癌発見までの経過

平成17年3月29日
(人間ドックで初めてのPSA検査)
 
 
A生協病院で人間ドックを受診(当時49歳)。
 30年前、私の父は53歳で骨髄の癌を発症し、その時点で既に転移しており、余命1年を宣告された。結局父は56歳で亡くなった。そのため、私は癌に対する不安があり、30代から毎年人間ドックで検査を受け、毎年「異常なし」だった。
 今回初めて検査項目にPSA検査(その詳細はインターネットで検索されたい)が入っていたが、恐らく、その年に50歳になるので検査の対象となったものと思われる。もし、この時の人間ドックの検査項目にPSA検査がなければ、癌の発見は自覚症状が出てから後のことになっていたはずである。自覚症状が出てからでは根治は難しい。
 1週間後に文書で検査結果が届き、PSAが4.7ng/mlで「再検査を要する」との記載があった。PSAが4.0ng/ml以下が正常値とされている。すぐにインターネットや本でPSAについて調べ、この時から癌に対する不安に苛まれるようになった。この時点でPSAや前立腺癌についてかなり調べたことで、癌に対する不安は高まったが、結果的に癌の早期発見や治療方法の選択に役立った。

 
平成17年4月15日
(PSAの再検査)

  
 
A生協病院での血液検査は2時間くらい待たされるので、勤務先近くのB泌尿器科医院でPSA検査(ここだと5分で検査してもらえた)。
 もし、私がこの時PSA検査をしていなければ、数年後に尿が出にくいなどの何らかの自覚症状が出てから癌が発見されることになったと思われる。単純に比例計算すれば、私の場合、そのまま推移すれば55歳でPSAが30近くになる計算になるが、「前立腺癌は55歳以降に多い」という統計は、単にその年齢で発見されることが多いことを意味するに過ぎないのではないか。前立腺癌が20年くらいかけて進行すると言われていることからすれば、実は40代から癌はあるのだが、発見されないだけのことなのだろう。

 B医師は「その年齢(49歳)では前立腺癌の可能性は低い」と言う。前立腺癌は10万人に20人とも言われるが、その多くが60歳以降であり、50歳くらいで前立腺癌が発見されるのは稀である。私の年齢で前立腺癌が発見されることは珍しい。
 2週間後に検査結果がわかり、PSAは4.5だった。
 B医師は、「数値が下がっているので、癌の心配はない」と言う。後で考えれば、PSAの数値が下がったのではなく、単に、「測定の誤差」に過ぎなかったのだと思う。同じ人が同じ日に測定しても、PSAの数値が異なることがあるし、血液採取の箇所が違ってもPSAの数値が若干異なることがあるようだ。

平成17年6月24日
(さらにPSA検査をする)


 
癌に対する不安を断ち切ることができなかったので、B泌尿器科で念のために再度血液検査をしてもらう。
 前回の検査時に医師は「癌の心配はない」と言っており、今回も「検査は1年後でもいいと思いますが、念のために検査しておきますか。せっかく来られたのだから」と、いかにも気乗りしない感じだった。
 この時、私が再検査したのは、「PSAが基準値を超えていることに対する嫌な予感」に基づく。このような直感は一般に非科学的なものとされるが、インターネットや本でPSAについて調べた知識や自分の体質や経験に基づく直感であって、単なる山勘ではない。また、父を始めとする多くの親族が癌で亡くなっていることが、大きく影響したのだろう。このような直感が生死を分けることは、病気に限らずしばしばある。

 検査結果はPSA 5.4触診異常なし。この結果を聞いたのは7月になってからだったが、明らかに医師の対応が前回までの楽観的なものとは異なっていた。医師は、「数値が上がったことが気にかかる」、「数値が上がっているので念のためにC中央病院で検査を受けた方がよい」と言い、近くのC中央病院への紹介状を書いてもらう。私は医師が書く紹介状を覗き見したが(その後、紹介状は封印された)、そこには、「癌の検査または治療」と記載されており、「治療」という言葉は私には相当のショックだった。
 これで癌に対する不安と恐怖が一気に高まる。PSAは前立腺肥大や前立腺炎でも上昇し、一般にPSAが4〜10ngの間では、癌の確率は10%と言われている。他の腫瘍マーカーは癌がある程度進行しなければ反応しないが、PSAは前立腺の異常に鋭敏に反応する。私の場合は前立腺の肥大も炎症も一切ないこと、短期間にPSAが上昇したことから、癌の可能性がかなり高いのではないかと私は考えた

 20年近く人間ドックを受けてきて、初めて異常を指摘され、「ついに当たったか」という感じである。それがよりによって前立腺癌とは予想もしていなかったが、早期発見のしやすい前立腺癌だったことは運がよかった。
 
 私の場合、後で考えれば、この日の検査を受けたことが決定的な意味を持っていたように思える。検査数値にしろ、自覚症状にしろ、なんらかの身体の異常なサインを見落とさないことが重要である。
 

平成17年7月19日
(生検を希望)

 

 C中央病院受診
 PSA 6.116 、触診異常なし、前立腺の肥大なし。検査結果は検査後1時間後にわかったので、C中央病院には血液を分析する血液センターが設置されているようだ。
 私は、PSA 6.116 という数値を聞いた時、短期間にPSA が上昇したことは、癌以外に考えようがないように思えた。6.116 と少数以下が詳細なのは、高感度PSA試薬を使用したためだろう。
 m医師は「生検はどうしますか」と言う。私は迷うことなく生検を申し出る

平成17年7月26日
(生検実施)

 
 C中央病院で生検を受ける(生検の詳細はインターネットで検索されたい) 。
 午後から入院して検査を受けて、翌日退院。生検は日帰り検査、2泊3日で行う病院もある。
 10本の針検査をし、ついでに、尿道、膀胱内を内視鏡で検査してもらう。尿道、膀胱内は異常なし。モニターで膀胱の中を見せてもらう。「なるほど」という感じ。痲酔がよくきき痛さは全くないが、痲酔が効きにくい体質の人は多少は痛いようである(この時、2人の医師が生検を担当したが、その1人のS医師は、後日、私が手術をしたD大学病院に転勤になり、偶然、4年後に私の経過観察の担当になった)。

          
平成17年8月2日
(癌の告知、低分化癌が見つかる)

 
(片葉から癌が発見される)
 C中央病院での生検の結果を待ちながら、私は自分が癌であることをほとんど確信していた。しかし、それでも、自分は癌ではないかもしれないことを微かに期待していたことは事実だ。
 生検からこの日の説明までの間がもっとも精神的に不安な期間であり、医師の癌告知そのものは、ショックというよりも、「やはり」という落胆の気持ちの方が大きかった。

