『……まもなく終点函館に到着いたします、定刻の到着です』
その放送に促されるように周囲の雰囲気が今までののんびりしたものから、荷物をまとめる人間などで車内がにわかに活気付く。
「着いた……」
車窓を眺めるその目は、近づいてきた函館山を見据え、その表情はとても落ち着いたものだった。
いくつもあるポイントを通過し、車内を左右に揺らしながら、特急スーパー白鳥一号は函館駅五番線にその身体を横たえる。
ぷしぃ〜。
気の抜ける音と共に扉が開くと、ひんやりとした空気が身体を包み込み、身震いを一つし、上着の襟を直しながらガラス張りになっている通路に向かい足を踏み出す。
『ただいま到着の列車は、八戸からの……』
大きな吹き抜けの改札口には列車の到着を告げる放送に群がるように出迎え客が改札に向かう人の顔を見逃さないように視線を向けてくるが、こっちも同じ感じだ、出迎えに来ているはずの彼女の事を見逃さないように五感を駆使して探すが、見当たらなく既にその身体は改札機を通り過ぎてしまった。
「おかしいなぁ、迎えに来るっていっていたのに、時間も伝えてあるし……」
昨夜彼女に電話した時に、時間などは話してあったが彼女のその姿はいくら見回してもそこには見当たらず、ついため息が出てしまう。
「仕方がない、お店に行くかな?」
数歩足を踏み出すと、ガラス張りの駅入り口の外に、勢いよく走ってくる女性の姿を見つけ、思わず自分の頬が緩む事を感じる。
開くドアを待ちきれないという様子ですり抜け、周囲を見渡すその彼女はよほど慌てているようで周囲をキョロキョロ見渡すその顔には、明らかに動揺が浮んでいる。
「ちょっと……すみません……あ〜ん……ごめんなさい」
どうやら俺の姿が見つけられないでいるようだ、思わずその姿を見守っていたが、徐々に彼女の目に涙が浮んでいるようにも見え、悪趣味な自分に少し反省しながら、彼女の視界にわざと体を割り込ませる。
「アッ」
彼女は小さく声をあげると、一瞬二人の周りの景色が止まり、長いような短いようなそんな微妙な空気が二人を包んだかと思うと、彼女の顔が徐々に笑顔で膨らんでゆく。
「ただいま……温子ちゃん」
その一声に、彼女の笑顔は頂点に達したのであろう、その満面の笑顔を浮かべながら周囲の視線を気にせず抱きついてくる。
「お帰りない、あなた」
あげた彼女の目には薄っすらと涙が浮んでいるようにも見えるほど熱く潤んでいた。
「それにしても一体どうしたっていうの? いきなりこっちに来るなんて、……驚いちゃったわよ」
恐らく自分の思わずとった態度に照れているのであろう、頬を真っ赤に染めながら、すねたように頬を膨らませ顔を覗き込んでくるが、俺のせいではないだろうよ……。
「ん? まぁ、色々とね……それとも俺が来たことにご不満でも?」
意地悪くそういうと、温子は目をまん丸にして、両手を力いっぱいに振りその事を否定してくれる。
「そんなことあるわけないじゃん、嬉しいよ……あなたが来てくれるだけで……」
彼女はそう言いながら腕を絡めながらそっと寄り添ってくる。
「ありがとう……さてお店に顔を出さないといけないよね? 源さんや、お義母さんにも挨拶したいし……」
「お店を見ておきたい……かな?」
……よくおわかりで。
思わず苦笑いを浮かべる俺に対し、形勢逆転といったような表情を浮かべる彼女の頭を無言でなでると彼女は猫のように目を細めながら嬉しそうな表情を浮かべる。
「でも残念賞なのよね? 今日はお店はお休み……沖が時化ていて船が出ないんだって、だから今日はお店を開けていないんだ」
彼女はそう言いながら俺の顔を覗き込んでくる、その顔はどことなく嬉しそうに見えるのはきっと気のせいではないであろう。
「……と言う事は」
「うん、今日は一緒にデートしよ?」
やはり嬉しそうな顔で俺の顔を見つめてくる彼女は、素直に喜んでくれているようだ。
「では、温子ちゃんのお勧めスポットの案内をお願いしようかな?」
そういうと、彼女は表情をしかめ、その場所を模索しているようで、ついには足も止まってしまう。
「そうねぇ、ちょうどお昼を過ぎているし……お昼にしない? 実はあたしお腹ペコペコなのよぉ〜」
照れくさそうに頬を染める彼女の顔を一瞥し、彼女の頭をぽんと叩く。
「だったらなおの事だ、実は俺も腹がへっているんだ……東京を出てから駅弁しか食べていないからね? どこかお勧めあるかい?」
彼女は『ウ〜ン』と首をかしげながら長考に入り、やがて思い当たるところが頭の中にヒットしたのであろう、手を叩き満面の笑みを向けてくる。
「それだったら、あそこにしようかしら……」
彼女はそう言いながら、俺の手を引きながら函館ベイエリアに向けて歩き出す。
「ここなんてどうかしら? お勧めよ?」
