手術後退院までの経過        

平成17年9月29日(手術後1日目、入院3日目)
(手術の翌朝から歩かされる)


 丸一日何も食べていなかったので、手術の翌朝、ものすごく腹が減っており、猛烈な勢いで朝食を食べていたら、M助教授が多数の者を引き連れて回診に訪れ、一瞥して「大丈夫そうですね」と言ってすぐに帰っていった。後日、多数の医学生を引き連れてのU教授の回診も何度かあった。
 その後、ずっと食欲があり、よく食べることができるので自分でも驚く。もっと気分不良や吐気があって、食欲がないのではないかと予想していたのだが、そういうものは一切ない。体力の回復は身体の回復力によるが、それを支えるのは食べることができるかどうかである。
 
 午前中、看護士が「歩きましょう」と言う。手術の直後から、歩いた方が回復が早いらしい。最初、5メートル歩いたところ、看護士が「すごい!」と誉めてくれるが、ひどく目眩がして、倒れそうになった。
 午後も少し歩く。
 
 手術の傷口は少し痛い程度でそれほどでもない。脊椎への鎮痛剤注入のおかげであるが、鎮痛剤の効き具合は個人差が大きく、1週間くらい手術後の激しい痛みに苦しむ人もいるようだ。それでも、咳をしたり、笑うと激痛がするので、何とかして我慢しなければならない。
 最初、尿道カテーテルの管にさわると激痛がしていたが、その痛みは次第に少なくなっていった。
 
看護士に感心

 若い女性の看護士が身体を拭いてくれる。ペニス、睾丸の周りも丁寧に拭いてくれるので、その献身的な仕事振りに感心する。普段であれば感じるような羞恥心はここでは一切ない。ほとんどの入院患者は羞恥心を感じるような余裕はないはずだ。
 ここの病院の看護士は非常に親切で丁寧であり、患者が感じるであろう些細な苦痛や不都合をよくわかっているようで、細かい気配りに感心した。患者からみて看護士が「天使」に思えるのも当然なのだ。男性の看護士も何人かいるが、親切で熟練していていつも感心させられた。病棟は若い看護士が多いが、夜勤があること(月に2回回ってくるとのこと)が影響しているのだろう。
 看護士はその場でパソコンにデーターを入力して患者のデータの管理をしていた。点滴終了の時間を計算したうえで、その時間に看護士が点滴を取り替えにくる。ある時、点滴が終了する数秒前に取り替えにきたことがあり、その抜群のタイミングに私も看護士も思わず「ジャストタイム!」
 看護士の仕事ぶりには、自分たちの仕事が人の命を助けているという仕事への愛着や熱意があるように思われた。看護士の仕事の重要性からすれば、日本でも看護士の待遇がせめて欧米諸国並みにならないものかと思う。
 
医師の仕事を垣間見る

 私も含めて多くの人は医師の仕事をわかったようなつもりでいて、ほとんどわかっていないのではないだろうか。
 朝8時に回診した医師が、午後8時ころ再び病室を訪れることがあり、いったい医師は1日に何時間働いているのだろうかと思った。また、夜、医師が明らかに手術を終えたその足で、手術着のままで私の病室を訪れたこともあり、かなりの数の手術をこなしているように思われた。5時間に及ぶ手術を難なくこなす医師には脱帽するばかりだ。外科手術を行う医師は、手を使って作業を行うので、頭だけではなく身体機能も発揮しなければならない仕事のような気がする。外から見るだけではわからない医師の仕事を、実際に患者になることで少しは実感することができたような気がする。ちなみに、弁護士の仕事も、その大部分が裁判記録や文献を読んで法律論を考えることに費やされるのだが、それは一般の人には絶対に見えない部分である。
 
