笊ヶ岳と布引山

人影皆無の白根南嶺を一人たどる

1994年7月30日〜8月1日


保利沢山中腹より南アルプス主稜線を望む
 
7月30日 田代川発電所(950〜1000)→ 保利沢小屋 (1210) →尾根取付点 (1305〜1320)→伝付峠水場 (1500)
7月31日 伝付峠水場(540) →伝付峠(550〜555)→林道終点(700〜715)→保利沢山分岐(730)→天上小屋山 (910〜925) →生木割 (1040〜1050)→偃松尾分岐(1130〜1145)→ 上倉沢コル (1200)→ 椹島分岐 (1250〜1300)→笊ヶ岳 (1350〜1415)→布引山 (1605)
8月1日 布引山(605)→ 檜横手山→山の神 (950〜1000)→広河原(1025〜1035)→老平集落(1200) →馬場集落 (1215〜1302)
                                                             
 
7月30日  我が恋する山・笊ヶ岳に向かう日が来た。私はこの山をもう2年近く思い続けてきた。笊ヶ岳を初めて眺めたのは、一昨年の9月、安倍奥の山に初めて登ったときであった。大谷崩ノ頭からの展望の中で、ひときわ目立つ双耳峰が私の目を釘付けにした。瞬間、この山こそが笊ヶ岳であることを悟った。以来、安倍奥の山に登る度に、私の目は無意識のうちに笊ヶ岳の姿を捜し求めた。その優雅でかわいらしい双耳峰は次第に私の心を虜にした。

 白峰南嶺の主峰・笊ヶ岳は、その優雅な姿とともに南アルプスの好展望台として有名である。その名前は私も昔から知っていた。しかし、不思議なことに、一昨年に至るまでこの山の姿を眺めた記憶がないのである。今から15年以上昔、私は南アルプス南部の山々・荒川三山、赤石岳、聖岳等に何度も登った。当然これらの山々から大井川を挟んだ笊ヶ岳はよく見えたはずである。当時のアルバムをあらためて調べてみても、笊ヶ岳の写っている写真は一枚もなかった。おそらく当時は、3000メ−トルを越えるジャイアンツにのみ目を奪われ、わずか2600メ−トルの山などには関心がなかったのであろう。

 笊ヶ岳に恋をしたが、この山はそう簡単に登れる山ではない。登山コ−スは大井川流域、早川流域からいくつか考えられるが、この山に直接登れるコ−スはない。山頂に達するには、伝付峠から稜線沿いに南下するか、布引山を越えて北上するしかない。いずれのコ−スも山中2泊は要する踏み跡薄いベテラン向きコ−スであり、重荷を背負っての本格的縦走を覚悟しなければならない。私ももう若くはない。はたして一人でこの山に登れるのであろうか。しかし、思いが募れば、何事おも可能にしてしまう。2年ぶりで担ぐ重いザックを背に私は一人恋する山に向かった。

 今回の計画は、畑薙第一ダムへの道が不通であることもあり、身延側から伝付峠に登り稜線を南下することにした。富士発7時40分の身延線に乗る。車内には登山者の姿は見えない。今日は、身延駅からタクシ−で新倉集落奥の田代川発電所まで入り、伝付峠道をたどって峠直下の水場で露営する予定である。しばらくすると、登山姿の若者が寄ってきて、「自分は身延からタクシ−で奈良田に入る予定であるが、もし方向が同じならタクシ−の相乗りをお願いできないか」との主旨の話をする。私としても渡りに船である。身延駅でおりた登山者は私たち二人だけであった。浜松に住むという20代後半のこの若者は、奈良田から農鳥岳、塩見岳、荒川岳と小屋泊まりで縦走するとのこと。なかなかの好青年である。

