下関」となっているが、果たしてこのバスは下関のどのターミナルへ行くことやら。

 20分ほど走るとミニバスは「客運北站(北ターミナル)」へ滑り込んだ。このターミナルからは北部の近場の各都市に向けワゴン車やミニバスが発車しているようである。トゥクトゥクが声を掛けてきたが、ここからは8路のバスで「客運服務中心」に向かう。バスは下関の中心部を進んでいく。高層ビルもある大きな近代的都市である。ただし、どういうわけか、タクシーの姿が薄く、トゥクトゥクが目立つ。地図と見比べながらバスの走路を追う。

 辿り着いた客運服務中心はかなりローカルなバスターミナルで、ワーサーや賓川など西部方面5カ所ほどへのミニバスが発着していた。30分ほど待たされ、10時50分、ようやく19人乗りのミニバスは発車と思ったその時、一騒動が生じた。バスの床にかなりの重量のエンジン部品が積み込まれていたのを中年女性の車掌が見つけて騒ぎだした。確かにバスの発車停車の衝撃で動く恐れがあり危険である。どうやら運転手が輸送を請け負ったらしい。運転手と車掌の激しい言い合いとなった。そのうち、車掌はヒステリー状態となり、全身わなわなと震えだす。仲裁に入った乗客にも激しく食ってかかるありさまである。最後は、何度も携帯電話をして依頼主に引き取りに来させた。依頼主が、いくばくかの金を車掌に渡そうとしたが拒否、エンジン部品はバスから降ろされた。職務に忠実な見上げた車掌であるが、お陰でバスの発車は30分も遅れた。

 市街地を抜け郊外に出る。あちらこちら造成地があり、雑然とした風景が続く。どうやら麗江に向けての鉄道は耳海の東側を通る様子で、トンネルや高架橋の工事現場も見られる。大理空港への道と別れ、湖畔沿いの道となる。山が湖畔まで迫り、崖下の危なっかしい道である。小さな集落を幾つか通過する。典型的なローカルバスで、べー族の民族服姿のおばさんが乗ったり降りたり。車内は賑やかにぺー語で溢れている。今日は霞みが深く、対岸背後に聳えているはずの蒼山は見えない。展望台となった観音閣を過ぎ、岸近くに浮かぶ小さな島・小普陀を見る。以前、遊覧船で来た島である。ワーサーは意外と遠い。

 やがて開けた平地に出ると、大きな集落が現れた。ワーサーだろう。12時40分、集落の入り口でバスは停まり、車掌が「ここで降りろ」という。終点で降りればいいと思っていたので、少々慌てる。集落内の道を200メートルも進むと小さな船着き場に出た。その前の広場がマーケットの中心であった。地べたに所狭しと農産物が並べられ、背中に篭を背負った民族服姿のおばちゃんたちで大賑わいである。不思議に男の姿はない。もちろん、観光客の姿もない。広場から北へ向かう道が集落のメインストリートのようだ。この道は農機具や日用品を中心とした市がたっている。溢れんばかりの人通りである。

 市の立つ通りを離れ、細道を集落の中に踏み込んでみる。やっと人がすれ違えるほどの細道は、三叉路、カギ型、袋小路の連続で思った方向へは歩けない。両側は堅固な土塀、土壁で、家の敷地内はちらりとも覗き見ることは出来ない。この集落は古いぺー族の集落の特徴を実によく残している。歩き疲れて、広場に戻りひと休みしていたら、1本マストのぼろ船が入港してきた。貨客船のようである。「船で帰るのもいいなぁ」と思い、側にいたおばさんに聞くと「喜州」へ行くという。「大理古城」へ行きたいというと、バス停の方を指さした。

 バス停に戻り、何時来るとも知れぬバスを待つ。周りは刈り入れの済んだ麦畑が広がっている。ただし、その中を走る路上が凄まじい。刈り取った麦わらやそら豆の茎を道一杯に並べて、通る車に轢かせている。さらに機械で裁断し袋詰めにしている。牛の糞や泥と混ぜて堆肥を造るようである。30分ほど待つとバスがやって来た。来たときと同じバスであった。私とともに7〜8人が乗り込んだが、いずれも市で購入した大きな荷物を抱えている。高さ2メートルもの植木、人が入れるほど大きな瓶、穀物か肥料の詰まった大きな麻袋、等々。バスに詰め込むのに大騒ぎである。荷物に占領され、乗客は隅の方押し込められている。それでもバスの中は大賑わいである。誰かが大声で何か言うと、誰かがそれに答え、また誰かがそれに反応する。飛び交う言葉はすべてぺー語、乗客全員参加の井戸端会議である。バスは道路に敷き占められた麦わらとそら豆の茎を踏みながらのんびりと進む。これぞローカルバスの醍醐味である。

