第十話 去りゆく街並み
=八月十七日= さらば、北の街
「もういくのかい?」
妙子が寝ぼけ眼で陽平に声をかけて来る。それもその筈、時間は六時を少し回ったところで、普段であれば妙子はおろか、自分だってまだ寝ている時間だ、しかし今日はこの街を離れる日。
「はい、本当にお世話になりました……これからも色々とお願いします」
深々と妙子に頭を下げる、当然最後の『お願いします』は休暇を終える以上相手は陽平の取引先相手となるわけだから、社交辞令が含まれている。
「――なに、この程度でうちのブランドをお宅の会社で扱ってもらえるなら、いくらでも泊めてあげるさ、安いものだ」
妙子はにやりと笑い陽平を見る。
「はは、だったら良い商品を持ってきてください、じゃあ俺はこのへんで行きますので、皆さんによろしくお伝えください」
陽平はそれだけいうと荷物を持ち上げ家を後にする。
「いいのかい? 雪音たちを起こさないで」
妙子はそれまでの表情を変え、誰がいるわけでもない部屋の中に視線を向ける。
「えぇ、みんなまだ寝ていますでしょ? 起こしたら可愛そうですよ……」
それに会うと分かれるのが辛くなるから……なんて、いくら相手が妙子さんでもそこまでキザな事が言えるわけが無い。
「そうかい……まぁ今度会う時はお互いどんな立場で合うことになるのかな?」
諦めたように言う妙子の一言がなぜか陽平の胸に刺さる。
「ハァ、ビジネス以外でまたお会いしたいですね?」
陽平の一言に、妙子はそれまでの心配そうな表情を変えて嬉しそうに目を細める。
「だといいね? 東京まで気をつけて帰るんだよ、もうあの娘を泣かすような事にはならないでほしいからね?」
妙子の一言に陽平の頬は赤く染まるが、力強く首を縦に振る。
「ハイ、僕も見たくありませんよ」
キュキュキュ……ブロロロ……キーを捻ると車の発動機が元気よくうなりあげ、陽平の答えに満足したような顔をしている妙子は笑顔で見送ってくれた。
さてと、帰るぞ……東京に……。
「よし!」
走り出した車のバックミラーから、思いの詰まったそのお店兼自宅が徐々に小さくなりやがて視界から消えてゆく。
「よかったのかな? 何も言わないで出てきちゃって」
フェリーターミナルに着いた頃、空を見上げる陽平の視界には久しぶりというぐらいの雲が覆っていた。テレビで言っている渡島地方の今日の天気予報は曇り、本州ではきっと雨が降っているだろう。
陽平は車の中でまるで未練を残すかのように函館の天気予報を見ている、が、その内容はまったく頭に入ってきていない。
「雪音ちゃんは、一体どういう風にとらえてくれたのだろう……」
いつもなら必ず朝に飲むコーヒーを入れる事無く、ただついているだけになっているテレビに視線は向いているが考えている事はまったく違う事だった。
『時刻は六時四十分です、続いて列島の話題から……』
テレビでは日本で昨日起こった事件やニュースを流している。
とりあえず、個人的な重大ニュースは昨夜のあの一件かな?
昨夜陽平は、雪音に思わず告白してしまったが、それ以上の事は二人の間になかった、だた、雪音は優しい笑顔を見せながら『ありがとう』と一言呟いただけだった。
「はぁ……ひと夏の想い出と言うわけじゃあないだろうけれど」
陽平はため息をつきながら再び車のセカンドシートに横になる。
あと三十分でこの街と離れなければいけないのか、たかが数日いただけでこんなにも思いが募る街も珍しいかもしれないな。
既に、陽平の目の前には白い船が着岸しており、受け入れる準備をしている。
あれに乗ったら、俺の夏は終わる。
そういう気持ちになったとたん、陽平の目頭が熱くなってきた。
――終わり、夏が終わるのかぁ……なんだかちょっとセンチになっちまったかな?