 生検の結果、左側5本中4本に癌組織あり、右側からは癌は検出されず。癌の程度は、中分化癌 、一部に低分化癌ありグリーソンスコアは7、癌のステージはB1(後日、D大学病院ではB0とされた)
 この日、妻は病院には同行せず、私だけが説明を聞いた。
 
 低分化癌はより悪性度の強い癌であり、進行度が早く、他の臓器に転移、浸潤の危険性の高い癌だとされている。これに対し高分化癌は正常細胞に近い組織構造を持つ癌で、悪性度が低い(これらの詳細はインターネットで検索されたい)。低分化癌に対してはホルモン剤が効く期間も相対的に短いようである。癌の治療方針に関して、治療前のPSAの数値と並んで、癌の分化度が非常に重要である。
 
 私の場合、一部に低分化癌のあることから、他の臓器に転移、浸潤の危険性があることを前提に、その後の治療方針を検討せざるをえなかった。これは私の独断であるが、前立腺癌が発見される人の中で、若い人ほど低分化癌の割合が高いのではないかという気がしている。逆に言えば、低分化癌があるからこそ、若い年齢で前立腺癌が「発症」するのではなかろうか。また、一般に若い人ほど癌の進行が早いと言われている。
 m医師は「癌は前立腺内に限局していると思われる」と言う。
 
(癌告知直後の心理)
 半分は癌を覚悟していたとは言え、癌告知のショックは体験した者しかわからない。身体の中に入り込んだウィルスが少しずつ勢力を増して次第に私の心を蝕むように、癌告知から日数が経つにつれて、じわじわと悲しさや不安、恐怖感がこみ上げてくる。やがて、それは脳細胞の中に入り込み、私の思考を完全に停止させる。夜、自分が癌にかかった夢を見ては、夢の中で、「これは夢なのだ」と自分に言い聞かせるが、どこからか「これは夢ではないのだ」という声が聞こえる。はっとして目が覚めて、「夢だったのか」と思うが、癌であることが夢でないことに気づく。どうせなら、夢から覚めることなく、このまま眠り続ければ、悪夢のままでいられるのにと思ったりもした。
 「なぜ、自分が癌になったのか?」とか、「もし、癌にさえなっていなければ」ということは考えても仕方ないとわかっていても、やはり繰り返し考えてしまう。誰でも、癌を告知された瞬間から、この堂々巡りの絶対に解答のない問いかけに苛まされる。一部に低分化癌のあることが、癌の告知に追い打ちをかけた。癌が高分化癌であるか、低分化癌であるかは天と地ほど違うのだ。
 私は、3月以降の検査の経過はその都度妻に告げ、「癌かもしれない」と言っていた。しかし、妻が後日言うには、私から「癌かもしれない」と聞いても、「癌の可能性を1パーセントも考えていなかった」とのこと。それだけに、私が癌であることを聞いた時は脳天をうち砕かれるようなショックを受けたらしい。

 
 癌の告知を受けた当初は、自分の弱さばかりを考えていた。
 もともと、父が癌で早死にしたこともあり、自分は遺伝的に癌に対する免疫力が弱いのではないかという不安が以前からあったが、その不安は間違いではなかった。「そういう不安を持つから、不安どおりの結果になるのだ」とか「気落ちせずに頑張れ」などと他人から言われると、それでいっそう自信を無くする。頑張れという言葉は、主観的には頑張っていると思っている人間に、「さらに頑張れ」というとどめの言葉なのである。
 日本人は他人を励まそうとして安易に「頑張れ」と言う傾向があるが、この言葉は、自信を無くしている者をいっそう苦しめる。それは、癌に罹患したことで、「頑張れなかった弱い自分」を感じてしまうからである。母に電話をしたら、予想通り、さっそく「負けずに頑張りなさいよ」と言う。
 癌になりやすい気質や性格が言われている。真面目な性格の人間はナチュラルキラー細胞が少なく癌になりやすいことが指摘する医者がいる。しかし、人間の性格は簡単に変わるものではないから、癌と性格の関係を指摘されたところで意味がない。癌に罹患した者にとって、気質や性格に癌の原因があるという言葉はいっそう絶望的な気分にさせてしまう。
 これは、離婚しやすい性格とか、恋愛に失敗しやすい性格、事業に失敗しやすい性格、他人から裏切られやすい性格、詐欺に遭いやすい性格、子供が不登校になったり非行に走りやすい親の性格、人生に失敗しやすい性格などを弁護士が指摘するようなもので、当人がそれを指摘されたところで何の解決にもならない。私は、今までに事業や結婚、子育てに失敗した人の相談を何千件も受けているので(通常、何かに失敗した人が弁護士に相談するのであって、ものごとがうまくいっている人は相談しない)、そういう人に共通した性格や気質のあることをいつも感じている。離婚に関する相談を受ける時、相談者が男性だろうと女性だろうと、その人の雰囲気から考えてうまくいかないことが何となく納得できることが多い。逆に、仕事や家庭生活に成功する者には共通する気質や考え方の傾向がある。「人生や仕事に成功する考え方」と題する本が巷に氾濫するのはそのためである。人生に成功する考え方や性格、資質は存在するのは事実だ。しかし、弁護士がそれを口にすれば、相談者や依頼者を確実に失うことになる。「あなたの気質や性格が癌の原因です」と言われた癌患者は、夢も希望も感じることができなくなる。ちなみに、いわゆる消費者破産をする人は太った人が多いこと、服装や話し方、雰囲気がだらしない傾向や、計算や予測の甘い人が多いこと、規範意識の強い人ほど精神疾患になったり、離婚等を経験する人が多いこと、子供が非行に走る家庭では、だらしない親と厳し過ぎる親の二つのパターンがあること、詐欺に遭いやすい人は自分で考えるという自立性に欠ける傾向があることなどが、弁護士としての職業柄いつも感じている点である。しかし、普段、私は、これを他人に言うことはない。言ってみたところで、「だから、どうだというのか。人間を変えろというのか」ということになる。人間の考えか方や性格はそんなに簡単に変えられない。それができる人は、「成功する気質の人」である。
 「結局、何をやっても、癌になりやすい者は癌になる」という現実を見せつけられると、どうしようもない無力感を感じてしまう。「世の中にはそれほど努力しなくても、長寿をまっとうできる者もいるが、どんなに努力しても弱い者は早死にするしかないのかもしれない」とか「こんなに簡単に前立腺癌になるようなら、今後、次々と別の癌になってもおかしくない」と考えたりした。この頃は、生きることに対する自信喪失と弱気が全てを支配していた。これは癌告知直後のショック状態である。
 