 医療は日進月歩で進んでいるが、それでも世の中には治せない病気の方が多いのが現状だろう。前立腺癌のように、直せる可能性のある疾患はまだ運がいい方かもしれない。医療がほんの少し進歩するだけでも、どれだけ多くの人が救われることだろうか。そういう医療の仕事に従事することは、きっとやりがいのあることに違いない。法律よりも医学の方がよほど学問としてはマトモである。私の大学の法学部の同じクラスの学生で医者になった者が2人いる(医学部に入り直したということ)。当時は医者になるよりも、弁護士になる方がよほど難しかった。
 最近、弁護士の数が増え、弁護士の仕事は、営業力がモノをいう仕事になり、「怪しげで、うさんくさい」ものになりつつある。弁護士のまともな仕事の数が限られており、多くの弁護士が「どうでもよい事件」を強引に事件にしているように私には見える。また、国民の目に見えないところで、弁護士の報酬額が高くなっている。「安く見せて、高い報酬をとる手法」が蔓延している。そうしなければ、激しい競争の中で、弁護士は事務所を維持できない。アメリカの弁護士に近づきつつある。このような今の弁護士の業界の実情を見る度に私は空しさを感じ、弁護士にならずに医者になった方がよかったかなと思うのだった。高校の頃、私は数学や化学が得意で、周囲から医学部への進学を勧められ、自分でも医者が向いていると思っていたが、文学への憧れが強く、結局法学部に入った。そして、なりゆきまかせで何となく弁護士になった・・・・


(尿道カテーテルに悩まされる)

 膀胱が尿で破裂しそうな尿意はなくなったが、尿道カテーテルの管に尿が溜まると尿意で苦しくなり、眠っていても1〜2時間おきに目が覚める。これは、尿道カテーテルの管から滴として尿が排出されるのだが、その速度以上に尿が膀胱に溜まれば、膀胱が尿で一杯になるからではなかろうか。尿道カテーテルの管から勢いよく尿が排出されればいいのだろうが、管が細いことや圧力の関係で尿道カテーテルの管からの排出速度には限界があるようだ。自分で尿道カテーテルの管から尿を排出してやると、トイレの後のようなすっきり感がする。以後、尿道カテーテルがはずれるまで自分でこれをする。看護士はこれを「しぶり感」と呼んでおり、座薬を使用すれば「しぶり感」がなくなるらしいが、私は座薬を使用せず、2時間おきに自分で管の尿を排出した。
 今回の手術後に最も悩まされたのが、尿意微熱である。K医師にこの点を言うが、医師は、「尿はチューブから排出されるので、膀胱に尿が溜まらないはず」と言う。手で操作するとチューブ内に尿がどんどん流れ込むのでどう見ても膀胱に尿が少し溜まっているとしか考えられない。患者によっては尿道カテーテルでの尿の排出は快適だと言う人もいるので、個人差が大きいようだ。私は人一倍尿意に敏感な体質なのかもしれない。尿道カテーテルの管から尿がスムーズに出るように改良の余地があるように思われるが、恐らく、医療機器の製造者は自分でこの点を体験しなければなかなか欠点を実感できないのではないだろうか。
 
患者になって初めてわかること

 患者になって初めてわかることが多い。
 完全看護と言っても、手術直後は動けないので付き添いがいなければ不自由なことは明かである。ベッドの下に物を落としても、付き添いがいなければ、いちいちナースコールをしなければならない。看護士も8人くらいの患者を担当しているので、同時に複数の患者の世話はできない。20センチ先にあるものを取るにもひどく苦労する。身体を動かすことがこれほどまでに大変だということがよくわかった。咳をすると腹部に激痛が走るので出かけた咳を止めようとして、全身から脂汗が出てくる。
 痛みがあっても無くても治療の上では関係ないので、従来は、患者が感じる痛みは「痛いのは当たり前。それくらい我慢しなさい」と無視される傾向があったようだが、最近は痛みを感じないですむようにかなりの工夫がなされている。しかし、それも手術した個所がある程度は痛いことに変わりはない。
 たぶん、患者の状態は医師にもなかなかわからないのではないかと思う。体験しなければわからないことはたくさんある。「わかる」ということはそんなに簡単なことではないのだ。確か、養老猛司もそんなことを書いていた。患者の状態をもっともよく理解しているのは、患者自身以外では、たぶん看護士である。
 
 妻が介護休暇をとって仕事を休み、手術した日の夜は病院に泊まり、その後毎日付き添いのために来てくれた。妻には「毎日、来なくてよい」と言うが、身体を動かせない時は、やはり付き添いがいてくれると楽である。これで、当分、妻に頭が上がらなくなった。
 私は自分の力を過信し、ひとりで何でもやってしまう傾向があり、今まで、「他人の世話にはならない」という意識が強かった。私は、立場上、「人間は社会的動物であり、一人では生きていけない」とか、「みんなで助け合って生きる」ことの大切さをしばしば口にしてきたが、自分のことに関しては、そんなことはこれぽっちも考えていなかった。私の性格的な自立心の強さは今後も変わることはないだろうが、家族や社会の中で生きることの意味を考えることが多くなった。
 夜38・4度の熱
平成17年9月30日(手術後2日目、入院4日目目
(順調な排便)


