=プロローグ=

『お待たせいたしました、十七時十七分発のぞみ百四十二号東京行きが発車いたします……』

 新大阪駅ホームに電子音の発車ベルと乗客をせかすような放送が鳴り響きホームがざわつく。

「じゃぁな……一葉」

 新幹線の車内からは今朝まで同じ屋根の下にいた彼がさわやかな顔で手を振っている。

「……うん、あなたも元気でね」

 対する一葉の表情は暗く沈んでいる。

 何で、何でそんなにサバサバした顔ができるの? 今朝だって同じベッドで目を覚ましたと言うのに……。

 一葉の心に疑念が生まれる。

「あぁ、頑張るよ、一葉のおかげでこうやって就職する事ができたようなものだからな? この恩は一生忘れないよ」

 一生忘れないって……。

 一葉の疑念がその時点で現実のものとなる。

「……そうね……あたしもあなたの事を忘れないよ……」

 一葉の手に力がこもる。

 ぷしぃ〜。

 その力を相手にぶつけようとした瞬間、目の前に白い扉が気の抜けたような音を立てながら閉まる。

 ぷわぁ〜ん。

 その白い巨体はまるで名残惜しそうにゆっくりとホームから動いてゆく。

 そんなゆっくりと行かないで一思いに行ってくれないかしら、もう!

 一葉は心の中でそう悪態をつき、去り行く赤い光に思わず中指を立てていた。

「……ヒモを気取っていたつもりなのかしら、あいつ」

 髪の毛をかきあげながら小さくなったその光を見つめる。

 ハァ……彼は東京へ旅立って行った、もうあたしの元に帰ってこない旅に……。確か彼と出会ったのも東京……とは言っても東京から千キロ離れた小笠原だけれどね?

「……馬鹿みたい、あたし」

 まだ冷たい風の吹く新大阪駅でコートのポケットに手を入れると指先に何か当たり一葉はそれを取り出す。

 それは、愛煙家だった彼にいつも火をつけるジッポのライターだった。



=ブルートレイン=

「……帰りたくないなぁ」

 新幹線の改札口を抜け、一葉は呟く。

 仕事帰りのサラリーマン達なのだろうか、背広を着た男性たちがうろうろしており、騒然とし始めている雰囲気の駅構内、みんなはホームに向って歩みを進めるが、それに逆らうかのように改札に向う一葉。

 彼の匂いの残っているあのアパートに帰って、彼の匂いの付いている布団にひとり顔を埋める事が出来るの?

 不意に一葉の目が熱くなる。

 いやだ、こんな所で……顔を上げなければきっとこぼれてきてしまう……彼への想いが、そして、あたしの悲しさが……。

 一葉は顔を上げると様々な地名の入った掲示板が目まぐるしく飛び込んでくる。

 どこか遠くに行きたいかな……傷心旅行と言うやつね……。

 そう思いながら見上げる掲示板に不意に目に止まる文字が浮かぶ。

「……函館」

 その視線の先には、まだ見ぬ地、函館の文字が浮かんでいた。

「南の島で出会った男を忘れるために、北へかぁ……それもアリかも知れないわね?」

 一葉はそう呟きながら改札口を抜けるが、その一葉の頭からはなんとなくその函館の文字が頭から離れなくなっている。

 人と肩をぶつけながら一葉はその場に立ち止まり再びその掲示板を振り返る。

「……『特急日本海』……かぁ」

 一葉はそう呟き足を近くにあった案内所に足を向ける。



『お待たせいたしました、十七時五十二分発寝台特別急行日本海一号函館行き到着です』

 ホームには聞きなれない地名が放送される、その地名に一葉は胸が高鳴る。

 周囲を見渡すとサラリーマンやOL風の会社員が、日常的に会話を交わしているが、まるでそのホームだけはどことなく非日常的な雰囲気が流れている。

ゴォ〜キキキィ〜……ゴン。

 ゴンって……。

 明らかにカックンと言った感じで止まり、早く乗れと言わんばかりに扉を開くそれは、だいぶくたびれた様子の青いボディー。

 ブルートレインと言うのは過去の名声なのね? 今じゃあ老兵と言った風情かもしれないわね、所々ペンキは剥げているし……哀愁漂うと言う感じではないわね?

