エピローグ



=T=

「かなり冷え込んでいるなぁ……」

 濃紺に銀糸のストライプというスーツの上から、高校時代から愛用しているダッフルコートを羽織った琴音は、真夏のように暖房の効いている事務所から一転、師走の冷え切った空気に首をすくめ慌ててマフラーをたくし上げる。

「あれ? 琴音ちゃん今頃あがりなの?」

 これから夜景見物の観光客を迎えに行くバスの入口からは、バスガイドの制服を着た熟年の先輩が気さくに琴音に声を掛けてくる。

「えぇ、ちょっとお客さんが集合に遅れてこんな時間になってしまいましたぁ……」

 苦笑いを浮かべる琴音の口からは、恨み言ともとれる声が白く濁る。

 五分や十分なら納得もいくけれど、三十分も遅れるってどんな了見なのかしら? 渋滞も重なって、結局帰庫するのが予定よりも二時間近くも遅れちゃったじゃない。

 小さなバス会社に就職した琴音は、バスガイドとして働き始めて間もなく一年目になる。

「それは散々だったわね? それで間に合うの?」

 心配そうな顔をして琴音の顔を見据える先輩ガイドに、琴音は苦笑いを浮かべながらも腕にはめている腕時計に視線を向ける。

「なんとか……」

 あれから六年の歳月が経過したある日、突然送られてきた『おんぷ』の特別ライブの招待状に書かれていた開演時間まではまだ一時間の余裕がある。

 とは言っても、この天気じゃあ路線バスも時間通りに走っていないだろうし、ちょっと時間ギリギリかもしれないなぁ……。

 腕時計を見て虚空に視線を向けながら渋い顔をする琴音に気がついたのか、ベテランガイドが運転手に目配せをすると、

「途中まで乗って行くかい? 茅沼さん」

 五十人は乗る事のできる大型バスの運転席からは、初老の運転手が人懐っこい笑顔を琴音に向けてきて、その声に同調するようにベテランガイドも首を縦に振る。

「どうせ駅までは回送なんだから……会社もあまりうるさいことを言わないでしょ?」

 大きな会社ならば規定に抵触するような事なのだが、小さな会社ゆえにその辺はだいぶアバウトで細かい事はいわない。

「エヘヘェ、スミマセン……助かります」

 渡しに船というような満面の笑みを浮かべながら、いつもは座る事のないバスの最前列の席に座ると、軽くクラクションを鳴らしながら大型バスが出発する。



「本当にここでいいのかい?」

 ライトアップされている五稜郭タワーの周辺は普段に比べて車の量が多く、小さな渋滞が発生しており、目的地からまだ少し離れている地点で琴音が下車をするという意思を伝えると、その目的地を知っているガイドが少し驚いたような顔をしている。

「ハイ、ちょっと寄りたい所もありますし、ここからなら時間が読めますから……本当にありがとうございました。助かりました」

 プシィ〜っと気の抜けたような音と共に開かれた扉らから琴音が下りると、再び冷たく冷え切った空気が出迎える。

「気をつけてね? 健ちゃんによろしく」

 目の前の信号が変りあわてて閉まる扉の向こうから優しいベテランガイドの声が聞こえてくると、琴音は深々と頭を下げながら去ってゆく大型バスに頭を下げる。

「さてっ!」

 再びマフラーを首に巻きつけながら歩く琴音の耳には、あの日と同じように様々なクリスマスソングが聞こえてくる。

 最近平気になってきたかな? この音楽を聞いていても……しばらくは辛かったけれど、年々平気になるのはあたしの中でも風化しはじめているのかなぁ。

 白いため息を吐き出しながら数分歩くと、

「あら?」

 周囲の人間には気にもならないのだろうが、六年前、琴音にとってかけがえのない人がこの世から去る事になった現場には真新しい花が供えられている。

 今年も……。

 既に時間によって風化してしまい、その事故があったこと自体がみんなから忘れ去られているであろう現場だが、毎年健斗の命日でもあるクリスマスの日には真新しい花が供えられており、その人物がわからない琴音は怪訝な顔をしながらも、自分が持って来たお花をそこに供えようとすると、背後からいきなり声を掛けられる。

