……か。
……い、手塚。
「おい、手塚っ!」
はっと、その声に手塚は我に返り、びくりと身体を大きく震わせた。目に映ったのは滝壺ではなく、先刻まで釣りを楽しんでいた川の流れる光景だった。
「引いてるぜ」
「あ、ああ」
声に促され、握っていた竿を慌てて引き寄せた。だが、反応が遅れたため、どうやら逃げられたらしくすぐに引きはなくなった。釣りはタイミングがなにより命なのだから当然のことといえる。
「馬鹿が、逃がしたな。……ったく、どうしたんだ? 寝てやがったのか? 立ったまま器用な奴だぜ」
「あ、ああ」
曖昧な返事をしながら、呆れた声を飛ばしてきた跡部の方に視線を転じた。彼は、手塚から10メートルほど離れたところで水面から竿を引き上げていた。手にしているのは、先ほど川面に浮いていた竿だった。
夢だったのか――。
手塚はふうと大きく安堵の息を吐き出した。
「そろそろ飯にしようぜ」
「……ああ。もうそんな時間か」
腕時計に目を遣ってから竿を引き上げると、跡部の傍にゆっくりと歩み寄った。
今日の昼食は跡部家のコックが腕によりをかけて作ってくれた弁当だと、聞いていた。手塚の好みに合わせて和食にしてくれたらしい。昼食が包まれた風呂敷を紙袋から取り出すために屈みこんでいる跡部の背後に立ちながら、手塚は先ほどの夢を思い返した。妙な夢をみたなと苦笑しながら、果たして真実はどうだったのだろうかと思う。
そんなことは跡部の顔を見れば一目瞭然だ。
何気なく跡部を見下ろした手塚は、ふと妙なことに気がついて眉をしかめた。
今日跡部はモスグリーンのフィッシングベストを着用していた。無地のものである。その、後ろの襟首の一部分の色が異様なほど濃くなっていたのだ。模様にしては不自然な形で、まるでそこだけが濡れているかのように思え、手塚の背に一瞬緊張が走った。
「跡部?」
まさかなと思いつつも咄嗟に手を伸ばして襟首の部分を確かめると、やはりそこだけがじっとりと濡れていて、手塚は衝動的にさっと手をひいた。得体の知れない不安に全身が凍りついた。
「ああ? んだよ、手塚。どうかしたか?」
触れられた跡部が怪訝そうに、姿勢はそのままに顔だけで手塚を見上げるように振り向いた。
その顔を見て手塚は更にはっとする。
その右目の下にあると思っていたホクロが、そこにはなかったのだ。
ホクロは左だったのか。
(ってことは――。俺は間違って――? いや、さっきのは夢だ。何を馬鹿なことを……。だが、なぜ襟首が濡れているんだ?)
動揺を隠せない手塚を、跡部は不審なものでも目にしたかのような眼差しで見上げていたが、やがてふっと声を発して口の端を上げた。
「どうした? 手塚。左にあっちゃおかしいか?」
「なっ?」
手塚の心を読んだかのような言葉と跡部の言い回しに薄気味悪さを覚えて、手塚は本能的に一歩後ずさりした。
「アーン? 右でも左でも関係ねえだろ? ホクロはホクロだ」
「……左、だったのか?」
左目のホクロを実際に目にしながらする質問ではないと思ったが、それでも手塚は疑問を口にせずにいられなかった。どこかに何ともいえない違和感を覚えているのだ。
「んなもの、どっちでも構わねえだろ。どうせまぐれだったんだからよ」
跡部はゆっくりと立ち上がり、手塚の真正面に立つと微笑んだ。そうして、じりじりと手塚との間合いを詰めるように近づいてくる。跡部の不気味さに圧され、少しずつ後退した。
「滝壺へ捜しに来たところまでは良かったぜ、手塚」
「……お前、跡部じゃないな」
「ああ? お前の選んだ右の奴が本物だったって言いてえのか? はっ、残念だったな、手塚。それならもっと自信持って答えねえと手遅れだ。今頃は川の底だろうよ」
「……跡部を、跡部を返せ」
違和感の正体を突き止めた手塚は、眼差しを鋭くして足を止めた。
「固いこと言うなよ、手塚。どっちでも構わねえだろ? 俺は俺だ。てめえだってそう思ってたくせに。そうだろ? 仲良くしようぜ」
細められた瞳が妖しい光を放つ。
嫌悪に近いひどく不快な気持ちが、胸に込み上げてきた。