『はこだて明治館』のすぐ近くにある、そのお店を彼女は自慢げに指差す。
「ここは?」
首をかしげながらその外観を見るが、看板らしいものは遠目にはなく、唯一お店入り口にかかっているだけだ。
「ヘヘェン、ここは『白鳳館』といって、洋食の美味しいお店として地元の人間がよく来るところなの、あまりガイドブックにはのっていない穴場のお店よね?」
そう言いながら彼女は薄暗いそのお店の中に入ってゆく。
「これは……大分ディープな感じで……」
店内に入るとその中は薄暗く、籐製の家具などで仕切られており少しアジアンチックな雰囲気である。
「このお店はハンバーグがとても美味しいの、あたしハンバーグだぁ〜い好き」
彼女はそう言いながら店の奥にあるテーブル席に腰をすえると、お店のママがお冷を提供してくれる。
「あなたもランチでいいわよね?」
彼女はそう言いながらママにオーダーするが、メニューらしいものはなく、本日のランチとかかれたものがテーブルに置かれているだけだった。
「このお店は、夜になると他のメニューもあるんだけれど、昼間はランチしかやっていないの、それでもお客さんがいっぱいで、入れないこともよくあるのよ?」
満足そうに言う彼女は、テーブルに頬杖をつきながらこちらの顔を覗き込んでくる。
「ど、どうした?」
彼女にじっと見つめられ、ちょっと照れる。
「ウウン……今、あたしの目の前にあなたがいるんだって実感したところ……」
彼女はそう言いながら無遠慮に人の顔を見つめてくるが、それがむしろ恥ずかしいかもしれない。
「お待たせいたしました」
二人で今までのことなどを話していると、鉄板にのったハンバーグが二人の目の前に置かれ、それからのいい匂いが二人の鼻腔をくすぐる。
「ハハ、お腹が鳴っちゃったよ……いただきまぁ〜す!」
「ウン! あたしもペコペコいただきまぁ〜す!」
二人は用意されていた箸をチョイスし、それぞれに箸をつけるが、共に箸をチョイスするあたりが俺達らしいのか……。
「はぁ〜満足……ボリューム満点、お腹がはち切れそうだよ」
大した量ではないと思っていたものの、食べ終わったころにはすでに満腹中枢を刺激されていた。
「ホント、お腹いっぱいになっちゃった……あなた大丈夫?」
途中でハンバーグの三分の一と、付け合せのポテトをプレゼントしてくれた彼女は心配げな表情で顔を覗き込んでくる。
「ハハ、だ、大丈夫だよ……次はどこに行くんだい?」
そう言いながら彼女の顔を覗き込むと既にその表情は思案顔になっている……少しゆっくりできるところがいいんだけれど……。
「次は、やっぱり……」
彼女はそう言いながら、再び俺の腕を引き歩みを進める。
「ヘェ、既にクリスマスだね?」
函館ベイエリア、赤レンガの倉庫が立ち並び、その壁面には赤い服を着た不審者……いや、これからの季節のみんなのアイドルだ。
「そうね、季節はもう十一月、後一月もすればクリスマスになるし、それが過ぎればお正月……一年なんてあっという間」
彼女はニッコリと微笑みながら俺の顔を覗き込んでくるが、すぐに不安げな表情も浮かべる。
「どうかした?」
首を傾げる俺に対して、彼女は慌てたように首をふり「なんでもない」と再び笑顔をその顔に浮かべる。
「じゅ、十二月になるとここで『はこだてクリスマスファンタジー』が開催されるの、街のいたるところがライトアップされてとっても綺麗なんだよ」
彼女はそう言いながら再び腕を引きながら歩き出す。
「もう既に秋だね? 壁に絡まっている蔦が真っ赤だ」
夏の間は青々していたその蔦も、今では真っ赤に染まり、その季節の移り変わりを実感させる。
「ウン、最近はめっきり寒くなってきたし上の方じゃあもう雪が降ったといっていたわ、こっちもそう、今日なんて今にも振り出しそうだし十二月になればそれが根雪になって、雪に閉じ込められる」
鉛色の空は今にも白いものを降らせそうだし、なによりも彼女のため息が、その寒さを象徴するように白く濁る。
「ねぇ、今日はどうするの?」
一瞬彼女の言っている意味を理解できず、その顔を覗き込んでしまった。
「今日? あぁ、今日はビジネスホテルにでも泊まろうと思っているんだ、佐々木には連絡していないしね?」
俺の一言に彼女は少し渋い顔をしている。
「……予約とかしてあるの?」
なんだか機嫌の悪い顔をしているなぁ……。
「いや……何とかなるでしょ?」
「ダメに決まっているじゃない、いくら平日だからといって、そんなに簡単に部屋なんて空いていないわよ?」
そう言いながらもなんだか嬉しそうな顔をしているようだけれども……。
「ど、どうしよう……」
慌てる……簡単に止まれるとタカをくくっていたが、泊まれないとなると一体どうすればいいんだ? 佐々木に電話して泊めてもらうか?
