退院後の経過

平成17年
10月9日
(退院後1日目、手術後11日目)
(退院後の状況)

 
 体調はよいが、念のためにしばらく自宅で休養することにする。まだ、手術した個所が多少痛いが、ほぼ快適に過ごす。ほとんど1日中本を読んだり、パソコンの前に座っており、横になることはない。
 犬を連れての散歩が日課になる。久しぶりにのんびりとした時間を過ごすことができ、約2週間の「自宅療養」はけっこう充実した日々だった。
 日常生活で尿漏れはない。入院中は一応尿パッドをしていたが、パッドに尿が漏れたことはなかった。退院後は尿パッドを使用していない。結果的に、私には尿パッドは必要なかった。
 他の患者の体験記を読むと、尿漏れで苦労する人もいるようだが、私は尿漏れではまったく悩まなかった。後日、ランニングをした時に、少量の尿漏れをしたこともあるが、まもなくそれもなくなった。尿漏れについては、余りにも個人差が大きいように感じる。
 入院中は夜も1時間に1回の割合でトイレに行ったが、退院後しばらくは夜1、2回の排尿、やがて、夜間にトイレに行くことはなくなった。



平成17年10月13日(退院後5日目、手術後15日目) 
(何もないことのありがたさ)

   
 この日は散歩を兼ねて柴犬のハナを連れて1時間ほど自宅の裏山に登った。


                                

 ハナは家の中でいつも私の傍を離れない。
 私が本を読んでいるときは、ハナはいつも私の傍で静かに眠っている。私が1階に降りればハナもついて降り、私が胡座をかいて座れば、ハナは私の胡座の中に入り、頭を私の膝に乗せて満ちたりたように目を細める。夜、眠るときはハナは私の布団に潜り込んだり、私と枕を共用して私の顔の横で眠る。ハナは人間のように枕に頭を乗せて眠るのが好きなのだ。考えてみれば、ハナは生後2か月から人間と起居をともにして育ったのだから、人間と同じ行動を自分では当たり前だと思っていてもちっとも不思議ではない。
 犬が眠っている様子は、赤ん坊の寝顔と同じように、平和そのもので、眠ることを本当に楽しんでいるという気がする。
 私の傍で平和そうに眠っているハナを眺めていると、犬にとってはこのように「何もないこと」が幸福なのだろうと思う。もともと、野生状態の動物は絶えず外敵の危険にさらされ、ほとんど一日中餌を得るための行動を強いられているので、野生動物にとって「何もせずに食っていける」ことは天国のような状況だろう。
 人間も古い時代には、生産性の低さと過酷な収奪のために、生活のために働くことに追われていたので、そういう時代には、人々に「何もしないでもよい時間」などほとんどなかったはずだ。そこでは眠ること自体が、「その日の過酷な労働の疲れをとるべき時間」でしかないし、住居や寝具、食べ物が十分でなければ快適な眠りもありえなかっただろう。
 現在では、人間にとって、その内容が人によって異なるにしても、多くの場合、幸福は「何かがあること」や「何かをすること」と結びついている。人間にとって「何もないこと」や「何もしないこと」が幸福と結びつかないと考えられる傾向がある。特に、日本では「ニート」という言葉に象徴されるように、「何もしないこと」を非常に否定的に考える傾向があるが、本当は、それは限りなく幸福な状態であると言ってもよい。癌のような病気になってみれば、「何もないこと」、「生きていること」がどれほど大切でありがたいことかが、身にしみてわかる。

 
                           
平成17年10月14日 退院後6日目、手術後16日目)
(手術結果の説明、今後の治療方針)


 D大学病院で、手術の結果の説明と今後の方針の説明があった。  
 K医師「癌は全て摘出できたと考えられ、今後の治療の必要はないと考えています。ただし、微細な癌は目では見えないことがあるし、病理検査でもすべての癌細胞を調べるわけではないので、今後のPSAの監視が必要となります」

 
ここでいう治療とは、ホルモン剤投与や放射線治療を指している。手術の前後の状態から判断して、退院後すぐにホルモン剤を投与するケースもあるようだが、しばらく、経過観察をしてPSAが連続3回以上上昇したり、0.2ないし0.4を超えた場合にはホルモン剤を投与することが多いようだ。天皇陛下のように、PSAが0.1以下でも、手術時の状態や手術後の数値から判断してホルモン剤を投与するケースもあるようだ。
 
今後どうなるかはわからないが、とりあえず一安心である。
 

平成17年10月15日退院後7日目、手術後17日目)  
(少量の尿漏れ)


 散歩の途中で、軽くランニングをした。すると、パンツに少し尿漏れがあった。1度に漏れるのは1、2滴程度だが、ランニングの衝撃で繰り返し何度も漏れる。散歩の時は尿漏れがないので、ランニングは括約筋にかなりの負担があることがわかる。

平成17年10月16日退院後8日目、手術後18日目)
(近郊の山で登山)


 犬を連れて近郊の山で2時間30分ほど登山をした。
 以前のように、山を駆け上ることはさすがにできないが、通常の登山者程度のペースで登ることができた。以前、ハナを初めて山に連れていった時、私が山を駆け登るペースにハナがついて来れず、ハナが動こうとしなかったことがあった。ハナがへばったのはこの時だけで、その後は体力をつけたハナの早いペースにいつも私は追いつけない。しかし、一度でもへばったことがあるハナは、恐らく私のことを「自分がついていけなかったスゴイ人」と考えて、私に一目置いているのではないかと思えるフシがある。
 山から下る時に尿が漏れそうな感覚があり、ペースが上がらない。実際に、下山中に少し尿漏れがあった。山を下る時の下半身に響く振動が括約筋に負荷をかけていることが、身体を通してよくわかる。日常生活では尿漏れはないが、やはり、運動をすると少し尿漏れするようだ。
 以前の状態にはまだほど遠いが、まあ、手術後18日目だから、山登りができただけでも「良し」とすべきだろう。


                                        
 

平成17年10月18日退院後10日目、手術後20日目)
(排尿状況)

 日常生活では尿漏れはまったくない。
 尿道カテーテルを抜いた直後は、排尿時に押し出すような感覚があり、尿の切れが悪かったが、日を追うごとに尿がスムーズに出るようになり、尿の切れも良くなった。現在では排尿状況は以前と同程度まで回復している。

(久しぶりのランニング)