 9時50分、田代川発電所上の伝付峠登山口に着く。タクシ−のメ−タ−は11,400円であった。10時、いよいよ伝付峠を目指して出発する。久しぶりで担ぐ重荷は背中にずしりとくる。ここから峠までの標準時間は5時間、ゆっくり行っても夕方には着くであろう。内河内沢をヘズルようにつけられた登山道を行く。天気は曇り空であり、登りには涼しくてちょうどよい。明日晴れてくれればよいのだ。登るにしたがい沢は源流の趣を増し、到る所に滝を掛ける。登山道は確り整備されており、横切る小沢にはアルミの桟道が掛けられている。所々崩壊地もあるが、危ないほどのこともない。それにしても人影がない。

 1時間も歩くと、なんと雨が降ってきた。天気予報は晴れ時々曇りのはずだが。雨は次第に激しくなり、仕方がないので雨具を着ける。2時間で東電の管理小屋である保利沢小屋に着く。釣人が二人軒先で雨宿りをしていた。雨は篠をつくような降りとなった。雨具は完璧だが、内から汗で濡れてTシャツもズボンもびしょびしょである。初めて単独行者と擦れ違う。尾根取付点に達すると雨は突然止んだ。ここからいよいよ本格的な登りである。ジグザグを切った道をゆっくりゆっくり登っていく。それにしてもこの伝付峠道は実に登りやすくつけられている。さすが歴史ある峠道である。昔、甲斐の行商人はこの伝付峠を越え、さらに大井川沿いを南下して井川村に入ったという。この峠道は今でも二軒小屋へ入る生きた登山道である。おそらく今に残された南アルプス唯一の前山越えル−トであろう。突然小動物が登山道を駆け降りてきた。私の前で急ブレ−キ。見ると野兎である。

 峠までもうすぐと思う頃、水場が現われ、側に粗末な作業小屋がある。小屋からはラジオの音がして誰かがいる様子である。そのまま100メ−トルほど通過して、「待てよ、あそこが目指す伝付峠の水場ではないか」と気付く。慌てて戻って、小屋にいた40歳ぐらいの登山者に聞くと、やはりそうだという。もうちょっとまともなテント場とのイメ−ジがあったため、危うく通り過ぎるところであった。小屋前のやっと一張り張れる程度の平地にテントを張る。ちょうど3時であり、標準時間で登ったことになる。小屋の主は今日この小屋から笊ヶ岳を往復してきたという。空身といえども相当の快速である。「池口岳に行ったことがありますか。ぜひ行きたいのだが」、突然彼が問うてきた。池口岳といえば私が今最も恋い焦がれている山だ。笊ヶ岳に思いを寄せ、池口岳に恋をする。まったく思いを同じくする人に出会えてうれしかった。

 何組かの登山者が水場で一休みして伝付峠に登っていく。二軒小屋まで向かうのだろう。一人の単独行者が話しかけてきた。「どこに登るのですか」と彼。「明日ザルに登ります」と私。「ザルかぁ、いいなぁ、誰も入っていないだろうなぁ」心の底から羨むようにこの若者はつぶやいた。

 夕食をすませてもまだ明るいので、峠まで登ってみることにした。10分ほど登ると藪の中に大木の生える峠に達した。峠は案内の通り立派な稜線林道が通り、伝付峠との表示さえもない。人影のない夕暮れの林道にたたずむと、ぶつけようのない怒りと悲しみが込み上げてきた。

7月31日  「いい天気ですよ。富士山が正面に見えますよ」。小屋の主の声にテントから這い出してみると、朝の光がいっぱいに広がっていた。せっかく展望の山・笊ヶ岳に登る日である。今日だけでも晴天であってほしかった。期待通りである。さて、今日の予定は伝付峠から白峰南嶺を南下して笊ヶ岳に向かい、適当なところで露営するつもりである。明日の下山予定を考えると、できたら布引山まで行きたいのだが、果たしてどこまで行けるやら。この稜線上には水がないのでここから担ぎ上げていかなければならない。三リッタ−の水をザックに詰める。

