第二十五話 ゆき



=ある冬の朝=

「有希ぃ、着替え終わったぁ?」

 ノックと共に声がかかるのとほぼ同時に扉が開かれる。

 ――それではノックの意味を成していないような気がするけれども……まぁ、この部屋に男が入ってくる心配なんていうのは、この家に限ってはほとんどないけれど。

 一瞬ヒヤッとした空気と共に部屋に入ってきたのは、コートを着たままの鮎美だった。

「まぁだぁだぁよぉ〜」

 ベッドの上にあぐらを掻いている有希は、思考を繰り返すように首を左右にかしげている。

「なんていう格好をしているのよぉ、まだまだ女の自覚が足りないんじゃない?」

 着ていた濃紺のダッフルコートを脱ぎながら、呆れた顔をしている鮎美の視線の先にいる有希は、既にパジャマを脱ぎ捨て上下の下着だけという格好のまま、ベッドの上に乗せられている二着の洋服を見つめている。

「着替えようとしていたら悩んじゃったからだよぉ……ねぇ鮎美はどっちが良いと思う?」

 有希はそう言いながら、二枚のワンピースを持ち上げてそれを鮎美に見せる。

 一つはブラウン系のニットワンピースで、エリについている白いフワフワがワンポイントになっていて可愛いやつ、もう一つは、ライトピンクのちょっとおとなしめな感じのAラインワンピースで、これは太いベルトがワンポイントで可愛い。

「ウ〜ン……難しいわねぇ、今日外はかなり冷え込んでいるからコートは必須アイテムになるでしょ? そうなるとニット系の方が良いかもしれないわね? この前一緒に買ったコートだったらそっちの方が良いと思うな」

 鮎美が選んだのはブラウン系のニットワンピースで、有希はそれを胸に当てる。

「やっぱりそうだよね? 鮎美がこっちと言うんだったらやっぱりこれにしようっと」

 勢いよくベッドから降りると、有希は着替えを再開しはじめ、その背後ではかいがいしく鮎美が、脱ぎ散らかしてあった有希のパジャマをたたみながらその様子を眺めている。

「ねぇ有希、そのブラどこで買ったの? すっごい可愛いくない?」

 鮎美の視線が向いているのは、有希の胸につけられているブラジャーだった。

「エヘヘ、良いでしょ、昨日のバイトの帰りに寄った駅前のデパートで安売りしていたんだぁ、買う気はなかったんだけれど、このデザインが気に入っちゃって買っちゃった」

 バイト帰りにたまに寄る駅前デパート、そこに掛かっていたバーゲンの文字にひかれて入って、このハートマークが飛び交っているピンク色のブラジャーを出会ったのよね? 最初は買う気がなかったんだけれど、値段もお手頃だったし、可愛いからつい買っちゃった……最近では女の子がお買い物好きな理由がよくわかるようになってきたよ。

「へぇ、いくら?」

 鮎美の食指も動いたようで有希の胸元をジッと見ながら聞いてくる。

「これはねぇ、これと一緒に買って二枚で千二百八十円、他にもショーツも三枚で六百八十円だったし……毛糸のパンツも半額の札がついていたよ? 後で行ってみる?」

 モノトーンの水玉模様のブラジャーを手に持ち鮎美に見せると、その瞳はキラキラと光らせ無言でコクコクと頷かれる。

 鮎美もお安い下着なら食いついてくるのね? いつも一緒に行こうと言うと嫌な顔をするくせに……まぁわからないでもないかぁ。

 冬服になり、その体型は目立たなくなったといっても、有希の胸元の膨らみと鮎美の膨らみには違いがあるのは、絶対に指摘してはいけない事柄だ。

「おねぇちゃん、友達が来たよ」

 階段の下から、明らかに不機嫌そうな茜の声が聞こえてくる。

「うん、わかったぁ、ちょっと待っていてもらって」

「茜ちゃんひょっとして機嫌が悪いの?」

 ニーソックスを履く有希に、鮎美が苦笑いを浮かべながら声をかけてくる。それほど茜の声は不機嫌そのものだった。

「みたいだね? 早いところ下りて行かないと、ボクたちにまで飛び火しちゃうよ」

 着替えを終えた有希は、鏡を見ながらクルリと一回転する。

 よし完璧だ!