「ふう……」
零れ落ちそうになるものを堪えるために陽平が目をつぶると、
ドンドンドン……。
窓をたたかれる音で陽平は目を開けて、むっくりと体を起こしてドアを開く。
「陽平!」
途端に陽平の胸に小さい体が飛び込んでくる。
「えっ?」
陽平は自然とその小さな体を受け止める、いや、受け止めなければいけないという衝動に駆られたからかもしれない。
「もぉ、ちゃんと挨拶ぐらいしていってよねぇ、もうちょっと遅かったら、また後悔するところだったじゃないのよ!」
その小さな体は柔らかく暖かい。
「はい、すみません!」
シャキッと背筋を伸ばすのは条件反射なのだろうか?
いきなり抱きつかれ、開口一番いきなり文句を言われるが、その響きはなんとなく心地がよく、目の前にある長い髪の毛からはシャンプーの香りが漂ってくる。
「雪音……」
陽平の体にまとわり付いている小さな体、小さな頭は雪音で、その大きな瞳に涙をたたえながら恨めしそうに陽平の顔を見上げている。
「確かに潔いかもしれないけれど、声ぐらいかけてくれたっていいじゃないのよ!」
膨れっ面で陽平を見上げる雪音のその表情は出会った時と同じ印象。
ハハ……俺と同い年とは思えないよな?
苦笑いを浮かべる陽平に対してさらに雪音は頬を膨らませる。
「何よ……何か変?」
ハハ……むくれた顔も可愛いときたもんだ……これじゃあ何のために声をかけないでお店を出てきたのかわからないじゃないかぁ……。
「いや、変じゃないよ……でもなんだってこんな所まで」
「お見送りに決まっているじゃなぁ〜いぃ!」
背後からは亜美が口をニィ〜と横に広げながら顔を出してくる。
「亜美ちゃんもわざわざ来てくれたんだ」
苦笑いのままで陽平は亜美に顔を向けるが、亜美の顔はさらに冷やかすようにジロジロと陽平の顔を見つめてきて、それに陽平は首を傾げる。
「まったく……いつまで二人で抱き合っているの? 一応ここだって人の往来があるのよ? 見ているこっちの方が恥ずかしくなってくるわよ」
心なしか赤い顔をしている亜美の視線に、二人は慌てて飛びのき、勢い余って陽平は車のシートに頭をぶつける。
「あ、亜美!」
真っ赤な顔をして雪音が声を上げるがその表情から迫力は無く、冷やかした表情のまま亜美は雪音の脇を突っついている。
「ヘヘェンだ、これぐらいいいでしょ? あたしだって初恋の人が東京に帰っちゃうっていう瀬戸際なんだからぁ」
亜美の思わぬ一言に雪音は唖然とし、陽平はまるでキツネにつままれたような間の抜けたような顔をしている。
「あ、亜美あなた……」
呆気にとられている雪音に対して亜美はウィンクする。
Yukine&Ami またね!
「何で起こしてくれなかったのよ!」
お姉ちゃんちょっと怖いかも、般若のような顔でお母さんに食って掛かっている。こんな怖い顔をしたお姉ちゃんを見たのは、もしかしたらはじめてかも……。
雪音の目はつりあがり、手は拳を握り締めて、今にも殴りかかるのではないかといわんばかりの勢いで妙子に詰め寄っている。
「まぁ、お姉ちゃんそんなことを言っている場合じゃないでしょ?」
亜美がその場を取り繕うように二人の間に割って入る。
「そうだった!」
我に返った雪音は、そそくさと台所に消えるとその様子を見て妙子はホッと一息つく。
「怖かった、あの娘があんな顔をするとは思わなかったよ」
「お母さん、本当ならあたしもそれに参加したかったぐらいだったんだけれど……本当に何で起こしてくれなかったのよ!」
亜美はキッと妙子を睨みつける。
「だっ、だって、彼が出て行ったのは五時半ぐらいだよ、それに陽平君そっと行くって言っていたし、それを尊重しただけで……ゴメン」
「お姉ちゃん鍵!」
雪音の軽自動車に火が入る。
今日はこの車をわたしが運転する、昨日までは彼が運転してくれていたこの車を。
シートの位置は恐らく陽平の体格に合わせられたままだったのだろう、座るとハンドルの位置が遠く感じ、まるでその距離が陽平と雪音の距離を象徴しているように感じる。
そんなの嫌だ!