 こういう状態の時は、他人からあれこれ言われることなく、静かに以前と同じ生活をするのが良い。どうせ、他人からは、「頑張れ」(この言葉ほど残酷な言葉はない)、「くよくよ考えるな」、「今までの生活習慣に問題があったのでは?」、「癌になりやすい体質だから気をつけた方がよい」(今さら何を気をつけるというのか!)、「元気そうだったのに」(それが何だというのか!)、「どうして癌に?」、「遺伝ですか?」(放っておいてくれ!)、「大丈夫ですか?」(こちらが聞きたいくらいだ!)、「性格に原因があるのでは?」(よけいなお世話だ!)などの言葉しか出てこない。
 世の中には、その人が癌だと聞いただけで、生存の可能性がないかのように、悲しそうな目で見つめたり、特別扱いをする人が多いのだが、癌患者を特別扱いをすることが、どれだけ残酷なことかわかっていない。周囲の者は癌患者に対して壁を作り、特別視する傾向がある。それは、周囲の人間に「癌=死」という意識があるからであり、癌患者に対する同情心は、「自分は癌でなくてよかったという安堵感」の裏返しでもある。周囲の人間に「癌は治る」という意識があれば、このような目で癌患者を見ないはずだ。励ましや非難めいたことは一切言わず、悲嘆にくれることなく、ただ黙って暖かい希望に満ちた目で見つめてもらった方がよほどありがたい。癌患者が他人に癌であることを知られたくないのは、癌患者への無理解や特別視する人々が余りにも多いからである。
 こういう時は、自分で何かを考えても、所詮、当分の間は前向きに考えることはできないので、時間の過ぎ行くままにまかせるしかないのだ。癌の告知を受けても、自分で「冷静に考えることができる」ようになるまでは、仕事を辞めたり生活のパターンを変えることなく、以前と同じ生活を続けた方がよい。気持のうえでは癌になる前と同じ状態ではありえないが、せめて外形だけは以前と同じ生活パターンを無理にでも続けた方がよい。外形的な生活パターンを変えてしまうと、周囲の者の反応もそれに合わせたものとなるので、ますます心理的に追いつめられたような心境になる。そして、できるだけ多忙な生活の方がよい。何か忙しくをしてれば、それだけ考える時間が少なくてすむ。癌についていくら考えても、「考える」ことからは何の展望も生まれない。病気とか運命などは「なるようにしかならない」ものであり、時間の経過が、おのずから解決への道を示してくれる。

なぜ前立腺癌に?

(すぐには癌を受け入れることができない)
 前立腺癌の発見は60歳以降の人に多く、50歳では少ない。
 「なぜ、この歳で前立腺癌なのか」ということを何度も考えたが、理由を考えてみたところで仕方がない。自分では体力と気力は30代と変わりないと考えていたので、30代から一気に80代に突き落とされたような気分になる。
 私は、冬の岩壁登攀や何度かヒマラヤ登山をし、一歩間違えれば死ぬような場面に何度も遭遇してきた。私の知人で山で亡くなった人は何人もいる。ヒマラヤの大自然の中では、1人の人間の死がいかに取るに足らない小さなことかを感じないではいられなかった。過去に、何千億回もくりかえされた人間の死が、新たに1回付け加わったところで何の意味もない。人の死が何らかの意味があるかのように、古今東西、何千年も昔から、文学、宗教、哲学などを通して論じられてきたが、本当は人の死は自然現象の1つでしかなく、それ以上の意味はないのだ。私が死んだとしても、家族や近親者、友人は悲しむだろうが、やがて年月の経過とともに忘れられ、そのうち家族や近親者、友人たちにも自らの死を迎える日がやってくる。すべての人は死とともに灰燼となって自然の大地に取り込まれ、そこから何ごともなかったように新たな生命が生まれてくる。このような自然の営みが人類の誕生以来何百億回も繰り返されてきたのだ。
 自然のもとでは、1人の人間は何とちっぽけな存在なのだろう。果たして、数百年後に、私の死が何らかの意味があったとして歴史に刻まれるだろうか。しかし、仮にそうだとしても、私は、今ここで、自分が死を迎えることを認めることは絶対にできない。自分の死は、今後、20年以上かけてそれを受け入れるだけの心の準備を少しずつしながら、迎えるべきなのだ。
 
 「低分化癌があるとは、何と運が悪いのだろう」、「もし、癌にさえなっていなければ、今頃、あれもこれもできるし、何だってできるではないか」などと考えては、癌告知の前の「幸福な日々」のことばかり考えていた。こういう状態は、一般に、「癌を受け入れていない状態」と言われる。絶対に戻ることができない地点に戻りたいといくら考えても、考えはいつも堂々巡りであり、今後の展望が開けるはずがない。
 「もし、癌の進行が人並みにもう10年遅ければ、その後頑張って闘病しながら10年生きたとして70歳で生涯を終えることができ、納得できたかもしれない」(その場合でも納得することはありえないのだが)、「今の自分は、どんなに頑張って治療をしても60歳まで生きるのが精一杯か」などと考えたりした。世の中には何事もなく60歳まで生きる人も多いが、私にとって「60歳まで生きる」ことは、限りなく高いところにある目標になってしまった。癌になってみると、60歳まで生きた人を見ると「何と、幸運な人か」と思えてくる。私にとって生きることは必ずしも「当然」のことでなくなった。

