水野南北について TOPへ戻る
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江戸時代の観相学の大家。水野南北の先祖の家系からは、小野道風、小野小町、などが出ていて、南北の時代に姓が小野から水野に変わったと伝えられています。南北が幼い頃に両親が他界し、孤児となった南北は、鍛冶屋をやっていた叔父のもとに引き取られます。幼名を鍵屋熊太といい、若い頃は無頼の徒で、牢屋に入れられたこともありました。 ある日町を歩いていると、易者に呼び止められて、剣難の相が出ていると言われ、その足で、命惜しさに禅寺に出家を願い出るものの、「1年間、米飯を口にせず、麦と白豆のみで過せたら入門を許す」と、その場での入門は断られてしまいます。仕方なく、麦と豆を常食にし、堂島川で川仲仕(人夫)をして暮らすことにしました。 1年が経ち、くだんの禅寺に行く途中に、例の易者と再会したところ、「不思議と剣難の相が消えている。何か大きな功徳を積まなかったか」と聞かれ、別に何もしなかったが、食事を麦と白豆だけにしたことを言うと、 「食を節することは天地に陰徳を積むことであり、それにより知らず知らずに天録が 書き換えられ、相まで変わったのだ」と教えられ、観相に興味を持ち、観相学の道を 志すようになりました。 髪結い床に3年、人相を研究し、湯屋の三助3年で人の身体つき・体型を調べ、火葬場の隠亡をして3年、死者の骨相を観察、よって南北相法を完成した、と伝えられています。 しかし、従来の観相法では、どうしても百発百中とはいえず、悩んだ末に一念発起し、伊勢の五十鈴川で断食水行 50日の荒行を行い、「人の命運は総て食にあり」という真理を悟り、美味大食を戒め「慎食延命法」 を説くに至ります。 以後、観相にあたり、全裸にして身体の隅々まで調べた上で、詳細にその人の食生活を聞くことによって、百発百中だったと言われています。 また凶相の者でも、食生活を改善することにより運を変えることが出来るという、それまでにない、画期的な長命開運法を唱え、その開運法を『南北 相法極意』として執筆、後『相法修身録』と改題し刊行され、広く世に知られました。 晩年は皇室のひいきも受け、光格天皇の時代に、従五位出羽之介に叙せられ、「大日本」および「日本中祖」の号を贈られたといわれています。享年七十八歳。一町四方の広大な屋敷内には、蔵が数棟あったと伝えれています。また、南北の子孫は、今も印刷会社を経営しながら、地元の名士として静かに繁栄しています。 |
| ◆南北は人相観に似合わぬ悪相で あったため、地方などへ行った際、偽物と間違われることがしばしばあった。 そのため自分の人相書を、門人に 画かせ、それに身体の特徴を記入して 持ち歩いていた。 この肖像画は『南北相法極意抜粋』に 載せられていたものである。 『浪速の相聖 水野南北とその思想』 牧野正恭・田中一郎著 大阪春秋社より |
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