 久しぶりに4キロほど軽くランニングをしたが、少し尿漏れがあった。


平成17年10月19日退院後11日目、手術後21日目)
(多少の違和感あり)
 今日も4キロのランニング。少し尿漏れがあった。括約筋の回復はまだまだ
不十分である。
 退院した頃、手術した個所の痛みとは別に奇妙な違和感が下腹部にあったが、これは恐らく、前立腺や精嚢という臓器がなくなったことからくる違和感だったのだろう。あるべき臓器がなくなれば身体の神経系統は一生懸命にその臓器を捜すのかもしれないが、もし、これがコンピューターであれば、あるべきファイルが一部でも消失すれば絶対に動かないはずだ。しかし、人間の身体は敢えてプログラムを修正しなくても、時間の経過によってちゃんと異常事態に順応できるようになる。
 人間の精神も同じように「失ったもの」に慣れるためには、時間が必要なのかもしれない。

 
(勃起神経の温存)

 退院後間もなく入浴時や朝、排便時などにペニスが少し勃起することがあり、勃起神経が温存されていることがわかった。この時点では自分の意思とは無関係に、何らかの刺激があると勃起しかけるという感じだった。手術の終了時刻を最初に聞いたときに、手術に時間がかかったのは神経の温存が行われたからではないかと思ったが、その直感は間違いではなかった。
 手術前に、医師は私に「低分化癌があるので、勃起神経を残すのは無理である」と告げ、私は「神経を残せなくてもやむをえない」と返答した。しかし、私は医師に、「できれば神経を残したい」という希望を伝えておいた。生検で癌が片側からしか検出されていなかったので、私は手術時の前立腺の状態によって神経を温存できる可能性がないわけではないと思っていた。そして、医師は、手術時に、癌が前立腺の皮膜に達していない状態を見て神経を残しても差し支えないと判断したものと思われる。最近では、手術時の状態によって、可能な限り神経を温存しようと考える医師が多いようだが、神経を温存できるかどうかは運不運がある。
 神経を温存した場合でも、神経が回復する人は20〜60%程度と言われている。神経が回復するとしても、手術により神経が多少のダメージ゙を受けるので回復には1〜2年くらいかかるようである。手術後22日目の時点では、ペニスが「少し勃起する」程度で、まだ「実用」にはほど遠かったが、その後、少しづつ回復していった。
 手術の前は、自分が生きることを考えることで精一杯だったが、手術から日が経つにつれて、「勃起神経を温存することの意味」の重さを感じるようになった。とはいえ、生命と天秤にかけるならば、私は、今でもやはり、勃起神経の温存よりも生命の方を優先させるだろう。


平成17年10月24日退院後15日目、手術後25日目)
(仕事に復帰する)
 
 この日から仕事に復帰する。
 「いつ仕事に復帰するのか」という問い合わせが、裁判所や事件関係者から頻繁にあるし、「退院=仕事が可能」と受け取る人が多いのが現実である。
 事務所に出ると、待ち構えていたように相談者や依頼者が訪れ、ひっきりなしに電話がかかる。私にとって、法律事務所は分刻みのスケジュールで闘う「戦場」であり、病後の身体には堪える。
 9月に裁判の期日変更などのために診断書を裁判所に提出していたが、診断書には病名として「前立腺腫瘍」と記載されていた。弁護士会、裁判所、検察庁などは、けっこう狭い「村社会」なので、この種の噂はすぐに広まることになっている。したがって、周囲の者は私が癌だということを知っているはずであり、会う人が皆ことごとく心配そうに、「先生、大丈夫ですか」と尋ねる。私が「大丈夫です」と答えても、信用していない顔つきで、何度も「本当ですか」と尋ねる。中には、私が元気そうなので怪訝そうな顔をする人もいる。中には、「気の毒に」と憐憫の眼差しでじっと見つめる人もいるが、「そう簡単に死んでたまるか」と思うのだった。
 仕事上の支障はそれほどないが、手術した個所がまだ多少痛く、特に車を運転すると車の振動が腹に響く。毎日3時間くらい運転するので当分の間は我慢が必要だろう。
 手術前に較べると、ちょっとしたことでもすぐに疲れる。
 日常生活では尿漏れは全くないが、ランニングをするとまだ少し尿漏れがある。面白いことに、朝のランニングでは尿漏れはないが、夕方のランニングでは少し尿漏れする。恐らく、夕方は括約筋が疲れているということだろうか。
 

平成17年11月5日退院後27日目、手術後37日目)
(10キロのランニング)

 手術後初めて10キロのランニングをする。手術した個所は日常生活のうえでは痛くないが、腹筋運動をしようとすると、痛くてとてもできない。したがって、私の腹筋の可能回数は今のところ0回である(以前は毎日腹筋運動を行っていた)。ストレッチや腕立て伏せはできるようになった。


平成17年11月18日退院後40日目、手術後50日目)
(退院後、初めての検査)
 D大学病院で尿検査と血液検査をする。
 退院後初めての血液検査であるが、結果はPSA 0.1未満だった。これは1月になって聞いた。この病院では、測定下限が0.02ng/mlの検査キットを使用しており、検査結果は測定限界に近い数値だったが、測定上の誤差がある。数値の微変動にはそれほど意味がない。数値がずっと上昇を続けるかどうかが問題なのだ。
 当分、2か月に1回の検査となるようだ。
 診察は5分で終わった。
 日常生活では尿漏れは全くないが、夕方10キロ走ると数滴尿漏れがある(午前中の10キロランニングでは尿漏れはない)ので、今まで全く行っていなかった括約筋体操をこれから行うことにする。

(手術後の食事)
 食事療法や健康食品は、多くの経験を通じて癌の進行を抑えたり、新たな癌の発症を抑制する効果があると言われている。
 私の場合、食事療法というような大袈裟なものではないが、癌を発見して以降、毎日、Dー12、イムノエース、プロポリス、野菜ジュース、茸類、玄米食、玄米パンなどをとっている。1日3食玄米食を基本とし、たまに、玄米食が1日に2食の日もある。昼食は玄米食の弁当を持参している(妻が弁当を作れない日は、自分で弁当を作る)。
 癌の発見以降、動物性の肉類は原則として一切食べない。以前は好物だったステーキ、焼き肉、トンカツ、ラーメン、天ぷらなどは一切食べない。タンパク質は、魚肉、豆、豆腐、納豆、卵、チーズ、牛乳、ヨーグルトで摂取している。
 脂肪や塩分はできるだけ避けるようにしている。
 アルコールは赤ワインをワイングラス(小)に3〜4杯程度とし、たまに、人との付き合いで1か月に1〜2回程度ビール350mlを飲むことがある。癌発見以降、ウィスキー、日本酒はまったく飲まないので、中元や歳暮でもらうウィスキー、日本酒が余って仕方がない。
 本来、癌予防のためにはアルコールを一切断つのがよいが、厳格な方法を実施しても、長続きしなければ意味がないので、このようにしている。
 茶やコーヒーはゲルソン療法では禁止されるが、少量の緑茶やコーヒーは免疫力を高めると書いている本、緑茶は癌を抑える効果があると書いてある本、コーヒーは大腸癌を抑えると書いている本、コーヒーには発癌物質が含まれると書いてある本、癌との関係で大量の緑茶の摂取を勧める本と、緑茶の大量摂取は免疫力を低下させると書いてある本がある。
 