「間に合うかな?」
車は店を出ると函館湾に架かるともえ大橋を渡り、まだ車通りの少ないデコボコ道を走る。助手席ではしっかりとシートに座りながら亜美が雪音に声をかける。
「まだ六時四十分、大丈夫間に合うはず……間に合ってくれないとまた後悔する、もういや、後悔なんてしたくない、何もしないで後悔するなんて」
亜美が見つめる雪音の横顔には自信にも似た表情が浮かんでいるが、しかし、その節々に見える焦りの色は隠せないでいる。
「何でこんな時間で混んでいるのよ!」
フェリー埠頭に行くための国道二百二十七号線に入ると、途端に交通量が一気に増え、瞬く間に道路が渋滞している。どうやら早朝の道路工事をやっているようだ。
も〜イライラするわね! こんな時間に工事なんてやらないでよ!
雪音は親指の爪を噛みながら恨めしそうにそのテールランプの列を睨みつける。
「お願いもう少し前へ、あと一メートル動いてちょうだい」
フェリー乗り場の看板が見え、曲がり角の手前で前の車が止まってしまうと雪音はそうつぶやきながら前の車に手を合わす。
もう少し……。
その願いが通じたのか前の車はソロソロと前に進み、道が開ける。
「いける!」
雪音は、わずかに開いた隙間に無理やり車を突っ込む。
おっ、お姉ちゃん! ぶつかるよぉ〜。
亜美が危険を察知し反射的に目をつぶる、が衝撃はない、どうにか無事にすり抜けたようだ。
お姉ちゃんいつの間にこんなに車の運転上手になったの?
「陽平の車は?」
雪音は車のハンドルを動かしながらも特徴ある陽平のその車を探すが、大型トラックなどに視界が塞がれなかなか見つけだす事ができない。
「お姉ちゃん?」
亜美はそんな雪音の呟きに驚いたような顔をして、真剣な顔をしてキョロキョロとしているその横顔を見つめる。
陽平って、お姉ちゃん? なるほどねぇ……ウフフ。
雪音の変化に、亜美は戸惑いながらも諦め顔を浮べていた。
「まどろっこしいわねぇ亜美、車止めるわよ!」
まだ、乗船はしていないようだ。車がたくさん止まっているもの間に合ったはず、でも彼の車はどこ? こうも大きな車があると、いくら彼の車が大きくても隠れてしまう。
雪音は車を止め、運転席から降りると小走りに陽平の車を探し出す。
「ちょっと、お姉ちゃん、待ってよぉ〜」
松葉杖をついている亜美は、助手席から思うように動けないでいるようだが、既に亜美の視界からは雪音の姿は見えなくなってしまう。
「お姉ちゃんの薄情者ぉ!」
亜美はそう言いながらも、顔は微笑んでいる。
なんだか羨ましいなぁお姉ちゃん……あんなに一生懸命に探しちゃって、あたしの方が恥ずかしくなってくるよ……可愛くって。
亜美はようやくの事で車から降りて松葉杖をつきながらターミナル内の駐車場の中でトラックの隙間から雪音と同じように車を探す。
「陽平の車は……」
雪音はトラックの合間から色々な車に視線を配らせる、すると列を成している車の中に昨夜まで自分の家に止まっていた車の姿を見つける。
――いた!