 この日の朝から排便あり。スムーズに排便できたことを言うと、看護士が「すごい!」と誉めてくれる。点滴をしているので大量の尿が出ている。尿は多少赤みはあるものの、透明。尿の色を見て看護士が「やったあ!」とひどく誉めてくれるので、「ああ、尿の色が本当にいいんだな」と思えてきた。自分が確実に回復していることが実感でき、自信が湧いてくる。
この看護士は患者の褒め方がなかなかうまい。しかも、それが不自然でないので、つくづく感心した。 
 歩くとかなり痛いが、午前、午後の散歩を欠かさず行う。
 午前中は熱がなく調子がよい。本を読む。微熱さえなければ、ここでの生活はそれほど苦痛ではない。
 
(痛み止めチューブを抜く)

 朝、背中の痛み止めチューブを抜いたので、痛みが少し増した。痛み止めチューブをもう少ししておいて欲しいという気がしたが、早くはずした方が回復のうえでよいという医師の判断なのだろう。

(手術後の痛さは個人差が大きい)

 手術後の痛さには個人差が大きく、手術が大変だったと言う人は、手術後の痛さに苦労するようだ。手術後の1週間、痛さに七転八倒したと言う人もいるが、私は痛み止めチューブを抜いてもそれほどの痛さは感じなかった。鎮痛剤の効き目には個人差があるが、私は手術後2日目に鎮痛剤を停止し、以後座薬も使用していないので鎮痛剤の効果の個人差の問題ではない。座薬は2回使用したが、それは痛みを和らげるためではなく(痛みは大したことはなかった)、尿道カテーテルに尿が溜まった時の尿意を軽減するためだった。この痛みの個人差がどこから来るのか、体質の違いなのだろうか。
 医師と看護士は「とにかく動け」と言うが、動くと痛いし、尿道カテーテルの不自由さとでどうにも億劫である。それでも、毎日散歩を続けた。
 携帯電話で事務所に電話をし、仕事上の指示を出す。
 午後から熱が出る。夜38.5度の熱、大汗をかく。
 
(点滴チューブを抜く)

 その日の夜、点滴チューブを抜く。「こんなに早く?」という感じがする。以後、薬剤の投与は一切なく、ひたすら自然治癒を待つだけである。「手術後の措置はそんなものか」と少し心配になる。妻も不安そうに「もう薬はないんですか」と尋ねていた。
 後で振り返れば、確かに順調に回復しており、これで問題なかった。傷口を治すのはあくまで人間の回復力によるのだろう。座薬も手術後に2回使用しただけである。「医者や薬が病気を治すのではなく、患者が自分で治すのである」という言葉は、多くの本に書いてある。また、鎮痛剤の使用は、患部の治癒を遅らせること、免疫力の低下、副作用等の弊害のあることが指摘されている。
 
 現在の医療制度では、大量の薬剤投与や検査をする病院の方が儲かるシステムになっているのだが、ここは必要最低限の薬剤投与、検査しかしないようだ。長い目で見れば、薬はできるだけ使用しない方がよいことはいろんな本に書いてある。抗癌剤(前立腺癌には効かないので、使用されることはないが)についても、癌に対し使用することの是非がさかんに議論されている。
 以前、私は、ある私立病院で、症状が全くないのに検査漬けにされ、数日後に検査結果を聞きにいくと、別の医師が応対し、「異常はありませんが、どうして検査されたのですか。定期検診でもされたのですか」と言った。私が、「○○先生が、検査の必要があると言われたのですが」と言うと、その医師は「うーん」と言った切りで黙っていた。以後、その病院は利用していない。
 
平成17年10月1日(手術後3日目、入院5日目
(ドレーンを抜く)
 

