初めに

 新四国南葛八十八ヶ所(大心講)
 
 近世から昭和初期まで、四国八十八ヶ所など一般庶民には容易に行かれなかった霊場を身近に作り巡拝する地方巡礼がはやりました。
東京にはこのような地方巡礼はいくつかありますが、東京の東部葛飾区、江戸川区、墨田区、足立区には葛飾区奥戸、善紹寺を一番とする新四国南葛八十八ヶ所の霊場があります。
 大正八年秋、農民 宇田川万太郎は庭木の手入れをしている時に、木から落ち、小枝で左眼をけがしました。すぐに家に帰り、四国霊場曼茶羅を拝み、弘法大師に普段から、お大師様を信仰しているのになぜこのようなけがをするのか、大師は私を見限ったのか、と大師の法号を唱え薬を付けたところ、夜になり痛みがうすらいできました。
痛みが引けたのは、薬の効き目で、お大師様の功徳ではないと思ったところ、次の夜から再び痛み出し一層ひどくなり、お大師様の冥罰と、懺悔しましたが、頬に二つの腫物ができ三ヶ月直りませんでした。
しかし、何の跡も残らず完治したのでこの体験に感謝し、大正八年十一月に自宅に一小堂を建立し、いろは大師とし現在の元大師が出来ました。
 大正十二年にお大師様が夢枕に立ち、「二十一ヶ所の霊場を建立すべし」とおっしゃられ、二十一ヶ所完了。翌十三年にも、「二十四ヶ所の霊場を」とのお言葉に二十四ヶ所を完了。初めは南葛いろは大師と称したので、四八ヶ所、四八番の最終札所は善紹時でした。
又、十四年に第三回目の霊告を受け、四十二ヶ所の霊場を完備し南葛新四国八八ヶ所霊場は完成しました。
 万太郎が四国霊場を巡拝した際、四国第八十八番大窪寺住職恵旭より、同山内の霊木を新四国霊場の本尊彫刻材としていただき、この木で百余の本尊様を作りました。
 大師堂には、正面に弘法大師、大窪寺の霊木により作った本尊、石彫りの本尊があるのですが、長い年月の間に盗難にあったり、紛失、消失してしまい三体そろっているところはあまりありません。葛飾区鎌倉のいくつかの大師堂の木彫り本尊も昭和四十七年頃盗まれてしまったのが、犯人が捕まり戻ってきたものがあります。
大窪寺の霊木には後日談があり、住職が檀家に相談もなく霊木を切ってしまったので、騒動になり檀家総代がわざわざ四国から来て、南葛八十八ヶ所を回り納得して帰ったそうです。
 その後万太郎は得度し恵心を名乗ります。
  巡拝は毎年三月上旬に厨子に大師像を入れ、霊場を回り世話人たちにご接待を受け、時には泊まり、南葛五十一ヶ村、約十七里を歩きました。

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