東京での空


=プロローグ=

「寒い……本当に東京の冬って寒いのね?」

 バイトから帰り、誰もいないアパートの鍵を開けるとその中は冷え込んでいる。

「ストーブつけよう」

 部屋に入りながらコートが脱げないなんて……帯広より東京の方が寒いんじゃないかしら?

 明理はそう呟きながらストーブをつけると、ぼぉっと部屋の中が赤く照らされる。東京に来てもう何回も繰り返したこの行為にはなれた。

「さて、夕飯の準備と……あぁ、お風呂の掃除今朝出来なかったんだっけ」

 寒さの為か布団から出る事の出来なかった明理は二度寝をしてしまい、慌てて部屋を出た今朝の事をふっと思い出す。

「遅刻しなかったから良かったけれど……」

 風呂場に向いながら頬を膨らませる。

 やっぱり東京は寒い、帯広の方が暖かいのかしら? だから布団から出ることが出来ないのよ。あの温もりといったら幸せをすごく感じるぐらい。


「後は、お湯を張ればよし……さて、夕飯の支度しよう」

 明理はようやく暖かくなってきた部屋で上着を脱ぎ、エプロンをすると腕まくりをする。

 トントン……ジャァ〜。コトコト。

それまで生活感のなかった台所にまるで火が入ったように暖かさが戻ってくる。

「うーん……ちょっと味が薄いかな?」

 明理は鍋のふたを開け味見をして首をかたむける。

「……もうちょっと」

 冷蔵庫から取り出したお味噌をおたまにのせそれを鍋の中で溶く。その鍋の隣のフライパンからはそろそろ返してくれといわんばかりに音が大きくなってくる。

「アァ……ちょと待っていて、今手が離せないからぁ」

 おたまの味噌を溶くのに忙しい明理はそのフライパンに目をやる。

「といってもムリよね?」

 明理は舌をペロッと出し、おたまを置く。ガチャガチャと台所の音が徐々に大きくなり、いい香りが部屋に充満し始める。

「完成!」

 明理は満足げな表情を浮かべ、テーブルに並ぶその料理を見つめる。


=彼=

『明日は、関東平野部でも雪になるでしょう、外出の際には注意してくださいね?』

 テレビでは明日の天気を綺麗な女性がにこやかに説明している。

「雪かぁ、東京も雪降るんだよね?」

 東京に来て間もなく一年が経過しようとしている、その一年の中でも色々とあった。雪も降ったし、台風の直撃を受けたこともあった、不安で仕方がないときもいっぱいあった、でも、そんなときには必ず……。

「寒いぃ〜、ただいま明理」

 あたしを支えてくれる人、そしてあたしの大切な人。

「お帰りなさい……ずいぶんと大荷物ですねぇ」

 玄関先で凍えたような顔をして明理を見つめる彼の両手には大きな紙袋が二つ持たれている。明理はにっこりと微笑みその紙袋を彼から受け取りその紙袋の中を見ると目が一瞬険しくなる。

「ウン、会社の女の子や、取引先からもらったんだ」

 悪びれる様子もなくコートを脱ぐ彼。

「ヘェ〜、そうですか……もてるんですねぇ」

 明理の頬が膨らむ。今日は世の中では『バレンタインデー』と呼ばれる日、明理も例外なく準備をしてあるけれど、彼がこんなに貰って来るというのは心中穏やかではない。

「ハハ、義理でしょ? 付き合いって言うやつだよ!」

 ネクタイを緩める彼の表情はまるで気にしていないようだけれど、でもこの量はすごいと思う。紙袋に入っているチョコレートとおぼしき包みは両手の指を折ってもきっと足りないぐらいはあるであろう。

 何だかんだ言ってもてるのね? あなたって。

 不安そうな表情を浮かべる明理の頭に不意に心地のいい重みが加わる。

「さて、今日の夕飯は……ウン、今日も美味そう!」

 心配なのかなぁ……、でも彼のその笑顔は明理の不安を消し去るには十分なのもだった。


「でも、本当にすごいですねぇ……これなんて手が込んでいますよ?」

 夕食を終え、彼は明理の用意したバレンタインのプレゼント『ザッハトルテ』を美味しそうにパクついている。その前で明理は紙袋に入っていたプレゼントの山を一つ一つ丁寧に眺める。その数はなんと三十八個。

「ほとんどが会社の女の子からのものだよ、営業に出てもらったのは十個ぐらいかな? なじみのお店の先生がくれたのがほとんど」

 彼の勤める会社は美容室などに材料を卸している会社で、一応全国規模といっていた。当然その絡みで美容室の先生共仲が良かったりするみたい……やっぱり不安かも……。

「フーン……あれ? これは?」

 そのプレゼントの山の中で異彩を放つ包みが明理の目に留まる。

「誰からだろう……気にしていなかったからなぁ」

 それはちょっとプレゼントした女の子に失礼ですよ? 義理であれちゃんともらった人の事は覚えておかないと、その娘が可哀想です!

「開けていいですか?」

 悪いとは思いながら明理にはその包みが気になって仕方がなかった。

「うん」

 彼はそう言いながらお風呂に向って歩いてゆく。まったくこのプレゼントに何も感じていないみたいに彼はヒラヒラと手を振る。

 本当になんとも思っていないのね? あたしが気にしすぎなのかしら?