 一葉はそのくたびれた車体に苦笑いを浮かべ、そのボディーの中に吸い込まれる。



=夜汽車での出会い=

『お待たせいたしました、この列車は特別急行日本海一号函館行きです、この先の停車駅ならびに到着時刻をご案内いたします……』

 長々と停車駅が告げられる、その名前は知った名前もあればまったく知らない名前様々で、この列車の走る長い距離を象徴しているようだった。

「失礼いたします、乗車券を拝見……ハイ、ありがとうございます、函館までですね? ごゆっくりしてください」

 人の良さそうな車掌はペコリと帽子に手をやり一礼して席を離れる。

「ふぅ……」

 一葉はため息をつき窓の外を眺める。流れてゆく風景は毎日見ていたのと同じ風景、でも違うように感じるのはこの列車のせいなのだろうか。

「函館……かぁ、生まれてはじめてね……北海道の南の町」

 フフ、南で出会った男を忘れるために北に向かったのに、その北国の南の町を選ぶなんて、やっぱり忘れられないのかなぁ……あたしってそんなにセンチだったのかしら。

 窓に映る自分の顔を見ながら、自嘲的に微笑む一葉、その右手にはジッポのライターが握り締められていた。

「おぉ〜? ここかぁ……いやぁ、探したよ……おっと、先客がいたんだな? こりゃ失礼したね?」

 その声に振り向く一葉の視線の先には三十代後半ぐらいのサラリーマン風の男が立っていた。

「いえ……御気に為さらないでください」

 一葉は思わず頬が緩む。

 くたびれ果てたサラリーマンがやっと寝倉を見つけたと言う感じなのかしら? やれやれと言った様子がよくわかる。ここまであからさまだとかえって嫌みがないわね?

「いや、本当に失礼したね……まさかこんな可愛いお嬢さんがいるとは思わなかったよ……これは幸先がいいかもしれないな?」

 男性は大きな荷物をベッドに置きながらにっこりと微笑む。

「……幸先?」

 一葉はあいまいな笑顔を浮かべながら男性を見上げる。

「いやいや、こっちの話……どちらまで行かれるんですか?」

 男性はふぅっとため息をつきながらベッドに腰を下ろしながら再び微笑みながら一葉のことを見る。

「はぁ、函館……終点までです」

 一葉は一瞬、彼の事を思い出し表情が沈む。

 そう、これは彼を忘れたいが為の旅……。

「……フーン、そうか、じゃあ俺と一緒だね、俺も函館までだよ『一宿一晩』じゃないけれど宜しくねお隣さん」

 おじさんはそう言いながら一葉に手を差し伸べる。

「アッ、あたし一葉って言います、三好……」

「名乗る必要はねぇぜ、旅での出会いは一時的なものだ、わざわざ名乗っていたらてぇへんだ、俺の事はそうだな……『愉快なおじさん』とでも呼んでおくれよ」

 男性……いや愉快なおじさんはそう言いながら楽しそうに笑う。

 ホント、愉快なおじさんね?