「リップはしなくていいの?」

 鏡の後ろにいる鮎美の口元を見ると、心なしか少し艶があるようにも見える。

「リップ?」

 首をかしげる有希に、遠慮なくガッカリしたような顔をする鮎美は、持っているポーチから一本のリップクリームを取り出し、有希の肩を押さえて椅子に座るように促す。

「そろそろ乾燥するからリップクリーム塗らないと唇がガサガサになっちゃうよ? ほら、ちょっと座ってこれを塗ってあげるから……」

 そう言うと、座った有希の目の前に鮎美の顔が大写しになり、唇にそれを塗り始めると、有希の鼻腔にリップの匂いと共に、石鹸のような少し甘い匂いが香ってきて、その匂いに頭の芯がしびれるような気になる。

「アッ!」

 塗り終わった途端に鮎美は小さく声を上げ、その顔を見ると、なぜか頬を赤くして有希の事を見ている。

「どうかしたの?」

 有希が唇をウニュウニュ動かしながら聞くと、鮎美は視線を逸らす。



「遅いぞぉ?」

 機嫌悪そうに頬を膨らませている茜の頭をポンと叩きながら、有希は目の前で困ったような顔をしている人物に申し訳無さそうに手を合わせる。

「ごめん拓海、ちょっと着て行く服に悩んじゃって……」

 有希のその一言がよほど嬉しかったのか、困り顔だった拓海の表情は、弾けたように明るくなり、見ているだけでも喜んでいるという事がわかるほどだった。

「いや、そんなに待っていないから大丈夫だよ……ウン、そうか着て行く服に悩んじゃったのかぁ、それじゃあ仕方がないよな……ウンウン」

 単純な奴……。

「じゃあ行きましょうか? ここから空港まで三十分ぐらいかかるの?」

 ブーツに足を入れながら鮎美が拓海を見上げると、拓海はちょっと考えたような顔をして、虚空に視線を向ける。

「そうね? ここからならたぶんそれぐらいで着くと思うけれど、駐車場に車を入れるので時間がかかる事もあるから、気をつけた方が良いわよ?」

 有希の背後から、真澄とかがりが意地悪い顔をして三人を覗き込んでいる。

「そそ、あそこの駐車場はねぇ、結構みんな好き勝手に止めているから、他の車にぶつけない様にしないといけないわよ? とくに大きな外車には」

 かがりは不安そうにしている拓海を、まるであおるように意地悪い事を言い、真澄のゲンコツを頭に受け、拓海はその言葉に顔から余裕が無くしていく。

「まぁ、確かに安全運転を第一に! もしも何かあって、拓海クンが有希の事をもらってくれると言うのなら、多少の事は目を瞑るけれど?」

 ウィンクする真澄に拓海は、ボンと言う破裂音が聞こえてきそうな勢いで顔を真っ赤にして、相対する有希は訳がわからないというようにキョトンとし、周囲にいるギャラリーは、まるで般若のような顔をして真澄の事を睨みつける。

「「そんなの絶対にダメェ〜〜〜〜ッ!」」

 見事な鮎美と茜のハーモニーが美容室『はる』の中に響き渡る……。

 ……耳の奥がハウリングしているぜぇ……。

〈愛されているわね?〉

 久しぶりに聞く有希の意識に、有希の顔は弾けたように笑顔に変わる。

 有希! お前まだここにいてくれたんだ!

〈当たり前でしょ? あたしはあなたのお目付け役なんだから〉

 頬をプクッと膨らませている有希の姿が目に浮かぶような感覚に、さらに有希の頬は緩む。

 よかった……有希がいてくれないと……。

〈ちょっと、なによぉ、そんな事を言わないでよ……照れるじゃない〉

 だってよぉ、あの一件からずっと出てこなかったから、もしかしてなんて思っちゃったんじゃないかぁ、今までどうしていたんだよ!

 自身では気がついていないだろうが、有希の瞳には涙が浮かんでいた。

〈なにって……別に何していたわけじゃないわよ……エヘヘ、そっか心配してくれたんだぁ〉

 当たり前じゃないか!