 そう思いながらも、明理の手はその包みを開く。

「これ……」

 包みを開けている明理の手が止まる。その視線の先には一枚のメッセージカード。

 これ以上あたしが見てもいいのかしら? なんだかいけないような気がする。でも気になるのは間違いない……どう見てもこれは。

 そのメッセージカードは二つ折りになっているが、そのタイトルは……。

あなたに……。


「ハァ……」

 何度となくそのカードを眺めてため息をつく。

「どうしたの?」

 お風呂から上がってきた彼は、髪の毛をタオルで拭きながら明理の隣に座る。明理はテーブルの上に置いてかれこれ三十分近くそれを眺めている。

「……これ」

 明理はソファーに座らずに床にそのまま床に座り込みうつむいたままそのメッセージカードを指差す。ソファーに座る彼はその指を視線で追い、それを手に取ると、見る見るうちにその表情は驚いたものになっている。

「あたしまだ読んでいませんから……なんだかその人に申し訳なくって」

 これはあたしの正直な気持ち、相手が誰であれ彼に対する気持ちをあたしが読んではいけないそんな気がした。

「明理……」

彼が優しい顔で明理の頭に手をのせる。大きな手が心地いい……でも明理の心の暗雲は払拭されていない。

彼はそのままテーブルからそのメッセージカードを手に取り開く、明理の握った手がぎゅっと握られる。


「……エッ?」

 彼の顔を下から眺め上げ見ると、徐々に彼の顔が険しくなってゆくのがわかる。大体書かれている内容のことは想像がつくが、その小さな驚きの声に明理の肩がピクリと反応する。

「フゥー……」

 彼はそのメッセージカードを明理に手渡し大きなため息をつく。明理はそのメッセージカードを無意識に受け取り、再び彼の顔を下から見上げる。

「……あのぉ……これを?」

 あなたに……。そう書かれたメッセージカードを明理はどうしていいか分からずに手で弄ぶしか出来ない。

「読んでみて……参ったね、どうも」

 彼は苦笑いを浮かべながらテーブルに置かれたタバコに手をやる。彼がタバコを吸う事を知ったのはあたしが東京に来てからだった。滅多に家では吸わないけれど困ったときや、疲れたときに無意識に手が伸びてしまうと彼は苦笑いを浮かべながら言っていたのを思い出す。

「でも……いいんですか?」

 明理がそう言いながら彼を見ると、無言でうなずく。それを合図に明理はそれを開く。そこには可愛らしい文字が並んでいる。


 突然こんなものを渡しちゃってゴメンナサイ。でも義理と思っていますよね? あなたの事だからきっとそうでしょう、でも渡した本人は結構ドキドキしているんですよ? 今こうやって書いている間も胸がドキドキしています。あなたは気がついてくれるかしらって……エヘヘ、あたしらしくないですよね? いまあたしは会社に行くのが楽しくって仕方がないんですよ? 変でしょ? だってあなたに会える、それだけでこんなに嬉しいんだから! 今はこのバレンタインデーを発案してくれた人に感謝しています! こうやってあなたに告白することが出来るんですから、あたしはいつもあなたの事を思っています……だって、だってこんなにもあなたのことが好きだから……大好きです。A・H


「こ、こ、これは……ラ、ラブレターじゃないですか、あたしが読んじゃっていいんですか?」

 明理は動揺する、書かれている内容は想像したものと同じだったけれど、でも文章は立派なラブレターだ、しかもここまで熱烈に書かれているとは思わなかった。

「やっぱりそうだよね?」

「やっぱりって、それ以外の何物でもないですよぉ」

 困り果てている彼に明理は顔を近づけ思いっきり抗議する。

「こんなのを人に見せたらいけません! これを書いた娘に失礼ですよ? しかもあたしに見せるなんて、あたしはどうすればいいかわからないじゃないですか!」

 速射砲のように明理は彼に言葉を浴びせる。

 あなたの事を思っている女性があたし以外にもいる、しかもきっとあたしより彼の近くにいてずっと彼の事を見ている……ちょっと胸が詰まる。

「ゴメン……でも、明理にこの内容を黙っていたくないし、この娘には申し訳ないけれど俺には……そのぉ……ね?」

 彼は照れたように視線を泳がせる。

「……俺には、って……照れますねぇ」

 明理はそのあと彼が続けようとした台詞が何か問い詰めようとするが、彼の表情ですぐにわかり、顔を赤らめる。

「……でも困っちゃったなぁ……誰なんだろう」

 彼は申し訳なさそうに明理に頭をさげ、鼻先をかく。

「……本当にわからないんですか? こんな大きなやつをくれた人のこと」

 明理は彼の顔を再び覗き込む。

 あたしならこんなに大きなプレゼントをくれた人のことはちゃんと覚えておくけれどなぁ。

「ウン、みんなから一斉に貰ったから、同じ部の女の子であることは確かなんだけれど……」

 困り果てた彼は、宙を見つめながら必死に思い出そうとしている。

「じゃあ、この『A・H』さんに該当する人を見つければいいんじゃないですか?」

 明理は再びそのカードを開き最後に書かれているイニシャルを眺める。

「うーん、A・H……亜希子……速見、鮎美……平林、麻子……堀田、あずみ……本田、後は、愛美……早田かぁ? こうやって考えると一杯いるなぁ……アッ」

「分かりました?」

 彼が不意に顔を上げ、明理の顔を眺める。

「明理……原田もそうだ……」

「あたしのわけないじゃないですかぁ! 真剣に考えてください!」

 もぉ、何か分かったのかと思ったじゃないの!

「でも結構いるよ……まぁ一番歳が近いのが速水さんと、平林さんかな? 後はみんな歳が違うし、あまり話もしていないし……本田さんはもう結婚しているから除外だな」

 彼は頭の後ろで手を組んで悩むが、そのうちに考えるのを諦めたのかスクッと立ち上がる。

「どうしたの?」

 明理はその行動をキョトンと眺める。

「寝よう、考えても仕方がない、たとえそれが誰であれ、俺の気持ちは決まっているんだし、わかっちゃうと付き合い難くなっちゃうからやめた」

 彼はそう言いながら寝室に向かってゆく。明理はその後姿を見てなんとなくホッとした感覚に陥る。俺の気持ちは決まっているって言っていた。

「エヘ……クスス……」

 明理はなんとも言えない気持ちに陥り、思わず表情を崩す。


=北海道への思い=

「明理、何処か出かけようか……休みだし」

 朝食を取りながら彼が明理に声をかける。彼の仕事は営業職のためか休日出勤も多いし、休みの日も資料作りでパソコンに向っていることが多い、でも今日はゆっくりと休みが取れるみたいだから家でゆっくりしていてもらいたい。