平成17年12月

(ハナ、冬山に登る)

 全国的な大雪の影響で、この地域でも珍しく雪が積もった。
 さっそく、愛犬のハナを連れて、近郊の山に2時間半かけて登った。山頂で約20センチの積雪だった。ハナにとって、これが冬山初体験である。
 今では、激しい運動をしても尿漏れはない。


                            


平成18年1月(手術後約4か月)
(退院後2回目の検査)

 退院後、2回目の血液検査をする。結果はPSA 0.1未満(測定下限値付近の数値だが、多少の微変動あり)
 K医師 「順調です」
 
 手術(平成17年9月28日)から4か月弱が経過したが、現在、日常生活でも激しい運動をしても尿漏れは全くない。夜中にトイレに行くこともない。その他、身体の異常は全くない。体重の増減もない。
 手術によって、尿の出がよくなったという人がいるようだが、私の場合、手術前も現在も尿の出方は良好である。
 
 妻や子供たちは私の病状をまったく心配していないようだ。子供達は、私が手術を受けたことなど、今では、「そういえば、そんなこともあった」という程度にしか思い出さないのかもしれない。そういう楽天的な家族を見ていると、「もう、少し心配してくれてもいいのに」と思うこともあるが、逆に、四六時中、家族に心配そうな顔つきをされるのも困る。私の病状を少しは気にかけてもらいたいが、余りに心配されるのも嫌なのだが、人間はわがままなものである。


平成18年3月(手術後約6か月)
(退院後3回目の検査)

 退院後、3回目の血液検査をする。結果はPSA 0.1未満(0.1よりかなり低い数値だが、多少の微変動あり)。
 いつも医師から検査結果を聞くときはひどく緊張する。
 K医師 「順調です」 
 不安がないわけではないが、運命に委ねるしかない。
 K医師は4月から他の病院に転勤するとのこと(K医師は共済病院の泌尿器科部長になり、その後、県立病院の泌尿器科部長になられた)。
 長い間(僅か6か月間だったが)お世話になったお礼を言う。手術の予後は医師の技量だけによって決まるものではないが、K医師の技量のおかげであることは間違いない。手術からの回復が早く、尿漏れなどの後遺症もなく、神経も温存できたことに感謝する。
 

平成18年4月
(春山で山スキー)

 新潟県の火打山(2462m)に登り、山スキーをする。積雪はまだ5〜6mあった。癌のことを忘れたわけではなく、「自分が生きていることを確認する」ために火打山に登ったのだ。大自然の中で、全身を使って、荷物を担ぎ、登り、呼吸をする時、自分の心臓と肺と筋肉の動きと血液の流れを実感できる。自分が生きていることをもっともよく感じるのは、こういう時である。
 

                              
 

(PSA不安症、癌不安症候
群)
 
 前立腺癌が目に見える形で再発するよりも何年も前の時点で、PSAの数値の上昇が見られることから、PSAの数値の上昇は生化学的再燃と呼ばれている。
 前立腺癌の生化学的再燃の判断は、手術後のPSA 0.2ng/mlまたは0.4ng/mlを基準にしたり、連続3回以上のPSAの上昇とか、前立腺の病理検査の結果や手術後のPSAの変化を見て判断するようであり、癌の生化学的再燃の有無を調べるうえで、PSAの監視は重要である。
 そのため、前立腺癌の治療後、手術をしたほとんどの人がPSAの数値の微変化に一喜一憂するのだが、医学的にわからないことが多い。
 PSAは前立腺で生産され、通常は精管に放出されるが、癌細胞ができると精管に放出されず血液中に混入するので、血液中のPSAの数値が前立腺癌の検査に有用だとされている。したがって、前立腺を摘出した場合、癌細胞がなければ、PSA検査の数値は0になるはずであるが、実際には数値が0になることはない。高感度キットで測定しても0.003ng/ml未満の数値は出てこないし、癌が再燃しない人でも数値が微変動する。
 患者はPSAの数値の変化に神経質になるが、PSAの数値について、何人かの医師は、「測定の誤差があるので、測定値が低レベルで上昇がなければ問題ない」との回答だった。
 また、PSAの検査数値が0にならない点についてU教授に質問したところ、「前立腺を摘出するとPSAが生成されることはないが、血液中にはPSAと分子構造の似たタンパク質が無数にあるので、検査キットがPSAと構造の似たタンパク質に反応して、PSAがなくても微量のPSAの数値を検出したり、測定の度に数値が異なることがある」との説明だった。「液を希釈してPSAを検査する方法もあるが、当病院では等モルで検査をする方法をとっている。両者を比較した場合の違いとしては・・・・・」あたりの説明になると、高校以来の化学の勉強をしているようで、よくわからなかった。
 また、手術後に前立腺の組織(正常細胞)が一部残存している場合、微量のPSAが検出されるようである。勃起神経の温存術を施行した場合、神経の周辺に若干の前立腺細胞が残るのではなかろうか。

 患者の立場でいえば、PSAの測定値が0ではなく、たとえ測定下限値付近であっても微量のPSAが検出されることは、いつかは数値が動き出すのではないかという不安にかられる。
 