 一段と重くなったザックを背に、峠より続く立派な稜線林道を南下する。二軒小屋への道が右に分かれ、林道はすぐに二つに分岐する。道標に沿って左の荒れた林道に踏み込む。右手、樹林の合間から南アルプスの山々がチラリチラリと見える。やがてル−トはひどい状態になった。林道はもはやその原形をとどめず、腰から胸の高さの夏草が生い茂った猛烈な藪である。夏草の中に微かな踏み跡は確認できるのだが、刺草が多く、ズボンの上からでも痛くて仕方がない。おまけに朝露のため下半身はびしょ濡れである。ヘキヘキしながら藪を漕ぐとようやく林道跡は終わった。初めて展望が大きく開け、モルゲンロ−トに輝く悪沢岳、赤石岳等の南アルプス南部の巨峰が目の前にそびえ立つ。昔たどった稜線を目で追いながら、再びあの稜線をたどることがあるだろうかと一人感慨にふける。それにしても南アルプスの山々は大きい。

 ここからル−トは一変して南アルプスらしい落ち着いた原生林の中の道となった。ほっとして緩やかな登りをたどる。15分ほどで、保利沢山の北の肩にでる。ここからル−トは保利沢山の西面を巻いていくのであるが、山頂に向かうと思われるほんの微かな踏み跡が稜線上を登っていくのが確認できる。山頂に行ってみようかとも考えたが、今日は先が長いのでそのまま巻道をたどる。樹林の中の水平な巻道が続く。しばらく進むと小さなガレ場に達し、ようやく展望が開けた。ここで思わぬ大失敗をやらかしてしまった。展望を楽しもうとザックを下ろしたのだが、その瞬間、止める間もなくザックが急斜面を転がり落ちてしまったのである。あれよ、あれよ、という間に急斜面をどんどん転がり落ち、ついに見えなくなってしまった。さぁ大変なことになった。ザック丸ごと失うわけにはいかない。急斜面を灌木岩角に掴まりながらザックを求めて下る。50メ−トルほど下るとようやくザックが見つかった。やれやれである。登山道まで道なき急斜面を担ぎ上げるのがまたひと苦労である。調べてみると被害は水筒が潰れた程度ですんだようである。今後のよき教訓にしなければならない。

 さらに進むと、再び展望が大きく開けた。さきほどまでは悪沢岳の影になっていた荒川岳も姿を現す。目を凝らすと、千枚小屋、荒川小屋が見えるではないか。二軒小屋から急な尾根が万斧沢ノ頭を経由して千枚岳に突き上げている。昨日、笊ヶ岳に憧れていた若者も今頃あの急登に耐えているだろう。

 飽き飽きするほど巻道をたどると保利沢山と天上小屋山との鞍部に達した。「名無しのコル」との標示がある。ここより稜線上の道となる。道は思いのほか確りしており、ル−トファインディングの必要はまったくない。ちょっとした登りを経ると天上小屋山頂に達した。樹林の中の何の変哲もない小さな瘤のような山頂である。下って生木割の登りに掛かる。どこまでも原生林の中であり、展望はまったく利かない。急登を経ると山頂に達した。場違いのようにテレビの中継アンテナが立っている。この山頂も原生林の中で展望はまったくないが、小広く開けていてテントの数張りは張れそうである。案内書ではこの山頂を2日目の露営地としている。ここはもう2539メ−トル、目指す笊ヶ岳との高度差はほんの100メ−トルきりない。ここまでのところ今日は快調である。時刻はまだ10時40分、まだまだ進めそうである。

 小休止の後、先を急ぐ。どんどん下っていくと、突然目の前に大きく視界が開けた。偃松尾との鞍部に深く食い込んだ大きなガレ場に出たのである。目指す笊ヶ岳が今日初めてその優雅な姿を現わした。感激の一瞬である。目指す恋人はもう手の届くところにあるのだ。ただし、笊ヶ岳との間には偃松尾の峰が最後の障害となって立ち塞がっている。何がなんでも今日は目指す恋人に会わなければならない。新たなファイトが身体の底から湧き上がってくる。余りにも展望がよいのでガレ場の真中でひと休みする。このガレ場の上部は傾斜も緩く危険はない。南アルプス主稜線が、余すところなくその全貌を我が眼前にさらしている。誰もいないこの白峰南嶺の山中、全ての展望は私一人のものだ。