抗うように睨みつけた手塚の態度などお構いなしに、無遠慮な跡部の指が手塚の髪にするりと伸ばされた。瞬間頬を掠めた指は、深い川の底を思わせるような冷たさを湛えていた。
「やめろっ!」
ぞっと身を震わせた手塚は大きく叫んで、その手をぴしゃりと容赦なく叩き落とした。
「――んだよ、手塚。引いてるっつってんだろうが、何しやがる。てめえ」
怒号とともに盛大に眉を吊り上げた不機嫌面が目の前にあった。
「跡部?」
何度か瞬きをし、その顔を凝視した。右目の下。
ホクロは――あった。
そうして、手塚は安堵の息を漏らしかけたが、まだすべてを確かめたわけではないと、険しい顔を崩さない。一方跡部の方はひどく不服そうに、手塚に払われた右手を振って罵った。
「てめえが薄ぼんやりしているから、手を貸してやったってのに。嫌ならしっかり見とけよ、バーカ。あーあ、逃げられちまったぜ、まあ、自業自得だな」
視線を、手塚が握る竿から垂れる糸の先に移しながら、跡部はぼやいた。
「跡部」
「ああ?」
不機嫌な声だけを返してきた跡部の背後に、手塚は回る。そうして、ベストの襟首の部分を確かめる。特に変わった様子はないが、そっと触れてみる。乾いた布の感触が伝わってきたことに、今度こそ安堵を覚えた。
「何してやがる?」
何の断りもなく首の後ろに手を触れた手塚を、不審そうに跡部は首だけで振り向いて見遣った。その顔をもう一度確認した手塚は、小さく首を横に振る。
「いや、何でもない。……跡部、川に落ちるなよ。油断せずにいこう」
そう言って、誤魔化すようにぐいと手塚は跡部の襟首を引っ張った。
「あ? それはこっちの台詞だぜ。立ちながら寝やがって。いや、いっそてめえは滝で修行してきた方が良さそうだな」
滝……。
「そういえば、跡部。サカーキいや、榊先生は――?」
あの奇妙な風体を思い出した手塚は、あらためて噴出しそうになるのを堪えて問いかけたが、結局は最後まで言葉にはならなかった。夢とはいえ随分とひどい格好をさせてしまったことを申し訳なく思う。
それにしても、あの格好を跡部にも見て欲しかったと思う反面、そんなひどい妄想をわざわざ正直に跡部に話し、腹を抱えて笑われる必要はないとも思う。夢とは所詮自分が作り出した妄想なのだから。
「――いや、榊先生は……お元気か? お元気だろうな」
手塚のいつになく不明瞭な問いを受けた跡部は、呆れ果てて言葉もでないといわんばかりにたっぷりと十秒ほど沈黙した後、深いため息とともに答えた。
「……手塚。てめえとの会話はほとほと疲れるぜ。監督がなんだって?」
「ああ……。いつもお前が世話になっているとふいに思っただけだ。今度、よろしく言っておいてくれ」
「……一体てめえは何様だよ」
「とにかく、跡部。渓流釣りは、帰るまでが渓流釣りだ。油断せずにいこう」
「……」
マイペースな手塚に、もうお手上げだとでもいうかのように背を向けて、自分の場所へと戻っていった跡部が意味深に笑んだことを、手塚は知らない。
そうして、彼は手塚には届かないほどの声で呟いたのだ。
「監督なら、レッスンには間に合ったみたいだぜ」
――END――
昨年のエイプリルフールにキリバンを踏んでくださったF様より、
「跡部のホクロにまつわるお話」とリクを頂いていたものです。
大変遅くなってしまって申し訳ありません。
しかも、夢オチにオカルトを重ねたような非常に怪しい仕上がりに……!
あと、私に釣りの知識はありません。
サカーキ先生が書きたかっただけのような……。(汗)
大変失礼致しましたが、ご笑納いただけると光栄です。
リクエストどうも有難うございました! 2009.7
「跡部のホクロにまつわるお話」とリクを頂いていたものです。
大変遅くなってしまって申し訳ありません。
しかも、夢オチにオカルトを重ねたような非常に怪しい仕上がりに……!
あと、私に釣りの知識はありません。
サカーキ先生が書きたかっただけのような……。(汗)
大変失礼致しましたが、ご笑納いただけると光栄です。
リクエストどうも有難うございました! 2009.7