雪音は、その車を見つけると一目散に駆け出してゆき、カーテンが閉まり車内の様子が見えない車の窓を遠慮なく叩く。
ドンドンドン……。
こんなに叩いて彼怒るかしら? でも、
「ふわぁい?」
スライドドアが開き、そのドアの中から眠たそうな顔をした陽平が顔を見せると、長い間会っていなかった、そんな感覚にとらわれて雪音の心の中の何かが弾ける。
彼の顔がにじむ、涙が溢れてくる、だめ、こんな顔を彼に見せられない。
「陽平!」
思わず彼の胸に飛び込むと、その胸は大きくて暖かい……わたしのすべてを受け止めてくれるようなそんな気がする……いえ、きっと受け止めてくれる。
「雪音……」
彼は呼び捨てにしてくれる、わたしはずっと気が付いていたんだよ? 恵山に行った時からちゃん付けになって、そして、昨日からやっと呼び捨てにしてくれた……不思議と嫌ではなかった、むしろそうしてくれるのを待っていたような気がする、だってあなたに呼び捨てにされるのがこんなにも嬉しいんだもん。
陽平の大きな手が雪音の頭を撫ぜると、その一撫ぜごとに雪音の中にあった不安が一つ一つ消えていくようなそんな感じがし、雪音の顔が綻んでゆく。
「もぉ、ちゃんと挨拶ぐらいしていってよねぇ、もうちょっと遅かったら……後悔するところだったじゃない!」
雪音は顔を上げると意識的に頬を大きく膨らます。
「はい、すみません!」
彼は背筋を伸ばしながらも、わたしの事をしっかりと支えていてくれている……彼の手の重みが物凄く心地が良い……。
「……でもなんだってこんな所まで」
陽平は首をかしげながら雪音の顔を覗き込んでくる。
「お見送りに決まっているじゃなぁ〜いぃ!」
いつの間にか雪音の背後には、亜美が松葉杖を付いたままの格好で立っている。
「まったく……いつまで二人で抱き合っているの? 一応ここだって人の往来があるのよ? 見ているこっちの方が恥ずかしくなってくるわよ」
亜美のそんな冷やかしに陽平と雪音は慌てて飛びのく。
わたしったら……。
顔を真っ赤にしている雪音の顔を見ながら亜美は諦めたような笑顔を浮かべる。
「お姉ちゃんてば意外とだ・い・た・ん」
雪音の脇を突っつきながら意地悪い顔をする亜美。
ここで冷やかしておかないとね? あたしだって……。
「ヘヘェンだ、これぐらいいいでしょ? あたしだって初恋の人が東京に帰っちゃうっていう瀬戸際なんだからぁ」
へへ、言っておかないとね? あたしの気持ちも……。
亜美の一言に、唖然とした顔をしていた雪音だったが、徐々にその顔は姉のその優しい表情になってゆく。
「船の中で食べてね?」
慌てて作ったお弁当は昨日の残り物と、買い置きしてあった素材で何とか作りました。ちなみにお弁当箱はわたしが高校の時に使っていたやつで、戸棚をかき回していたら出てきた。昨日の夜あなた言っていたでしょ? 高校時代のわたし……今のわたしの気持ちはその時と同じかもしれないわね? 高校生の時のような淡い気持ち。
『お待たせいたしました、青森行き『びるご』ただいまから乗船となります』
ターミナルの駐車場に放送が鳴り響くと、列に止まっている車列が徐々に動き出し、係員が誘導を開始しはじめる。
「そうだ、雪音に渡しておくよ、これ」
陽平は慌てた様子でポケットからクシャクシャになった包みを取り出す。
「ごめん、渡しそびれちゃって……」
雪音は、その包みを受け取り手のひらにぎゅっと包み込む。
「ありがとう」
ついに前の車が動き出す。
「あっ……じゃあ、またね?」
陽平はハンドルを握ると、それを合図にしたように雪音は車から離れる。
またね……、そうサヨナラじゃない、だってまた会えるんだから。またね!
「お兄ちゃん! またね」
気が付くと後ろに亜美が立っている。
「おう! 亜美ちゃん、頼んだぞ!」
お兄ちゃん、わかっているって、この亜美さんに任せておけって!