〈エヘヘ、そう言ってくれると嬉しいなぁ……〉

 有希の意識は嬉しそうな感覚を残して消えてゆく。

「……き……有希?」

 気がつけば鮎美と拓海が少し心配そうな顔をして有希の顔を覗き込んでいる。

「ん? どうしたの?」

 満面の笑みを浮かべる有希に対して、鮎美は心配そうな顔を崩さないまま、さらにその顔の距離を近づけてくる。

「どうしたのって……それはこっちの台詞よ、目に涙なんて浮かべちゃって……だいぶ情緒不安定になっているのかな?」

 この時はじめて有希は自分の目に涙で潤んでいる事に気がつき、慌てて指でそれを拭うが、拓海はなぜかオロオロしているし、真澄やかがり、茜たちはそれぞれ怪訝な顔をしながら有希の顔を見つめている。

〈ハァ、相変わらず粗忽者ね? まったく〉

 ハハ、そのようで……でも有希だっていけないんだぞ?

〈アハ、今回はそう言う事にしておいてあげるわ〉

 クスッと微笑む有希の感覚がどこか心地良いけれども、現状はこの状態をどう打破するかが有希の最優先課題である事から、その感傷に浸っている事ができない。

「エッと……拓海の運転で空港に無事つけるかちょっと心配だったから?」

 有希の一言に一堂深く頷くと、拓海は顔を真っ赤にして困ったような表情を浮かべる。

 そう、今日は車の免許を取ったばかりの拓海の運転で、来函者を出迎えに函館空港に行く事になっている……ちょっとスリルがあるかもしれないけれど……。

「そりゃねぇよ……無事故無違反の優良ドライバーだぜ?」

「当たり前でしょ? 先月免許を取ったばかりのビギナーなんだから……そんな人がもう違反や事故をやっていたら、今頃こんな緊張なんてしていないで、別の交通手段を選ぶわよ」

 脱力しながら言う鮎美の一言になぜか納得してしまう。

「ハハ、とことん信用ないのね? 俺って……」

「「ないわね?」」

 真新しい若葉マークのつけられた軽自動車の前で有希と鮎美は声を揃える。



=来函者は……=

「まだ道は空いているね?」

 いつもは自転車で走っている国道二百七十八号線、通称漁火通りは朝がまだ早いせいなのか、トラックは多いものの、全体の車通りは少ない。

 車で走るこの道も気持ちがいいなぁ、ボクも早く車の免許取りたいよ。

 後席に座りながら、まだ海霧が取れきっていない津軽海峡に視線を向けると、そこは穏やかに波をたたえている。

『今朝の函館の街は冷え込んでいますね? 午後からは雪になるかもしれません』

 カーラジオから流れてくるのはFMいるか、函館の今を伝えてくれる地元密着型のコミュニティーFMで、美容室『はる』でいつもかかっており有希もそのリスナーの一人だ。

「雪ぃ〜? 今年は早くないか? 勘弁してもらいたいなぁ……」

 運転席からはうんざりしたような拓海の声が聞こえてくる。

「本当ね? 雪が降り出す前にこの車から降りないとリアルに命がけになっちゃうわよ」

 助手席に座る鮎美の意地悪い一言に、拓海の顔が真横を向く。

「どぉ〜ゆ〜意味だよ! 雪の中の運転なんていうのはだなぁ、バイクで慣れているから全然ノープロブレムだぜ! むしろ少し滑った方が運転しやすい……」

「ちょっとっ! ちゃんと前見て運転してよ!」

 鮎美の罵声に拓海は渋々と前を見る。って、ボクも今一瞬ヒヤリとしたぜ? 対向車線を走るトラックがやけに近くに感じたぜ。

「そういえば詩織は何時に着くんだったっけ?」

 ラジオから流れる曲が拓海のお気に入りなのか、曲に合わせて鼻歌を歌いながらバックミラー越しに有希に尋ねてくる。

「エッと、八時ちょうどに着く便だよ? 羽田発朝一番の飛行機だね」

 秋に偶然この函館に訪れた、勇気の元彼女である菅野詩織が、今度は冬休みを利用して訪れてくるという話は、先週本人から有希の携帯に連絡があった。

「随分と朝早いんだね? 寝不足になっているんじゃない?」

 助手席から身体を反転させながら鮎美は有希の顔を見るが、その顔は少し頬を膨らませているようで、拗ねているようにも見える。

「確か詩織の家から羽田まで車で三十分ぐらいだからな? そんなに朝早くはないと思うけれど、でもかなり早い時間に家は出ているだろうね?」

 羽田空港までは恐らく詩織のお兄さんが車で送っているであろうが、六時ぐらいまでに羽田空港に入らなければいけないから、きっと寝不足だろうな?