「でも、疲れていますよね? 今日は家でゆっくりしましょうよ」

 明理はコーヒーを入れて彼の元に置く。

「息抜きだよ……最近ずっと忙しかったからね、羽を伸ばしに何処かにいこう! それに最近明理とも出かけていないし、よし! デートに行こう」

 彼は嬉しそうな顔で明理の顔を見つめる。

「デ、デートですかぁ」

 デートという台詞に明理は顔を赤らめる。


「さてと、どこに行きたい?」

 部屋を出るとヒヤッとした空気が二人を包む。彼は優しい笑顔で明理の事を見る。

「はい……実は、ちょっと行きたい所があったんです」

 明理はそう言い、遠慮がちではあるが、彼の腕に手を通す。

 何度となく彼と一緒に歩いた東京の街、ちょっと息苦しくさえ感じるこの街だけれど彼がいるからあたしは頑張れる、そう思っている。はじめて何も持たずに彼の部屋を訪れたとき彼は驚いた表情を浮かべていたがすぐにあたしを向い入れてくれた。そして何度となくこの街を案内してくれた、今ならきっと高校の友達を案内できるほどあたしは詳しくなったはず。


「北海道物産展……かぁ」

 銀座にあるデパートの入口にある特別催事場案内で開催されている催し物を見て彼は納得したような表情を浮かべる。

「はい、ちょっと来てみたかったんです」

 明理はにっこりと微笑み彼の手を引く。

『ヤァアレンソーランソーラン……』

 エレベーターを降りるとそこには北海道……の雰囲気を出すように、民謡が流れている。

「あは『石屋製菓』だって、こっちには……アァ『六花亭』もありますメジャー所ばっかりですねぇ、こっちは函館『ハセガワストアー』のやきとり弁当ですって、食べていきません?」

 生き生きとした表情の明理をちょっと彼は表情を曇らせ見る。

「美味しいですね? って、どうしたんですか?」

 やきとり弁当を食べながら明理は箸の進まない彼の事を見る。

「明理……大丈夫?」

 彼の質問の意味がわからないといった表情で明理は彼の顔を見る。その表情はちょっと暗く、いつもの彼とはちょっと違う雰囲気だった。

「何が……ですか?」

 明理は首をかしげる。

「いや、こんなに生き生きしている明理を見たのは久しぶりかなぁって思って……寂しいのかなって思ってさ」

 彼はちょっと自嘲気味に明理の事を見る。

「そんな事ないですよ? ただ、郷の味が楽しめるから……ごめんなさい、あたし心配かけてしまいましたか?」

 明理は不安げな表情を彼に向ける。

「ハハ、ありがとう、そう言ってくれるとちょっと助かるかな? アッ、あそこに……」

 彼の向ける視線の先には、

「アァ……『柳月』……」

 感慨深いものが明理に湧き上がる。懐かしい制服を着ている店員さんがブースの中を動き回っている……一年前はあたしもその制服を着て働いていた。

「ほら『三方六』を売っているよ? 買っていこうか?」

 彼はあたしを励ますように言ってくれる。あなたはとてもあたしの事を大切にしてくれている……そのことが痛いほど良くわかる。

「はい、是非……アッ」

 流月のブースに並んでいる三方六を初めとした懐かしいお菓子達、それの中に思わず明理が微笑んでしまうお菓子が置いてある。

「これ……エヘヘ、『百代餅』ですねぇ」

 明理はその箱を持ち、懐かしそうな微笑を彼に向ける。

「本当だ……懐かしいなぁ、一緒に食べたよね?」

 彼もそれを見て微笑む。

「ハイ、覚えていてくれたんですね? 嬉しいです」

 初めてあなたとデートをしたときに持って行ったお菓子……。

「覚えていますか? これに書いてある歌の事」

「ウン、確か……『このあたり馬の車のみつぎもの御蔵を立てて積まほしけれ』だったよね?」

 彼は必死に思い出そうと頭を上げながら目をつぶる。

「ハイ、そうです! 松浦武四郎の歌です。本当に覚えていてくれたんですね?」

 明理のその一言に、彼はホッとした表情を浮かべる。


「明理ちゃん? やっぱり明理ちゃんじゃない!」

 休憩から帰ってきたのか、ブースの中に入ってきた柳月の制服を着ている女性はその猫目がかった目を細くして明理の事を見る。

「エッ? か、一葉さん?」

 間違いない、ショートカットに猫目……バイトをしていたときにお世話になった御堂一葉さんだ。懐かしいぃ。

「こんなところで明理ちゃんに会えるなんて思っていなかったぁ……元気にしていた?」

 明理と一葉は手を取り合い、再会を喜び合っている。

「一葉さんこそ、どうしたんですか? こんなところで」

 明理は一葉の顔を見ながらそういう。

「ヘヘ、物産展のお手伝いに出張してきたの……明理ちゃんは……デートの真最中っていうことかぁ」

 一葉は、明理の隣に立っている彼の事をちらりと見る。

「……どぉも」

 彼はその視線に気がつき、ちょっと照れくさそうに頭をさげる。

「ウフ、お久しぶりですね?」

 彼と一葉はお店で何回も顔を合わせている。

「でも、明理ちゃんが突然お店を辞めちゃったからあの後寂しかったなぁ……まさか明理ちゃんが彼を追って東京に行っちゃうなんて想像もしていなかった」

 一葉が優しい笑顔を浮かべ、明理を見る。

「スミマセン……ご迷惑お掛けして」

 明理は深々と一葉に向け頭をさげるが一葉はそれを手を振って否定する。

「いいのよ気にしないで! あたしは感心したんだから、あの純真な明理ちゃんがそこまでするなんてよほどなんだなぁって……あたしだったらってちょっと考えちゃった……」

 一葉さん……。

「ウフフ、でも今日会って安心した、明理ちゃんがこんなに生き生きした表情をしているんだもん、きっと今はその選択がベストだったのよね?」

 一葉がウィンクを二人に向ける。

「……ハイ!」

 明理はその問いに向かって力いっぱいの笑顔で返事をする。

 そう、あたしの選んだ選択は間違ってなんていない、お父さんが言った通りの事をしただけ、あたしがどうすればいいのかじゃない、あたしがどうしたいのかなんだって、だから帯広を離れ彼のところに来た。


