甲標的  飛行場跡  地図

野島丸(Nojima Maru) 日本郵船 7,190総トン

1942(昭和17)年9月、キスカ島において揚陸をすませ、出港準備中
1942.09.16 04:37 戦爆連合の大空襲を受け被弾し航行不能となる。
1942.10.01 再度の空襲により被害を受け浅瀬に移動する。
1942.10.13 船体放棄。

「解説 キスカ湾に座礁した野島丸の残骸」(岩重多四郎)
 今回「グラニオン」探査チームが写真を撮影した「野島丸」は、なぜか後半部3分の2が解体されて船首部のみとなっている。  保存状態は比較的良好で、半世紀以上の風雪を経てなお細部まで各所に戦時中の面影を残している。 電動式のウインチやウインドラスをはじめとする商船の固有艤装のほか、砲座、舷外電路、1番倉口の塞板(商船時代のマッカンキング式倉口蓋を利用?)とその上に設けられた兵員昇降口、弾薬ハッチといった特設艦船の装備が明瞭に確認できる。貴重な映像資料といえる。
 気候の制約が著しい北方戦域では、地上部隊の生活維持、兵站手段の両面で輸送船による前線輸送が重要な鍵を握っていた。アメリカ軍の制空・制海権下への強行作戦での損失は9隻を数えた。  このうち野島丸を含む6隻がキスカ港内で損傷遺棄された。大半は戦後解体され、「野島丸」「浦塩丸」「ぼるねお丸」が今も現地に残っている。
 「野島丸」(7190総トン)は、1935年2月竣工、日本郵船の優秀貨物船。「長良丸」「能登丸」など6隻の姉妹船があり、頭文字をとってN型と呼ばれる。その小改正版にあたる貨物船がA型、北方で活躍した特設巡洋艦「浅香丸」らである。
 「野島丸」は41年9月に徴用され、海軍特設運送船となった。緒戦では南方占領地域での輸送任務に就いていたが、北方に転じ、42年8月25日キスカ着。滞在中の9月16日に米軍機の爆撃で機関部を損傷し、出港を断念して浅瀬に移動、そのまま度重なる空襲のため擱座全損となった。

【船首楼上のプラットフォームは砲座】
 1番倉口の閉鎖状況がよくわかる。 開口は前から給弾用、貨物用、人間用でしょう。(岩重さん談)
【デリックブームとウインチが残っている】
【左舷(海)側. 野島丸の船名が残る】


【右舷(砂浜)側. 船名と消磁用の舷外電路が残る.砲座の床面の構造が分かる.】

(この舷外電路を足掛かりに甲板上によじのぼるという.)
【船首端から後方を見る.錨鎖孔とウインドラスと砲座.】

【砲座によじ登る.砲座の床面は木張りだったらしく、ブラケットのみ残る.】
【 商船式のフェアリーダとボラード孔 】
【 鋲接のブルワーク 】
【裂けたブルワークと島の絶壁.輸送船は空襲を避け断崖の下に擱座させた.】
【 船首楼から第一船倉を見る.船倉蓋に開口あり. 】
【 船首楼から降りる階段 】
【 ブルワークのステー. 】
【 船首楼の内部. 】


top