 車は海から離れ、高いホテルが立ち並ぶ湯の川温泉街に入る。



「有希ちゃぁ〜ん」

 函館空港到着ロビーには、大きな荷物を持つ観光客に混じって、秋に会った時と印象が違う詩織が満面の笑みをたたえ、周囲の迷惑も顧みずに大きく手を振っている。

 あれ? 詩織髪の毛を切ったのか?

 秋に会った時には耳を隠すセミロングの髪の毛だったのだが、いま到着ロビーで手荷物をもどかしそうに待っている詩織は、耳を少し隠す程度のショートカットで、どちらかと言うと快活な印象を感じるほどだ。

「詩織さん髪の毛切ったんだね?」

 有希の隣にいた鮎美もそんな変化に気がついたのか、有希に耳打ちしてくる。

「うん、だいぶ印象が違うね? 前はどちらかと言うと大人しいというイメージだったけれど、今はなんだか吹っ切れたみたいに元気なイメージ……」

 そこまで言って有希はハッとしたような顔をして、今まさに自分の荷物を受け取り、トテトテという感じに小走りに向かってくる詩織を見つめる。

 吹っ切れた? 勇気の事が吹っ切れたのかな? なんだろう、ちょっと寂しいような気持ちになるのは勇気のおごりなのかな?

 胸の奥が何かモヤモヤする気持ちを抑えながら、自動ドアを抜けてくる詩織の顔を見つめる。

「やっほぉ〜有希ちゃん! 逢いたかったよぉ」

 ニッコリと微笑む詩織は、心の底から有希に再会できた事を喜んでいるようだった。

「アハ、詩織も随分とイメージが変わったね?」

 見るともなく有希は詩織のその髪形を見ると、その視線に気がついたのか、詩織は頭に手をやり少し照れ臭そうに頬を染める。

「ウン、あの後思い切ってね? 有希ちゃんは相変わらず綺麗な髪の毛をしているわね?」

 再び満面の笑みを浮かべる詩織に、有希は首を傾げるが、詩織はそれに気がつかないように鮎美や拓海と挨拶を交わしている。

〈やっぱり吹っ切れたのかな?〉

 どうなんだろうね? でも、笑顔は昔のものに変わったみたいだよ?

〈そっか、という事はライバルになるのかな?〉

 なんとなく不満げな意識のまま有希が消えてゆく。

 ライバル? なんのこっちゃ……。

「有希、早く行こうよ」

 気がつくと鮎美たちは駐車場に向かって歩き始めていた。

「ちょ、ちょっと待ってよぉ〜」

 置いてかれたようになっていた有希は小走りにその集団に合流する。



=エピローグ〜プロローグ=

「ヘッ?」

 軽自動車の中、そんな大きな声を上げなくとも聞こえるはずなのだが、思わず大きな声を出して、素直に驚いた表情を貼り付けたままの有希は、詩織の顔を無遠慮に見つめる。

 いま物凄い爆弾発言を聞いたような気がするんですけれど。

「ちょっと詩織さん?」

 助手席に座る鮎美も、身体を後席に乗り出すような格好で詩織に顔を突きつけているが、二人からそんな視線を向けられた詩織は困ったような顔をしてその視線をかわそうとしている。

「そ、そんなに驚く事?」

 ヘラッと笑う詩織だけれど、十分に驚くに値する事柄だよ……。

 大きな瞳をさらに開いたまま有希は詩織を問い詰める。

「なんだって……」

「そう、なんだってこっちの大学に?」

 シートベルトにその動きを制限されながらも鮎美は、ボクの隣に座る詩織の顔を睨みつけている。その顔は驚きよりも、ちょっと怒っているようにも見えなくもないが……。

 車に乗ってお互いの一通りの現状を報告している中で、詩織がいま通っている付属の大学に行かないで、ここ函館の大学を受けるという事実が発覚したのだった。

 研修旅行に来たと言う事は、そのまま大学に推薦で入れるという事、それなのに、なんでわざわざ受験をしてまでこっちの大学に来るのかがわからない。

「そうねぇ……あたしもこの街が好きになっちゃったという事と……あとは……ね?」

 少し熱を帯びた目で詩織は有希の顔をジッと見つめると、助手席の鮎美は頬をプックリと膨らませ『フンッ!』と鼻息荒く正面に向き直る。

 おいおい、まさかだろ?

