ふるさと再発見 歴史探索    

      
カメラ片手にぶらりと散歩。ちょっと気になる先人の足跡にレンズを向けてみました。

INDEX 
○沼村の倹約令
○吉井川の倉安川吉井水門    
○楢部の亀山城の出丸跡 
  ○亀山城跡の中山備中守の墓?
 
○中区下の浮田神社
○亀山城趾の弁天様
○備前市畠田の弁天様
 



      
        沼村の倹約令
 2014.7.30

 沼村の亀山城には、宇喜多直家が備前岡山城に進出する前の約13年間居城していました。関ヶ原の戦いで敗れて八丈島に流されてた秀家もこの城で誕生したとされています。
 江戸時代になって、砂川を付け替えて沼地に新田が開発されましたが、長雨が続くと水浸しになって、稲が枯れてしまうことが度々でした。
 倹約令はペリーの来航に備えた出兵などで出費が重なり、財政が逼迫した江戸幕府や備前池田藩でも度々出されていましたが、この倹約令の立て札は、お上の通達をそのまま流すのではなく、沼村の役人が沼村の事情に合わせて発令したのではないでしょうか。


     
  

           山陽新聞2014.6.28朝刊全県版
        

          山陽新聞2014.7.12朝刊岡山市民版
        
  
 7月11日に沼亀山城の一郭に建てられている岡山市立浮田小学校で、現在は亀山城の麓で稲作りをしておられる矢部さんとご一緒に6年生の歴史の時間に倹約令の立て札の話をしました。
 生徒達は真剣に聴いてくれましたが、なぜ倹約や節約をしなければいけないのか?消費拡大のこの世の中に育った子供達に説明するのは至難の業でした。
 生徒達に配布したレジュメですが、少し難しかったかな?









    
   吉井川の倉安川吉井水門
 2013.9.24


  吉井川の倉安川の旧吉井井井関と備前大橋


吉井川に面した第一水門


倉安川に接続された第二水門と、いまでは上流から引き込まれた水で回転する水車


第二水門小屋内の樋門板の巻上げ装置


第一水門の内部


岩盤をくり抜いて堅牢に築かれた第一水門


運河式の閘門(こうもん)の船溜り
上には番所屋敷跡があって、積み荷の検問や通行税の徴収もしていました。
 岡山県を訪問中の皇太子さまは、25年7月26日、岡山市東区吉井の倉安川の吉井水門を見学されました。
 吉井川を水源とする倉安川は延宝7年(
1679)2月に着工、8月には完成。
 池田綱政の命によって津田永忠が、300町歩に及ぶ上道郡倉田新田の干拓の灌漑用水と、吉井川と旭川を結ぶ運河としての役割も兼ねた約20㎞の水路ですが、大部分は既存の河川や用水路、低湿地などを利用しています。
 吉井川からの水を取り入れるための吉井水門は、二つの水門の間に楕円形の船溜まりが設けられていて、二つの水門を操作することによって吉井川との水位を調節する閘門(こうもん)、運河としての役割もしていました。
 そして同年の10月には江戸から帰国途中の前藩主の池田光政がわざわざ対岸の坂根から船に乗り換え、この吉井水門を潜って倉安川を下って岡山城まで帰ったとのことです。






楢部の亀山城の出丸跡 2013.1.25



砂川物語には亀山城の東約200メートルの楢部に亀山城の出丸跡があると記されています。そ こで地元のNさんに案内して頂きました。
出城があった丘は今では削られて民家となっています。
しかし城主(直家or中山備中守?)の居室(別荘)があったとされる屋敷の一郭には3~4メートル位の小山が残されていて、頂上には正一位のお稲荷さんが祭られていました。
 昔から祠があったが、お稲荷さんは、昭和になって伏見稲荷から勧進されたとのことです。神木は切られて根株だけですが、お稲荷さんのお堂の下には狐の出入口り口が残されていました。 




楢部には冷たい清水の湧く井戸が今でも使われていました。
昔は豊富な清水が必要な豆腐屋さんもあったとのことです。

     

屋敷跡に残されている歴史を感じさせる井戸輪。


    
楢部橋の土手に集められた地蔵さん。 村中には昔懐かしい半鐘が・・。

 


亀山城の中山備中守の墓 2013.1.26

宇喜多物語によると、亀山城の二の丸には直家に斃された中山備中守の墓といわれれる墓石があると記されていました。二の丸の北の藪の中を探索してみました。 



   北から眺めた亀山城跡(右が本丸、左が二の丸) 

  


二の丸の北の藪の中には苔むした供養塔がありましたが不明でした。




       岡山市中区下の浮田神社 2013.1.30
 

 岡山市中区下には浮田神社があります。私の住む草ケ部は明治8年から昭和30年までは浮田村でした。宇喜多直家の居城であった沼の亀山城跡に由来して浮田と名付けられたとされています。
 中区下の浮田神社の由来を調べてみると。
 宇喜多直家が天正元年に岡山城を築いたときに亀山城で祀っていた宗像神社を移した。そして何時の時代か不明ですが、岡山城から下の住人が産土神としてこの地に移したとされています。


江戸時代に奉納された石灯籠と狛犬

  
浮田神社の扁額

 


 亀山城跡の弁天様 2013.1.30

 亀山城趾の一ノ丸には麓の沖益地区では弁天様として親しまれています宗形神社が祀られています。
 宗像神社は古くから海の神として信仰を集めてきたが、宗像三女神の一神の市杵島姫神は仏様の弁財天と同一視され、弁天様とも呼ばれてきたとのことです。
 そして戦国時代にも航海安全の守護神として、瀬戸内海で活躍していた海部出自の戦国武将の信仰を集めていました。
 亀山城祉の東には弁財天間の字地名がありますが、土地台帳に田が間と誤記されたとすると、弁天様の神田であったと考えて良さそうです。
 沼の亀山にも古代から宗像神が祀られていたのではないでしょうか。


弁財天の扁額の鳥居


神殿の周囲には堀が廻らせてある

 
この石はかっては本丸の城塁に使われていた?  

     宇喜多直家飛躍の地のモニュメント 





備前市畠田の弁天様 2013.1.30

 備前市畠田の三木氏一族は、江戸中期頃か、亀山城の弁財天を勧請して、今でも毎年4月に一族の家長が集まって先祖祭り祀りをしています。

三木家の伝承・・・・天下分け目の関ヶ原の戦いに従軍した三木某が宇喜多のの血筋の少年を自分の子息と詐り畠田村に連れて帰り、自分の姓を名乗らせた。 瀬戸内市の大賀島寺に伝わる、少年の甲冑(県立博物館蔵)は、もとは三木氏が所有していた・・・・・・・。



吉井川の二ノ樋から流れる用水を祠の回りに引込んでいる

 

三木一族の八丈島の秀家公墓地参拝記念の石標と墓地の石