「もしかして……あなたが琴音さん?」

 驚いたような声に振り返るその視線の先には、函館でもお嬢様学校として有名な学校の制服を着た女の子が琴音の事を見据えていた。

 もしかして、この娘は……。

 おでこに大きなバンソウコウを張って、オドオドしていた女の子の姿と、琴音の目の前で面影の残っている黒目がちな瞳を丸くして驚いたような顔をした女の子と合致し、琴音は一瞬驚いたような表情を浮かべるが、すぐにその表情を和らげる。

「もしかしてあの時の……」

 そう、あの時に健斗が身を挺して守った女の子……。

「ハイ、あの時に助けていただいた、あたし神宮寺琴(じんぐうじこと)と言います……」

 鎮痛な面持ちを浮かべるのは、恐らく母親からその時の様子を聞いているせいなのだろう。小柄な身体をさらに縮込めながらうつむいている。

 琴……ちゃんかぁ……なんだか因縁めいたものを感じるわね?

「そっか、あなた琴ちゃんって言うんだ……元気そうね?」

 初めて知った女の子の名前に、クスッと微笑む琴音に対し、琴も少しホッとしたように表情を緩めるが、琴音が手向けている花束にその顔を引き締める。

「ハイ……えと……そのぉ、旦那さんのおかげで……」

 手袋をしている手をギュッと握りしめ、沈痛な表情を浮かべる琴に対し、琴音はニッコリと笑顔を浮かべ、力の入っているその肩をポンと叩く。

 そっか、毎年あたしの他にここに花を供えてくれたのは彼女だったのね?

「――その当時の事はハッキリと覚えていないんです……でも、旦那さんがあたしに言ってくれた『大丈夫』という言葉だけは今でもハッキリと覚えています」

 黒目がちな琴の瞳に涙が浮かび上がるのを見た琴音は、自分の眼頭が熱を帯びてくる感覚にとらわれ、小さく首を横に振る。

「……そっか……ありがとう」

 花を供え現場に手を合せ終わると、膝を払いながら立ち上がる琴音は優しい頬笑みを浮かべながら琴の顔を見つめる。

「琴音さん……」

 思いもしなかった琴音の言葉に、事は少し驚いたような顔をして顔を見上げてくる。

「気にしないで。アイツが好き好んでやった事なんだから……あなたが苛まれる必要は無いの。それよりも、あなたがずっと元気でいてくれる方がアイツの報いになるから……ね?」

 自然とこぼれる笑みに、琴はハッとしたような顔を上げてくる。

 そう。アイツが守った命が今でも脈々と生き続けて、普通の生活を営んでいるのがアイツの選んだ道であり、あたしもその遺志を受け継ぐ。

「だから、あなたは元気に生きて……自分の夢を叶えられるように頑張ってちょうだい。それが健斗という不器用なサンタクロースがあなたにプレゼントしたものだから……」

少し意地悪い表情の琴音に、琴は顔をクシャクシャに歪めながらもしっかり首を縦に振る。

「ハイ……あたし……看護師になりたいんです……旦那さんに救ってもらったこの命で、今度はあたしが色々な人の命を救ってあげたい……これが夢なんです」

 ホッとしたような表情を浮かべた琴に琴音が理解を示すように大きく頷くと、大きく手を振りながら背を向け、琴音はその背中を見送る。

 アハ……よかったね健斗。彼女も夢を見つけたみたいよ? 



=U=

「琴音ちゃん! 早く!」

 本町の雑居ビルの入口で、サラサラの長い髪の毛を揺らしながら琴音に手を上げるのは、大学を卒業しながらも、そのまま函館の街にいついてしまった美音だ。

 ちょっとそんな大きな声で……恥ずかしいじゃないのよぉ。

 雑踏にかき消されないように上げられた美音の声は、琴音だけではなく当然ながら街行く人々の耳にも届き、元気にブンブンと手を振る赤いコートに身を包んだ美音と、恥ずかしそうに顔をうつむける琴音に視線を向けてはクスクスと微笑んでいる。

「ちょ、ちょっとぉ、美音ちゃん」

 まるでサンタのような格好をした美音の事を、雑居ビルの階段に押し込めるような勢いで入り込み、頬を赤く染める琴音に、美音はキョトンとした顔をしている。

 大学のあのサークル(mas)にだいぶ毒されてしまったようね? 美音ちゃんも……。

「もぉ、琴音ちゃんが遅いからみんな先に入っていたのよ?」

 口を尖らせながら背中を押す美音に対し、琴音は苦笑いを浮かべたまま押されるがままに薄暗い階段を降り、ざわめきが聞こえてくるおんぷの店内に入り込む。

「あっ! かぁちゃんだぁっ!」

 防音効果の利いた扉を開くと、大音量では無いもののクリスマスをテーマにした音楽が優しく溢れ出してきて、その音に混じり、いかなる雑音の中でも聞き分ける事の出来る声が琴音の耳に届き、その声に琴音の表情が緩む。

