人間・環境エネルギー関係を理解するための図式

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省エネルギーを実現するための図式(クリックしてください)

空気調和・衛生工学会の省エネルギー技術指針の展開⇒特集記事

 
1974.9 空調設備基準委員会第5小委員会(51年より省エネルギー小委員会に)設立(主査:木村健一)
  Ø  既設建物分科会(主査:小笠原祥五)
  Ø  新設建物分科会(主査:石福 昭)
  1975.1 ASHRAEアトランティックシティー大会International Dayにて「日本における空気調和の省エネルギ手法とその動向」を発表(中原信生)
  1977.5 空調設備省エネルギ技術指針案報告、委員会改組(主査:中原信生)、次のWGにて研究継続。
  Ø  照明WG(主査:木村健一)
  Ø  機器特性WG(主査:高田倶之)
  
Ø  環境・エネルギ消費量調査WG(主査:矢作和久)
 Ø  トータルシステムWG(主査:石福 昭)
  1978.4 委員会として建築省エネルギ委員会(建築センター、後に住宅・建築省エネルギー機構)における建築主の省エネルギー判断基準策定(設備部会)の活動に委員派遣、協力。CEC計算法の開発
  1979.10 建築学会省エネルギー委員会と合同シンポジウム「建築と省エネルギー’79」を開催
  1980.1 非住宅建物の建築設備の省エネルギ設計技術指針案報告
  1980.4 委員会改組
  Ø  省エネルギー小委員会(主査:小笠原祥五) 主としてCEC関連研究を実施、その役割が一段落したところで1986年度で委員会を終了した。
  Ø  関西分科会(主査:中原信生)、空調の最適化に焦点を当てて活動。1987年以降、東京で閉幕した省エネルギー小委員会を引き継いで省エネルギー委員会として独立、指針改訂に取り組んだ。
  1994.6 建築・設備の省エネルギー技術指針報告、委員会を終了した。
2004.4  省エネルギー委員会再興(委員長:中原信生)
  
Ø住宅小委員会(主査:鉾井修一)
  Ø非住宅小委員会(主査:猪岡達夫) 
・2008年、新省エネルギー指針発行
  ØSHASE-G 0010-2008 建築・設備の省エネルギー技術指針 住宅編 ⇒序文・目次
  ØSHASE-G 0012-2008 建築・設備の省エネルギー技術指針 非住宅編序文・目次

 
未利用エネルギー活用システム

未利用エネルギーとは?
   未利用(または未活用)エネルギとは、都市内部における生活・業務・生産活動の結果として生じ、そのままか、あるいはほとんど有効に回収されることなく環境中に放出されている各種温度レベルの熱エネルギー、ならびに自然に豊富に存在するものでその活用が都市環境に生態学的に有意の影響を与えないと思われる自然エネルギーを言う。生活・業務廃熱の場合は低温、生産廃熱の場合は中温から高温である。ここに低温とは50゚C程度以下、中温とはそれより100゚Cぐらいまで、高温とはこれ以上を言うものとする

未利用エネルギー活用、負荷平準化、冷暖房技術開発研究成果報告

▲未利用エネルギー活用に関するデータベース

省エネルギー型社会への実現に向けて

市政 1998年6月号=省エネルギー型社会へ向かって 掲載記事  中原信生(名古屋大学名誉教授)

省エネルギー型社会の実現

1.省エネルギーとは何か
2.誰が省エネルギーの主役なのか
3.省エネルギーと産業・経済
4.省エネルギーと市民
5.省エネルギー型社会への自治体の役割

1. 省エネルギーとは何か
 バブル経済が盛んなりし頃、省エネルギーと言う言葉が風化し始め、総合エネルギー調調査会のメンバーの中で省エネルギーに代る良い標語はないものかと知恵を絞りあった事がある。出てきたものに、活エネルギー・効エネルギー・スリムエネルギー・創エネルギー・造エネルギー等々、世の中のシンクタンクが知恵を絞り合ってこの程度か、と思わざるを得なかったのであるが、言い換えれば、省エネルギーと言う言葉ほど壷にはまった用語は無いということである。それが何故か、と言う所から話を始めたい。