=東京でのデート=

「この後はどうしようか?」

 銀座を二人でぶらつきながら気がつくと新橋まで来ていた。

「うーんと……確かここから『お台場』にいけるんでしたよね?」

 東京に来て一年が経ったけど、いまだにこっちの路線は覚え切れていない、正直一人でだとどこに行くのか見当がつかないかも……。

「ウン『ゆりかもめ』を使えばね、行ってみる?」

「ハイ! 行ってみたいです」

 お台場……彼が勤めているところでもあるし、たまにテレビでみたことある。帯広にいるときはすごく近代的な街だというイメージがあったけれど、実際には行った事がまだない。


「これが『ゆりかもめ』ですかぁ……漫画に出てくるような汽車ですねぇ」

 人のいっぱいいる新橋駅には、SFアニメにでも出てきそうな汽車……いや電車が横付けされている。

「ウン、新交通システムって言われているね、その理由はというと……ほら」

 彼は、明理とはぐれないように手を引き運転席に向う。

「あれぇ? 誰も乗っていないような、というよりも運転席にまでお客さんが乗っていますよ? 大丈夫なんですか?」

 運転席には小さな子供やそのお父さんであろうお客さんが鈴なりになって発車を待っている。

「ハハ、大丈夫、このゆりかもめは全部の電車が無人運転なんだ」

 無人運転……本当にSFチックね?