「ゴメェ〜ン、遅くなっちゃった」

 パフッと足元に抱きついてくる小さなその身体を抱き寄せ、脇に手を差し入れてヒョイッと持ち上げるが、その眉間には小さくシワが寄る。

 うっ、最近ちょっと重くなってきたかな? もう五歳になるんだから当たり前かもしれないし、あたしも……ウウン、考えないようにしよう。

 少し顔をしかめながらも琴音が抱き上げるのは、健斗がこの世に生きていたという証であり、お互いの気持ちを確かめ合った結晶である健也(けんや)だ。

「おかえりぃ、かぁちゃん」

 まるで健斗の生き写しのような笑顔を浮かべて琴音の事を出迎える健也の表情に、琴音は思わずその表情を崩す。

「うん、ただいま健也! ちゃんといい子にしていたかな?」

 まるでりんごのように赤く染まった頬に、琴音が自らの頬を摺り寄せると、その冷たさに少し嫌そうな顔をしながらも、健也は嬉しそうに目を細めている。

「ん、おいらはいつでもいい子だぞ? それよりも、さっきからじぃちゃんとばぁちゃんがかあちゃんの事を探していたぞ?」

 生前の健斗の面影を残したキョロンとした瞳に、それまで疲れきっていた琴音の身体に生気を取り戻させる。

「うん、ライブが終わったら挨拶をしに行くよ」

 おひさまの匂いがしそうなポワポワした髪の毛を撫でていると、店内が暗転する。

「Ladies&Gentleman! 今宵のスペシャルゲストを紹介します!」

 店内にマスターの声が響き渡ると、それまでざわついていた店内が一気に静まりかえり、一瞬の間をおいた途端に大歓声に変る。

「スペシャルゲスト! シノブカヤヌマ!」

 ピンスポットの中、琴音の義理の父であり、健也の祖父でもある忍がマライヤキャリーの『メリークリスマス』やワムの『ラストクリスマス』などのクリスマスにふさわしい曲を、同じく祖母である亜希子のキーボードに合わせてギターを爪弾きはじめ、その幻想的ともいえる演奏に聴衆は言葉を発する事なく聞き入っている。

 何度となくお義父様とお義母様の演奏は聞いた事あるけれど、なんだか今日はいつもと違ってしっとりしていていい感じかも……さすが世界的に有名なミュージシャン。

 いつものようなワクワクさせるような音楽ではなく、じっくりと聴きたくなるようなバラード調の曲に、琴音は思わず目をつぶって聞き入ってしまう。



「……今日は愛しき我が息子の命日であります……」

 滅多にMCを入れる事のない忍が珍しく曲を終えて消え入るような声で呟きはじめると、歓声が沸き上がっていた会場内は一瞬にして水を打ったように静まり返る。

「――確かに悲しい出来事かもしれません。親よりも先に逝くなんてこれ以上ない親不孝者でしょうね? でも、彼はここに生きていた……この街で夢を見つけていた……それを証明してくれるのが彼女であり、彼なのです」

 スポットに目を光らせている忍と亜希子の視線は、暗い会場の中でも間違いなく琴音と、その隣で幼いながらもしっかりと聞き入っていた健也の姿に向いていた。

「――確かに息子の身体はこの世から消えてしまったかもしれませんが、彼の志や夢はまだこの街に根付いているはずです……愛した人の心の中で……そして、何よりも愛したこの街の中でずっと息づいているはずです」

 少し辛そうに顔をしかめた忍に対し、琴音もその胸が詰まる。

 お義父様……。

「……アイツの遺品を整理している時に見つけた遺作に曲をつけてみました……天国でアイツが恥ずかしがっているのが目に浮かぶようです」

 その一言に琴音の目が大きく見開かれ、一瞬にしてその視界が涙に歪む。

「どうか聞いて下さい……茅沼健斗作詞の『星のゆめ(StarDream)』を……」

 亜希子と顔を見合わせながらゆったりとはじまるイントロは、健斗と二人で東京に行った時に行ったコンサートの時に聞いた曲で、琴音の脳裏にはその時の情景がはっきりと蘇ってくる。

 この曲、たしか健斗とあたしのためにと言ってお義父様とお義母様がつくってくれたと言っていた曲……函館山から見た夜景を想い出して……ブツブツ文句を言いながらも結構健斗が気に入っていた曲よね?