 
漢和辞典をひも解くと、「省」の字に図のような意味がある事が分かる。漢文好きの日本人にはそのような意義あることの感触が心の中に染み付いていてこれを凌駕する良語が見当たらないのである反省の対象はエネルギー(資源の有限性、利用の仕方)であり環境(地域と地球の汚染と自然のエネルギー)の循環利用である。省察の対象は技術開発のあり方と方向性、さらには省エネルギー産業構造・生活環境の哲学的思考である。省略すべきは無駄遣い、過度の贅沢である。省約とは何か。単なる節約・省略では無い、技術的な視点からは最適化の思想の普遍化、換言すれば最少エネルギーで最大の効果を得るような運転制御・管理技術のことであり、身近な視点からは適切なライフスタイル、世代を超えた思いやりと私達の子孫に貴い遺産を受け継いでいこうとする、真のヒューマニズムが、結果として省エネルギー・省資源・環境保全を導き出す所の、人間としての知的・本能的節約精神のことなのである。

 
筆者は技術の人間なのでこの程度のことしか言えないけれども、つらつらこの文字構造を眺めると、社会・経済・行政の各側面のいろいろな事象に当てはまる、いま日本人に最も要請されている意識改革の基本理念であることが判ろうというものである。

2. 誰が省エネルギーの主役なのか
 従って省エネルギーの主役は人間性であると言って良い。言うまでもなく人間性にはいろいろな側面があって、産業人間、会社人間、地域社会・市民としての人間、家族人間、自己性、そして地球人間等である。省エネルギーへのインパクトが与えられたとき、まず行動する人間性は保存力の最も強いところでかつ省エネルギー効果を挙げやすいものである。そこで第一次、第二次オイルショックを通じての主役は産業人間性・会社人間性が卓越し、愛社精神と家族人間性の保存のためにエネルギー消費構造上最も余力の有った産業部門での省エネルギー化が進み、それ自体の有する経済効果に後押しされて世界に冠たる省エネルギー産業構造を確立し、ジャパンアズナンバーワンと呼ばれる時代へ突入していった。

 
その厳しい省エネルギー化の時代に民生用(ビル、住宅部門)と運輸用のエネルギーは着実に消費量を伸ばしていき、先進国の中では特異な展開を示した。それはウサギ小屋と呼ばれたように日本の住宅の環境性能の貧困から来たものであり、先進国と呼ばれながらも実は生活レベルは悪く言えば貧困、格好良く言えば原始的ながらも環境共生のレベルであったことを意味し、従って給湯を手始めに、暖房・冷房用エネルギー消費量が急速に増えたものである。その傾向は未だ途上にあるからこそ、このままでは省エネ化に向けて解決できない側面を有している。元々高価であった土地や住宅の価格の更なる高騰によって庶民の生活レベル向上感は朝しゃんと言う言葉を生んだように、お湯を豊富に使用することとマイカーの取得に向けられ、後者は都市の交通と環境汚染へと社会の歪みを増していった。

 
昨年の京都COP会議以降、省エネルギーへの動機づけはエネルギー資源保存に加えて地球環境保全の視点が焦眉の急に迫っている事が分かっても、かつてのように産業構造におけるドラスティックな省エネルギー化はもう有り得ない。これからの省エネルギーの主役は個人性の支配する領域、すなわち地域・社会人間、家族人間、そしてつまるところ個人の意識そのものに絶対的に頼らねばならない。卑近な例で譬えるならば、家電機器の電源の入り切り、給湯温度の調節、照明のこまめな点滅などを試みることが、ちょっとした手間で意識・経済・技術への重層効果をもたらす。技術への効果とは例えば家電機器の待機電力の無駄、照明照度の調節不便、暖冷房機器の省エネルギー・環境性の不完全さ、などに気づきそれが産業界へフィードバックされることによってより省エネルギー的で効率の良い便利なものへと製品化される。大きく言えばこれらが住まい方と住宅構造との合致へと動き出し、新たな住宅文化と産業・経済の活性化を生み出すよすがともなるのである。

  この個人の意識を呼び起こす原動力、その一つが前述の省エネルギーの四意義の認識に根差すヒューマニズムであり、それを地域社会の中において、制度化を含めコミュニティーの中に醸成していかねばならないところ、市政の問題にも帰するのである。

3. 省エネルギーと産業・経済
  それでは産業人間・会社人間性並びに社会経済問題との関わりはどうなるのであろう。筆者は経済学には疎い者であるが、最近の社会経済の動きを見ると、ある種、経過的な様相なのかもしれないけれど、投機心理とマーケット原理、言い換えれば損得の心理と物理とが世界的規模で市場を支配し一国の価値すらもあれよあれよと言ううちに一刻にして左右されてしまう流れである。このような時代、国民たるもの、肝を据えて国の歴史と文化への誇りを失わずに、世界の動向に順応していく必要があろう。それをよそ目に、ただただ保守的な前例主義のもとにひたすら硬直した機構の下に堕落の方向に向かい、時代の変遷を政治・行政の世界に速やかに反映し改革する意欲を失っていった政治家・官僚の責任は重大であるが、彼等を産み、或いは選出したのが国民そのものであることを思うとき、結局は国民の意識そのものが国の社会・経済そして価値を決定する根元であることを強く認識できるのである。