 ほんのひと登りの急登に耐えると偃松尾の肩に出た。カメラだけ持って偃松尾山頂を往復してみることにする。微かな踏み跡をたどって樹林の中を10分も進むとハイ松の斜面に出た。山頂は見えてはいるが、ここで踏み跡も絶え、ハイ松漕ぎにかなりのアルバイトが見込まれるので山頂は諦めた。それにしてもこのハイ松の斜面の展望はすさまじいまでである。昼近く若干靄ってはきたが、遙か彼方には見まごうことなき北岳の尖がり帽子が微かに見える。その左のゆったりした山体は仙丈岳、塩見岳は見慣れぬ尖峰となってもう目の前である。荒川三山、赤石岳、聖岳は余りにも大きい。聖岳の左側から尖った頭を覗かせているのは茶臼岳のはずである。さらに山並は霞みながらも南に続き、もう山名はわからない。行く手、目の前には小笊を従えた笊ヶ岳の円筒峰が早く来いと呼んでいる。笊ヶ岳の東面からは盛んにガスが吹き上がっている。たどり着くまで山頂がガスで覆われなければよいのだが。

 樹林の中の急坂を15分も下ると上倉沢のコルに達した。ここに水場標示がある。この稜線唯一の水場であるが、往復30分かかる。そのまま通過して登りに掛かる。いよいよ笊ヶ岳への登りである。それにしても今日は誰にもあわない。同じ方向に向かっているのは私一人であることは確かであるが、反対側から1パ−ティぐらい来てもよさそうである。伝付峠の水場で会った若者が「誰も入っていないだろうな」とつぶやいた言葉を思い出す。藪っぽい原生林の中の登りが続く。水場標示から50分掛かってようやく椹島分岐に達した。道標もなく微かな踏み跡が椹島へ下っている。

 ここから山頂まで標準時間は40分、もうワンピッチの距離である。登りが次第にきつくなる。さすがにここまで来ると疲れが顕著となる。「ここを登り切れば笊ヶ岳なのだ、憧れの笊ヶ岳なのだ」心の中でつぶやきながら自らを励ます。もう連続して歩けない。10歩歩いては立ち止まる。「腰は下ろすな、ゆっくりでも前進を続ければいつかは山頂に着く。恋する笊ヶ岳が待っているのだ」。ますます傾斜はきつくなる。もう山頂は目の前のはずだ。ついに山頂に飛び出した。久恋の山・笊ヶ岳の頂についに立ったのだ。時に、1時50分であった。

 山頂は狭い岩場の間にハイ松と灌木が生え、聞きしに勝る360度の展望が広がっている。まさに南アルプスの第一級の展望台である。誰もいない山頂の岩の上に腰掛け、放心したようにただぼんやりと南アルプスの山々を眺める。苦労してここまで来た甲斐があった。よくもまぁ、ただ一人この歳になって重荷を担いできたものである。なんと物好きな。そう思うと、自ら思わず吹き出してしまった。あいにく東面よりガスが沸き上がっており東側、すなわち富士山は見えない。目の前には小笊がガスの中に浮き上がっている。小笊まで踏み跡が続いており、10分程で行けるはずだが、もうこの頂だけで大満足である。この山は日本200名山には選ばれているが、深沢久弥はなぜ日本100名山に選ばなかったのだろう。その姿形、この大展望、どう考えても第一級の名山のはずなのだが。ただし、そのおかげで100名山信徒が押し寄せないで、こうして静かな山頂であり続けていられる。山頂はぽかぽかして暖かい。

 もう思い残すことはないと自分に言い聞かせて山頂を去る。ここまで来れば、もうどこで露営してもよいのだが、時刻はまだ2時15分、予定通りここから1時間10分行程の布引山まで行けそうである。ザイルの張られた急な斜面を下る。踏み跡が今までより細い。さらに細まった踏み跡を追うと行きづまってしまった。どうやらル−トを踏み外したようである。急斜面を登り返す。なんとか正規のル−トを見つけ布引山との鞍部を目指す。原生林の中の藪っぽい尾根上の道が続く。は虫のような小さな虫が盛んに腕につく。塩を求めて取り付くのであろう。倒木も多く、また樅の灌木をかきわける度に葉が襟元に入って不快である。どうもこの辺りは昔からの原生林ではなく、一度伐採が入った後の二次林と思える。一度も伐採の入らない原生林は下草がない。瞬間、前につんのめって顔から斜面に叩き付けられる。どうやら無事のようだが危なかった。疲れた場合、下りが一番危ない。