 朝、廃液チューブ(ドレーン)を抜く。これで動きやすくなった。後は、尿道カテーテルのみ残っている。
 朝、髪を洗う。
 高校生の長女と中学生の長男が見舞いに来た。
 こういう一家団らんの時間を過ごせることは、2年前、長男が病気だった頃は想像すらできなかったことだ。
 子供たちは、私が重病だと思って見舞いに来たのに、私が病人のような感じではないので、拍子抜けしたようだ。子供たちに心配そうな気配が全くないので安心した面もあるが、もう少しは心配してくれてもいいのにと思ったりした。私が退院してから後も、子供達が私を病人扱いしたことは全くなかった。
 
 ペニスの包帯がはずれたので、若い看護士に付けなおしてもらうが、他人に自分のペニスをさらけ出すことは、生検以来何度も行っているので、慣れてしまい羞恥心は一切ない。ここでは、ペニスは自分の身体に付着した物理的な「器官」でしかない。人間の羞恥心は、所詮、社会的生活環境の中での「慣れ」の問題である。
 1日中微熱あり。37.0〜37.5度
 午前、午後少し歩く。
 テレビ、読書、DVDの映画をパソコンで見る。

平成17年10月2日(手術後4日目、入院6日目)
(大変な手術?)


 1日中微熱あり。37.0〜37.5度。ずっと同じような微熱が続くので、体感的には状態は一進一退のように感じるが、K医師は、「順調に回復しています」と言う。
本を読む。午前、午後少し歩く。
 
 M医師が回診の時、「負担に感じる手術でしたか」と尋ねたので、私は「それほどでもないです」と答えておいた。実際のところ、手術の間は眠っているので痛くも痒くもないし、手術後は痛みや不自由があるので「快適」にはほど遠いが、それほど苦痛ではない。ただし、この点は個人差が大きいようだ。

平成17年10月3日(手術後5日目、入院7日目
(微熱が続く)


 36.8〜37.1度 の微熱あり。
 K医師に熱のことを言うと、「血液の炎症反応はないので心配ありません」との返答。微熱の原因はよくわからないが、治療上は全く問題にならないようだ。
 夜、熱は36.9度程度だが、頭が重く、気分が良くない。
 
 G医師から、明日、尿道カテーテルを抜く予定だと聞いたが、明後日に変更になった。手術の際尿道をいったん切断し、その後繋いだので、尿道がきちんと繋がっているかどうかは非常に重要なことである。尿道の縫合個所の僅か数ミリ程度の部分の状態如何で、今後スムーズに尿が出るかどうかが左右されるのだ。

平成17年10月4日(手術後6日目、入院8日目
(順調な回復)


 朝、熱は36.9度
 朝、浣腸をしたように大量のウンコが出る。
午後、熱はないが頭が重い。昨日よりもそれほど状態が良くなったは思えないが、K医師は「順調です」と言う。
 看護士がペニスを湯で洗ってくれる。

平成17年10月5日(手術後7日目、入院9日目)
尿漏れなし

 熱は36.4〜37.1度
 朝、大量のウンコが出たが、自分でも排便の快調さに感心する。
 
 午前中、抜糸、尿道カテーテルを抜くが、それほど痛くはない。造影剤を注入し、尿意を我慢してレントゲン写真、造影剤を放出しながらレントゲン写真。これで尿意をコントロールできていることがわかる。尿パッドを付けて歩いて病室まで約500メートル歩いて戻るが、この間に尿が2、3滴パッドに滲みた。以後、腹に力を入れた時に1、2滴漏れたことがあった程度でそれ以上の尿漏れはなかった。
 最初はかなりの尿漏れがあることを覚悟していたので、拍子抜けした。20枚くらい尿漏れパッドを準備していたが、これならパッドは必要ない。ただし、尿を我慢する力が弱いので1時間に1回くらいの割合でトイレに行った。1回の尿の量は100〜200ccと手術前よりも少ないが、排尿はスムーズにできた。
 尿道カテーテルを抜いて身体から一切の管が撤去され、自由に動きまわることができるようになったことが、嬉しくてたまらない。
 
 尿漏れについては個人差が大きいようである。手術をする医師の技術の差があるかどうかという点は、私にはわからない。看護士の話では、この病院でも手術の直後は尿漏れのある患者や、尿が出にくい患者もいるようなので、患者の個人差によるのだと思う。
 恐らく、下半身の筋力の違いが括約筋の強さに影響するのだと思う。私は日頃から10キロ程度のランニングや登山をしており、かなり体力、筋力があったと思われる。私の場合、登山と言っても、40キロ背負ってのトレーニングとか、岩登り、冬山、ヒマラヤの7000メートル峰を3つ登ったことがあるので、特別な部類かもしれない。また、年齢によって括約筋の回復力に差があるのではないかと思う。
 尿管を締める括約筋を訓練する訓練方法があるが、看護士は私にはその必要性がないと思ったのか、誰も括約筋の訓練方法を教えてくれない。私の方から看護士に尋ねて括約筋の訓練方法を教えてもらった。

             

(退院が近い?)