(癌の転移に対する不安)
 このころ、癌が転移しているかどうかが不安で仕方なく、もっとも不安な期間だった
 PSAの値が10未満なので、癌そのものは大きくないと思われた。しかし、低分化癌の場合には、PSAの値が10未満でも転移する危険がある。癌が高分化癌でPSAの値が10未満であれば、転移の心配はないだろうし、しばらく放置しておくこともできただろう。
 もし、癌が転移していれば、治療しても余命3〜5年程度である。
 過ぎ去った自分の人生を振り返ってみて、「今まで自分のやりたいことをしてきたし、けっこう充実した人生だったではないか」などという感傷に耽ったりした。世の中には10代20代で癌になる人もいるのだから、今まで癌になることもなく、50年間生きてこれただけでも運が良かったのだと考えたりしたが、どうにも無理がある。
 長女の親友が12歳で脳腫瘍になり、1年後に亡くなったこと、近所の長女の同級生の父親は自宅で「急死」し母親は30代で癌で亡くなり、20歳の長女が働いて弟と妹を養育している。30歳で亡くなった司法修習生のことや、一般にはあまり知られていないが、自殺する裁判官がけっこういること、弁護士に仕事上のストレスから鬱病、躁病、不安神経症などに罹患する者が多く、そういう知人のことを考えたりして、世の中には不幸な人間しかいないように思えたりした。今まで弁護士として恐らく100件以上の「人の死」を扱ってきたが、事故や事件で若くして亡くなった人たちのことを思い出した。30代、40代の相談者の中に、「自分は癌です」と言う人が時々いる。あるいは、事件を処理している間に亡くなる人がおり、後で、家族から「癌でした」と聞かされることがある。相談者や依頼者の中に精神疾患のある人は少なくない
 弁護士の仕事は他人の悩みを聞くのが仕事だが、自分の心の中に悩みを持っていれば、他人の悩みを聞くような余裕などあるはずがない。この頃は、他人の相談を聞くことが耐えられないほど苦痛だった。何も考えずに機械的に行う単純作業であれば気分が紛れるのだが、弁護士の仕事にはそのような単純な作業はほとんどない(通常は、機械的な作業は事務員にやらせている)。この頃、いっそのこと弁護士の仕事をやめてしまおうと何度も考えた。
 脳腫瘍で亡くなった長女の親友は、亡くなる前に父親の店が倒産し、父親の暴力、両親の離婚、その後の脳腫瘍、弟の不登校と不幸を絵に描いたような子だった。それでも、病気になる前の元気だった頃は、両親の仲もよく、その子はクラスの人気者で私の家によく遊びに来ており、幸福な時期もあったのだろう。
 
 この頃、ちょうど、ミュージックグループ「かぐや姫」のコンサートがあり、既に1か月以上も前に妻がコンサートのチケットを購入していたので、私は気乗りしなかったが、仕方なく妻と2人で見に行った。「かぐや姫」は私が学生時代に活躍したグループで、その後解散したが、最近、再結成されていた。コンサート会場で、私は、学生の頃のことを思い出し、過ぎ去った30年間を想った。文学少年だった私が社会的な活動に目覚め意欲と希望に燃える一方で、自分への自信のなさと人間関係に悩み、夢と自己嫌悪の葛藤に苦しんでいた学生時代。どちらかと言えば苦しいことの方が多かったが、未来への夢は限りがなかった。その頃は、人生と時間は永遠に続くと考えていたのかもしれない。それなりに懸命にやっていた当時のひとつひとつの出来事の思い出のすべてから、後悔と恥ずかしさが滲み出てくる。「できることならあの時代にもう一度戻りたい」 誰もが、そんな気持ちになることが、一度や二度はあるのではないだろうか。癌になった私は、過去に戻りたいという強烈な思いにとらわれていた。
 満員のコンサート会場の中で周りの人たちが熱狂すればするほど、私だけがそんなことを考えて、自分だけの孤独に打ちひしがれていた。

                                   
    
(家族のこと)
 妻は最初に癌のことを聞いた時こそ大きなショックを受けたようだが、その後は努めて前向きに考えていたようだ。癌がわかってから間もない頃、私がひどく落ち込んでいても、妻は「私はそんなに悲観的に考えていない」と言い、以前と生活が変わることはなかった。このころは、妻の母も入退院を繰り返し、一時は生命の危険もあったので、妻にとっても精神的につらい時期だったはずだ。もし、妻が悲観的に考えていれば、私はもっと辛かったはずだが、私はしばしば妻の強さに励まされた。病人を抱える家族の方が先に精神的に参ってしまうことは、往々にしてある。
 客観的には、癌が転移していればPSAの数値が相当高くなるはずだし、触診の結果や自覚症状がないことなどからすれば、癌の転移の可能性は低く根治の可能性もあるのだが、ともすれば癌に対する恐怖が冷静に考えることをできなくしてしまうのだ。他人の意見や考えを聞くことが、冷静に客観的に考えるためのきっかけになることがある。


 病気になって改めて家族の有り難さを感じることが多かった。

 病気になれば誰でも気弱になるものだが、家族が病状に悪影響を及ぼすか、家族が病人の心の支えになるか、その違いは大きい。
 また、家の中で飼っている柴犬のハナと過ごす時、ずいぶん気持が癒された。犬の寝顔を見つめていると、赤ん坊の寝顔を見つめているような懐かしい平和な安心感が感じられる。どんなに不安な気持ちの時でも、ハナを見つめていると、何となく気持ちが安らぐのだった。
 犬を飼うようになったのは長男の病気がきっかけだった。
 