 現在、PSA検査キットは30種類以上あるらしいが、インターネットで調べると、測定範囲の下限は、検査キットの種類によって、0.003ng/ml、0.005、0.008、0.01、0.02、0.04、0.06、0.1、0.2、0.5など実に多様である。
 インターネットで検査キットの仕様書の一部を調べてみると、ある検査キットは、検査数値の出力は0.001ng/mlまで可能であるが、「検出限界」が0.005ng/ml、「定量下限」が0.010ng/mlとなっている。別の検査キットは、検査数値の出力0.01ng/ml以上であるが、「最小検出感度」は0.005ng/mlとされている。検査数値の出力が0.01以上、「実用感度」は0.2以上というキットもある。ホームページで「当病院では、PSA 0.002ng/mlから検査可能」と宣伝している病院もあった。
 検査キットの価格、キットの測定範囲(高感度のキットではPSAの高い数値の領域の測定に向いていないらしい)、測定の正確性、検査の効率(大きな病院では毎日大量の血液検査をしているので、効率や価格は重要である)などを考慮して、病院によって使用する検査キットが異なる。
 PSAの「報告下限値」を0.003ng/mlとする高感度PSA(三菱化学ビーシーエル製)は、それまで「0.01以下」と表示していたのを、平成16年9月から0.003から報告することとしているが、これは検査キットの感度がそれ以前よりも良くなったということではなく、0.003以上の数値を報告するように変更しただけのようである(単なる報告形式の変更)。このキットは0.003ng/mlという「報告下限値」であるが、その数値の「データ再現性の観点」や「信頼限界」を考慮して、「実効感度」は0.01であるとしている。報告形式を「0.01以下」から「0.003以上の表示」にメーカーが変更してもキットの感度が良くなったわけではないが、一見、キットの感度が良くなったような印象を人々に与える。それは数字のトリックである。
 検査数値の出力が0.001以上のキットの場合、出力機器を備えている病院では0.001以上の数値を出力しているということだろうか。これに対し、「報告下限値」ということは、数値の出力は外部の検査機関に委託し、検査機関が病院に「報告」しているのだろうか。病院内に三菱化学ビーシーエルの社員が常駐して検査を請け負っている病院もあるようだ。D病院では、PSAの検査結果はその日の夕方にはわかるそうだが、外部の検査機関に委託せず、病院内で血液を分析しているのだろう。そういえば、C病院では血液検査後1時間で高感度PSAの検査結果が出ていたが、特別に急いで血液を検査したということだろうか。

 自社製品を医療機関に売り込むための製薬メーカーの思惑と企業秘密の壁もあり、「検査数値の出力の範囲」、「検出限界」、「最小検出感度」、「定量下限」、「報告下限」、「実用感度」、「実効感度」、「測定範囲」、「参考基準範囲」などの概念について、キット間の数値の関係がどうなっているのかよくわからない。
 使用する検査キットによって、測定方法や測定数値の差があるので、高感度PSAで検査していた患者が別の方法で検査を受けるととんでもない大きな数値が出て、患者と医師が驚くことがあるようだ。
 測定数値にどの程度の誤差があるのかは、そもそも正確な数値がわからなければ、誤差の範囲もよくわからないことになる。しかし、検査キットの仕様書記載の「同時再現性」、「日差再現性」などの、同じ人に対する検査キット間の数値の差は測定の誤差によるものであることが明かである。各検査キットの仕様書を読むと、「同時再現性」、「日差再現性」など、同じ人に対する検査数値にかなりの差があるから、このあたりが誤差の範囲の目安になるのではなかろうか。
 例えば、ルミパルスPSAーNという検査キットは、出力の範囲が0.001〜100.000ng/ml、検出限界が0.005ng/ml、定量限界が0.010ng/mlとされているが、検体Aについて何度か検査をしその最小値と最大値の差が0.077ng/mlであり、検体Bについては差が1.853ng/ml、検体Cについては差が2.748ng/mlとなっており、かなりの誤差があることがわかる。ただし、PSAの数値が高い場合ほど誤差が大きいという傾向があり、恐らくPSAの数値に対する割合として誤差が生じるためだろう。残念ながら、癌の再燃が問題となるPSA 0.1ng/ml付近での同じ検体に対する最小値と最大値に関するデータは公表されていないので、生化学的再燃レベルにおける検査キットの誤差の程度はわからない。
 このように測定の誤差があることや、PSAが0となるまで測定することができないことから、数値の微変動そのものはそれほど気にする必要がないように思われる。特定の患者について同じ検査キットを使用して継続的に検査し、その数値が継続的に上昇していくかどうかが重要である。PSAに数値が微小でも、増加傾向にあれば問題だし、PSAが微小とは言えない場合でも(検査キットの種類によるが)、増加しなければそれほど問題はないのだろう。
 PSAの連続3回以上の上昇をもって生化学的再燃とする考え方は、その場合には再燃する人の確率が高いという経験に基づくものであって、理論的な根拠はないはずだ。
 
 PSAについてはまだ解明されていない部分が余りに多いので、その数値の微変化に一喜一憂しても仕方ない。「癌が再燃するかしないか」のどちらかしかないのだが、ある状態を数字で表示すれば、数字は微妙に変化する。厳密に言えば、自然界には同じ数値は存在しないはずだ。PSAの数値が「0.01以下」、「0.1以下」と表示されて同じに見えても、それ以下のところでは数値が微妙に増減しており、それらを細かく表示すれば、「数値が変動している」ことになってしまう。PSAを低領域まで測定すればするほど微細な変動を数字で表現することになり、それを余りに気にすると(ほとんどの患者は数値を気にするはずだが)、PSA不安症になってしまう。
 胃の内視鏡検査などでも、医者が「検査の結果、癌はありませんでした」と言っても、それは肉眼で癌が見えなかったというだけで、目に見えない微細な癌細胞があるかもしれない。あまりに微細な癌は治療の対象とは考えられていないが、癌があることに変わりがない。毎日、人体の中では多数の癌細胞が生まれ、死滅しているようだが、あまりに癌のことを心配をする人は癌不安症候群とでも言うべきかも知れない。
 「数値の変化はすべで測定の誤差である」という程度に大雑把に考えて、数値を自分の都合のよいように勝手に解釈しておいた方が精神衛生上よほどよい。最近は、キットがPSAをより小さな単位まで表示する傾向があるが、余りに細かく数値化することも考えものだ。「知らぬが仏」で知らない間に本当に「仏」になってしまっては困るが、知りすぎるのも困る。年数が経過すれば、癌が再燃したかしないかは嫌でもわかることであり、生化学的再燃の段階では、患者がそれを知るのが多少遅れたとしても、人間はその間に別の病気で死ぬかもしれないのだ。

(癌になって変わったこと)
 時々、「癌になってよかった」と言う人がいるが、私はそうは思わない。誰でも、健康な方がいいに決まっている。
 しかし、癌になったことをきっかけにいろんなことを考えたり、気づくことが多い。そして、その後の人生はそれまでとはまったく違ったものになる。
 人生が有限であること、時間の大切さや、自分のやりたいことなどについては以前から考えていたが、癌になって以降、いっそう強く考えるようになった。自分の人生を生きる真剣さは以前とはまるで違ったものになった。癌の宣告を受けた時から、私にとって生きることが真剣勝負になった。人は「死」を意識することで、「生」をより深く感じることができるとも言える。このように考えれば、「生きてさえいれば何でもできる」、「生きることさえできれば、この世に恐いものなど何もない」という心境になる。
 先日、私は、交差点で赤信号で停止中追突されるという事故に遭ったが、「事故後も生きているのだから、運がよかった」と思え、その幸運に感謝している。現代は、何か特別のことがなければ、「生きているだけで幸せ」という心境になかなかなれるものではない。