 16時に無事大理古城に帰り着いた。宿に帰り着くと、管理人のおじさんとおばさんが暖かく迎えてくれる。早速メモ帳を取りだしておじさんと筆談で雑談を始める。「我愛尓(I love you)をぺー語で何というのか」と聞くと、「中月友好(Zhong Yue You Hao)」だと教えてくれた。

 
 第四節 蝴蝶泉(フーディエチュエン)と沙坪(シャーピン)

 4月26日(土)。明日昆明へ、明後日にはバンコクへ帰る。従って、今日が実質最後の1日である。とは言っても、もはや特別行きたいところもない。ガイドブックに載っている蝴蝶泉に行ってみることにする。大理古城の北約24キロにある伝説を秘めた泉である。伝説によると

 「泉の近くに、聡明で美しい娘が住んでいた。その娘は、猟師の青年と恋仲であった。しかし、その美しさに目をつけた領主が、娘を無理やり連れて行ってしまった。青年は屋敷に忍び込んで、娘を救い出すが、領主の配下の者に追いつめられてしまう。逃げ場を失った二人は、泉に身を投げた。すると稲妻がとどろき、暴風雨となった。やがて、雨が上がると、泉の中から七色に輝く雌雄2匹の大きな蝶が舞い上がった。その後から、無数の小さな蝶が次々に飛び出してきた。その日は旧暦の4月15日。それ以来、毎年その日になると、無数の蝶々が飛んで来るようになった」とのことである。

 北方への近距離バスが発着する蒼山門横の広場に行くと、ちょうど蝴蝶泉行きのミニバスが停まっていた。乗客の集まるのを待って、10時、ようやく発車。喜州、周城と以前に訪れた街を過ぎる。35分程乗り、小さな街並に入ると車掌が「ここで降りろ」という。終点までと思っていたがーーー。示された道を進むと胡蝶泉の入り口に出た。大きな公園になっている。60元(約900円)と安からぬ入場料を払い園内に入る。園内にはちらほら観光客も見られる。珍しいことに、園内の案内板はすべて4カ国語が記されている。中国語、英語、朝鮮語、日本語である。外国人が来るとも思えないのだがーーー。所が、日本語は「てにをは」がめちゃくちゃ、読むに耐えない日本語になっている。

 遊歩道を進むと目指す泉に行き着いた。直径10メートルほどの池で、水がこんこんと湧きだしている。深さは7メートルあるとのことだが、水が澄みきっているので、底まではっきり見える。ところが、どういうつもりか、数匹の金魚が泳いでいる。このため、神秘的雰囲気がすっかり失われてしまっている。池には大きな合歓木が枝を張り出していた。公園内には蝶の博物館や蝶が放し飼いにされている温室などがある。ブラブラ歩いていたら若い女性の三人組が何か話し掛けながらカメラを差し出した。てっきりシャッターを押してくれと言っているのだと思ったら、「カメラのシャッターが切れないので見てほしい」と言うことらしい。英語で答えると、驚いた顔をしている。日本人とは思わなかったらしい。どうやらバッテリー切れのようである。カメラはキャノンであった。

 蝴蝶泉を出るが、まだ時刻は12時過ぎ、ここから6キロほど先の沙坪(シャーピン)というぺー族の小集落へ行ってみることにする。この小村は毎週月曜日に大規模な市が立つことで知られている。残念ながら今日は土曜日である。待つほどもなく耳源行きのミニバスがやって来た。10分ほど走ると、運転手が「ここだ」とバスを停めてくれた。バスを降りたものの、街道の両側に貧相な村落が広がっているだけで何もない。市は村外れの高台で開かれるらしいが、今日はそこへ行っても無駄だろう。村落の中を歩いてみる。

 ぺー族の典型的集落で、細い道が複雑に入り組む。その両側は土塀と土壁で塞がれている。その土壁土塀も漆喰は剥げ落ち、「土」剥き出しである。所々に砕かれた麦わらと泥と牛糞を混ぜた堆肥が積み上げられている。時々出会う村人は、時ならぬ闖入者に非友好的な眼差しを向ける。早々にバスに乗って帰る。