 その日の夜、G医師が「もう、退院が近いですね」と言う。
 2週間の入院の予定だったが、早く退院できそうだ。尿道カテーテルを抜いたら退院させる病院もあるようだが、確かにできないことはない。当初、入院2週間、自宅療養2週間の予定だったが、こんなに早く体調が回復するとは思ってもいなかった。
 看護士からも、順調な回復振りを誉められる。

平成17年10月6日(手術後8日目、入院10日目)
(退院を待つ)


 尿漏れなし 。排尿も順調。
 熱は36.5〜37.2度
朝、腹帯をとり、病院着から私服に着替える。
 摘出した前立腺の病理検査の結果が、まだ届いていないとのこと。病理検査の結果を待って今後のことを説明し、退院となる予定。
 手術後初めてのシャワーをする。

平成17年10月7日(手術後9日目、入院11日目)
(退院の決定)


 尿漏れなし
 朝、36.7度。今日は終日熱はほとんど出なかった。
 看護士から「昨日は尿の量が2500ccあり、尿がよく出ている」、「尿漏れがないのはすごい」、「座薬をほとんど使用しなかったですね」と感心される。
 
 パソコンで「トエンティフォー」というDVDの映画を見ていたら、G医師がパソコンの画像を一目見るなり、「あ、トエンティフォーですね。僕はこれを全部持っていますよ」と言う。その後、病室に来たK医師もパソコンの画像を一瞥して、「あ、24時間だ」と言う。女性の看護士も「トエンティフォーなら知っています」と言う。
 
 午後、G医師「摘出した前立腺の病理検査の結果はまだ出ていませんが、いつでも退院していいです」明日退院することとする。
 K医師「病理検査の結果はまだわからないが、癌はすべて摘出でき、今後の治療の必要はないと考えています」

平成17年10月8日(手術後10日目、入院12日目)
(ようやく退院)


 この日、退院
 入院中は、尿漏れがなくても念のために尿パッドを付けていたが、退院と同時に尿パッドを外した。退院後、日常生活においては尿漏れはなかった。体重も入院前と変わらない。
 手術と入院が予想に反して余りにあっけなく終わったので、退院した時、10日間の奇妙な旅行にでも出かけていたような不思議な気分がした。
 「いったい、あの体験は何だったのだろう?」
 私の生活空間や周囲の状況は何ひとつ変わっていないのに、私の身体の中のある臓器だけが突然消滅したという奇妙な喪失感。手術は終わったが、命と引きかえに失ったものを思い一抹の寂しさを感じた。
 良くも悪くも、手術により1つの区切りがついたが、前立腺癌との付き合いは、今後のPSAの数値の監視という長い付き合いになりそうだ。

手術を終えて思うこと

(手術は個人差が大きい)
 私の場合、尿道カテーテルを外した直後に尿が2、3滴漏れたほか、退院後に運動をすると少し尿漏れがあったが、日常生活では尿漏れはほとんどなかった。手術中は眠っていたし、手術後は鎮痛剤のおかげで多少の痛みがあった程度ですんだ。手術後の体力の回復も早かった。退院の直後は、さすがにすぐに激しい運動をすることは躊躇したが、それ以外は手術前とほとんど変わらない生活ができた。退院後すぐに車を運転したり、軽い運動はできた。
 しかし、これらは人によって個人差が非常に大きいようだ。手術後の痛み、体力の低下、尿漏れ、排尿困難、尿道の炎症、不眠、便秘、内臓疾患などに悩まされる人もいるようだ。手術からの回復や尿漏れに関しては日頃の健康管理や体力、年齢が大きく影響するのだろう。病気との闘いは、実はその病気だけが問題なのではなく、その人の精神面も含めた身体全体の健康度や回復力、免疫力すべてが関係するのだということがよくわかった。
 