「で、でも親とかはそれで納得しているのか? あの大学だってなかなかの学校じゃないか」

 六大学とかに比べれば落ちるものの、二流には食い込む大学で、そのまま行けばそれなりの会社とかに就職できるはずなのに……。

 既に窓の外に視線を向けている詩織はその景色を楽しむように呟く。

「あたしもここにいたかっただけ……そうしないと鮎美ちゃんにかなわないから……」

 エンジン音がこもる車内で、詩織のその台詞は有希や鮎美の耳に届いていない事は、首をかしげる有希の仕草でわかる。

「ハァ、本当に落着くなぁこの景色。まだ二回目だけれど何となく故郷に帰ってきたような感じがするよ? 鮎美ちゃんがこの街が大好きな理由がわかるよ」

 ニコッと微笑みながら詩織は助手席の鮎美の顔を覗き込む。



「お邪魔します」

 詩織の宿泊施設となる有希の家の玄関先で、詩織が元気に挨拶をすると、真澄や茜が笑顔でそれに応えている。

「何で有希の家なのよぉ?」

 有希の家に詩織が泊まるという事が不満なようで、鮎美はさっきから機嫌悪そうに口を尖らせながら詩織の荷物を降ろすのを手伝う。

「仕方がないだろ? まさか拓海の家に泊めるわけにもいかないし、あまり馴染みのない鮎美にお願いするわけにもいかないし……」

「でも詩織さんは勇気の彼女でしょ?」

 プクゥーッと頬を膨らませる鮎美に、有希は苦笑いを浮かべる。

「それはその昔の話でしょ? 男と女なら問題かもしれないけれど、女同士だし、真澄ちゃんだって茜だっているんだから、何があるわけないじゃないか」

 この姿が勇気であれば色々な面で問題があるかもしれないが、この身体は女の有希である、そんな事があるはずがない。

「そうかもしれないけれど、なんだか詩織さんこの前に来た時と比べてすごく前向きと言うか、積極的になっているような気がするのよね? あの髪型のせいだけじゃなくって、なんとなくそんな気がしてしょうがないのよ……」

 女の勘という奴なのかな? にしても女同士で一体なにができるというのだ……。

 その瞬間、有希の脳裏には、艶っぽい顔をして有希にすがり付く詩織、それを受け入れている有希の熱っぽい顔が……。

〈な、なにを想像しているのよ勇気わぁっ! えっちぃ〜!〉

 全身熱を帯びたような勢いで有希の意識が飛び出てきたかと思うと、まるで脳ミソ自体を揺さぶられているような感覚に、思わず頭を抱え込む。

 痛いっ! 痛いってばぁ有希、ゴメン、これは本当にゴメン、ボクが悪かった、つい想像しちゃっただけだよ、そんな事になるなんて考えていないからぁ。

〈本当でしょうねぇ、そんなの絶対にダメッ!〉

 わかっているよぉ〜。

 頭を抱える有希の事を怪訝な顔をして見つめる鮎美は、何かを思いついたような顔をする。

「わかった……あたしも泊まる……」

 ヘッ?

「あたしも有希の家に泊まる、そうすればいつまでだって詩織さんと話をする事だってできるし、有希のお目付け役ができる、ウン、決まりそうしよう!」

 真っ直ぐに鮎美は有希の顔を見ながら自己完結したようにウンウンと頷く。



「茜ぇ、そういえばカレーのルウはどうした?」

 青葉家のキッチンは、今まさに戦場のようになっている。

「えぇーッ、そこになかったらないかも……」

 外の気温は既に氷点下近くまで落ちているだろうけれども、このキッチンだけは真夏のようで、Tシャツ一枚で料理をする有希と、タンクトップ一枚でまな板に向かう茜の二人の額には玉のような汗が浮かんでいる。

「何か足りないなら、あたしが買い物に言って来ようか?」

 そんなキッチンに、普段着に着替えた鮎美が顔を出す。

第一段階であるジャガイモの皮むきの途中で戦力外になった事に申し訳ない気持ちになっているのか、さっきから何か手伝うと言ってくるのは嬉しいんだけれど、あの腕を見せられちゃったらゆっくりと待っていてもらった方が助かるのよね?