 一葉の中で、彼は既に愉快なおじさんという名前が定着していた。



=お仕事=

『まもなく敦賀に到着いたします……』

 車内に放送が入った頃、一葉はちょうど手洗いから出るところだった。

「あぁ、今やっと終わったよ……直帰するから、明日は直行……そうだ函館だ……」

 洗面所で手を洗っているとそんな声がデッキから聞こえてくる、その声の主はお隣さんの愉快なおじさんの声だった。

「うん、じゃあ……」

 ピッ、っと言う短い電子音の後におじさんのため息が聞えてくる。

「これでよし……」

「なにがですか?」

 間髪入れない一葉の質問に心底驚いた様子のおじさんはまるで殺人犯が警察に見つかったような表情を浮かべている。

「おっ……お嬢ちゃんか……驚かせるなよ」

 怪しい……挙動不振だわ。

 あからさまに動揺しているおじさんは視線を一葉に合わせようとはしない。

「どうかしたんですか?」

 視線を合わせようとしないおじさんの視線に一葉は無理やり割り込む。

「いや……その……なんだぁ」

 おじさんは観念したような顔で一葉の顔を上目遣いで見つめる。

「内緒だよ……お嬢ちゃん」

 ヒソヒソと声を潜め、おじさんは一葉に顔を近付ける。

 列車は徐々にスピードを落としながらゴトゴトとポイントをいくつも通過してゆく。

「実は……」



「出張費を浮かすため?」

 一葉の声が上がったときに列車はやはりカックンと止まり、プシィ〜と気の抜けた音と共に扉が開く。

「あぁ、しがないサラリーマン、小遣いを稼ぐためにこうやるのさ……ちょっと情けないかも知れないけれどね、精一杯なんだよ」

 おじさんの話によると、飛行機代を浮かせるためにこうやって夜行列車に乗ったと言う事らしい。

「ウフ……ククク……アハハハ」

 一葉はなんとなく笑いがこみ上げてくる、必死なんだなということがおじさんから伝わってくる。

「な、なんだよ、笑わなくってもいいじゃないか……これでも必死なんだぞ」

 おじさんはちょっと不機嫌な顔をして一葉を見る。

「ごめんなさい……でも、その必死な様子が……」

 ちょっと可愛く見えたなんておじさんに言える訳がない。

「はは、じゃあ、お嬢ちゃんの口を塞がないといけないな」

 ちょ、ちょっと……今口を塞ぐって……おじさんはコ−トのポケットに手を入れ、何かを取り出そうとしている、その瞬間一葉の脳裏に火曜サスペンス劇場のテーマソングが流れる。

「……おじさん?」

 一葉は思わず後ずさりする、そしておじさんのコートから取り出されたのは……。

「お嬢ちゃんはいける口かい?」

 ポケットの中からは、缶ビールが取り出され一葉の目の前に突きつけられる。

「へ?」

 一葉は思いもしなかったことに目が点になる。

「ハハハ、飲めないのなら無理にとは言わないけれど……どうだい?」

 おじさんはそう言いながらその缶を開け、溢れ出す泡にかぶりつくように口をつける。

「ウフ……生憎とあたしも好きなんですよ? かえって高いものについちゃうかも」

 一葉はそう言いながらおじさんの顔を睨みつける。

「そ、そうなのかい? そいつは困ったな……三本までの限定と言う事で……」

 おじさんは心底困ったような表情で一葉を見る。

 ウフフ、本当に愉快なおじさんね? なんだか警戒するのがおかしいぐらい……警戒する方がおかしいかもしれないなぁ……。

 一葉の心のそこには今まであった警戒感がおじさんと話す事によって徐々に晴れていくような不思議な感覚に陥っていた。



「おじさんは仕事での出張って多いの?」

 ビールの缶を二人合わせて乾杯しながら一葉はおじさんの顔を見る。

 いくつぐらいだろう? 三十代は間違いないと思うけれど、四十代にも見えるし、でも年を聞くのもなんだし……はは。

 一葉は苦笑いを浮かべながらビールに口をつける。

「アァ、月に数回は日本全国歩き回っているな……先週も九州に行ったばかりだし、会社にいても席があってないようなものだよ」

 おじさんは苦笑いを浮かべながらつまみに買ったイカの燻製に手を伸ばす。

「お嬢ちゃんはどうしたんだい? 学校が休みっていうこともないだろうし、家出じゃないだろうな……フム、ちょっと気になるな」

 おじさんはアゴに手をやり悩んだような表情を浮かべる。

「ウフ、学生じゃないですよ……」

 そう、学生ではない、彼と一緒に暮らし始め、大学に通う彼と一緒にいたいだけで一人大阪に来た、職にはちゃんと付いていない、いわゆるフリーターだけれど。

 一葉の表情が曇る。

「そうかぁ……まぁ、何かあったのかもしれないけれど、頑張れよ」

 おじさんは深く追求しないようにその陰のある横顔を見て見ぬ振りをする。

 さすがなのかしら? 大人の余裕って言うやつなのかな……同年代の人だったらしつこく聞いてくるだろう。

 一葉はにっこりと微笑みながら車窓を眺める、そこには徐々にこれから夜になる風景というのだろうか、線路に張り付くように走る道路にはトラックに混ざり乗用車が増える、そして、その道の向こうには海が広がる。

「ウァア……綺麗」

 その海に今にも落ちようとする太陽はオレンジ色というよりも茜色といった方がいいのであろう、まばゆくも綺麗な光を放っている。

「なぁ、お嬢ちゃん、今見ている風景というのは忘れないものになると思うよ、もし嫌な事があってこの汽車に乗ったのなら、辛い想い出になるかもしれない……覚悟だけはしておけよ」