 人間は何故生きるのかという問いに答えることは難しいが、「生きたいから生きる」としか言いようがない。多くの癌患者は死を自覚し、周囲の者もそのような目で癌患者を見る。癌患者が「生きたい」という欲求を失ってしまうことがあるが、人間は生きる意欲を喪失すると、急速に死に向かって突き進むことになる。
 生きる意欲とか生きる希望は理屈で生まれるものではないので、いくら頭で考えても駄目だろう。古代から多くの哲学者が、「なぜ、人間は生きるのか」を考えてきたが、答えは出ていない。恐らく、理屈でいくら考えても答えは出ないはずだ。人間が生きるのは、人間が生物だからであり、生物は自然によって生命力を与えられているのである。では、なぜ、生物はそのように作られているのか。恐らく、自然の摂理を理屈で考えること自体が間違っているのだろう。
 生きる意欲は、自分の心の中から自然にわき上がるものなのだ。自分のやりたいことのある人は、生きる意欲を持ちやすいかもしれない。「自分のやりたいこと」が、人間関係やその延長にある社会との関わりの中で持てるならば、いっそう大きな生きる意欲に結びつくに違いない。
 私が、癌の宣告を受けたとき、それまで自分がやりたいことが山のようにあったのに、それらは一瞬にして「どうでもよいこと」のように思え始めた。自分の死を意識すると「どうでもよい」ことに思えるような事柄は、それほど意味のあることではないのかもしれない。自分の死を意識してもなお意味があると思えることが、本当に自分にとって意味のあることかもしれない。死を意識すると、本当に自分がやらなければならないことと、そうではないことの区別が見えてくるような気がする。
 人生は何かをしようとすれば、余りにも短い。

平成21年(手術後4年)
 PSAは 0.1未満
 この日、対応した医師が、「○○さんは、確か、C中央病院で生検を受けられましたよね」と言う。
 このS医師は、平成17年にC中央病院での生検を担当した医師だった。S医師は、その後、D大学病院に戻り(C中央病院の若い医師は、D大学病院から派遣されることが多いようだ)、私の担当になったのであり、まさに奇遇である。その後、S医師が私の担当になる。

 S医師は、「C中央病院では自分は下っ端だった」、「D大学病院で手術を受けたのは正解です」と、意味深長なことを言う。
 
 医療水準が平準化されているとはいえ、医療技術に格差がある。大都市の有名病院の医師が、医療技術に優れていると思いがちだが、果たしてそうだろうか。むしろ、医師個人の能力の差が大きいのではないか。新米の医師は、たとえ、大病院にいても、新米は新米である。

 弁護士の場合も、個人的な能力差が大きく、当たり外れがある。大都市の弁護士が優秀とは限らない。特許、著作権、外国との取引、企業合併、大規模破産管財事件などの事件は、地方にはない事件なので、大都市の弁護士でなければできないだろう。
 しかし、市民の一般的な事件では、都会でも地方でも、弁護士は玉石混淆である。経験の足りない弁護士は、都会でも未熟である。最近のように弁護士の数が急増すると、市民が優秀な弁護士を捜し出すことは、ほとんど不可能に近い。

 医師の世界も似たようなものではないか・・・・・



平成22年(手術後5年)
 PSAは 0.1未満

 知人の大学教授が前立腺癌で亡くなった。私が小学生の頃、その家によく遊びに行った。享年60歳。ヨーロッパ中世スコラ哲学の有名な研究者だった。遠方にいるため詳細は不明だが、50代後半を闘病生活を送っていたらしい。癌がわかった時期は私とほぼ同じ頃のようである。化学療法などである程度進行を抑えることができるが、癌が発見された時、癌が相当進行していたのだろうか。私も、50代後半で癌が発見されていれば、60歳くらいまでしか生存できなかっただろう。運、不運がある。

(手術から5年)
 もう5年。まだ5年・・・・・
 癌になった者にとって、5年という年月は特別の意味を持っている。

 私の長女ともっとも仲のよかった親友は12歳の時に脳腫瘍になり、1年後に亡くなった。その家族は、離婚、破産、弟の不登校などの経過をたどった。私の長男は12歳の時にうつ病になり、学校に行けなくなった。長女と長男の仲のよかった別の友人の父親は、最近、食道癌で49歳で亡くなった。癌がわかってから半年後の死だった。余りにも死が早すぎて、おそらく、49歳で死を迎えることについて心の整理がつかないまま、気持ちが混乱したまま死を迎えたのではないか。高校の教師と小学校の教師の家庭で、2人の子供は音楽とサッカーで活躍していた。幸福のまっただ中の突然の不幸。私と同じ年齢で癌が発見されたが、彼は発見が遅く、私は発見が早かった。日航機墜落事故により、突然、幸福の絶頂期が崩壊した歌手の坂本九が思い出される。突然の通り魔事件で一家の幸福が崩壊するケースもある。拉致事件なども、同じだ。
 私の父は56歳で骨髄腫で亡くなった。私の友人は、30代で躁病になり、30歳で白血病で亡くなった人もいる。私の知人の母親は46歳で膵臓癌で亡くなった。40代で乳癌が発見され、現在、治療中。その兄は50台前半で前立腺癌になった(父親は前立腺癌で死亡している)。知人の大学教授は60歳で前立腺癌で亡くなった。51歳、65歳で山で遭難死した友人。65歳で大腸癌で亡くなった知人。65歳で十二指腸癌で亡くなった友人。51歳で自殺した大学教授・団体理事(高校、大学の友人)。大学卒業後、会っていなかったことが悔やまれる。60歳でC型肝炎で亡くなった知人。60歳で癌死した会社経営者の叔父。60歳で病死した知人は、すぐに何人か思い浮かぶ。先日、53歳で大腸癌で亡くなった知人がいる。定期検査で「早期発見」をしたが、それでもその後に転移した。1年に1回の人間ドックでは、手遅れになることもあるようだ。
 考えてみれば、50代、60代で亡くなった知人が実に多い。60歳の還暦祝いの1週間前に亡くなった。周囲には、早死にする人が実に多い。日本人男性の平均寿命は、私の知人に関する限り当てはまらない。社会的地位に伴い、ストレスの多い環境で生活している人が多いからだろう。
 社会的地位や財産を得るが50歳で死亡する人生と、地位や財産は平凡だが90歳まで生きる人生のどちらがよいかと聞かれたら、どうするか。私は、後者を選ぶ。生きてさえいれば、そして意欲さえあれば、何でもできるではないか。地位や財産よりも幸福でありたい。健康や生存は、幸福の重要な条件である。