「お姉ちゃん、サラダのドレッシングもないよ? これはお買い物決定だね?」

 茜も諦めたように手を休めて首をすくめる。

「じゃあボクが行って来るよ……」

 有希はため息交じりにエプロンを外し、ソファーに掛けてあったコットンシャツに袖を通して財布の入っているポーチをタスキ掛けにかける。



「寒いぃ〜っ!」

 確かに外に出るとまるで刺すような冷たい風が、二人の肌から暖気を奪ってゆく。

「ホント、だいぶ気温が下がってきたね? これは雪になるという天気予報当たるかもしれないよなぁ……雲行きも怪しくなってきたし」

 空を見上げると鉛色の雲が一面に広がり、いつ白いものがチラついて来てもおかしくない。

「有希早く行こうよぉ、寒いっ!」

 ハハ、道産子のくせに本当に寒いのが苦手なんだな鮎美って。

 震え上がっている鮎美の姿を有希は、クスッと微笑みながらチョコチョコと小走りになっている鮎美の背後を見据える。

「有希ぃ早く!」

 振り向く鮎美の頬は寒さのせいか赤くしている。

「はいよ、待ってよ」

 小走りに鮎美の後を追いながら、すぐ近くにある馴染みのスーパーに入り込むとすぐに暖気が二人を包んでくれる。

「暖かぁい……生き返るかも……」

 幸せそうな顔をする鮎美に思わず有希の頬も緩んでしまう。



「買い物終了、早く帰ろうか? 詩織が待っている」

 スーパー袋を手にしながら再び外に出ると、お店に入った時よりもさらに冷え込んでいるような気がして有希は首をすくめ、凍えているであろう人物に視線を向けると、想像通りに歯を鳴らさせながら立ちすくんでいる。

「鮎美ぃ、そんな所で立ち止まっていると余計に寒いよ?」

「だぁって寒いんだモン」

 ――あのねぇ、子供じゃないんだから……それにこれからもっと寒くなるのにこれからそんなでどうするのかねぇ? しょうがないな。

「ほら!」

 有希はそう言いながら鮎美の腕にしがみつくと、鮎美はピタッと動きを止めると、ギギッと油の切れたロボットのような動きで有希の顔を見る。

「ど、どうしたの……いきなり」

 先ほどまでの寒さによる頬の赤さと違う赤みが鮎美の顔を覆っている。

「別に、何となくだよ……この方が暖かいでしょ?」

 本当に何の気なしにくっ付いただけなんだけれど、そんなに照れられるとこっちまで照れ臭くなっちゃうじゃないかよ。

 

「詩織さんといえば、本当に函館の大学受けるかなぁ」

 さっきまで寒く感じていた風が、火照る頬を撫ぜて心地良いかもしれない。

「ウン、彼女の性格からすると本気だと思うよ?」

 ボクだって完全に知っているわけでは無いけれど、詩織という女の子は思い立ったら動くタイプのなのかも知れない、ボクに告白したのだってそう言う気風があったからだと思うし、今回の一件だってたぶんそうであろう。ただその理由が有希に対する気持ちからなのか、それとも勇気に対する気持ちなのかは分からないけれどね?

「そっか……ライバル……なのかな?」

 さっき意識の有希が呟いていた事と同じ事をボソッと言う鮎美の一言は、海から吹いてくる強い風にかき消され、その代わりに体温を一気に奪ってゆく。

「エッ?」

 鮎美の顔を見上げる有希の顔と、首をすくめる鮎美の顔が異常接近する。

 近っ!