 気が付いていたのね? やっぱり……でも。

「ハイ、辛い事があったけれど、でも、この景色はきっと忘れません……こんな綺麗な景色は」

 一葉が再び見つめる車窓の向こうには、茜色に輝く海原が広がっていた。



=深夜の風景=

『ご案内いたします、これから列車は深夜帯に入ります為、放送を明日の朝東能代到着まで一時中断させていただきます……繰り返し停車駅のご案内いたします……』

 何本目のビールのプルトップを引いたときだろう、不意にオルゴールが鳴り車掌の流暢な案内放送が入る。

「じゃぁなお嬢ちゃん、俺は寝るから……ふわぁ〜、おやしゅみぃ〜」

 おじさんは大きなあくびをしながらいつの間にか着替えた浴衣の裾を払いベッドに入り込んでゆく。

「ハイ、おやすみなさい」

 一葉は再び窓の外を眺める。

『……それではごゆっくりお休みください』

 再びオルゴールがなり、バチンという音がして車内が薄暗くなる……真っ暗ではないが、なんとなく寂しく感じる明るさになる。

 はぁ、なんだか今日は一日いろいろあったなぁ……新大阪まで見送りになんて行かなければ良かった……まさかあそこで……。

 鏡のように映る窓のガラスに一葉の顔が映る、その瞳からは涙がこぼれ始めていた。

「泣くのも悔しいかも……」

 一葉は呟きながら涙を拭う。

 窓の外には民家の光であろう、いくつか流れてゆき、その光がやはり涙でゆがむ。

「何ででてくるのよ……ばかぁ」

 一葉は顔をグシャグシャにしながらベッドに入り込み、枕に顔を埋める。



「ん? ウ〜ン……」

 一葉はそのまま眠ってしまったのだろう、次に気が付いたら列車は止まっている。

「ここは?」

 カーテンを開けて通路にある折りたたみの椅子を開きながら外を眺める。

「三時……『酒田』かぁ……確か秋田県だったかしら?」

 一葉は目を凝らしながらホームの様子を見ると、そのホームには何人かのお客がいて、降りた人や、これから乗車する人もいるのだろう。

 こんな夜中に……。

 一葉の視線はちょうど一葉の窓のちょっと先にいる夫婦だろうかに向く。ちょうど旦那さんが出かけるのであろう、奥さんの格好はパジャマに上着を羽織っただけのような格好で旦那さんの荷物を持っている。

 あんな格好で駅まで来ちゃうの? まぁ、駅まで車で送りに来たのだろうけれど。

 一葉はその二人を見てなんとなく心が温かくなるような感覚に襲われる。

「……奥さん心配そうな顔しているな……旦那さんは眠たそうな顔をしているけれど」

 なんとなく二人の会話が聞えてきそう、きっと奥さんは『気をつけて行ってきてね』なんていって、旦那さんも『アァ行ってくるよ』なんて言うんでしょうね、少なくてもこれで最後なんて無いんだ。あの二人には……。

 旦那さんが車体に近づき姿が一葉から見えなくなったと思った途端に、ガタンという衝撃と共に列車が動き出し、奥さんらしい女性は列車に向って手を振る。

「ここだな……」

 通路を歩く音がしたと思うと隣のベッドにさっきの旦那さんらしい男性が荷物を置く。

「さて……」

 その男性はがさがさと音を立てながら荷物の中から包みを取り出し開く。

「ウン、うめぇなぁ……朝飯にはちょっと早いかな」

 男性は包みから取り出したおにぎりをうまそうに口に頬張る。

 きっと奥さんの手料理なんでようね? 旦那さんが夜中に出かけるからきっと早くに起きて夕食の残り物とかと一緒に握ったんだろうな……そして駅まで車を運転してお見送りかぁ。なんだか普通の日常よね? でも、それが一番幸せな日常なのかもしれない……。

 再び列車はゆっくりと速度を上げながら走り出す、街中を抜けるようにいくつもの踏切を通り越しながら加速するが、その風景には夜中というのにもかかわらずなんとなく日常が見えるようだ。