にっこりと微笑み、亜美は陽平に親指をぐっと向ける。
youhei 名残
「こんなに早い便で行くなんて思っていなかったから、何も準備していなくって。ごめん、ろくなもの作れなかったよ……」
「弁当?」
ほんのりと暖かさをもつその包みに、陽平の顔が思わずほころぶ。
「どうせあなたの事だから、船の中では出来合いのお弁当とか、カップラーメンでしょ? そんなんじゃあ東京まで体力持たないなって思って」
雪音は照れたような表情を浮かべて陽平の顔を見上げる。
「ウン、ありがとう」
陽平が包みを開けようとすると、雪音が慌てた様子でそれをさえぎる。その顔は少し赤らんでいるようにも見える。
「だめよ、船に乗ってから開けてね」
照れたようにうつむきながらボソボソと言う雪音に陽平は微笑んでしまう。
アハハ、なんだか高校時代を思い出すよなぁ、同級生が部活の時に彼女からこうやってもらっていたっけ、それを羨ましそうに見ていたのが俺だったけれど……まさかこの歳になってからそんな感覚を味わえるとは思わなかったよ。
『お待たせいたしました、青森行き『びるご』ただいまから乗船となります』
ターミナルに放送が流れる。それは陽平にとっては想い出深い夏を終わらせるという、無常なものにも感じられる。
雪音と一緒の夏が終わる……。
陽平の手にくしゃくしゃになった包みが触れる。
「そうだ、雪音に渡しておくよ、これ」
小樽のガラス工芸館で買ったネックレス、昨日雪音に渡そうと思って渡しそびれていた。
「ありがとう」
雪音がその包みを握り締めるとちょうど前の車が動き出す。
「あっ……じゃあ、またね?」
雪音がそう言いながら車を離れる。その後ろには亜美が松葉杖姿で立っている。
「お兄ちゃん、またね!」
亜美はそういいながら大きく手を振る。
そうだ、夏は終わるかもしれないけれど、雪音とは終わったわけじゃないんだ、また今度だ、絶対に会いに来る、何があっても!
「おう! 亜美ちゃん、頼んだぞ!」
亜美は、その台詞の意味をすぐに理解し、陽平に向かって大きくうなずき、親指を立てる。
「おーい」
船に乗り込み、つまずきながらも甲板に顔を出す。既に二人の姉妹の顔は、表情すらわからないほど小さく見えるが、二人は笑顔でいるような気がする。
「お兄ちゃん、メール絶対忘れないでよねぇ」
そんな事を言っているだろう、松葉杖片手に手を振る亜美の声が聞こえてきそうだ。
「陽平、ずっと待っているから」
雪音はそんなことを言ってくれているだろうか?
やがて船の煙突から黒煙が上がり、水面が大きく揺れる。船のスクリューが大きく動き出したようだ、ということは……。
ショックもなく、呆気ないほどに桟橋が徐々に後ろに動き出す。船が出航した……。
桟橋にいた二人の姉妹の姿が徐々に小さくなってゆくと、思わずその二人の姿が涙でゆがむ。
ハハ、やっぱりセンチになっているようだな? ここまで彼女の存在が大きくなるなんて、はじめてこの船に乗った時には思ってもいなかった。
『お待たせいたしました、本船はただいま出港いたしました』
既に桟橋ははるか遠くになってしまい、もう二人の姿を認識する事はできなくなり、視線を変えるとその視界の左横には、紅白の函館どっくのクレーンと、函館山が別れを惜しむかのようにいつまでも視界に入っている。
「ふう……さらば、北の港街、かぁ」
船室の戻り、ため息をつきながら窓の外を眺めると、緑の松前半島に張り付くような国道を走る車が豆粒のように見える。
「彼女たちと出会ったのがこの船だったよな? 行きはあんなに楽しかったのに、帰りはこんなにも寂しいとは思わなかったよ……」
ガランとした感じの個室にいるのは陽平だけ、行きにはここに雪音と亜美がいてにぎやかだった事が随分と昔だったような気がする。
ソファーにどっかりと腰をすえると、テーブルに置かれた雪音からのお弁当が目に入る。
「もう、出航したから良いな」
陽平の脳裏には、これを受け取った時の雪音の声と表情がまだ残っている。
本当に……名残惜しい……だな。
陽平は苦笑いを浮かべながら可愛らしいお弁当箱の蓋を開けると、
「これは?」
陽平は絶句する。そこにはご飯の上にメッセージが桜デンブを使って書かれている。それはよほど慌てて書いたのであろうが、陽平にはしっかりと読むことができた。
「だいすき」
yukine&ami プレゼント
「頼むって?」
最後に亜美に言った彼の言葉に首をかしげる。
既に彼の車は白い船の中に収容され、その他の車も後から後から積み込まれてゆくその様子を見ているとなんだかちょっと呆気ないような気もするわね?