 私の親族のうち男性は、ほとんどが50〜70歳で癌で死亡している。70歳を過ぎても生きている人は、少ない。男は早死の癌家系である。
 誰でも死ぬという意味では、死は平等である。しかし、早死にする人と長生きする人がおり、死は、不平等である。人間にとって、最大の不平等と格差は、「生存期間」かもしれない。
 生きることは、「常に死を免れ続ける」幸運を意味する。死はどこにでも存在し、身近なところに潜んでいるのだが、多くの人はそのことに気づかないか、あるいは、そのことについて考えることを意識的に避けている。  
 
 しかし、13歳で亡くなった私の長女の親友の家族は、その後、離婚、破産という経過をたどったが、自宅は競売にならず、家族は元気に生活しているようだ。亡くなった女の子の弟は、現在、元気に野球をしている。
 私の長男は、鬱病からの回復に数年かかったが、現在は元気に大学に通っている。49歳の父親を食道癌で亡くした一家は、その後、家族で励まし合って生きている(ただし、亡くなった人の妻は、その後、50代で難病指定の神経硬化症になった。ストレスが原因か)。
 私の父は56歳で亡くなったが、退職金、遺族年金のおかげで、家族への経済的な影響は少なかった。躁病になった友人は、それから20年間、障害年金で生活している。46歳の時に母親を膵臓癌で亡くした女性は、今では、結婚して2児の母親である。私の親族のうち女性は、だいたい90歳近くまで生きおり、女性は長寿の家系である。癌になった私も、55歳の今、ちゃんと生きている。これは幸運なことだ。
 こうしてみると、不幸なこともあれば、幸運もある。
 
 「今、生きている」ことがすべてであり、生きていることは幸運である。今の「生」をよりよく生きることが大切なのだ


山スキー


平成25年(手術後8年)
 PSAは 0.1未満
 最近、東北地方の被災地を訪れた。宮城県山元町から岩手県大槌町まで、海岸線を北上しながら各被災地を見て回った。
 約40名の町職員が犠牲になった防災塔が残っていた。防災塔さえなければ、みな避難して犠牲者は出なかっただろう。避難できる時間は十分にあった。
 巨大な堤防さえなければ、堤防を信頼して避難しないという選択はありえなかっただろう。
 しかし、すべては結果論である。災害時にどのような判断をするか、それが生死を分けることは多い。病気への対処の仕方も似たようなものである。
 生きているということは、幸運なことだとつくづく思っている。

 大学生の長男は、親にほとんど相談しないので、どこで何をしているのかわからないと思っていたら、少し前、東北の被災地に2回ほどボランティアに行っていた。その前は、知的障害者の施設でボランティアをしてたらしい。長男は、小学校6年の時、病気のために1年間学校に行けなかったことがある。その時の経験は、長い目で見れば、無駄な時間ではなかったのだろう。人生は、何があるかわからない。それだからこそ、生きることは幸福であり、同時に、いつかは死ぬという意味では、生きていることは悲しいものなのだ。


 
多くの犠牲者の出た南三陸町の防災塔


平成29年(手術後12年)
 PSAは 0.1未満
 癌がわかってから12年生きた。
 現在は、1年に1回のPSA検査をしている。
 この間に本を何冊か書いた。癌になっていなければ、本を書くことはなかっただろう。生きている間に、歴史に残ることをしておきたいと言えば大げさだが(歴史に残るような仕事は誰にでもできるものではない)、少なくとも、気持ちの上では、そのように考えている。
 私が雑誌に執筆するようになったのは、長男の小6の時の病気がきっかけだった(文章を書いている時だけは、子供と自分の病気のことを忘れることができた)。まだ数冊は本を書きたい。そのためには、まだ、10年くらいは生きていたい。
 このウェブサイトの文章は、10年間の癌の経過を記すことになってしまったが、当初は、そのつもりはなかった。当初、自分が何年生きることができるか自信がなく、その不安をこの文章を書くことで紛らしていただけなのだ。しかし、最近は、このウェブサイトに書きたい内容がなくなってきた。癌手術から10年以上生きたことで、癌に対する関心が薄れてきた。あれほど癌再発に対する不安に苛まされていたのに、今では、他人事のような感じさえする。
 しかし、癌になったことで、人生の有限性がわかり、1年後、自分が生きているかどうかはわからないという感覚は、確かにある。1年後、癌で死ぬことはないだろうが、事故で死ぬ可能性はある。癌になったことで、有限である人生をよりよく生きようという感覚、今、生きているこの時間を大切に、有意義にしようという感覚が生まれた。

 病気になって「よいこと」はないが、病気になったことを、可能な限りプラスの方向にするということで、病気になったことが別の意味を持ってくる。生きていれば、何があるかわからない。人間は、必ずいつかは死ぬが、それまでの時間を可能な限り意味のあるものにするかどうかは、やり方次第である。人生の時間は、長い人もいれば短い人もいる。ロールズが「正義論」述べるように、人は生まれた瞬間に格差が生じ、その格差は、経済的格差だけでなく、能力(talent、ロールズの用語)の差も含まれる。努力によって解消される格差もあるが、才能の差や美醜、運動能力の格差のように解消できないものもある。人間の寿命も、努力や運だけでなく、生まれながらの資質の差が関係する。モーツアルトのように音楽の才能に恵まれても、35歳で終わる人生よりも、60歳を過ぎても生きることのできる自分の人生でよかったと思う。寿命は、運、不運が大きいが、人生の時間の長短に関係なく、それを有意義にするかどうかは、人間の主体的な意思次第である。

 生きるうえで大切なことは、希望を持つことである。
 
日本では、安心という言葉が多用される。政治家が、「安全と安心を実現します」などと言うパフォーマンスが多い。
 安心は日本特有の用語であり、外国語にはこれに相当する言葉がない。安心は、地震、津波、原発事故などに関して、油断につながりやすい。
 癌患者にとって治療や再発の恐れなどの不安があり、安心はありえない。人は、いつかは必ず死ぬという意味では、生命に関して安心はありえない。地震、津波、原発事故のリスクがゼロでない以上、安心してはならない。これらに対する不安を感じ、警戒心を怠らないことが必要である。
 大切なことは、安心ではなく希望を持つことである。現実の社会や人生にリスクがある以上、不安を感じるのは当たり前だ。不安を感じることを恐れてはいけない。癌患者は死の不安をゼロにすることはできないが、希望を持つことで生きる意欲が湧く。
 希望は展望を持つことで湧いてくる。展望を持つためには考えることが必要である。フランクルの「夜と霧」の中で、ナチスのユダヤ人収容所の中で、展望を持てない者は、ガス室で死ぬ前に人間が崩壊していったが、そうではない者もいた。考えるうえで、何を考えるかが大切である。何を考えるかは、人によって異なるだろう。