「もしかして、あたしって理想を求めすぎたのかな……」

 ベッドに横になりながら目前に迫っている上の段のベッドを見上げる。

 何も無い日常が案外一番幸せなのかもしれない。あたしもいずれはあんな夫婦みたいになりたいな? 何がとりえのある家庭じゃなくってもいい、普通の日常がある家……。

 一葉は寝返りをうつように横を向く、そこには飾りっけの無い壁、手を触れると冷たく無機質な感じが手に広がる。

 あたし函館に行ってどうするのかしら? そこに何かあるのかしら? あたしはこれからどうしたいのかしら……わからない、でも、何かありそうな気がするな……あの街には。

「そう、あたしはもうあの街には帰らない……あの人のいた街には戻りたくない、あそこはあたしの中で想い出の街にしておくんだ」

 一葉は決心したようにゆっくりと目を閉じる、その耳には軽やかな車輪のリズムが心地よく響き渡っていた。



=夜汽車の朝=

「お嬢ちゃん、起きたのかい?」

 ベッドのカーテンを開けると既にそこは昨日の夜のような重苦しい空気は流れていなかった。

「おじさん、おはようございます」

 一葉は起き上がりながらおじさんに向い笑顔を浮かべる。

「ハイおはよ……いい表情になったな、いい景色を見ることが出来たようだったな」

 おじさんはそう言いながら一葉の顔を見つめる。

「ハイ、この列車のおかげですかね?」

 一葉の笑顔は心からのものだった。

 そう、ドラマティックな恋愛に憧れていただけ、本当に幸せな恋愛というのは日常にある普通の景色の中で繰り返されているもの……昨日の夫婦でなんだか悟ったみたい。

 一葉はそう言いながら車窓風景に視線を向ける、そこには近代的なビルが見え隠れし始めている。

『ご案内いたします、列車は間もなく青森に到着します』

 オルゴールと共に車内にそんな放送が入る、アナウンスの声もなんだかちょっと東北訛りが入っているのかしら? なんとなくほっとするイントネーションかも。

 ゴトゴトとポイントを渡る音がして列車はゆっくりと青森駅のホームに滑り込む、そのホームには日常が流れていた。

「東北とはいえやっぱり県庁所在地だけあって人がいっぱいいるな」

 おじさんはそう言いながら歯ブラシを咥えている。

 確かにそうね? 皆スーツを着たり学生服だったり、いつもと同じ朝の光景なんでしょうね? あたしも昨日の朝まではまさかこんな所にいるなんて思っていなかった。

「なんだかみんなに見られているみたいで恥ずかしいかも」

 気のせいだろうけれど、ホームにいる人が皆こっちを見ているような気がする。

「はは、ちょっと気持ちいいよな、みんなは仕事に行くのにこっちは夜行列車に乗っているんだから、まぁ、目的地まではあとわずかだけれどね」

 おじさんはそう言いながらタバコに火をつける。

 タバコの香り……。

 一葉の表情が曇ったのをおじさんは見逃がさなかったようだ。

「ゴメン、タバコ駄目かい?」

 おじさんは慌ててタバコの火を消す。

「ウウン、違うの……」

 ゴトンと列車は今来た方向と同じ方向に向って走り出す。

「あれ?」

 一葉が首をかしげるとおじさんは楽しそうに笑い出す。

「はは、この列車はこの青森で進行方向が逆になるんだ、スイッチバックといってね?」

 ゴトゴトと再びポイントをわたりながらゆっくりと加速してゆく。

「そうなんだぁ、ちょっとびっくりしたかも」

 一葉は素直に驚きながら進行方向が変わり景色の見え方が違う車窓に再び視線を向ける。

「……タバコにはあまりいい想い出がないのかな?」

 おじさんはそう言いながら一葉と同じように車窓に視線を向ける、まだところどころに雪が残り、春はまだ遠い事を示している。

「……ハイ、確かにいい想い出ではないんですが、いずれはいい想い出になると思います」

 一葉のそう言う表情をおじさんは見ながらにっこりと微笑む。

「おじさん、そういえばそろそろ青函トンネルですよね? あたしはじめてかも……ワクワクしちゃう」

 そういう一葉におじさんは笑いながらタバコに火をつける。

「アァ、もうすぐだろう、俺は何回か通った事があるから飽きたけれどな」