「さぁ、俺たちも乗ろう」

 彼はさっきからあたしの手を握ってくれる……手袋越しに彼の体温があたしの手に伝わってきてとても暖かい。


「ホエェ〜、想像していたよりすごいかも……」

 首がもげてしまいそうなまで顔を上げその光景を見入る。

「十年ぐらい前まではここには何もなかったのに、この変わりようはすごいよね?」

 彼も、その光景を見入る。

「はいぃ……すごいです」

 明理は口が開くとその台詞しか出てこなくなっている。

 高いビルは見慣れたけれど、ここにあるビルは全部個性的な格好をしている、真ん中に玉があったり、全面ガラス張りだったり……。

「さてと、まずはどこに行こうか」

 彼が明理の顔を覗き込むと、明理は笑顔を浮かべる。

「ハイ、まずはあそこです!」

 明理が指差したのは玉のついているビル。フジテレビ本社だった。


「あは……可愛いですね、フジテレビのマスコットですよね?」

 明理は入口に置かれているマスコットの「ラフ君」の頭を撫ぜる。

「さて次です……エスカレーターで上に行くんですね?」

 明理は彼の手を引きながらどんどんと先に進んでゆく、彼は苦笑いを浮かべている。

「ウァ〜、ここが玉の真下ですねぇ……近くで見ると大きいなぁ」

 明理は再び首がもげそうな勢いで上を見上げる。

「この球体展望台はね、下で作られて、徐々に上に上げていったんだって会社の人が言っていたよ、見て見たかったよ」

 ヘェ、そうなんだ、どうやってあんな上に作ったのか不思議だったけどちょっと納得。

「ここでチケットを買って上に行こう」

 彼はチケット売り場でチケットを買う。

「ハイ……でも寒いですね?」

 チケットを買う列に並ぶと風が頬を刺してゆく。

「ウン、海に近いし、これだけ大きなビルが並んでいるから風が抜けるんだろうね?」

 確かにそうかも、風がさっきより全然強い。

「そちらのエレベーターでどうぞ」

 チケットを買う頃には既に二人の体は冷え切っていた。早く暖かいところに行きたいそんな気持ちだけが二人を襲っている。

「ハァ……やっと暖かくなりましたぁ」

 球体展望台につき、暖かな空気に触れると自然に二人の顔に笑顔が浮かぶ。

「ウン、手が冷え切っちゃって……」

 彼が手をする。

「そうなんですか?」

 明理は無意識に彼の手を取る。その手は本当に凍えていてまるで氷を触っているみたいに冷たくなっている。

「本当ですねぇ……やっぱり手袋をしたほうがいいですよ」

 明理はその手を愛しそうに両手で包み暖を与えるようにぎゅっと握る。

「あ、明理……」

 彼は照れたような表情で握られている手を見つめている。


「あぁ、あれが『レインボーブリッジ』ですね? やっぱり大きい橋です、こっちに来てはじめて生でみました、『十勝大橋』より全然大きいです」

 比べるものが違いすぎるかなとも思うけれど、でも大きくて綺麗な橋。

「夜見ると綺麗だよ、ちょっとロマンチックな感じがするかもしれないなぁ」

 彼は苦笑いを浮かべながら明理を見る。

「夜景ですかぁ……クリスマスの時とかはすごいでしょうね?」

「すごいなんていうもんじゃないよ! カップルだらけで他にはいないといっても過言じゃない、仕事帰り大変だったんだよ、ラブラブな連中ばかりで……俺は仕事で」

 彼は力説するように拳を握る。

「ウフ、そういえば言っていましたね? クリスマスの日帰ってきてぶつぶつ文句をいって機嫌悪そうでしたものね?」

 あの日は、彼は残業になり帰ってきたのは夜遅かった。

「でも、帰って来て明理がいてちょっと心が安らかになったんだよ、一人だったらきっと暴れていたかもしれない」

 物騒な事言わないでくださいよぉ。

「ほら、富士山が見えるよ」

 彼が移動した先の窓から明理に声をかける。

「本当ですか? あぁ……本当だぁ……初めて見ました、生富士山」

 きれいな稜線を描いている富士山がまるですぐ近くにあるかのように見える。

「生富士山って……東京でも冬になると空気が綺麗になるらしくたまに見えるんだよ、でもここまで綺麗に見えるのは珍しいかもしれないな」

 彼の顔が明理の隣に来る、今にも頬っぺたがくっつきそう。明理の顔が一気に赤くなる。


「ここからレインボーブリッジが一望ですね? 向こうには東京タワー……東京って言う風景です、まるでガイドブックを見ているみたい」

 フジテレビを後にして歩くと正面にレインボーブリッジと東京タワーが見える。風が冷たいけれど、本当に東京の風景が今目に飛び込んでくる。

 高校時代には予想もしていなかった光景、まさかあたしが今この光景を目の当たりにしていて、そして隣にはあたしの……彼がいるなんて。

「ウン、でも寒いよ」

 彼は再び手をポケットに突っ込み寒そうに肩をゆすっている。

「ウフフ、寒がりさんですねぇ……じゃあこうしてしまいましょう」

 明理は周りにいるカップルをみて同じ行為をする。

「あ、明理?」

 彼の顔が一気に赤くなる。

「こうすればいくらかは暖かいですよ」

 彼の腕に明理は抱きつく。温かい彼の体温が腕を通してあたしの体に伝わってくる。

「あ、アハハ……ウン、そうかもね?」

 赤い顔をしている彼、きっとあたしもそうだろうさっきから顔だけが暑いぐらい。

「エヘ……あれ? あれは『自由の女神』?」

 明理は目の前にある像を見て首をかしげる。

「ウン、九十八年から九十九年まで行われた『日本におけるフランス年』にあわせてフランスから来たんだ、今ここにあるのはレプリカなんだけど、すっかりこのお台場の観光スポットになっているんだ」

 観光客らしい人たちがみんなカメラを構えその姿を写真に収めている。

「そうですかぁ……でも自由の女神というともう少し大きなものを想像していたけれど、意外に小さいんですね?」

 明理はちょっと苦笑いを浮かべながら彼の顔を見上げる。

「ウン、これがフランスにある自由の女神と同じ大きさらしいよ、全長は十一メートル、どうしてもアメリカにある自由の女神と比べちゃうせいなのかな?」

 彼も苦笑いを浮かべている。


「おしゃれですよね?」

 自由の女神の所から建物の中に入るとそこはショッピングセンターになっている。

「そうだね、ここ『アクアシティーお台場』は日本最大のショッピングモールになっている、店内には映画館や本屋なども入っていて大抵の物がそろうみたいだよ」

 店内はブティックが目に付くものの、おしゃれな小物を売っているお店や、おもちゃのようなものまで売っている。

「可愛いですぅ、この洋服」

 あたしだって女の子、可愛い洋服は大好き! あぁ、この洋服可愛いなぁ、これも良いし。

 明理はお店を見つけるたびの店先に下がっている洋服に手を伸ばしたり、マネキンが着ている服を眺めたりしている。

「ハハ、明理も女の子なんだねぇ」

 彼はそんな様子を楽しそうに眺めている。

「も、ってなんですかぁ、あたしだって女の子なんですから好きですよ、高校時代だって友達と駅前の『長崎屋』でよく洋服見たりしていたんです」

 品揃えはちょっと違うかもしれないけれど。


「次は?」

 一旦外に出て、ウッドデッキに変わったモールを歩く。

「今度は『デックス東京ビーチ』だよ、デックスというのはデッキという意味なんだ、だからここの足元がウッドデッキになっているということ」

 波止場のような雰囲気のここも観光客がいっぱい歩き、おしゃれなオープンテラスでお茶を飲んでいるけれど、寒くないのかなぁ。

 明理は苦笑いを浮かべながらその光景を見る。

「ここは、雑貨がいっぱいですね? このカエルさんの人形可愛い……」

 再び明理は店内を右左の進路を変えながら歩く。


「ふえぇ〜、これはすごいですねぇ」

 エスカレーターを降りるとそこは、

「まるで香港です……といってもテレビでしか見たことないんですけれど」

 派手なネオンに、中国語の看板、雑然とした雰囲気はまるで香港の横丁に紛れ込んでしまったような感覚ね? まさかエスカレーターに乗ってタイムスリップなんていうことはないだろうけれど。

「ウン、ここは『台場小香港』といって、香港の街並みを再現したフロアーになっているんだ、本当に香港の街並みだよね?」

 彼も周りを見回している。どこからともなく聞こえてくる中国語、お香の香りがしてなんだか周りにいつお客さんも中国の人に見えてきちゃうかも。

「ヘェ、ここは中国の雑貨や、食料品なんて売っているんですね? あっ、中華スープの粉末かぁ……それに……フムフム」

「明理、こっちはカンフーだって」

 ブルースリーが着ていたような広東服や……あぁチャイナドレスもあるぅ、可愛いぃ。

「チャイナドレスかぁ……」

 彼はそう言いながら明理の事をちらりと見る。

「な、なんですか?」

 彼の目がちょっといやらしく見えるかも。

「ハハ、似合うかもなんて思ってさ」

 彼はそう言いお店を後にする……そうですかねぇ、でもあれって体型のいい人じゃないと似合わないと思いますよ?

 飛行機の音が響き渡る店内を二人はお店を冷やかしながら歩き再びエスカレーターでさらに登る。

「ここはレストラン街になっているみたいですねぇ……いい匂いがします」

 お香の香りから、美味しそうな香りが充満するフロアーの紛れ込むと明理のお腹の中で何かが暴れだしているような衝動に駆られる、彼にしてもそう、さっきから何かそわそわしているみたい。

「腹減ったかも……さっき弁当食べたばかりなのに……」

 彼は照れくさそうにそういう。

「ウフ、実はあたしもそうなんです、さっきからこの匂いにお腹が反応しているんですよぉ」

 何か食べに行きましょ? そんな気持ちで明理は彼の腕にしがみつく。

「ここは?」

 階段の下に入り込むと、何か大仰な石が赤い箱の上に置かれ、カップルがその石を触って歓声を挙げている。

「エェっと、何々……『この姻縁石は、未婚者はよい伴侶、既婚者は家庭円満や子宝に恵まれるといわれ、吉日には多くの参拝者が訪れる石。願いをこめてさわれば想う相手と結ばれ、カップルでさわると愛が結ばれると言い伝えられています』だって……本当かなぁ」