平成30年(手術後13年)
 PSAは 0.1未満
 最近は、全国で自然災害による被災が多い。78歳のボランティアおじさんんがマスコミで話題になったが、私も63歳で被災地で8月の炎天下で20代の若者と一緒にボランティア活動で汗を流した。ボランティア活動を終えて時間があったので被災地の近くの山に登った。生きていること、そして健康であることは素晴らしいことだ。


平成31年(手術後14年)
 PSAは 0.1未満
 
 母が90歳で亡くなった。「ひとつの時代が終わった」と思った。
 10代の頃からずっと母に対し愛情を持てないことを悩んでいた。10代の頃から、家族はいないものという感覚が身についてしまっている。家族全員の関係が悪く、社会的な体面や外面だけはよい仮面家族だった。両親はいつも喧嘩をしていた。母は高齢の義母を虐待していた。私は兄と顔を合わせれば必ず喧嘩になった。母は子供に対し厳格だった。一般に厳格な親のもとでは兄弟愛が生じにくい。権威的な親のもとでは、長男・長女は弟・妹に対し権威的になる。

 母は「何でも一番になりなさい」という「一番病」の信仰者だった。「一番病」は思想家の鶴見俊輔の用語である。母は田舎の大地主の末っ子として育ったが、戦後の農地改革で家が没落し、兄弟が多かったので、長男以外は途中までしか学校に行けなかった。長男だけが大学に行き、高校の教師から後に実業家になった。母のこの長兄も子供らに対し厳格だったらしい(長兄の長男は成人になって以降、父親にひどく反発していた。母の長兄の子供たちは有名大学に入ったが、ひどく仲が悪く、父親の遺産分割をめぐって憎しみ合った)。母の長兄は実業家として成功したが、60歳で癌で亡くなった。母の次兄以下の子供たちは農業をし、女は農家に嫁いだ。母は学校では優秀だったようだが、上の学校に行けず、学歴がないというコンプレックスと気性の激しさが母の「一番病」の原因かもしれない。
 私は子供のころ母から優等生であることを命じられた。命じられても、私はそれを実行できず、泣きながら母に謝罪をするほかなかった。母は絶対に許さなかった。私は小学校では学年の問題児であり、教師からほぼ毎日殴られた。稀に殴られない日があり、それは幸運な日だった。家では、ほぼ毎日母から激しい叱責を受けた。夜、母が帰宅する時間になると私は憂鬱になった。家に私の居場所がなく、子供N頃から、家から出ていくことばかり考えていた。東京の大学に入ってからは、あまり家に帰らなくなった。
 このような家庭は、多いというわけではないが、けっして珍しいわけではない。地位、名誉、財産があっても家族愛と無縁の家庭は多い。私の妻の妹の夫は社会的地位はあるが、10年以上、母親が一人で住む実家に帰省していない。その弟も似たようなものらしい。この兄弟は仲がひどく悪い。私の従兄は、今でも亡くなった父親の話が出ると激怒する。この兄弟も仲が悪い。
 家族に対する熱望は、それだけはいくら努力しても実現できなかった。その点は母が亡くなった今でも同じだ。過度に厳格な家庭では自然な親子の感情が生じにくい。愛情の強制はできない・・・・・・「失われた時」は取り戻せない。しかし、どんな状況でも人は生きていける。親がいてもいなくても人は生きていける。教師がいてもいなくても学校で生きていける。人間は強い。学校と家庭で精神的にかなり鍛えられた。ただし、健康でなければ生きていきにくい。私がこの家庭で得たものは、反面教師としての人間の強さだろうか。


 4月。愛犬のハナが亡くなった。ハナの16歳の誕生日の1か月前だった。人間でいえば80歳くらいである。ハナはいわゆる豆柴であり、豆柴は普通の柴犬よりも寿命が短く、寿命は10〜12年と言われている。ハナは長生きした方だ。直前まで毎朝元気に散歩をし、食欲もあったが、突然、夜、苦しみ始め、家中を歩き回り、錯乱状態になった。明け方、ぐったりして動けなくなった。朝、病院の開院と同時に治療を受けたが、2日後に亡くなった。ハナは私の腕の中で静かに息を引き取った。胃にガスが溜まり、胃が膨らんで内蔵を圧迫し、内蔵にダメージを与えたと思われるが、胃に捻転はなかった。
 朝の時点で体温低下、肝臓の機能低下、白血球の数値の激増があり、動けなくなっていたので、おそらく臓器への大きなダメージがあったのだろう。胃のガスを抜く治療が手遅れだったのだろう。もっと早く治療をすれば臓器のダメージは少なかっただろう。ハナが苦しみだした時にすぐに救急治療をしてくれる動物病院があれば、ハナは助かっていたのではないか。
 人間の場合には、苦しみだすとすぐに救急搬送し、治療を受けることができるが、ペットはそうではない。ペットの救急体制がない。夜の12時頃まで診察する動物病院はあるが。私は、その夜、ほとんど眠ることなく、苦しむハナを撫で、朝を待つほかなかった。人間の場合も、かつての日本で救急体制のない頃には、苦しむ患者を手遅れになるまで家族が見守るほかなかった時代がある。それに較べればすぐに救急車を呼べる現在は幸運である。しかし、現在の日本でも、山岳地帯や離島、船の上などでは救急車は来ない(昼間、天候がよければ救急ヘリが飛ぶが)。救急体制のある地域でも、救急車の手配が遅れれば、助かるはずの命が助からない。
 動物病院は夜間は治療しない。夜間の動物病院はペットホテルとしてペットを預かるだけである。24時間体制でペットを診察・治療する地域は少ないのではないか。東京には可能な動物病院があるかもしれない。犬の病気の研究者も少ないので、疾患の原因、治療法の研究がなされない。犬の胃の拡張の原因はわかっていない。研究するだけの経済的メリットがないからだろう(研究費を出す者がいない)。一般に研究開発費はその見返りがある場合に国や企業が支出する。ペットも人間並みに治療をすればもっと長生きするだろうが、そのような経済的な需要がないとみなされている。犬の検査は1回数万円かかり、手術は何十万円もかかる。それだけの金を払う人は多くないので、研究や救急体制の整備は経済的にペイしないのだろう。人間の場合には社会保険制度が国が何十兆円も負担をすることで成り立っている。医療に対する経済的需要が医療体制につながる。国によって人間の医療体制の格差があるように、人間とペットの間には医療体制の格差がある。