『春の日の一日を振り向いてみると……はじめて見ると。キミの困ったような表情を浮かび上がる。恥ずかしそうな……恨めしそうな……そんな不思議な表情を浮かべていた――。夏の日の一日を振り向いて見ると……はにかんだようなキミの顔が浮かび上がる……ホッとしたような、なぜか嬉しそうな、そんな不思議な表情を浮かべていた――。秋の日の一日を振り向いて見ると……幸せそうなキミの表情を浮かび上がる。緊張したような……それでもすごく幸せそうな……満面の笑みを浮かびあげていた……』

優しい口調で歌われる忍の声に、初めて二人が出逢った時の事から、東京での出来事までが鮮明に思い出され、琴音は健也の手をギュッと握り締めながら大粒の涙を零す。

『――出会いは自然の出来事かもしれない。でも、それは偶然な事かもしれないけれど、出会った二人には必然の出来事なのかもしれない――。不思議な事かもしれないし、その事に戸惑うかもしれない。でも、それはその当事者が決める事。幸せに決まり事は無い。好きな人と一緒にいるという事は自然な事であって必然な事なのだから……だから、俺も彼女と一緒にいる事が最大の幸せなのだと思う』

 アコースティックギターを爪弾きながら忍の頬には幾筋かの涙がこぼれ落ち、キーボードを弾く亜希子の瞳からも大粒の涙がこぼれ落ちており、その姿と曲に感銘を受けた会場のいたるところでは涙が拭われている。

――健斗ぉ、あんたってば本当に幸せ者だよね? みんながこんなにもあなたの事を思ってくれているんだよ? お義父様やお義母様、それに、美音ちゃんや深雪さんに知果ちゃん、あなたの事を知っているおんぷの常連のお客さんたち。そして……あなたの事を知らないはずの健也までが……あなたの事を思い出している。

隣でキョトンとしていた二人の愛の結晶である健也は、その曲の意味をわかっているのか、わからずなのか、その大きな瞳に涙を浮かべながら琴音の顔を見上げている。

『Shooting The Dream 夢を射抜け……キミが諦めない限り、その夢は必ず叶える事ができるはず……Shooting The Star この星のように瞬く夜景の光の中に一つ一つに夢があるように……ボクたちも夜景の一つになろう……二人の夢をこれからも叶えるために……ボクたちも光の一つになろう……夢を信じて……』

 優しく歌い終える忍の声に、会場からは歓声もなくただ静まりかえり、不気味なまでの静寂が漂うが、やがて一人の拍手を皮切りに大きな拍手と歓声に包み込まれ、気がつけば会場の全員が立ち上がり、ステージ上の忍たちではなく、琴音と健也に向けて拍手を送っている。

 アハ、どうやら健斗の気持ちがみんなに伝わったようだよ? ある意味で、アンタの夢が叶った瞬間かもしれない……そして、アンタの忘れ形見も賛同しているみたいだし……結果オーライという所なのかしら?

 皆からの拍手を受けた琴音は深々とお辞儀をする琴音の事を、嬉しそうな顔をして見上げてくる健也に、琴音はニコッと微笑み返す。

悪いけれど、あたしはしばらくそっちには行かないわよ? アンタの残した子供がきちんと成人して、アンタよりも長生きしたのを見届けない事には逝けないわよね? 正直アンタ以上にこの子が可愛くって仕方がないかもしれないけれど、ヤキモチなんて妬かないでよね? 怨むのなら自分を恨んでね?

目尻に浮かぶ涙を小さな指が拭い、琴音がその指の持ち主に視線を向けるとニッコリと微笑んでいる健也の表情があった。

「かあちゃん、ボクこの間夢を見たよ? とぉちゃんとかぁちゃんとボクで一緒にクリスマスツリーを見たんだ? だからこれからも、みんなずっと一緒だよね?」

 ギュッと琴音の胸に抱きつきながらあどけない顔で言う健也の一言に、琴音はクスッと微笑むとポワポワしたその頭を撫でる。

「そうね? ずっと健也とかぁちゃん……とぉちゃんはいつまでも一緒なんだよ?」

 そう、アイツはあたしの中にいる……一生一緒にいるのよね? 健斗。



Fin