 私にとっていくら手術が負担ではなかったとしても、癌はやはり癌である。手術後のことは、今後のPSAの数値の推移を見守るしかないが、その点も、運、不運がある。
 前立腺癌は、一説には癌が体内に発生してから癌が発見されるまでに20年から30年かかるとも言われ、多くの人は前立腺癌に罹患しないのではなく、癌の進行が遅く癌が小さすぎて発見されないだけだとも考えられる。80歳以上の人は、2人に1人は前立腺癌があるとも言われているが、癌の進行が遅いので寿命に影響しないことが多い。PSAが4.0ngを超えていても癌が小さければ生検で癌は発見できないし、PSAが4.0ng以下でも前立腺癌がないわけではないので、心配し始めれば切りがない。
 
(運と不運)
 この年に私がPSA検査を受けたのは全くの偶然である。私が人間ドックを受けていた病院では、それまではPSAが検査項目に入っていなかったが、その年には検査項目に入っていた。おそらく、その年に50歳になる人についてPSAが検査項目に入っていたのだと思われる。その翌年には、PSA検査はオプション検査となっていたので、特に希望しなければ検査項目とはならない。したがって、その年にたまたまPSA検査が検査項目に入っていたのは運がよかったのである。
 もし、私が検査を受けた年に検査結果が4ng/ml以下であれば再検査をしていないし、翌年にオプション検査の申込みをしてPSA検査をするはずはないから、私の前立腺癌は、私が気紛れでPSA検査を受けるか、癌が転移して腰痛などの自覚症状が出て初めて検査を受けるまで発見されることがなかっただろう。
 何年か前に、腫瘍マーカーの1つのCEA検査(消化器関係の腫瘍マーカーによる検査)で、0.1ポイントだけ正常範囲を超えていたので、再検査したことがある。再検査の結果は異常がなかったが、その時に、腫瘍マーカーは癌のスクリ−ニングにあまり役に立たないこと、せいぜい癌の発見後に癌治療の効果を確かめたりする程度の意味しかないと思った。その時以来腫瘍マーカーの数値は気休めでしかないと思っていたので、PSAについてもまったく関心がなかった。
 いずれにしてもこの年に前立腺癌を発見できたことはまったくの幸運だったのだ。また、前立腺癌ではなく、他の癌であればこんなに早期の段階で発見することは難しいし、通常、前立腺癌よりも進行が早い。何かの癌に罹患することが避けられないとすれば、前立腺癌であることは幸運である。何となく、命をひとつ儲けたような気分がする。
 統計によれば癌が限局している確率は40パーセントだったが、手術時に癌が前立腺内に限局していたことも運が良かった。癌が小さくても、そのできる部位によっては前立腺からはみ出ていることがあるのだろう。
 手術の辛さ、ダーメージ、後遺症の有無、術後の経過は個人差が大きいが、この点でも運が良かった。
 今後、癌が再燃するかどうかはわからないが、それも運に左右される面がある。

(不安を感じることが生存のきっかけになる)
 現在は情報を得ようとすればいくらでも情報の入手が可能であるが、医学的に素人であるだけに情報を自己流に解釈していっそう不安になる面がある。いっそのこと癌について「何も知らない」方が精神的に楽かもしれない。前立腺癌の知識があることにより、いたずらに不安をかき立てる面のあることは否定できないが、しかし、癌に対する正しい知識がなければ、適切な検査や治療を受けることはできない。「何も知らない」方が精神的に楽かもしれないが、「知らぬが仏」どころか、知らない間に本当に「仏」になりかねない。
 私の場合は、もう2、3年前からPSA検査をしていれば、PSAの数値が4を超えるあたりの経過をより理解しやすかったはずだ。PSAの数値が4を超えたときに、異常を察知した私の判断は正しかったことになるが、それは、恐らく、今までに人間ドックにおいて他の検査数値が異常を示したことがなく、私が健康そのものだったからだろう。もし、人間ドックでしょっちゅう異常を指摘されていれば、それに慣れてしまい、「また、今度も大したことはないだろう」と楽観的に考えていたかもしれない。「まさか、49歳で前立腺癌はないでしょう。それは考えすぎですよ」と言って一笑に付す人が多いだろうが、私がそのように「楽天的に」考えていたら治療が手遅れになっていたはずだ。
 「不安」に基づいて適切な行動をとれば、適切な治療が可能となるので、「不安」を感じるということは大切なことだが、行動を起こすことなく、いたずらに不安ばかり感じていても仕方がない。少しでも不安を感じたらすぐに病院に行くこと、そして、仮に医師が「心配ない」と言っても、自分で納得できないことがあれば、納得するまで別の医師の診察を受けたり、検査を受けることが必要である。そんなに注意していても、すべての病気を早期に発見できるとは限らないのが現実であるが、「最善を尽くして天命を待つ」しかない。
 