 ハナは小さい頃からよく病気をし、入院をしたことが何度もある。身体が弱い犬だったが、それでもかなりの治療費をかけて約16年生きた。頑健な犬は放っておいても病気をしないが、頑健でない犬はそうではない。人間も頑健な人は不摂生をしても病気にならず長生きするが、頑健でない人は不摂生をすると簡単に病気になる。私の父は弱かったので、特に不摂生だったわけではないが、胃潰瘍、狭心症、心筋梗塞などになり、57歳で骨髄腫で亡くなった。毎年、定期健診をしていたが、癌を発見できなかった。癌がわかった時は余命1年の状態だった。母は定期検診など受けず、非常に偏食をし、運動はいっさいしなかったが、90歳まで生きた。病気への抵抗力の個人差が大きい。弱い者は人一倍の健康面の努力が必要だ。

 長男が病気になった平成15年からハナを飼い始め、長男の病気の治療、その後の経過、私の癌の経過とハナの生涯が重なる。16年という年月は長く、短い。あっという間だが、その間、実にいろんなことがあった。
 ハナが亡くなる前夜、別のところに住んでいる長男がハナの様子を心配して電話をかけてきて、携帯電話機を通してハナに「ハナ、がんばれよ」と呼びかけていた(最近のハナはほとんど耳が聞こえなかったのだが)。長男が病気のころ、小学校6年生だった長男の病状をハナが悲しそうに眺めていたことが思い出される。ハナと過ごした日々の楽しい思い出は、家族と過ごしたつらくも幸福な日々と一致する。
 ハナは、飼い始めた最初から、夜、私の布団にもぐりこみ、毎晩、私の布団の中で眠った。ハナは枕に頭を乗せて眠るのが好きなので、いつの間にかずうずうしく私の枕を横取りして自分の頭を枕に乗せて眠った。夜中に顔に冷たいものを感じて驚いて目を覚ますと、ハナの鼻が私の顔に当たっているのだった。
 夏は暑苦しいので(犬は体温が高い)私はハナを布団から追い出すのだが、ハナは再び布団の中に入ろうとする。ハナは布団の中に入れてほしい時は、布団の上を前足でガリガリと擦りながら、私の耳元で「クゥーン」と情けなさそうな声を出す。それでも私が応じないと「ワン」と吠える。それは、まるで私の布団にもぐり込むことがハナにとって自分の権利であるかのような自分の居場所の自己主張だった。私は、いつも、ハナの強引な要求に根負けし、やむをえずハナを布団の中にいれてやる。そして、私は枕をハナに奪われる。学習能力のない人は凝りもせず何かのひとつ覚えのように同じことを繰り返すが、それと同じく、毎晩、同じ場面が繰り返されるのだった。
 逆に、冬はハナの体温は湯たんぽ代わりになった。
 ハナは、毎晩、午後9時には必ず布団にもぐりこみ私が寝るのを待った。どうして午後9時の時間がわかるのか、不思議だった。
 ハナは非常に憶病で人間がそばにいないと不安になり、24時間、ハナは私につきまとった。そのような生活が16年間続いた。私が両親と一緒に暮らした期間は大学入学までの18年であるが、幼児の頃の記憶はないので、記憶のある同居期間は13年くらいである。高校の3年間は両親とほとんど口をきかなかった。そうしてみるとハナと暮らした期間の思い出は親と暮らした思い出よりも多いことになる。さらに精神的な意味では、ハナとのつながりは両親のそれとは比較にならない。
 人間は生きているだけで幸福になることができる。そんなことをハナの一生が教えてくれた。ハナがいたおかげで長男と私は生きることができたと思っている。長男と私は生きており、ハナは死んだ。火葬前のハナの寝顔は実にやすらかであり、それまでのハナの幸福な生涯を物語っているようだ。

                               


演出家、宮本亜門の前立腺癌
 演出家、宮本亜門氏(61歳)の前立腺癌の発見、検査の過程をテレビ番組化されていた(2019年4月の放映)。宮本亜門氏は毎年人間ドックで検査を受けていたが、検査結果を軽視していた。テレビ画面に1秒程度、映し出された検査結果の診断書の映像は、PSA5.3という数字だったように見えた。多くの視聴者はこの数値の映像を見落とすだろう。これは恐らく癌発見の前年の検査結果である。人間ドックの後で精密検査をすれば1年前に癌がわかったはずだ。それでも、手術1年前の5.3というPSAの数字からすれば、1年後でも癌は初期段階だったのだろう。宮本亜門氏の癌はステージUであり、癌の初期だった。


13年振りの妙高・黒沢
 13年振りに妙高で山スキーをした。
 平成18年に火打山で山スキーをしたが、13年振りにその山域を訪れた。
 平成18年4月に、スキーで笹ヶ峰から火打山に登り、黒沢を滑降した。13年前はテントと2日分の食料を持って登った。
 今回は黒沢を登ったが、雪が少なく、滝が露出しており、スキーを担いで滝を迂回しなければならなかった。下りは、黒沢源頭部の雪原から三田原山中腹までトラバースし、涸沢を滑降した。
 13年前は手術の半年後だったが、当時は、まだ手術後の不安に苛まされていた。当時、まさか自分が13年後に再びそこを訪れようとは思ってもいなかった。13年前、小雨が降っていたせいもあるが、下山後の笹ヶ峰の駐車場に誰もおらず、ひどく寂しい場所だという記憶がある。笹ヶ峰の駐車場にテントを張ろうかと思ったが、あまりにも寂しい場所だったので、それをやめた。
 しかし、今回は、下山時の天気がよく、笹ヶ峰の駐車場はかなりの自動車が駐車していた。私は、下山後、笹ヶ峰の駐車場にテントを張った。夜、笹ヶ峰の駐車場には星の観察をする人たちで賑わった(と言うよりも、騒がしかった)。
 手術直後の不安な心理状態と13年後の今回では、笹ヶ峰と妙高のイメージがまるで違う。

 14年生きたことは感慨深いものがある。

      黒沢        黒沢源頭部の雪原







治療方針・病院の選択
 
    
退院後の経過