  幕末と第二次大戦に次ぐ第三の黒船ショックが必要であるとすら言われる今日、わが国が自ら自己意識と社会の改革を達成して新世紀のための新しい日本システムを生み出すことが急務であり、そのための基本哲学ともバックボーンともなるのが前述来の四意義に立脚する省エネルギー意識の堅持である、と主張したい。その認識のもとに、当然のように新しい社会インフラとしての情報ハイウェー、自然・未利用エネルギー等の統合エネルギーネットワーク、無公害の新交通システム等々が新しい需要を生み出し経済を活性化するはずであろうし、トップランナー方式の省エネルギー機器の開発は日本の技術力を更に高める。余談であるが、二十一世紀初頭に開催される愛知瀬戸万国博覧会はそのような新社会モデルを提起することにおいてのみ開催の意義が存在する。

  さて、前述のように新しい住宅文化の創造も同様である。それは本来的に環境共生であった日本の住宅を更に高度な共生化、すなわち、狭い国土の中に亜熱帯から亜寒帯までを有するがための暖・冷・温・涼の共存或いは連続的変化、長寿社会から来る高齢者・健常者・幼年者の共生環境、伝統的な和風文化と洋風文化の日常生活での共存、といった日本ならではの多様な要素を内包する社会においてフレキシブルに対応可能なシステムを作り上げていけば、世界で最先端の住居文化を築き挙げていけるはずである。

 
今一つ、見逃されている大きな要素がビル部門のエネルギー管理である。オイルショック以後、産業部門に負けずにビル部門の省エネルギー技術は開発され普及した側面が有るものの、一番の問題はそのライフサイクルに亙るエネルギー管理が等閑視されているからである。ビルそのものが営利手段である貸ビル業でさへも最適な環境を最少のエネルギーで提供するための努力は、ごく一部の例を除いて全く不足している。その理由は社会のビル管理技術への無理解、それが管理技術者の地位向上を阻み、優秀な技術者を集め難くしている。その責任の一端は戦後一貫して建設生産活動の行政にのみ終始してきた建設行政の限界である。竣工後の消費がその大部分であるビルのエネルギー消費を管理点検する制度を省エネルギー法すら整備してこなかった所にこの二十年間の大きなブランクが有る。建築設備を専門として設計や教育を行い、その中で省エネルギー社会の構築を夢見てきた筆者にはそれが残念でならない。近年、ESCOといってビルの省エネルギー化の診断と改修を行い、それから得た光熱費の節約量に見合う報酬を得ると言う新事業が着目を浴びているが、これも、ビルオーナーの目をその必要性と利益に向けて如何にしてでも覚まさなければ意味を成さない。しかしこのビル管理、ビルの省エネルギー管理と言う職業は、実は体力に劣るとしても経験深い高齢の環境・設備技術者の再就職の場として膨大な市場なのである。

4. 省エネルギーと市民
  市民とは何か、素直に解釈すれば都市生活者、福利厚生的見地からはこの意味付けが相応しく、少し敷延すれば地方自治体の選挙権者とその予備軍、市民権の主張と言う意味からはこの意味付けが相応しい。会社と個人との関係と同じように、市民と行政体・企業との対立の構図として捉えられながら、実は同一人物が時と所を変えた、あるいは意識上の二重人格の使い分け、という現象が生じる所である。教育者とか弁護士・医者などの一部の極めて恵まれた立場にある職業者以外は、この二面の立場を両立させることは極めて困難とされ、敢えてそれを主張すればそのグループから異端者として疎外される、というのが近代産業社会の構図であった。自己矛盾を感じないでこのような二重性を克服できるはずはない。従って人は組織に在っては組織に尽くすことこそ善である(その背後には経済発展への貢献が免罪符となる)と考える一方、ひとたび我が社を離れれば自由に他者の批判を行うことが出来る点、必ずしも公平ではない。その点、一企業に帰属しない主婦は生活を切り盛りする実力者として批判勢力である消費者団体・市民団体のリーダーとなることができた。