「エェ、飽きちゃったの? もったいないなぁ、このトンネルは人間の英知といってもいいとおもいますよ、できるまで何十年もかかったんでしょ?」

 一葉は頬を膨らませながらおじさんにそういう。

「ゴメン、確かにそうかもしれないな、着工から完成まで二十四年、出水により多数の犠牲者を出した難工事だったらしい」

 おじさんはちょっとしんみりとして一葉の顔を見る。

「これがそうかな?」

 トンネルに入る度に一葉はおじさんの顔を見るが、ちょっと悩んでいるうちにすぐに外に出てしまう、それを何回か繰り返しているうちに、今までとは違う車輪のリズムになる。

『ただいま列車は青函トンネルに入りました』

 そんな放送が車内に入り、一葉はまるで幼子のように窓にへばりつく。

「ヘェ〜これが青函トンネルかぁ……」

 コー、甲高い音が車内に響き渡り、今までよりもうるさくなったような気がする。

「全長は五十三,八五メートルこの距離は東京の山手線の距離よりも長いんだ、最大深度……深さは海面下二百四十メートル、今でも世界一のトンネルなんだよ、そしてこのトンネルはいずれ出来るであろう北海道新幹線も走れるように設計されているらしいよ」

 おじさんはちょっと自慢げに鼻を引くつかせる。

「でも、世界一のトンネルって、ユーロトンネルなんじゃないの?」

 以前見たニュースでそんな事を話していたような気がする。

「アァ、確かに海底部分だけを見るとユーロトンネルの方が長いらしい、捉え方だよね? 海底部分だけを見るかトンネル全体を見るかだと思うよ……俺は日本人だからこの青函トンネルが一番だと思っているよ」

 おじさんはそう言いながらちょっと胸を張っているようね。



=終点は始発駅=

「なんだかスピードが落ちたみたいだけれど」

 徐々にトンネル内ということに飽きてきた頃、列車の速度がそれまでと違って落ちている事に気がつく。

「アァ、トンネル出口に向っている証拠だよ、出口に向う坂は鉄道にしてみれば急な分類になるよね? 碓氷峠ほどではないけれど一気に速度をのせないとかなりきついらしい」

 そういっているとやがて列車の外が一気に明るくなる、その車窓風景は、生まれてはじめて踏む地、北海道だ。

 これが北海道……雪がまだこんなに残っている、厳しい土地なのね?

 窓から見る景色はまだ雪が残り、畑や田んぼを覆い隠している。

「お嬢ちゃん、どうだい初めての北海道の印象は」

 おじさんが顔を覗き込んでくる。

「……よくわからないけれど……のどかな所」

「ハハハ、違いねぇな、のどかな土地だよ、北海道という所は、だから旅人を癒してくれるのかもしれない、荒んでいる都会人の心をきっと癒す何かがあるんだろうなこの土地には」

 おじさんは高らかに笑い出すと荷物をまとめ始める。

「お嬢ちゃんもそろそろ片付けておいたほうがいいぞ、五稜郭の駅を出ればすぐに函館駅、終点だ」

 終点……。

 その一言に一葉は唇をかむ。

「どうした? お嬢ちゃん」

 おじさんは様子のおかしい一葉に心配そうな顔を向ける。

「いえ……なんでも……」

 一葉はそう言いながらも再び車窓に顔を向ける、そこには海から離れ、倉庫などが目立ちはじめる風景に変わってきていた。

「……知り合いの店を紹介するよ、その親父ならきっとお嬢ちゃんの力になると思うよ、ちょっと変わり者だけれどな」

 苦笑いを浮かべながらおじさんは一枚のメモを一葉に手渡す。

「お嬢ちゃん余計な事かもしれないけれど、まだ若いんだ、やり直しはいくらでもきく、きくうちに色々やってみるのもいいかもしれないよ、それに付随するように色々な事が起きる、その中でお嬢ちゃんの幸せを叶える男も現れるんじゃないかな?」

 何で知っているの?

 一葉が首をかしげているとおじさんは申し訳なさそうな顔をしながら一葉の顔を見る。

「悪いな、出張とかでこうやって色々な人と出会うとその人の旅の目的というのもなんとなくわかってくるんだよね……お嬢ちゃんは失恋旅行だろうと思っていたよ、昨日車窓を眺めるお嬢ちゃんの憂いのある顔が物語っていたよ、でも、今朝見たお嬢ちゃんの顔は吹っ切れていたようだった、だから俺はそのお店を紹介するんだ、その店にはきっとお嬢ちゃんの必要なものがあると思うよ」