 13時過ぎには大理古城に帰り着いた、行きぞびれている感通寺へ行ってみようと思ったが、三月街民族節のため、普段は溢れ帰っているタクシーも見当たらない。古城内をあてもなく歩き回る。

 
 第五節 大理から昆明へ

 4月27日(日)。今日はいよいよ昆明に戻る。9時15分、30数人乗りの中型バスは楡城酒店前を出発した。乗客のほとんどが旅行者である。車掌は乗りあわせていない。大理下関を過ぎ、高速道路に乗る。田園風景がどこまでも続く。畑は麦の刈り入れが進んでいる。ただしすべて人力である。所々苗代も見られる。点在するぺー族の集落の白壁には集落ごとに異なる絵が描かれている。きのこの集落、恐竜の集落、幾何模様の集落、ーーー。2時間45分走ってドライブインで20分の昼食休憩。すぐにガソリンスタンドへ。ところが、運転手は店員と大喧嘩、乗客など無視である。昆明が近づくと雨が降ってきた。高速道路の出口は大渋滞、いらいらがつのる。

 渋滞の市内を縫って、小さなバスターミナルへ到着した。しかし、ここがどこなのかさっぱりわからない。雨も降っているし、ちょっと困った。そばにいた警察官に地図を広げて「ここはどこか」と聞いてみる。現地で買った中国語の地図である。ところが、しばらく地図を眺めていた警官は分からないという。要するに地図が読めないのである。道路標示が真っすぐ進む方向を「北京路」と示している。そちらに向かって歩くと、すぐに北京路に出た。ここまで来れば現在位置判明である。タクシーを拾って茶花飯店へ行く。1年半前に泊まったことのある安宿である。220元(約3300円)の上等な部屋に満足した。
 

 第六節 バンコクへの帰還

 4月28日(月)。長かった雲南の旅を終え、いよいよ今日はバンコクへ帰還する。予約してあるフライトは15時20分発バンコク行きTG613便である。このホテルは空港まで無料のバスサービスがある。12時にチェックアウトし、ホテルロビーの一角でタバコを吸いながら空港行きのバスを待っていた。この一角は喫煙が許可されている。テーブルに灰皿が置かれ、「この場所での喫煙を許可します」と英語と中国語で書かれた標示が置かれている。

 70歳ぐらいの爺さんが現れ、テーブルを挟んだ向かい側に座った。そして、私を睨みつけながら手でタバコの煙を払うしぐさをする。ここは喫煙席、いやなら禁煙スペースへ行けばよい。私は知らん顔をしていた。すると突然中国語で怒鳴りだした。「タバコをやめろ」と行っていることは想像がつく。はじめから喧嘩腰である。ムッとして、「中国語はわからない」と英語で答えると、今度は英語で「タバコをやめろ」と言ってきた。「ここは喫煙席、そこの標示が読めないのか」。私が皮肉を込めて英語で答える。すると突然、日本語で「あんたは日本人か」と来た。突然の日本語に驚いたが、明らかに、日本人に対する憎しみが現れている。日本語が話せるところを見ると、どこかで日本と関わったのだろう。ついに旅の最後に「反日分子」のお出ましである。日本語で答えるのは癪なので、「リーベンレン」と中国語で答えてやった。しばらくにらみ合いが続く。

 昆明空港での出国手続きはいたって簡単であった。しかも、イミグレーションの係官は「ニーハオ」と愛想よく話し掛けてくる。成田やバンコク空港の係官よりよほど友好的である。中国もずいぶん変わったものだと感心した。昆明空港の国際線ターミナルの案内板には、中国語、英語、朝鮮語と並んで日本語も記されている。朝鮮語の次と言うのが少々気にくわないがーーー。

 TG613便は満席であった。機内で聞くタイ語に何やら安堵感を覚える。開いた英字新聞に今日の予想気温が載っていた。
  Kunmin            最高気温15℃     最低気温10℃
  Bangkok           最高気温35℃     最低気温30℃
  Tokyo               最高気温23℃     最低気温14℃
 
                                                                                                            (完)

 追記  5月1日に無事日本へ帰り着いたが、それからまもない5月12日に四川大地震が発生した。死者行方不明約9万人、空前の大地震であった。タッチの差で地震に遭わなかったことにほっとするとともに、旅先で知りあった人々が気掛かりである。雲南省の被害は少なかったようだが、隣の四川省から来た人たちともたくさん知りあったのだからーーー。1日も早い復興を祈ろう。
 

 

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