 彼はそう言い、その石を見る。

「ウフ、気の持ちようって言うじゃないですか、触って……見ませんか?」

 明理はちょっと躊躇しながらも彼の顔を覗き込む。

「そうだね、良い伴侶が見つかりますようにって」

彼はそう言いながら石を触る。

「って、どういう意味なんですか? 伴侶って、奥さんの事ですよ? 見つかりますようにって言うことはあたしじゃ……って」

 明理は途中までそういうと自分の言った事に対して顔を真っ赤にする。

 奥さん……あなたの未来の奥さんは誰なのかな? 綺麗な人? しっかりしている人? ううん、きっとそこにはあたしがいるはず……。

「どうしたの?」

 うつむく明理に彼が顔を向ける。

「いぃえぇ、なんでもないです、さぁ、お祈り終了、何か食べに行きましょ?」

 明理は慌てたようにその場を離れる、彼はその後ろから首をかしげながらついて来る。


「ここにしませんか? 『陳麻婆豆腐』ですって、本場の四川の味です」

 明理はそう言いながらお店の中に入ってゆく。

 麻婆豆腐って好きなの、今度あなたにも作ってあげたいな? だったら本場の味を知っておきたいし。それに本場って言う言葉に弱いの。

 店内に入るとそこはまるで中国の屋台のようになっている。

「お待たせしましたぁ〜」

 店員さんが湯気をたたえながらそれを持ってくる。

「美味そうだなぁ……ちょっと辛そうだけれど大丈夫?」

 彼は明理の顔をちょっと不安そうに見る。

「大丈夫です、辛いのは嫌いじゃないし、何よりも勉強ですから」

 そう言いながらも内心は不安に駆られる……レンゲにそれをすくい、明理は首をかしげる。

 あれ? 麻婆豆腐というととろみかかっているイメージだったけれど、これはほとんどそれがない? なんだか普通のスープみたいね?

 明理が一口それを口に含むと目から涙がこぼれる。

「やっぱり辛いよね? これでも日本向けにしているって言っていたけれど……」

 彼も目尻に涙をためているみたい。

「ハイ、そもそも四川料理世界で『麻(マー)』とは、『甘い』とか『辛い』と並列に使われ、『しびれる』という意味の味をあらわすみたいです。日本では、陳健一のお母さんが日本人向けに山椒を抜いて売り出してから一般に普及し始めたという話ですね。だから日本麻婆豆腐には山椒が入っていないんです、本場四川でもっとも有名なのは、成都に本店のある陳麻婆豆腐店。自称『麻婆豆腐発祥の店』。店名は、あばた(麻)面の陳婆さんの豆腐店の意味。だからここでの『麻』は『あばた』の意味みたいですよ?」

 以前読んだ本に書いてあった事を思い出しながら明理は彼に説明する。

「ヘェ、そうなんだぁ……でも辛い、唇が腫上がっているかも」

 彼はそう言いながら水を一飲みする。


「ハァ、美味かった……最初は辛いと思ったけれど慣れてくるとどんどん入ってくるね? お代わりしちゃおうかと思ったよ」

 彼は満足げにお腹をさする。

「ウフ、本当です、美味しかったぁ……やっぱり東京はすごい街です、色々なのもが食べられる街、北海道の物も食べられれば、中国のものまで食べられるんですからどこにも行かなくてすんじゃいますね?」

 明理がそういうと彼は苦笑いを浮かべる。

「でも、やっぱり地元の方が美味しく感じるよ……本場がやっぱり一番なんだよ」

 そういう彼の横顔はちょっと寂しそうだったかも。


「あれぇ? こんなところで何しているのよぉ」

 開運グッズなどを眺めているといきなり彼の肩がたたかれる。

「ん? アッ……亜希子ちゃん」

 亜希子ちゃん? 振り向き彼と一緒に振り返ると、そこに立っているのはロングヘアーなスレンダーな女性……大人の雰囲気を持った女性が驚いた表情で彼を見つめている。

「なに? デートだったの?」

 亜希子と呼ばれた女性は彼の肩越しに明理の事を見る。

「デ、デートだなんて……」

 彼はしどろもどろになっている……亜希子、どこかで聞いた名前ね?

 明理は彼の言った名前を必死に思い出そうと記憶をひっくり返しているが、すぐにその答えが見つかる。

「はじめまして、あたし速水亜希子、彼の会社の同僚よ、後もう一人……あぁ、やっと来たわね? 鮎美ぃこっち!」

 亜希子が大きく手を振る先には小柄な女性がとことこと小走りにやってくる。

「ハァ、あっちゃん歩くの早すぎ! もっとあたしの歩幅にあわせてくれたっていいじゃない、息が切れっちゃったわよ……って、あれ?」

 小柄な女性は、ほっと一息つくと、彼を見てキョトンとした表情になる。

「鮎美は歩くの遅すぎだよ……彼女が平林鮎美、共に彼と同期なの」

「はじめまして、平林鮎美です、よろしくお願いします」

 ペコリと頭をさげる鮎美は、年上という感じがしないほどの童顔でメガネをかけ、無造作に結わき上げた髪の毛が印象的だった。

「はじめまして、原田明理といいます」

 明理も深々と頭をさげる。

「これはご丁寧に……」

 鮎美は再びペコリと頭をさげる。

「明理も鮎美ちゃんも、お見合いしている訳じゃないんだから……」

 彼が苦笑いを浮かべながら二人を見る。

「ハハ、それもそうですねぇ」

 明理もその台詞に頬を染める。

 その様子にちょっと表情を曇らせる人物がいたが、明理にはそれがわからなかった。

「ねぇ、明理ちゃん、あなたは彼の彼女なのかな?」

 かっ、彼の彼女?