 おじさんは照れくさそうな顔をしている。

 ばれていたのね? だからおじさんは昨日からあんなに話しかけてくれたんだ……、ありがとうおじさん。

 一葉の目に不意に涙がたまる。

「おいおい、そんな顔をするなよ、確かに函館はこの列車の終点だけれど、札幌に行く列車はここが始発駅になるんだ、さっき言ったとおりだよ、捉え方だよ、お嬢ちゃんの」

 終着駅だけれど始発駅……あたしの捉え方……。

「さて、長かったお嬢ちゃんとの旅もここまでか、ちょっと名残惜しいけれど、また会う事ができると思うよ、一緒に枕を並べた仲だからな」

 おじさんはそう言いながらウィンクをするが、上手くウィンク出来ず両目をつぶっていた。

「もぉ〜おじさん人聞きの悪い事言わないでよぉ」

 膨れたつもりでいたけれどつい微笑んでしまう。

 フフ、最後まで和ませてくれたおじさん、ホントわかれるにはちょっと名残惜しいけれど、でも旅先での出会いなんてそんなものなのよね?

『ご案内いたします、長らくのご乗車お疲れ様でした、列車は間もなく函館終点に着きます』

 ゴトゴトとポイントを渡り列車は広々した函館駅の構内に入り込んでゆく。

『函館、函館です……』

 プシィ〜、という相変わらず気の抜けた音で扉が開くと、昨日この列車に乗り込んだときの寒さとは比較にならない冷気が身を包む。

「さむぅ」

 反射的に一葉は首をすくめる。

「ほら、そんな縮こまっていると、幸せなんて逃げて行っちゃうぞ! 胸張っていけ! じゃあな、お嬢ちゃん、元気でな!」

 おじさんはそう言いながら荷物を担ぎ急ぎ足で改札に向って歩いてゆく。

「ウン、おじさんも元気でね!」

 一葉はそう言いながら大きく手を上げると、おじさんは振り返らないで手だけを上げて人ごみに消えていった。

「胸張っていけかぁ……ウン!」

 一葉は大きく深呼吸をしてから改札に向い歩き始める。大きく胸を張って。



=エピローグ=

「一葉さんってそうだったんだぁ……大阪から来たんだ」

 有川商店の控え室兼食堂でみんなでお茶をする。

「ハイ、旦那さんの好意でこのお店に居候させてもらっていますね、あの時おじさんがこのお店を紹介してくれなければきっと今頃は違う所にいたでしょうね?」

 そうあのおじさんが紹介してくれたのはこの有川商店だった。

「でも親父が良くそんな娘を雇ったなぁ、しかも住み込みで」

 首をかしげているのは息子の勇斗さん、口は悪いけれど優しい人。

「あら、結構義理堅いんですよ、お義父さんって」

 ポニーテールにした女の子は穂波ちゃん、旦那さんの再婚相手の連れ子で、勇斗さんの元彼女、この二人があたしの今の同居人。

「そうか? 俺にはただ勝手な奴としか写らないけれどな」

 グラスをかたむける勇斗さんの表情は口でそう言いながらも旦那さんを認めているみたい、あたしから見ると、お二人そっくりですけれどね? あたしがこの家に一緒に暮らすと言ったとき勇斗さんは困惑していたけれど受け入れてくれたときの表情はあたしがこのお店に転がり込んできたときと同じ表情だった。

「そんな事言わないでくださいな、さて、お風呂沸きましたから勇斗さん入ちゃってください、もしなんだったらお背中流しましょうか?」

 一葉がそういうと勇斗は真っ赤な顔をして首を振る。

「いえ、大丈夫です」

 アハハ、やっぱり真面目よねぇ……あら。

 一葉の隣で穂波が頬を思いっきり膨らませ一葉に抗議の目を向けている。

「一葉さん、もしかして一葉さんも先輩の事を……」

 うふ、も、ねぇ。

「どうかしら? 少なくってもあたしのタイプである事だけは間違いないわよね?」

 一葉がそういうと穂波は慌てたような顔をする。

「かっ、かっ、一葉さん?」

 穂波ちゃんも可愛い……。

「アハハ、さて、早く明日の支度をしないと朝が辛いですよ、穂波ちゃん」

「一葉さん、ちょっと話をはぐらかしていませんか? ねぇ、ちょっと、一葉さぁ〜ん」

 そう、ここにはあたしの落ち着く所がある、そしてあの時の話を笑いながら話せる相手がいる、みんな仲間であり家族なんだ。

 そして明日から、あたしの日常がまたはじまる。