(長男の病気のこと)
 現在、長男は一応元気に中学校に行っているが、3年前、長男が小学校6年生の時に重い鬱病になりほとんど1年間学校に行けなかった。病院に行っても、「異常はありません」、「子供の鬱病はありえないと私は考えています」という医者が多く、子供の病態を理解する医者は少なかった。当初、学校側は、それまでの「学校の問題児」が、学校が嫌で不登校になったと受け止め、担任の教師は私に、「お父さんは、子供さんに登校刺激を与えるつもりはないのですか」と言った。また、周囲の人からも、「登校拒否ですか」と不躾な質問をされることが多かった。長男は担任の教師をひどく嫌っており、その教師の授業を聞くと「頭が痛くなる」と言っていた。私も、一度だけ授業参観したことがあるが、確かに禅問答のような授業なので頭痛がしそうだった。このクラスには学校に来ない生徒が他にもいた。
 地域のサッカークラブで元気よくサッカーに熱中していた子供が、突然重い鬱病になり、体重が10キロ以上も減って生きる屍に変わり果てた。骨と皮だけの長男が生存することは難しいと思われた。長男はしばしば「自分はまともではない」と言って半狂乱になり暴れた。毎日のように涙を流す妻をどうやって精神的に支えればよいのか、私の方が先にダウンしそうだった。
 鬱病について、単に気分が落ち込む病気と考えている人がいるが、それは軽い鬱状態の場合であり、鬱病はまったく別の人格をもたらす。身体のバランスがすべて狂い、突然身体が熱くなったり、身体が重石で押えつけられるような感じがするらしい。症状が重い時はほとんど動けない。長男は、「膝が重い」と言い、一日中呻き続けた。時々、「ウーン、ウーン」という長男の呻き声と叫び声が、家の外にまで響いた。知らない人が聞けば、「発狂した」と思うだろう。
 その頃、長男はほとんど食べることができなかったので、毎日、病院に通院して何時間か点滴を受けてかろうじて生きていた。医師からは長男を入院させるように言われたが、小学生の鬱病患者はそんなにいるものではないので、近くに、精神科と小児科を併設している入院施設がなかった。仮に、入院させれば、長男は大暴れして、手に負えなかっただろう。
 そのころ、長男は、食事の前には、「今日の夕食は何?」などと尋ねるのだが、食事のときになると、決まったように「僕、欲しくない」と言うのだった。全く食べない日が多かったが、野菜を一切れくらいは食べることがあった。毎回、食事の時間になると、長男が食べることができるかどうかが気になり、長男の動作をじっと見つめる私の緊張感と不安は、自分の手術の結果を聞く患者と同じだった。長男の食欲に関して、私と妻は異常なほど神経過敏になっていた。「今日は野菜を一切れ食べた」、「今日はビスケットを2枚も食べた」など、長男の食欲の変化(実際には食欲がほとんどなかったので変化はないのだが)に一喜一憂する日々が続いた。
 当時の私と妻は、長男が学校に行けるかどうかなどはどうでもよいことであり、長男が生命を繋ぐことだけを願っていた。「長男が生きていてくれるだけでもいい」と考えたりしたが、現実の長男の苦しむ姿を見ていると、「鬱病は治らなくてもよいから、せめてあの苦痛だけでも取り除いてやることができれば」とか、「せめて、長男が10代を元気に過ごし、20代で鬱病を発症したのであれば、少しは人生を楽しむことができたのに」、「これが鬱病ではなく、学校には行けなくても、食べることができる不登校であればどんなに良かったことか」などと考えた。人間は、苦しいときには、ほんの少しでも今とは違った状況を願うものなのだ。他人にとってはほとんど違いがないようなことでも、苦しい状況にある者にとっては、大きな違いとして見えることがある。長男が1日にビスケットを3枚も食べれば、それは私たちにとって大きな喜びだった。
 
 「どうして、僕、こんな病気になったの?」と、長男はよく尋ねたが、返答できなかった。
 また、「小学生で鬱病になる人はどれぐらいいるの?」とも尋ねた。小学生で軽い鬱状態になる者は時々いるようだが、長男のような重い鬱病はほとんどない。
 「まあ、10人に1人くらいかな」と適当に返事をした。
 「そしたら、僕はよほど運がいいんだね」
 この返答には思わず私も笑ってしまった。
 10万人に20人と言われる前立腺癌だが、50歳前後での「発見」は非常に稀だとされる。それと、小学生での重い鬱病の発病とどちらが確率的に高いのか。どちらも「不運」であることは間違いない。
 
 長男が学校に行かなくなって、1か月くらいして、長男の同級生が数人見舞いに来たことがあった。数分間だけ同級生に会った後で、長男はそっと涙を拭いていた。それは、友人の見舞いが嬉しかったからなのか、元気そうな同級生を見て学校に行けない自分のことが悲しく思えたからなのだろうか。
 長男の症状が少し改善してからは、家の周囲を200メートルくらいかろうじて散歩できるようになったが、身体全体に力が入らないので、歩くにも身体のバランスをとるのに苦労していた。緩やかな登り坂では、身体のバランスをとるために少し前屈みになり、腕を前に差し出すが、手首に力が入らない。そのため、手首から先はだらりと下げたまま歩くのだが、その様子は生きた幽霊のようだった。
 また、家から車で15分ほど行ったところにある公園は川から引いたせせらぎがあり、そのせせらぎの水の流れる音がえらく気に入ったようで、何度も、妻にその公園に行きたいとねだっていた。時々、ドライブに連れて行くこともあったが、30分も車に乗ると疲れてしまい、「もう、帰ろう」というのだった。
 小学校の修学旅行は、病気になってからの長男にとってずっと楽しみであり、長男は「僕、修学旅行に行ける?」と何度も尋ねていた。実際には、長男は妻が修学旅行先まで新幹線で送迎し、1時間だけ参加するのが体力的、精神的に限界だった。長男は、卒業文集に「1時間だけの修学旅行」というタイトルの文章を書いた。
 小学校の卒業式の時は体力はかなり回復していたが、たまたま長男が躁状態にあったために、友人たちに囲まれた楽しいはずの卒業式の雰囲気の中で、長男が妻を激しく攻撃するという悲しい卒業式になった。その日の夜の長男の卒業祝いの夕食は通夜のような雰囲気になり、長男は喚き散らし、妻と長女は泣いていた。
 長男の発病から1年近く経ってもそういう状態であり、長男が回復する展望はとても持てなかった。家庭の崩壊と人間の崩壊のどちらが先かわからない緊迫した毎日だった。精神疾患のある患者を長期間看病していると、たいてい看病している者が精神的におかしくなる。法律事務所は精神疾患のある者にとって親近性があるようで、毎月、精神疾患のある者が何人も私の事務所に相談に来るのだが、家族の中に精神疾患のある者がいれば、それを介護する人も鬱病や不安神経症に罹るケースが多い。
 この頃、私と妻は病院の精神科で薬をもらうようになった。長男が眠っているときだけが唯一の心が安らぐ時間だった。
 それまで、毎年夏には、家族で信州の高原でキャンプをしていたことや、ハワイへの家族旅行など、楽しいこともずいぶんとあったのだが、人間は不幸な時には、楽しかった時のことを考えることができない。
 
 病気になることは本当に悲しいことだ。しかし、この世に病気や死が存在しなければ、人間は永遠に生き続けることになり、生命の循環ができなくなる。人類は、死ぬ者がいるから、新たな生命の誕生を迎えることができるのだ。人の死と生命の誕生は、何万年も前から行われてきた自然の循環の一部なのだ。
 ほとんどの人は何らかの病気になるのであり、人生の最後まで一度も病気に罹ることなく、老衰で亡くなる人は稀だろう。人間はいつかは病気で死ぬことを受け入れなければならない。