 登りに入る。今日最後の登りでありガンバル以外にない。疲れた身体に鞭振る。どんなにゆっくり行ったって5時までには着けるであろう。のろのろと樹林の中を進む。それにしても疲れはてた。昔ならこの程度の登りは駆け上がったものである。歳には勝てないか。思わず苦笑する。それでも時間的に余裕があるので精神的には楽だ。なんと笊ヶ岳から1時間50分掛かって布引山に達した。4時5分である。なんやかんやといいながら、よくぞここまで来たものである。縦走記録を見ると、伝付峠から一日で布引山まで達している例はそう多くない。私もまだ若い。さきほどまでとはまったく逆のことを考え、思わず吹き出してしまう。

 それにしてもこの布引山の山頂はなんとすばらしいところだろう。山頂は樅の立ち枯れた大木が立ち並び、独特の雰囲気を醸し出している。広々とした山頂は到る所にテントが張れる。山頂の西側に出てみれば大きく展望が開け、笊ヶ岳に負けない南アルプスの展望が得られる。東側も展望が得られ、真正面には雲海の中に富士山が浮かんでいる。布引山がこんなにすばらしい山とは知らなかった。何となく得をしたような気がしてうれしくなった。山頂には誰かいるのではないかと淡い期待をしていたが、まったく無人である。ついに今日一日誰にも会わなかった。一人静かに山頂の一夜を過ごそう。富士山に向かってテントを張る。テントから顔を出せば富士山が目の前にある。なんとすばらしいテント場であろう。次第に日が暮れて富士山のみが夕日に輝き出す。ここから眺める富士山はその姿といい大きさといい第一級品である。夜に入ると風か強まった。原生林が大きな風音を立てているが、テントには微風があたる程度である。夜中にテントから顔を出して見ると、月明りもないのに、真暗な空の中に富士山がうっすらと浮かび上がっていた。

8月1日  柔らかな朝の光の中に目覚めた。テントから顔を出すと富士山が雲海の中に浮かんでいる。空にはうっすらと雲が広がり、主稜線の山頂部はあいにく雲で覆われている。昨日あれほど晴れ渡ってくれたのだからもう不満はない。テントを撤収し、三角点をなでて、このすばらしい原生林の山頂に別れを告げる。この歳になると、山頂を去るときにいつも感傷的になる。もう二度とこの山頂を踏むこともなかろう。「布引山よ、すばらしい一夜をありがとう」。今日は雨畑湖畔の馬場集落に下るだけであるが、馬場から身延行きのバスは6時44分と13時2分の1日2本きりない。1時のバスに乗り遅れるとタクシ−代10,000円掛かることになる。ゆっくりはしていられない。

 10メ−トルも下ると踏み跡が突然二つに分かれた。一瞬戸惑う。所ノ沢越へのル−トと雨畑へのル−トとの分岐はもう少し先と思っていたが、どうやらここがその分岐らしい。しかし、右へのル−トには「所ノ沢越」との標示があるものの、左のル−トには何の標示もない。左の踏み跡を空身で偵察してみると、点々とコ−スサインもあり、雨畑へのル−トに間違いないと判断する。5分も下ると大きなガレの縁に出た。布引のガレである。南方への展望が大きく開け、見慣れぬ山々が視界一杯に広がる。初めて仰ぐ山々であるため、山座同定に手間取る。布引山からの稜線が大きく落ち込んだところが所ノ沢越のはず、そして再び大きく盛り上がった山が稲又山、その背後に重なるように連なるのが青薙山。この二つの山は全山緑に染まりその魅力的な姿は一瞬にして私の目を釘付けにする。私にまた新たな恋人ができてしまったようだ。一つの山を越えると、その向こうにまた未知の山が現われる。登山の大きな楽しみである。さらに稜線を目で追うと青笹山が確認できる。そのずっと向こうに見える中腹を林道で傷つけられている三角形の山は白峰南嶺の最終駅・山伏のはずである。私は、この山伏から布引山へ続く白峰南嶺最深部の縦走という夢を持っている。今初めてこの夢の稜線を目にしたのである。この夢を実現する日は果たして来るのであろうか。山伏の左右に低く連なるのは私のホ−ムグランド安倍奥の山々だ。しかし一つ一つの同定はできない。目を大きく右に移せば、南アルプス深南部の山々が連なっている。どこから眺めても壁のような大無間連峰は同定できるが、あとは分からない。カメラが活躍する。