 
近年、通産省のエネルギー政策に基づく補助事業として、地域新エネルギービジョンの作成が全国各地で行われている。新エネルギーとは太陽・風力エネルギー等の自然エネルギー、都市・産業排熱等の未利用エネルギー、低炭素エネルギーである天然ガスや電力などのクリーンエネルギー、電力平準化とエネルギー有効利用のための分散型コジェネレーションなどを言う。省エネルギーと地域・地球環境保全の助っ人として期待されているものである。筆者も愛知県内の幾つかの地方自治体の委員会の座長をさせて頂き、その地域のローカルな社会事情とローカルに存在するエネルギーの活用による特色あるエネルギーシステムを如何に構築するかを委員の皆さんと真剣に討議した。これらの委員会で共通なことが三点ほどある。第一点は揃って自治体に専属のエネルギー担当部門が無いことである。多くの場合、環境・公害担当部門がこれを兼ねたものである。明確な意識を持ってエネルギーに取り組むことが遅きに失したと言うべきであるが、一方で環境とエネルギーの両方の視点から地方行政を行うのは正当であると言えるところに救いが有る。第二点は消費者団体・市民団体の代表者が参加し、その方々が揃って女性であったこと、そして残念ながらエネルギー問題には素人で・・とおっしゃって専ら聞き役に回られたことである。子女を守る立場から地域環境に思いを致し、家計を預かる立場からエネルギーの価格だけでなくその安定性と環境との関係を強く認識して行動を起こすのに母親であり主婦である女性ほど相応しいものは無いと思う。そういう意味で高く評価される一方、認識が必ずしも深くない様に感じたことは残念であった。第三点はこのような主題を専門的に幅広く扱うことのできるシンクタンクの数の少なさである。この点でも日本のシンクタンク、とくに環境・エネルギーシステム分野のマーケットの未成熟さを再認識した所であった。

 
以上のように、市民の役割は、基本的には万人のものであり、新時代には個人の理念が企業社会と市民社会との調和を求めつつ、環境と経済発展の両立を図らねばならない。そのためにも何回も繰り返すことになるけれども、ヒューマニズムに立脚する省エネルギー精神がその基盤哲学なのである。必要以上のマイカーの保有、それに伴って駐車スペースの不足による不法駐車の蔓延、それを敢えて見逃す行政機構、健康にも環境にも歩く方が良いのにも拘らず、近くのスーパーに行くのにも車を利用するなど、すべてヒューマニズムの欠如であると弾じたい。

5. 省エネルギー型社会への自治体の役割
 技術屋で終始してきた筆者にとって本誌のような種類の雑誌に寄稿するのは始めてのことである。とはいえ前章に述べたように一市民、一企業人、一教育者として延べて四十年を過ごし、しかも建築と都市の環境、それらのための環境調整・エネルギーシステムの設計や教育を業としてきた者として、絶えず最適化と言うことを考えてきた。一体、文字通り最適などと言う現象は世の中に有り得ず、常に相対的見地においてのみ最適性が判定される。筆者専門性の場合は、最少エネルギーを以て許容幅のある至適環境を達成する(環境負荷を処理する)ことで、数理的には両者の比を取って(負荷をエネルギーで割る、この場合エネルギーは化石燃料の発熱量に溯って計算する)成績係数と呼びこれが大きい程良いとするのである。例えば住宅にある冷暖房機はせいぜい一程度である。そこに自然エネルギーを導入すると化石燃料を減らして環境負荷を賄うことが出来るので例えば十とか二十とか言う値になる。この値が十分に大きいとこのシステムをパッシブシステムと呼ぶ。
 
  さて、自治体行政にしてからが、神の目から見ても絶対的な最適政策などと言うものは有り得ない。省エネルギー社会を実現するということは地球家族の時空的な永遠性を
(想像できる範囲において)追求すると言うのが原則であり、人間がイメージできる範囲ではせいぜい曾孫くらいまでの先のことであろうが、現在既にそのレベルの将来の地球の危機が囁かれていることを考えれば、最適行政を画策する前にまず市民と価値観を共有することが先決であろう。そしてその共有のよすがこそが省エネルギーの意義そのものであることをくどいまでも呪文のように唱えておきたい。そしてその評価指標は成績係数であり、この場合、分子には市民の許容度・受容度・満足度を、分母には投入費用や投入エネルギーを適用すれば良い。ただし、成績係数は常に相対的なものであり、絶対値、言いかえれば原単位を低減する保証はない。原単位の抑制は地域・地球との関係における、よりマクロな指標ないし国の政策によって決められる、場合によっては直接住民投票によって選択されることも有ろう。

 
さて、省エネルギー社会への実現の方法論が確定しておれば世話はないのであるし、それが無くて筆者がそれをここに提示できればこんなに嬉しいことはないけれども、行政に素人の筆者にそのような奇跡が行えるはずが無い。一技術者の思想として、環境とエネルギーを市民の立場から業としてきた者として、求めに応じてそのためのよすがをここに提示したに過ぎないことを敢えて言い添えて筆をおかせて頂く。

   
   

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