(犬を飼う)
 そういう中で少しでも気分の転換になればと考えて犬を飼うことにしたのだった。ハナは生後2か月で長男の病気が最も重い時に我が家にやってきて、家の中で飼っているので四六時中家族と生活を共にし、長男の病気の回復とともに成長してきた。
 長男は最初はハナを完全に無視していたが、間もなくハナに非常に厳しく当たるようになり、長男がパニック状態で暴れる時には、ハナはいつも部屋の隅で震えていた。長男は、しばしば、「ハナは甘やかされ過ぎている」と言った。鬱病患者は、心の中に、厳しい「インナーペアレント」を持っていると言われる。それが、常に、自分自身を厳しく非難するのが、鬱病なのである。長男は、その厳しさを飼い犬に向け、しばしばハナを厳しく叱った。
 しかし、長男は、病気の回復とともにハナを可愛がるようになった。人間と動物との関係は、人間の心の反映にほかならない。長男のハナへの態度の変化は、まさに教科書通りだった。長男がハナと接する時の態度を観察することが、長男の心の病気の変化を把握するメルクマールになった。
 今では、家族全員がハナ可愛がっている。ハナを一番可愛がっているのは私である。夜、寝るときは、ハナはいつも私の布団に潜り込んで眠る。時には、私の枕の半分をハナが占拠し、夜中に、私の顔にハナの鼻息がかかって驚いて目が覚めることがある。また、ハナはしばしばイビキを立てて眠る。その無邪気で心地よさそうな寝顔を見ていると、人は癒されるのだ。

 私は、長男が中学校に通うことは絶対に無理だと思っていた。長男の10代の人生の大半は学校に行けずに自宅で病気療養することを覚悟していた。
 しかし、その後、予想もしていなかったことだが長男は急速に回復し、ある程度元気になって中学校に入学した。人生は何が起こるかわからないというのは、このことだろう。それは、運の悪いこともあれば、思いもかけない運のよいこともあるということである。長男の場合には、たまたま運がよかったのだろうが、鬱病の回復が5、6年かかったり、一生の間ずっと鬱病を繰り返す人は少なくない。
 長男は、中学校に入学した当初は、何かに集中することができなかったので5分以上勉強をすることは無理であり、学校には行っても授業中はただ座っているだけだった。学校のテストは最初はほとんど白紙で提出していたので全教科で0点に近く、中学1年の1学期の成績はほとんど1だった(したがって、その後、クラブ活動に熱中し、人並みに勉強して高校に入学したことは、ほとんど奇跡だった)。
 長男の長所は誰とでもすぐに友人になれることである。長男はもともと剽軽な性格なのですぐにクラスの人気者になるのだが、中2の時、同じクラスに不登校の生徒がいた。クラスで不登校の生徒のことが話題になった時、長男は、「俺も小6の時、1年間学校に行けなかった」と自分の体験を皆の前で話したそうである。長男は、不登校の同級生の数少ない友人の1人であり、時々、学校以外の場所でその生徒と遊ぶことがある。
 
 長男の鬱病が寛解して1年半になるが、今でも時々体調を崩すことがある。鬱病患者はセロトニンという脳内物質が不足しているとも言われるが、セロトニンの欠乏により人間は「切れやすく」なる。長男は、今でも少し「切れやすい」傾向があり、鬱病の再発という爆弾を抱えた綱渡りのような緊張した毎日が現在も続いている(平成27年追記。長男はその後、高校、大学を卒業し、就職した。病気については、中学3年くらいまで薬を服用していた。高1で完治)。
 
 ハナは、今度は、長男に代わって私の病気とつき合うことになった。
 

                   

 どんな病気にせよ、それは不幸なことだが、病気によって人はいろんなことを深く感じ、深く考えるようになる。また、不幸があるから幸福があるのであって、不幸を経験することで幸福の本当の姿がわかるようになるのではなかろうか。人生にはいろんなことが起こるが、当然、苦しいこと、楽しいこと、悲しいことがあり、生きることはそういう過程に他ならない。この点で、人生は登山に似ていると言われることが多いのだが、登山の場合には苦しさはあるが、それは精神的な悩みとは無縁である。
 病気になって悩むことも、また、その人のかけがえのない人生なのだ
。歯を食いしばって耐えて生きるのではなく、安らかな気持で病気や運命を受け入れたいのだが、そのような心境に到達するにはそれなりの時間が必要なのだろう。

 癌が転移しているのではないかという不安から、MRI検査、CT検査、骨シンチ検査(これらの詳細はインターネットで検索されたい)が余りにも遅すぎると感じる。

平成17年8月10日
(MRI検査)

 後日、MRIの画像には癌が写っていないことを聞いたが、これは初期の癌ではよくあることらしい。

平成17年8月12日
(CT検査、骨シンチグラフィー検査)

 これらは癌の転移の有無を検査するものである。
平成17年8月16日
(癌の転移なし)

 

(検査結果)
 C中央病院m医師からMRI検査 、CT検査、骨シンチ検査の結果を聞く。
 m医師は、「MRIの画像では癌はわからない」、「転移なし」、「癌は前立腺内に限局していると思われるが、一部に低分化癌があるので、前立腺の摘出手術が望ましい」と言う。

(運と不運)
 私が40代で前立腺癌になったことは不運なことだが、たまたま行った定期検診で癌を発見したこと、早期の段階で癌を発見したこと、他の癌ではなく前立腺癌だったことは運が良かったと言える。運命に感謝すべきかもしれない。
 私の父は56歳で癌で死に、私の親族のうち男性はだいたい70歳くらいまでに亡くなっているが、女性はだいたい90歳近くまで生存している。男性の親族のほとんどは癌で亡くなっている。私は、小学生のころは人は皆癌で死ぬものだと思いこんでいた。
 したがって、私が一生のうちで癌になる確率は高かったのだろうが、それでも、癌が前立腺癌だったことは運が良かったのだ(もっとも、今後、私が他の癌になる可能性はもちろん否定できないのだが)。50年の間に、災害、交通事故、病気などの大きな不幸に見舞われる人は少なくない。自分や家族が凶悪事件の被害者になるとも決して少ないわけではないから、50年間生きることができたこと自体に感謝すべきだろう。
 人生に運と不運があるということは、この先、私に予想外の幸運が訪れる可能性もあるということである。

(切迫感に欠ける前立腺癌)
 前立腺癌は進行が遅い癌なので、あせって考えても仕方ないことに気づくことになる。ただ、これは癌が転移していない場合である。癌が転移さえしていなければ、根治できるとできないとにかかわらず、治療によってある程度の生存年数を確保できる。癌が転移しているかどうかは、天国と地獄ほどの違いがある。癌が転移する前に癌を発見するためには、PSA検査によるしかない。