「さぁ? お姉ちゃんが浮気しないようにって言うことじゃない?」
亜美はとぼけたように言う。
本気でわかっていないのかしらこの姉上は……。
脱力したように亜美は苦笑いを浮かべながら、雪音の顔を見る。
「いやだ浮気だなんて、そんな……仲じゃあまだないし……」
雪音は顔を赤くしてうつむく。
そこでなんで照れるのかなぁ……でもねお兄ちゃん、あたしにお姉ちゃんを頼むのはちょっと酷かもしれないよ? あたしだってお兄ちゃんの事が好きなんだから、そんなに強くないよあたしだって。
亜美の目に涙が浮かぶ。
「亜美、ほら、彼が手を振っているよ、そんな顔をしないで元気出さないと!」
うん!
小さくだけれど陽平が甲板から二人に向って大きく手を振っている姿が見える。
「お兄ちゃん、だぁ〜い好き!」
陽平にはその台詞は届いていないのであろう、気にした事無く手を振り続けている。
やっぱり亜美は、彼の事が好きだったのね……。
ちょっと驚きながらも、雪音は優しい眼で涙をこぼしている亜美の頭をそっと撫ぜる。
ゴォー……。
船のエンジン音が一段と大きくなり、煙突から黒煙が立ち上ると水面が揺れる。出航だ。
「よぉ〜へぇ〜いぃ! だぁ〜いすき!」
お、お姉ちゃん……?
驚いた顔をして亜美はそんな雪音の事を見上げると、隣では人目もはばからずに涙を流しながら、手を大きく振っている。
へへ、お姉ちゃん、やっと自分に素直になれたのかな?
甲板にいる彼の姿が徐々に遠く小さくなってゆくと、涙があとから後からこぼれおちる、隣を見ると亜美も涙をこぼしている。もう良いよね? もう彼から私達は見えないはず、だからいまは泣いてもいいよね?
二人はまるでその場で抱きつくように泣き出し、周りの人の涙を誘っていた。
「なんだか感動の別れだったね?」
一年分の涙を出したような気がする、わたしも歳なのかしら涙腺が弱っているのかな? 亜美も目を真っ赤に腫らしている。
「でもこんな顔お兄ちゃんに見せられないよ……きっと酷い顔をしているかも……」
亜美はそう言いながら目をゴシゴシと擦っているが、それで治るようなものでもない。
「ウフ、本当ね?」
車の鍵を取り出そうとすると陽平からもらった包みが手の先に当たり、それを取り出す。
「何、それ?」
亜美が不思議そうな顔でその包みを見る。
「あっ、ウン、彼が……」
そういいながら雪音は包みを開く。
「これは?」
その包みの中に入っていたのは雪の結晶の形をしたネックレスだった。
「へぇ、お兄ちゃんもなかなかシャレた事をするわね?」
亜美は、それを横から覗き込むと意地の悪い顔で雪音を見る。
「何で?」
雪音は首をかしげる。
「だって、お姉ちゃんは『雪音』でしょ? それで雪の結晶。キヒヒ、結構お兄ちゃんも詩人だったりして。うーん、なんだかちょっと暑くなってきたなぁ」
亜美は大げさにTシャツの胸元をばたつかせる。
「もう、亜美ったらぁ」
二人の姉妹はそういいながらじゃれあうように再び軽自動車に乗り込んだ。
「お姉ちゃん、遠距離恋愛をはじめる事になるね?」
助手席から亜美がホッとしたように雪音に言う。
「そうね、って、亜美!」
小さな軽自動車の中に二人の姉妹の声が元気に響き渡る。
今日からまた日常に戻るのね? でも、その日常のサイクルにひとつ項目を増やさなければいけない『彼に電話をする』という項目を。
その日函館に久しぶりの雨が降った。でも、雪音の心の中にはなんだか暖かい春の日差しのような感覚が芽生えていた。
そして……冬……。