 ル−トはこの布引のガレの縁を下るのであるが、崩壊が激しくかなり悪い。慎重に一歩一歩下る。ガレの縁は小規模ながらお花畑になっている。この山域で初めて出会うお花畑である。実は今回の山行きでは、少なからずお花畑を期待していたのだが、2500〜2600メ−トルの稜線はすべて森林に覆われ、花影はまったく目にすることがなかった。しかしここのお花畑はアザミが多く、通過が大変である。再び森林の中にはいり、急な下りが続く。コ−スサインは到る所にありル−トについては心配ない。フトオノ尾根から檜横手尾根に乗り換える地点は一段と急斜面となっている。樅を中心とした原生林の中の道がどこまでも続く。今日は山頂からバス停まで2200メ−トルを一気に下らなければならない。やがて水場標示を過ぎ、尾根は緩やかに大きく広がる。檜横手山である。再び急な下りに入る。一本調子の下りで、もう足がガタガタである。事故は下りに起きやすい。気を引き締めて下るが、それでも時々スリップする。何となく人臭くなってきて、放置された伐採用の鋼索やウインチが現われる。ここに至って初めて雨畑を示す小さな道標が点々と現われる。どうせなら、布引山直下の分岐点につけてくれればよいものを。

 ようやく案内にある山の神の小さな祠に達した。山の神様に今回の山行きの無事を心から感謝する。ここから急斜面を一気に広河原に向け下るのであるが、ジグザグを切った道が見違えるように整備されている。50分コ−スをわずか25分で奥沢谷の河原に飛び出した。ようやく下りが終わったのである。あとはこの奥沢谷に沿って2時間歩けば馬場集落のはずである。しかし、この広河原の地点で奥沢谷の徒渉という最後の関門が待っている。見ると谷に一本の流木が渡されている。この流木と飛び石をうまく使えばなんとか靴を濡らさずに渡れそうである。うまくいった、ついに渡り終えた。

 これで下山できたも同然と思ったのが大間違いであった。なんと、ここから先1キロほどが今回の山行きで最も危険なコ−スであった。コ−スは河原の大石のごろごろした間を縫って続くのだが、ル−トは判然としない。ここを過ぎ、左岸の絶壁の中腹に無理矢理刻まれた道に這い上がるが、この道がまた凄まじい。到る所崩壊し、右手は谷まで数十メ−トルの垂直の絶壁。左の絶壁からは所々水が頭上にほとばしる。わずかの幅の道はヌルヌルである。足でも滑らせたらひとたまりもない。あるところでは傾いて落下寸前の桟道を恐る恐る渡る。とてもまともな登山コ−スではない。どうにか無事この箇所を抜けると道は次第に穏やかになった。もう安心である。無人の一軒家を過ぎると林道となった。飽き飽きするほど林道を歩いて、最初の集落・老平に到着。昨日以来初めての人影を見た。12時15分、馬場集落のバス停に無事到着した。

 ついにまた一つの思いを遂げることができた。憧れの笊ヶ岳の頂を踏み、思いもがけず布引山というすばらしい山を知った。また、新たに稲又山、青薙山という魅力的な山を見つけた。明日は私の51回目の誕生日である。待つほどに1時2分のバスが無人でやってきた。

                                                                    
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