 癌の告知当初は切迫した気持ちや緊張感、不安が強いが、前立腺癌は進行が遅いので、すぐに死ぬことにはならず、あらゆる面でのんびりとしている。医師の説明や態度も、前立腺癌の場合は緊張感に欠けどこかのんびりとしたところがある。癌告知の直後に、「遺言」を書きかけたこともあったが、よく考えてみたら、「今、遺言を書いても、すぐに必要になることはない」ことに気づき、書くことをやめた。何もしなくても時間がどんどん過ぎるし、自分がまだ生きていて、以前とまったく変わることのない生活ができることに気づく。早期発見の段階では、癌がわかってからも健康的な生活が送れるところが前立腺癌の特徴である。考えてみれば、こんなに健康的な癌は他にはない。
 明白な癌の転移さえなければ、前立腺癌とは何年にも及ぶ長い付き合いになるので、気長に考えるしかないことを、時間の経過という「事実」が教えてくれる。癌告知当初の緊張感も長くは続かない。次第に、当初の緊張感が緩み始め、「なるようにしかならないではないか」という心境になる。
 それに、非常に不安を感じる時期を通りすぎると、自分が置かれた状況に対する反発心のようなものが芽生えてくる。運命とか自然は、人間の力ではどうにもならないものであり、人間の気力で克服できるものではないが、人間の気力が萎えてしまえば、可能なこともできなくなってしまう。不安を感じることにも「慣れ」があるようで、慣れてしまえば、不安は日常的な感覚に転化し、特別の意味を持たなくなる。不安を感じるだけ感じてしまうと、不安を感じているだけではどうにもならないことに気づき、「こんなことで死んでたまるか」という居直りの気持ちが芽生えてくる。
  
(生を見つめる)
 
 多くの癌の中で、前立腺癌は早期に発見できれば予後のよい癌とされている。それでも、癌を宣告された瞬間から、癌患者はそれ以外の人たちが属する一般社会から疎外されるという感覚を抱く。
 ほとんどの人は、自分の生存が続くという前提で、「明日は・・・・」、「これからは・・・・」などと話をする。「今はできなくても仕方ない」とか、「努力すれば展望が開ける」などの言葉も、自分に未来の時間があることを前提としている。
 かつては、古代の人々は常に死を意識し、生と死を考えることによって、多くの宗教や文化、儀式、風習などが生まれてきた。かつては死は文化の中心的な位置を占めていたように思われる。しかし、現代の社会は、人が死ぬかもしれないことは想定されることがなく、生存することを前提としたシステムになっている。サラリーマンに定年があるのは、定年まで生存することを前提としているし、昇進や給料の定期昇給も生存を前提としている。生涯賃金なる言葉も、長期間生存できることが前提の発想に基づいている。「人生ゲーム」というゲームがあるが、そこでは「人生の途中での死」は想定されていない。「生存するのが当たり前」という価値観のもとでは、それからはずれる者は居場所に困ることになる。
 その人が癌だということになると、生存を前提とした世の中のシステムは全て自分にとって意味がないと感じてしまう。したがって、「生存が保障されなくなった者」にとって世の中のことはすべて無意味で自分とは無関係のように思え始め、自分は社会から「切り捨てられた」と感じる。結果的に、癌患者は社会のシステムから排除され、「死を前提とした同情」の対象となる。
 古い時代には、世界のどの文明でも死を真正面からとらえ、人生観や思想の中心に死を置いていたように思われる。そこでは、生物的な意味で逃れることのできない死の恐怖が美化されたり、心の救済の対象としたりされていた。その意味では、そういう時代には人間が死を安らかな気持で受け入れることがしやすかったのだろう。科学の発達によって死が無機質で無意味なものとされることは、人間にとって不幸なことなのかもしれない。
 たとえ、自分の人生の時間が限られていようと、今、自分が生きていて貴重な人生の時間を過ごしていることに変わりはない。死の不安に怯えながら何もせずに漫然と時間を過ごしても、残された時間を精一杯に有意義に過ごしても、同じように人生の時間が過ぎていく。癌との共存ということがしばしば言われるが、誰でも限りのある人生の時間をどれだけ有意義に過ごせるかが大切なのだ。
 癌の宣告は、そのような自分に残された時間が限られていることを、いやでも教えてくれる。むろん、癌の宣告があっても、自分に残された時間が短い人もいれば、長い人もいる。治療によって完治すれば、「通常どおり」の寿命をまっとうできるだろう。しかし、癌の宣告は、人間の寿命が有限であるという、本来あまりに当たり前のことを教えてくれるので、癌患者は誰でも自分の死のことを考えざるをえなくなる。死は生物である人間にとって非日常的なことであるが、癌患者にとって、死が日常性を帯びてくる。
 人は誰でも必ずいつかは死ぬのだが、ほとんどの人は、死の直前まで自分が死ぬとは考えていない。「誰でもいつかは死ぬ」と口で言う人は多いが、そのほとんどは自分の死を漠然と考えているだけで、死ぬことを真剣に考えているわけではない。人の死を扱った娯楽小説や推理小説、娯楽的なドラマや映画は多いが、そういう作品は、死を漠然と遠い未来の自分とは無関係のものとして考え、人の死に対し同情の涙を流して楽しんでいるだけなのだ。

 自分の生が長くないことを自覚し、それでも力強く生きていく人はりっぱだが、そういう強い人間は多くはない。精神的に人間は極めて脆弱でデリケートにできているので、自分に生存の可能性がないことを悟った人間は絶望し、人間性自体が崩壊していく。ナチスの強制収容所を扱った「夜と霧」(フランクル)の中で、強制収容所で自分の未来を信じることができなくなったものは、ある日、突然、全く動こうとしなくなり、人間であることをやめてしまう。そして、そういう者の多くは間もなく病気になって、ガス室に送られる前に病死してしまうのだが、恐らく、人間の精神的な崩壊が免疫力の低下を招いて簡単に病気になるのだろう。自分の中に生きる意味を見いだすことができない者は、他人の力によってではなく、自己の内面から崩壊していくのである。
 癌患者は誰もが、自分が生きる意味を考えるが、それはひとりひとり中身が異なる。生きるということは、一瞬一瞬生きているという具体的なものを意味し、生きる意味は瞬間ごとに変わっていく
 「人間は苦しみと向き合い、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人も身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとはないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ」(「夜と霧」フランクル、池田香代子訳、みすず書房)。
 恐らく、どんな状況でも人間が生きていくためには、「生きる展望」や「生きる意味」を持てることが必要である。生きる意味について自分の内面に価値観を持っている人は、死を自覚してもなおりっぱに生きていけるのだろう。しかし、ほとんどの人は、熱烈な信仰心でもない限り、自分が死ぬとわかっていながら平静な気持で生きていくことは難しい。死や病気のことばかり考えていたのでは、生きていくことは難しい。人は一時的にでも死のことを忘れることで、死の不安から解放され、生の喜びを感じることができるのだ。たとえ、一瞬でも、何か楽しいことがあったり、死や病気のことを忘れる時間を持てなければ、生きていることはたいへん苦しいものになる。自分の生存の可能性を信じることで、生きようという意欲が湧いてくるのだ。自分の生存を信じることによって、生きる力が生まれてくることは、恐らく、動物として自然な性質である。動物は、自分が他の動物の餌食になる場合でも、自分の死の瞬間まで自分の死を理解していないはずである。子供がどんなに不幸な状況にあっても天真爛漫なのは、子供は現在の状況に順応しやすく、将来のことを予測したり、見通すことができないからである。