 明理の頭にクエスチョンマークが浮かび上がり、うつむく。

「フーン、隅に置けないわね? うちのホームグラウンドで堂々とデートなんて」

 鮎美がメガネの奥からちょっと冷やかすような目で明理たちを見る。

「……両方ともA・Hさんですねぇ」

 明理はそう言い、二人を眺める。

一人は、大人っぽい雰囲気を持つA・H、亜希子……速見もう一人は、幼さの中にも可愛らしさのあるA・H、鮎美……平林。どちらかが彼にあのラブレターを書いた人物。

明理の直感がそう推測する。

「お前達は何でこんなところにいるんだ? 今日は休みだろうが」

 彼はちょっと後ろめたい事でもあるのかしら、あたしに背を向けてそういっている。

「別に、休みだからこうやって普段遊べないところにきているだけ……そこでまさか会社の同僚の彼女に会うなんて思ってもいなかったけれど」

 鮎美は嬉しそうな表情で彼と明理を見比べるが、亜希子はちょっとしんみりした表情を浮かべている。


「ねぇ、明理ちゃんは彼と付き合ってどれぐらい?」

 亜希子は明理の顔を覗き込む。

「へ? えぇっと……一昨年の夏からだからもう三年ですか?」

 明理が指折り数えて答えると、亜希子は不意に微笑む。

「フーン、三年も付き合っているんだぁ……いいなぁ、結婚するの?」

 け、け、け、結婚? 明理の顔に全身の血液が集中したのか真っ赤になる……いや赤くなりすぎて青紫っぽい気もするが。

「け、け、結婚……ですかぁ?」

 思ってもいなかった台詞が頭の中で渦巻いている……結婚、彼と一緒になるっていうことよね? 彼が旦那さんになってあたしが奥さんになって……毎日ご飯作ってあげて、いずれは子供ができたりして……いやだぁ。

 明理は顔を赤くしたり蒼くしたりクネクネとその場で動き回る。

「なに言っているんだよ、まだ……そんな」

 彼はそこまで言うと言葉を失う。

「アハハ、なに照れているんだろうね、明日はみんなに言いふらしちゃお」

 亜希子はそう言いながら二人に背を向ける。

「やめてくれ! たのむよぉ」

 彼は懇願するように亜希子と歩みに手を合わせる。

「ヘヘ、じゃあ今度ランチで手を打ちましょうかぁ……そうしないとスキャンダルに飢えているOLさんにこの話題を振りまいちゃいますよぉ」

 鮎美はそう言い意地の悪い笑顔を彼に向ける。

「……わかった、ランチにデザートをつける」

 彼は観念したかのようにうなだれ鮎美の提案を受け入れると満足したように二人に手を振りその場から去って行く。


「亜希子さんでしたっけ?」

 場所をお台場海浜公園に移す、正面にはレインボーブリッジが優美な弧を描いている。

「うん?」

 砂浜を歩きながら明理が言った言葉に彼は首をかしげる。

「ハイ、髪の毛の長い女性……」

 さっき会った髪の毛の長い女性。

「あぁ、速水亜希子、同期だから好き勝手なことばかり言いやがる……まさかここで会うとは思わなかったなぁ」

 彼は苦笑いを浮かべているが、あたしには分かった……あなたにラブレターをあげたのはきっと彼女に間違いない。

「綺麗な人ですね?」

 あなたに伝えるべきなのかしら?

「あぁ、あれでもう少しおしとやかだったらいいのにな?」

「あぁ、今『あぁ』って言いましたね? 否定しませんでした……」

 明理は彼に振り向き頬をプクッと膨らませる。

「いや、今のは世間一般的に言っただけで……俺は……」

 しどろもどろになっている彼、分かっているけれど、でもちょっとすねてみていいですか?

「おれは?」

 明理は彼の顔を覗き込む。

「俺は……俺の好きなのは明理だけだよ」

 顔を真っ赤にしている……ウフ、意地悪しすぎたかしら?

「……あたしもです」

 明理はそう言い彼に抱きつく、火照った顔に冷たい海風が心地言い。


=A Happy Birthday=

『今日誕生日の有名人は『中島みゆきさん』『池田満寿雄さん』『北大路欣也さん』などです』

 テレビからは、今日誕生日の有名人の名前が挙げられている。

「結構いるのね?」

 明理はお風呂の掃除を終わらせ、朝食の後片付けをしながらそのテレビを見ている。彼は既に出社して部屋にいるのは明理だけ。

『今日は北海道で行われているちょっと幻想的なイベントをご紹介します』

 何気なく見るテレビには『ハナック』が映し出されている。

「これは……『彩凛詩(さいりんか)』……もうそんな時期なんだぁ」

 明理は思わずそのテレビに釘付けになる。

『凍てつく白銀の丘をステージに、色とりどりの光が音に合わせ揺らめいてまるでファンタジーの世界に舞い込んだかの様に幻想的な光に酔ってしまいそうです。月の日は月明かりと、雪の日は舞い降りる雪と共に、日々違う表情を見せてくれるでしょう』

 寒そうにレポートをする女性レポーターの後ろにはライトアップされたハナックと、色とりどりのオブジェが幻想的に輝いている。

「……十勝が丘公園……ハナック」

 明理の目から涙がこぼれる。

 またあなたと行きたいな……。

「いけない時間!」

 テレビを慌てて消して部屋を出てゆく。


「明理ちゃん誕生日おめでとう」

 バイト先の『喫茶とれいん』のマスターが明理に大きな包みを渡す。

「これは?」

 明理はキョトンとしてマスターの顔を見る。

「誕生日プレゼント、美味しいお菓子をもっと作ってもらいたいからね、お菓子作りの道具の詰め合わせだよ、使ってね?」

 マスターはウィンクして明理の肩を叩く。

「はい、ありがとうございます」

 目が潤む。

「あとこれは若から……今日仕事で寄れないからって朝置いていったよ」

 皆さん……。

「本当にありがとうございます」

 明理はこぼれる涙を拭いきれなくなっていた。


「良かったね? みんな明理のことが好きなんだね?」

 彼は背広を脱ぎながら明理に声をかける。

「はい、嬉しいです」

 明理は彼の脱いだ靴をそろえながらにっこりと微笑む。

「じゃあ、俺からのプレゼントだね……こっちに来て」

 彼は上着を脱いだだけの格好をしている。いつもなら真っ先に外すネクタイもしたまま、顔もちょっと緊張しているみたいだし……?

