数日後。
中央司令部の一室で、ロイは山積みされた書類と格闘していた。
あの事件の直後、ロイは大佐として中央司令部への配属を命じられた。突然現れた正体不明の敵に対して、ただひとり冷静な状況判断を行い、部下達に的確な指示を出し、その場を収拾した功績は大きく、それに対しての昇格なのだが、当然のことながらこの人事は異例のことで、上層部の一部では未だに納得していない連中も多い。しかし、「イシュバールの英雄」の印象は未だ強く、士官以下の兵士達からは大歓迎されていた。結局のところ、彼ほどの人材を北部の国境線に据えておけるほど、現在の軍に人的資源のゆとりはないということであり、等しく、軍の弱体化を暗示していた。
そして現在、彼に与えられた任務はこのセントラル・シティの復興である。ホークアイ中尉をはじめとする東方司令部時代からの部下達が中心となり、それこそ昼夜を問わず精力的に走り回る日々であった。
エドワード・エルリックは、軍病院に入院している。あの日から未だに意識は戻らず、弟のアルフォンスは片時も彼のそばを離れず、目を覚ますのをずっと待っている。
ノックの音にロイが顔を上げると、ホークアイが書類を片手に敬礼していた。そして足早にロイに近付く。常の彼女らしからぬ行動に、ロイはペンを止めた。
「大佐」
心なしか、声も弾んでいるようだ。
「今、アルフォンス君から連絡がありました。エドワード君が目を覚ましたと」
その言葉に、ロイは大きく目を瞠り…そして、ふわりと微笑んだ。
「…そうか」
激務続きで、厳しい顔ばかり見せていた上官の久しぶりの笑顔に、ホークアイもつられて微笑む。あの事件から本当に久しぶりに穏やかな空気が流れた。
「大佐。あとこちらの書類に目を通していただければ、今日は定時に上がっても大丈夫ですので、エドワード君のところに行ってあげて下さい」
仕事だけはしっかりやらせようとするのは流石としか言いようがなく、ロイは苦笑する。それでも、この状況で定時に上がって構わないと言う彼女の気遣いが嬉しかった。
結局、ロイがエドワードの病室を訪れたのは夕暮れ間近の時間だった。
病室を覗くと、アルフォンスが枕元に置かれた椅子に腰掛け、じっと兄を見つめていたが、ロイに気づくと慌てて立ち上がった。
記憶は相変わらず戻らないままではあるが、兄を取り戻すという望みを叶えたアルフォンスは、伸ばしていた髪をばっさりと切り、着る必要がなくなった深紅のコートも脱ぎ捨て、今はTシャツにジーンズという出で立ちだった。以前見たことがある写真の中の彼とあまり変わらぬ姿に、ロイは口元を弛めた。
「鋼のが目覚めたそうだね」
「はい。あ、でも兄さんついさっきまた眠っちゃって…すみません」
ぺこりと頭を下げるアルフォンスに微笑みかけ、ロイは二人の傍らへと歩み寄る。アルフォンスはロイにその場を譲った。
「あ、あの僕、ウィンリィとこれから食事に行く約束をしているんです。その間、兄さんのことお願いしてもいいですか?」
まるで取り繕うように早口で喋る彼に驚きつつも、二人きりにしてやろうという、彼なりの心遣いなのだろうか。二つ返事で承知すれば、彼は肩の力を抜いて溜め息をつく。
「じゃあ、よろしくお願いします。…兄さん、いつ起きるか判らないけど」
「構わないさ。…目覚めるのならばいつまででも待てる」
その言葉に、アルフォンスは目を瞠り、苦笑してから深々と頭を下げた。
エドワードの寝顔を、ロイはじっと見つめていた。
二年前、別れたときよりも顔立ちはずっとシャープになり、子どもから大人への過渡期の変貌を見せていた。
ゆっくりと手を伸ばし、その頬に触れる。
暖かな体温が、彼が生きてここにいることを確かに伝えて、ロイはそっと安堵の溜め息をついた。
「…鋼の…」
小さく呼びかけてみると、声が届いたのか睫毛がふるりと揺れる。それに気づいて咄嗟に手を引くと、息を詰めて覚醒を待つ。