(早死した知人たち)
 50歳くらいで前立腺癌で亡くなった人は決して少なくはない。そういう人のことを聞き、生き残った自分との運命の分かれ目がどこにあったのかと考える。危険な登山をしていると、亡くなった知人と、生き残った自分の運命の分かれ目がどこにあったのかをいつも考えるが、両者の違いはほんのちょっとしたことでしかないことが多い。
 私が講師を務めた冬山講習会の受講生だったSさんは、翌年の冬に同じ山で滑落死した。冬の岩壁登攀を終えて安全な場所まで数メートルという場所で、私の目の前で200メートルも滑落し、奇跡的に命が助かったT。他方で、何度も登攀し慣れているはずのルートで滑落死したTK氏は、私が弁護士になって間がない20年前、面識のない私にいきなり「著作権について教えてほしい」と電話をしてきた。TK氏は日本を代表する登山家だったが、エベレストやK2からは生きて帰ったのに、日本の中級山岳で52歳の生涯を終えたのは不運としか言いようがない。
 50年生きることができた私は幸運だと思うのだった。
 
(癌で死んだ父のこと) 
 私は、53歳で癌になり56歳で亡くなった父と似たような道をたどっている。父は、癌になる前は、胃潰瘍、心筋梗塞などを患っており、見かけは健康そうだったが、病気には弱かった。
 私は父にも母にも可愛がられたという記憶がほとんどないので、父親の印象は薄く父親のことを思い出すことはほとんどなかったが、癌になってからは、「やはり、私は父の子だったのだ」と思うのだった。私が癌になったことは、父と同じく癌になりやすい体質があるのだろうし、また、父は癌の発見が遅れて56歳で亡くなったので、そのために私は癌に対しいつも敏感になっていた。私が、早期に癌を発見できたのは、父が癌で亡くなったからであり、父が天国から私を見守っていたのかもしれない。仮に、私が今後生きることができるとすれば、父のおかげである。56歳以降は、父の代わりに自分の人生を生きなければならない。