「はい?」

 明理はちょこんと彼の指定したソファーに座る。

「俺からはこれ……後これも」

 彼が明理に手渡した包みは手の平に乗るほどの大きさのものと一枚の封筒だった。

「ありがとうございます……開けていいですか?」

 明理はにっこりと微笑みながら彼の顔を見上げるが、彼のその表情はまだ緊張している。

「……エッ? これ、指輪……」

 包装紙を開けてでてきた箱の中にはシルバーリングが輝いている。

「ウン……」

 驚きの表情を浮かべたままの明理に向かって彼は照れ笑いを浮かべる。

「あのさ……明理がずっとこっちにいてくれてすごく嬉しいんだ、でも、ずっとこのままじゃいけないと思って……」

 彼はそう言いながら封筒をあける、そこには飛行機のチケットが入っている、行き先は……帯広。

「エッ?」

 どういう意味なの? あたしに帯広に帰れと言うことなの?

「……手を出してくれるかな」

 そういう彼に無意識に明理の手が出される。彼はその明理の左手を取る。

「俺からの誕生日プレゼントは……こうやって使ってくれるかな?」

 彼はプレゼントの指輪を明理の左手の薬指にはめる。

「!」

 明理の目から涙が止め処もなくこぼれおちる。

「俺の気持ちはこれだけ……お父さんにも報告に行きたい……一緒に来てくれるかな」

 明理は何も言わずにうなずき、彼の胸に飛び込む。温かい胸、すべてを包み込んでくれるあなたの温もり、そのあなたの胸のポケットにはあたしが渡された封筒と同じ封筒が差し込まれている。

 彼とずっと一緒にいられることがあたしの幸せなのよ、お父さん。


=エピローグ=

「さ、さ、寒いぃ〜」

 久しぶりに降り立った北の地……到着ロビーからバス乗り場に行く間に彼は何度となくこの台詞をはく。

「ウフ、確かに寒いですね? でも懐かしい寒さです!」

 明理はそう言いながら彼の腕に抱きつく……以前はこんな事をするとは自分でも思わなかった、でも、彼にすがりつく嬉しさ、それに暖かさはもう忘れることができない。

「明理は平気……みたいだね」

 彼はそう言いながら葉をがちがちと鳴らすが、明理は笑顔を浮かべながら彼の顔を見る。

「はい、生まれ育った街ですから!」

 帰ってきた……あたしの故郷。


「あっ……」

 小さく声を上げる明理の視線の先には、見覚えのある家が一軒立っている。もう既に誰かが入居しているのであろう、軒の下には洗濯物が干されている。

「……明理」

 心配そうな表情で彼が明理の顔を覗き込んでくる。

「エヘ、大丈夫です……でも『畑』は今住んでいる人が大切にしてくれているみたいでちょっと安心しました」

 明理の視線は以前あった『家庭菜園』に向く。そこにはちゃんと手入れされているのであろう、ちゃんとビニールが張られ、キュウリなどの木も元気そうに伸びている。

「アァ、きっと明理の熱意が次の人に継承されたんだろう」

 彼はそう言いながら明理の頭に手をのせる。

「……はい」

 明理の目から不意に涙がこぼれおちる。

 数年前まではあそこでお父さんと一緒に住んでいた、酔っ払って帰ってきて『客人だぁ』といってカエルさんをつれてきたときのことや、彼をつれてきた時のことなどをまるで昨日の事のように鮮明に覚えている。今は違う人があの場所に住んでいる……なんだかちょっと切ない感じがする。


「お花と、お線香をお願いします」

 明理の菩提寺の社務所で彼がお線香を受け取る。

「お父さん……」

 墓前に花を手向け、彼が続いてお線香を供える。

「……お父さん、お母さん……心配かけちゃってゴメンね? でも、あたしは今凄く幸せだよ。だって……彼がいてくれるから、彼があたしの事を凄く励ましてくれるから、ちっとも寂しくない……だって……だって」

 明理の頬に一筋の涙が伝う。

「お父さんが言っていたでしょ? あの時『どうすればいいかじゃない、お前がどうしたいか』って、今あたしがしたいこと……それは、わかってくれるよね?」

 明理は左手の薬指に光る指輪を墓前に掲げる。

「……賛成してくれるよね? お父さん……お母さん」

 そっと明理の肩に彼が手を置く。

「原田さん……いや、今日からお義父さんと呼ばせていただきます、明理さんは俺の手で幸せにします、約束はできないかもしれませんが努力します……」

 彼は苦笑いを浮かべながら明理を見るが、その目は真剣そのものだった。

「だから……明理さんを僕にください」

 明理の見えている風景が一気に滲む……あなたはあたしをそんなにまで思ってくれていたのね? あたしをずっと受け入れてくれるのね? それだけであたしはとても幸せです!

 明理は隣で合唱している彼の顔を見ながら得も言えない幸せ感にとらわれていた。


「必ずお墓参りには来るから心配しないでね?」

 明理はそう言いながら墓前から立ち上がり、背を向ける。

「明理」

 不意にそう呼ばれたような気がして明理は振り向くがそこには誰もいない。

「幸せそうだな? 仲良くやれよ!」

 お墓の方からそう言われているような気がする。

 気のせいかもしれないけれど、お父さんの声のような気がする、ウフ、お父さんたら祝福しているのかしら?

 視線の先にはまだ早い雪割草が顔を覗かせている。

「ウン、幸せになるよ!」

 そういう明理の表情を彼がキョトンとした顔で見つめている。

「どうかした?」

 そういう彼に飛びつき、明理は満面の笑顔を彼に見せる。

「ううん、ただあなたと一緒にいるのが嬉しいだけです」

Fin