やがて、その瞳がゆっくりと開いた。何度か瞬きをくり返すと、変わらぬ黄金色の双眸が自分を捉える。
「…たい…さ…?」
確かめるような問いかけに、ロイは優しく微笑んだ。状況が掴めないのかエドワードはじっと彼を見つめ…ふわりと微笑み返す。
しばらく、言葉もなく見つめ合った。
「気分はどうかね?」
「…気分?…ああ、まぁ悪くねぇな」
相も変わらぬぞんざいな言葉遣いに、思わずロイは苦笑する。エドワードはもぞもぞと居心地悪そうに体を動かすと、身を起こそうとした。気づいたロイがその背中を支える。その拍子に指に絡まった金の髪を一房すくい上げると、愛おしそうにそれに口づけた。
「てめっ…!」
ぎょっとするエドワードに上目遣いに見つめると、瞬時に頬を真っ赤に染め上げた彼ににやりと笑いかける。
「随分と髪が伸びたな。それに、綺麗になったな、鋼の」
「き…綺麗って…」
「いや、あの場で君を見たとき、不覚にも状況を忘れて見惚れてしまったよ」
しゃあしゃあと言ってのける男に、エドワードは真っ赤になったまま返す言葉を失い、ぱくぱくと口を開閉するしかない。そして、ふいとそっぽを向いてしまった。そんな彼の変わらぬ初な反応に、ロイは気をよくして笑う。
「あんたって相変わらず…」
そう言いかけて、ふと、エドワードは言葉を切った。そして左手を伸ばすと、ロイの眼帯に触れた。
「…これ…ブラッドレイを倒したときに…?」
「いや、その直後にアーチャーにやられた。しかし皮肉なものだろう?ブラッドレイと同じ左目だとは」
自嘲気味に微笑むロイに、エドワードは顔を歪ませた。
おそらくこの二年間、彼にも様々なことがあったのだろう。自分が推し量ることが出来ない、彼の二年間が。
それでもなにかを吹っ切ったようなロイ。それがなんだか羨ましくて…
「なあ…」
「うん?」
「…俺、帰ってきてよかったのかな…?」
「鋼の?」
アルフォンスには訊けなかったこの胸にある蟠りに、ロイなら答えをくれるだろうか?
「あの時、あの飛行機の上であんたとアルと別れたとき、覚悟を決めたんだ。この世界とあちらの世界の均衡を守るためにも、俺は俺が為すべきことを…あちらの門を破壊すると」
ロイは黙ってエドワードの独白に耳を傾ける。
「でも、覚悟したはずなのに、帰りたいという想いはずっとここん処にあって…」
己の胸に右の手を置き、エドワードはなにかを掴むようにぎゅっと握った。
「俺、ちゃんと自分で選んだのに…可笑しいだろ?…そうしたら、門の中で師匠と、オヤジと、アルフォンスに会った」
エドワードはロイを見て、今にも泣き出しそうな顔で笑った。
「みんな…俺の心を見透かしたみたいに、帰っていいんだって言ってくれて…幸せになれって、生きろって…そして、こっちの世界に帰してくれた。…でも」
項垂れて、ぐっと両の手でシーツを強く掴む。
「俺の所為で、こちらの世界でもあちらの世界でも沢山の人が死んだ。…俺が、帰りたいと願ったばっかりに、なにも関係のない人達が…」
掴んだシーツの上に、ぱたぱたといくつもの滴が散った。
「その俺がっ…この世界で生きて…幸せになる資格なんて、ないっ…」
悲鳴のような告白に、たまらずロイはエドワードを抱きしめた。
「なぁ…俺、やっぱり戻ってきちゃいけなかったのかな…?」
「…鋼の」
エドワードを抱きしめたまま、ロイはゆっくりと顔を上げるとその涙に濡れた瞳を覗き込んだ。
「君が、この世界に戻りたいと願ったことが罪だというのならば…私も君と同じ…科人だな」
「…大佐?」
「多くの犠牲があったと知ってなお…瓦礫と化した街を見下ろしてなお」
そして、エドワードを離すまいとするように、強く抱き込む。
「…君を取り戻した喜びに勝るものはないと…そう思う私はたぶん、非道い人間だ」
ロイの言葉に、エドワードは信じられないと目を瞠る。逃がすことを許さないような、消えてしまうことを怯えているかのようなその腕の強さに、エドワードは戸惑いつつもその背中に手を回すと、彼を安心させるようにしっかりと抱きしめた。