 語学の勉強を家庭の事情で断念し、絵を描く趣味を経済的、時間的な理由からやめた父は、やりたいことを我慢して一教師として社会のしがらみに縛られた古風な生き方をした。癌で入院してからは、父は思い出したように病室で絵筆をとるようになった。その時の遺作が何点か残っている。
 人間の記憶はその人の心理を反映するのだが、私が知っている父は50歳ころまでは母と毎日のように口論になり、母から攻撃されて父はいつも言葉のうえで母に負かされていた。しかし、時々、父が母を組み伏せて殴ることもあった。母は、農地改革で没落した裕福な地主の末っ子だった。小さい頃から何不自由なく育てられた母にとって、10代の頃、生家の突然の没落を体験したことは、大きな衝撃だったに違いない。母はプライドが非常に高く、気性が激しかった。競争心の強い母は、「すべてにおいて1番であること」のでなければ我慢がならず、父の行動のすべてが気に入らなかったのではなかろうか。
 私は、小学生のころ、「両親がこんなに仲が悪いのに、なぜ、離婚しないのだろう?」といつも冷めた目で両親を眺め、小学校2年の時には、学校で「夫婦げんか」という題の作文を書き、教師と母から叱られたことがある。私は、なぜ、本当のことを書いて叱られるのか理解できなかった。
 弁護士の経験から言えば、非行や凶悪犯罪を行ったり、無気力、引きこもりの子供のほとんどが、家庭内の不和や親子関係など家庭環境に起因しているが、その点は私自身の体験からもよく理解できる。幼少時に母親との関係で安全感を経験できなかった子供は、成人後の対人関係が不安定ないし回避的になると言われているが、その点はそのまま私に当てはまる。私は今でも親子の情愛不足や対人関係の不安定感に悩まされている。他方で、このような私の経験は、弁護士の仕事のうえでは、反面教師として非常に役に立っている。
 私はいつも小学校では教師から「情緒不安定」と言われ、問題行動が多く、学年一の問題児だった。私はルナールの「にんじん」という小説に非常に共感できた。
 父と母は、年末から正月にかけて毎年、物を投げて家具を壊したり、テーブルをひっくり返したり、殴り合ったりの凄まじい大喧嘩をしていた。私の家では争乱常態と通夜のような大晦日と偽善的な正月が恒例だった。恐らく、年末年始は父と母が一緒にいる時間が長くなるために喧嘩になるのであり、一緒にいるだけで喧嘩をするというのは、要するに性格的な相性が悪いのだ。そういう夫婦が、いつまでも一緒にいることは互いに不幸である。そういう夫婦は早く別れた方がよい。この点は、小学生の頃も今も、私の考えは変わらない。
 ある年の大晦日の夜、大喧嘩の後で、父が私の部屋に来て申し訳なさそうに、「気にするな」と言ったことがあった。その時の父の言葉と表情が妙に私の頭から離れず、毎年、大晦日にはそのことを思い出す。
 父が50歳近くになって母の活力が衰えたためか、それまでの家の中の戦争状態に終止符をうち、ようやく穏やかな生活を迎えたと思ったら、間もなく心筋梗塞を患い、その後すぐに癌になって亡くなった。私が知っている50歳の父は初老の域に近づきつつあるくたびれた中年男性の姿であり、その姿と現在の自分を重ねることがどうしてもできない。「長く平穏な生き方」を望んでいた父は、家庭ではそれを実現できず、死ぬ前の数年間の病院生活で初めて静かな時間を持つことができた。恐らく、父は自分が56歳で亡くなることは夢にも考えていなかっただろう。
 
(50歳という年齢) 
 50歳という年齢はいろんな意味で人生の節目であるような気がする。
 体力、免疫力の低下などの肉体的な衰えだけでなく、精神的にも不安定になりやすく、49歳を厄年というのはそれなりの理由があるし、それを過ぎて50歳を「知命」と言うのも、なるほどという気がする。
 この年齢は生物学的な意味でも更年期障害が出るのだろうが、社会経済的な意味でも精神的に不安定な時期である。40代、50代での自殺、精神疾患、ストレスからくる猥褻行為や万引、凶悪事件など例をあげれば切りがない。家庭内でも、40代、50代は子供が精神的に難しい時期になり、子供が成人した後は夫婦の離婚が増えてくる。50代以降は癌をはじめとする病気の危険や、いろんな仕事上家庭上のストレスが増し、悩みが尽きない年代なのだろう。そんな生物としての生存条件をすべて受け入れて自分の身体と相談しながら、身体と精神のバランスを保っていかなければならない。
 交感神経と副交感神経のバランスが崩れると、免疫力が低下して病気になりやすいと言われている。私の場合、今まで常に「目的のために○○すべきだ」という意識が強く、交感神経偏重の人生を送ってきた。何ごとでも常に上をめざし、最初から低いレベルを目指すことや適当にやることは許さない雰囲気があった(「許さない」のは自分自身である)。「夢や目標は大きければ大きいほど良い」という言葉を口癖のように他人に言い、「夢、希望、理想、努力、鍛錬、忍耐、精神力、意欲」などを偏重する傾向があった。
 しかし、今後は何ごとも「適当でいいではないか」という発想によって、交感神経と副交感神経のバランスを保つ必要がある。「適当でいいではないか」というのは、人間などの自然物は完全に計算できるものではないので、計画通りにいかないことがしばしばあり、それを予め認識することに他ならない。

 手術を終えた感想をひとことで言えば、「運良く生きているという奇妙な感覚」ということにでもなろうか。
 どんなに健康に注意していても癌になる時はなるのだろうが、諦めることなく自分でできることは可能な限り最善を尽くしたいと思う。そのような真剣な努力によって新しい可能性が開けてくることがあるが、何も行動を起こさなければ開けるはずの可能性も閉ざされてしまうだろう。
 たった1回限りの命だから、悔いが残らないように大切にしたいものである。




治療方針・病院の選択
 
    
退院後の経過