 その距離はお互いの体温を感じるほどにまで近づき、お互いの息づかいは二人の前髪を揺らすほどにまで近づいている。

「アッ……っと」

 軽く声を上げたのは鮎美で湯気が出そうなほどに顔を赤くしている。

 ど、どうしよう……腕をといて身体を離しても良いのかもしれないけれど、何となくそんな事はしたくないような気もするし、だからといってこの状態のままじゃあ、奥様方の夜のお話のタネになってしまうし……。

 時間にしてはわずか数秒だったのかもしれないけれども、お互いはその時間はすごく長く感じられるほどの時間だった。

「ユキ……」

 最初に口を開いたのは真っ赤な顔をしている(有希もそうだが)鮎美だった。

「な、なに?」

 自分が呼ばれたのかと思い戸惑いながら答える有希に、キョトンとした顔をする鮎美は、やがてその目を下弦の月のように細めて空を見上げる。

 エッ? 雪?

 促されるように見上げる有希の視線の先からは、まるで、白い綿帽子のような雪がハラハラと舞い降り始め、その量は見る見る増えてゆく。

「ハハ……雪だぁ……」

 既に何度か降っている雪だけれど、何となく切なく感じるのはボクの気のせいなのだろうか? それとも、隣に鮎美がいるというせいなのだろうか。

「ウン、これは根雪になりそうね? 冬になっちゃったのね?」

 寂しそうに言う鮎美の横顔はどこか物憂げにも見える。

「ウン、ボクがここに来てまもなく一年かぁ……早かったよ、色々ありすぎて」

 これはボクの正直な気持ちだ、いきなり女の子になって、北のこの街に来てドタバタと過ごしたこの一年は、きっと一生でも忘れる事ができない一年になるだろうなぁ。

〈それで? これからの意気込みは?〉

 わからないよ? ボクはボクなりだからね?

〈クス、勇気らしいわね?〉

 だってわからないじゃないか? ボクはこれから『有希』として生きてゆくんだから……ちょっとややこしい状況なんだけれど、でもボクは『有希』なんだよ『勇気』じゃないんだ。

〈エヘヘ、ありがとう勇気……それからこれからもよろしくね?〉

 こちらこそ。

〈それで? あなたの心を射止めるのは誰なのかしらね?〉

 意地の悪い有希の意識に促されるように見る視線の先には、そわそわしたような顔をして周囲を見回している拓海の姿、そうして有希の隣では鮎美がニコニコ顔で寄り添っている姿。

 さてね? これこそは神のみぞ知るっていう奴かもしれないよ……。

「おぉい、有希ぃ」

 大きく手を振る拓海に対して、まるで有希の事を守るかのようにその間に立ちはだかる鮎美。

「有希ちゃん遅いよぉ〜!」

 拓海を押しのけるように美容室から顔を出す詩織。

〈アハハ、余計ややこしくなるかもしれないわね? 詩織さんの存在もあるし〉

 そんな他人事のように言っていても良いのか? 少なくとも俺の中には『有希』と言う存在だってあるんだぜ?

 勇気のそんな気持ちに対して、有希の照れたような感情が流れ込んでくる。

〈あら? あたしは十分よ? あなたと一緒にずっといる事ができるんだから……〉

 そうだったな? 勇気と有希はずっと一緒だったよな?

 自然と苦笑いを浮かべる有希に、拓海と鮎美は互いに顔を見合わせて、やがて不機嫌そうにその口を尖らせ有希に詰め寄ってくる。

「なによその思わせぶりな表情はっ!」

 有希の腕に抱きつきながら鮎美はその顔を近づけると、

「お、お前まさか……」

 何か誤解をしたような顔をしている拓海。

どうする有希? なんだかお互いに色々な想いを持っているようだけれど……。

 勇気のため息交じりの問いかけに、有希の答えはなかなか帰ってこない。

 ……有希?

〈エヘ、だったらもう少し二人に誤解させておけば? だってこの身体は『ゆうき』と『ゆき』の二人のものなんだから……そうでしょ?〉

 確かにそうかもしれないよな? さて、ボクの選ぶのは一体だれなんだろう。

〈鮎美なのか、拓海なのか……もしかして詩織さんなのか……わからないわよね?〉

 あぁ、わからないよ。



 お互いに秘める想いを隠すように雪が降りしきる。

黒かった道路はうっすらと白く化粧をして、そこにあったものを来春まで隠す。

そして、来春その雪から生まれるのは……。



「ボクにだってわからないよ……だってボクの中にある『ゆうき』の気持ちと、あたしの中にある『ゆき』の気持ちの二つがあるんだから……ネ?」



Fin