 この頃、私は、しばしば、「もし、癌にさえなっていなければ、今頃は・・・・・」と考え、癌の宣告によって自分の住む世界が一変したことを感じていた。「生存が保障されなくなった者」と「当然のように生存が保障されていると考えている者」の間には乗り越えることができない壁がある。「世の中のことはすべて自分にとって無意味で無関係である」という疎外感から抜け出るためには、恐らく、それなりの時間が必要なのかもしれない。また、自分で、生きることに対する可能性や展望を見つけだすことが必要なのだろう。それが、他人から見ればとんでもなく幼稚な展望であっても、たとえ数パーセントの可能性であっても、信じることができる者は幸福である。逆に、80パーセントの生存の可能性があっても、信じることができない者は限りなく不幸である。癌との闘いは、心理面に限って言えば、そのほとんどは生存の可能性を信じることができるかどうかの心理的葛藤に他ならない。
 ものごとは何でも表面と裏面がある。「死」は、裏返せば、それまでの間の「生」を意味する。死の危険があるということは、裏返せば生存の可能性があるということでもある。仮に、癌の根治の可能性が70パーセントあるとしても、「癌の再発の可能性が30パーセントもある」と悲観的に考えることも可能である。たとえ癌が前立腺の皮膜から浸潤したとしても、それを悲観するか、それとも「この程度で済んでよかった」と考えるかの違いは大きい。現在の自分を、「今、生きている」と考えるか、「いずれは死ぬ」と考えるかで、生き方がかなり違ってくる。
 これは、気分次第ということではなく、ものごとの見方、考え方、価値観の問題だろう。楽天的に考える、前向きに考える、肯定的に考えると言ってもよいが、問題は自分の思考をいかに前向きに持ってこれるかということに尽きる。

 この頃、癌に関する本を10数冊読み、インターネットで癌に関する膨大な量の記事を読んだ。癌に関する本を読むと、癌のことばかり考えてしまうので、かえって読まない方がよかったと思う時もある。しかし、読めば気持が落ち着くような本もある。参考になった本として、「医者が癌にかかったとき」(竹中文良、文藝春秋社)、「続医者が癌にかかったとき」(竹中文良、文藝春秋社)、「ガン免疫力」(安保徹、大和書房)、「ガンと闘う医師のゲルソン療法」(星野仁彦、マキノ出版)など。
 
前立腺癌と年齢

 前立腺癌が発見された時の年齢によって、癌の持つ意味は全く異なる。
 前立腺癌が発見されるのは60歳以降に多いので、早期発見であれば、それほど遜色ない天命を全うできることが多い。
 仮に70歳で癌が発見されたのであれば、早期発見の癌であればたとえ根治できなくても平均寿命をまっとうできるだろうし、前立腺癌以外の病気で亡くなる可能性の方が高いだろう。前立腺癌は早期に発見すれば根治の可能性があるし、根治できなかったとしても癌の進行が遅く、いろんな治療方法があるので、その後相当年数の生存を確保できる。
 しかし、50歳で前立腺癌が発見された者にとっては、残りの人生をどれだけ伸ばすことができるかどうかはきわめて切実である。一般に、年齢が若い人ほど、癌の進行も早いと言われている。男性ホルモンが前立腺癌の進行を促進するが、年齢とともに男性ホルモンの量が減少するので、加齢とともに癌の進行は遅くなる。
 厚生労働省の「前立腺がん検診ガイドライン(案)」では、PSA検査による死亡率減少効果があるかどうかはっきりしないので、対策型検診として市町村がPSA検診を実施することは勧められないとしている。これは前立腺癌は高齢者に多いので、PSA検査をしてもしなくても、統計数字上は生存年数の違いがないかもしれないという趣旨だと思われる。しかし、PSA検査をすることによって早死を免れる人は必ずいるのであり、60歳以下の人の場合、PSA検査によって癌を発見することの意味は非常に大きい。
 私が手術までの間、もっとも心配していたのは、癌が前立腺を超えて浸潤しているかどうかだった。もし、前立腺の皮膜外に浸潤していれば、手術だろうと放射線治療だろうと、根治の可能性が低くなる。その場合には、ホルモン治療をすることになるが、ホルモン剤の効果は個人差が大きく、ホルモン剤が非常に有効な人もいれば、数年しか効果がない人もいるようだ。年齢が低い人ほどホルモン剤の有効な期間が短いというのを読んだことがある。
 「根治できなくても10年くらいは生きることができるかもしれない」と考えて、それが気休めになる人はいないだろうが、80歳で前立腺癌が発見されれば、90歳まで生きることができるかもしれない。
 もともと、誰でも生まれた時から生存可能年数が限られているのだが、ほとんどの人は自分の生存可能年数を意識することなく生きている。癌のような病気にかかると、嫌でも自分の残りの人生の時間を計算せざるをえなくなるが、もっとも恐いのは、「自分の残りの人生の時間を計算する」ことからくる心理的な不安である。人間は「明日生きているかどうかもわからないし、今後20年くらい生きるかもしれない」のだが、自分の残りの人生の時間を計算しないことによって、ほとんどの人は安心して生きている。「死」は生物としての人間の宿命であり、「死」についていくら考えても何も生まれない。古い時代から哲学者が「死」について多くのことを考えてきたが、あまり意味のあることではなかった。「死」は「来るか来ないか」しかないのであって、それ以外のものでもない。死を考えることなく生きることは動物としての本能であり、死を意識しながら生きることはそれほど容易いことではない。
 
 


治療方針・病院の選択
 
    
退院後の経過