「それでも…君を失った喪失感にさいなまれた日々に戻るつもりはもうない。…私は」
腕の力を緩め、エドワードと真っ直ぐに視線を合わせながら、ふわりと笑う。
「君がこうして帰ってきてくれたことが嬉しいよ」
「大佐…」
その言葉に、エドワードは泣きそうになった。
そして、彼がどれほど自分のことを待っていてくれたのかということを知る。
「鋼の。…いや、エドワード。私はもう一度上を目指そうと思う」
エドワードの身体を解放し、すっと背筋を伸ばして椅子に座り直したロイは、先程までの甘い雰囲気を消し去り、軍人の顔をして彼を見つめた。
「私は…この軍の体制を変えるために上を目指してきた。人を殺すためではなく、守るための軍を創りたいと。…しかしそのために多くの人間を殺し、陥れ、挙げ句大切な友人を失ってしまった。そして結局最後は私憤に走り、このザマだ」
指先で眼帯に触れ、自嘲気味に微笑む男を、エドワードは黙って見つめる。
「君がいなかった二年間、私は独りになってもう一度己を見つめ直した。私が愚かだったために死んだ人達を思い出しながら。…ひたすら後悔したよ。私がとってきた行動は、本当に正しかったのか、とね」
エドワードには、男の気持ちが痛いほど理解できた。
それは等しく、エドワード自身をずっと苛んでいることだからだ。
「私は、きっかけが欲しかった。北の大地ですべてを拒みながら、その殻を壊すだけの大きななにかを待ち続けていた。…それが、おそらく君の存在だった」
「…俺…?」
「君と別れたあの日、私はいつものようにすぐに君と会えると勝手に思い込んでいた。それがどうだ?病室で目覚めてみれば、君はこの世界のどこにも居ないという。あの時、あんな風に君と別れたことも私は悔やんだよ…ヒューズのように、独りで逝かせてしまったのかと。だか、君が居ないとは聞かされたが、誰も君の生死については知らなかった。私は、それに賭けたんだ」
エドワードを真っ直ぐ見つめ、ロイは微笑んだ。
「君はどこかに生きているのだと。いつかまた私の前に以前と変わらない様子で現れると。…そしてそれは現実となった。だから私は、再びこうして立ち上がることが出来た」
ロイは椅子から立ち上がると、左手を差し出した。戸惑うようにその手と彼の顔とを交互に見遣るエドワードに、ロイは至極まじめな顔で告げた。
「あの日、君には振られてしまったからね」
言われてエドワードは思い出した。
ロイと別れたとき、自分は彼の差し出した左手を打ち払ったのだ。彼に触れてしまえば、決心が揺らぎそうだったから…
「君に、もう一度訊ねよう。私はもう一度上を目指す。大総統になって、この国を変えてみせる。…その為に、君が必要なんだ。共に修羅を歩いていける、君という存在が、私には必要なんだ」
その告白に、なにより拒むことは許さないと雄弁に語る真摯な瞳に、エドワードは身を震わせた。
「私と共に来い、エドワード」
エドワードは、差し出されたロイの手をじっと見つめた。
この手を取る資格が、自分にはあるだろうか?
この自分が…
「エドワード、君の罪は私が赦そう。他の誰が君を責めようと、私だけが君を赦す」
エドワードの迷いを見透かしたように、ロイが言葉を続ける。
「言っただろう?私も君と同じ科人だと。…だから、君は、君だけは私の罪を赦してくれないか?」
それで等価交換だろう?と、ロイは笑った。
その言葉に、笑顔にエドワードの意地が挫けて…
ゆるゆると左の手をあげると、恐る恐る己の手をロイの手に重ねた。その瞬間、待ちかねたようにロイがエドワードの手を掴み、己の胸へとその身体を引き寄せる。
「…ありがとう」
それはどちらが発した言葉だったのか。
エドワードはロイの胸に身体を預けると、そっと瞳を閉じた。
ああ。
俺は、俺の世界に還ってきたんだ…
屍の上に、君と共に楽園を築こう。
すべての世界の礎となるように。