「……うちに来る?」
彼女の発した一言が、頭の中を素通りしそうになる。
「へ?」
「だからぁ、もし泊まる所がないんだったらうちに泊まればいいじゃない」
彼女の頬は明らかに紅潮しており、うつむきながら話してくるためその言葉を脳で理解するにはしばらく時間がかかった。
「まさかこんな寒空の中、野宿なんてしたくないでしょ?」
「で、でもいいのかい?」
どもる俺の一言に、彼女は顔を赤らめる。
「な、なに考えているのよ、家にはお母さんだっているわけだし……それに……」
彼女はさらに体を縮みこませながら、上目遣いに俺の事を覗き込んでくる。
「……だったらお世話になっちゃおうかな? お義母さんにも挨拶できるし一石二鳥だ」
そう、一緒といっても、お義母さんだっているわけだし、まさか同衾なんてありえないであろう。
「ウン! だったら今夜は一緒に飲もうよ、ネ?」
満面の笑みを浮かべ、彼女は今にもスキップを踏み出しそうな勢いで歩き出すが、なんだか意図的なものを感じる。
「ただいまぁ〜」
五稜郭公園近くの古ぼけた一軒家に彼女は入ってゆくが、家の中にいるであろう母親である早苗の声に耳をそば立てるが、一向にその声は返ってこない。
「どうしたのかしら……」
彼女は小首を傾げながら合鍵を取り出し、扉を開く。
「おかぁさぁ〜ん?」
「おじゃましまぁ〜す」
どことなく緊張するのは、彼女の家という事だからなのだろうか、思わず背筋が伸びるような気がする。
「どこに行ったんだろう」
玄関先で、意味もなく手をモジモジさせる俺の目の前に帰ってきた彼女はちょっと残念そうな表情を浮かべていた。
「いないの?」
俺の一言に彼女は大きく首を縦に振る。
「ウン……買い物にでも行ったのかなぁ」
頬を膨らませながら、彼女は家に上がるように目の前にスリッパを置き促してくる。
「そうじゃないか? 俺が来る事知っていたんでしょ?」
彼女に促されるまま、居間に通されそこに腰を落ち着ける。
「ウン、でもなんで今頃行くのかなぁ」
彼女はさっきから首を左右に傾げながら、ポットのお湯を急須に注ぐ。
「なんか買い忘れでもあったんじゃないかな?」
周囲を見渡すと仏壇が目に飛び込んできて、その仏壇には優しそうに微笑んでいる男性の写真が飾られている。
「これ温子ちゃんのお父さん?」
はじめて見た。彼女のお父さんの顔、その顔は優しく微笑んでおり包容力のあるその笑顔は、彼女や家族を支えていると言う事がよくわかる。
「うんそうだよ……」
手元にあった線香に火をつけ、仏壇に手を合わせる。
「……あなた……」
顔を上げ、彼女の元に戻ると、そこには何か嬉しそうな顔をした彼女の顔があり、その視線は優しく俺の事を見つめている。
「ご挨拶をね?」
そう言いながら彼女の入れてくれたお茶に手を伸ばすとその手元にメモが置かれている事に気がつく。
「温子ちゃん……これ」
彼女にそのメモを見せると、首をかしげながらそのメモを読み取り、次第にその顔が真っ赤に変化してゆくのがわかる。
「お、お母さんたら、なに考えているのかしら……仮にも実の娘でしょ?」
彼女はそう呟いたかと思うと、真っ赤な顔をこちらに向けてくる。
「ん? お義母さんなんだって?」
その一言に、肩をピクリと反応させ、彼女は無言でそのメモを見せてくれる。そのメモに書かれていたことは。
『温子へ。今日は彼と一緒なんだろ? あたしは姉さんのところに泊まりに行くから時間を気にせずゆっくり二人の時間を作りな。早苗』
……と言う事は……。
「なにを考えているのかしらね?」
彼女の顔は耳たぶまで赤くしながらこちらを眺めてきているが、恐らく俺の顔も同じであろう、やたらと顔が火照っている。
「……」
「……」
二人の間に沈黙が流れる、一体この沈黙をどうやって破ればいいのか俺は必死にその打開策を模索するものの、その回答にはいたらずただ『今夜は彼女と二人きり』と言う不埒な考えに行き着いてしまう。
「……こうしていても仕方がないわよね?」
沈黙を破ったのは彼女だった。
「エッ?」
顔を上げる俺に対し、彼女は諦めにも似た笑顔を浮かべながらこちらを向く。
「晩御飯、さっきあれだけ食べたといってもお腹空いちゃうでしょ? 何か作らないといけないわよね」
彼女はそう言いながら台所にある冷蔵庫の中を覗き込む。
「ありゃりゃ、見事に何もないわねぇ……」
彼女は頭を掻きながら思案顔を浮かべ、仕方がないといった表情を浮かべたかと思うと俺の方に向き直り笑顔を浮かべる。
「あなた、買い物に行かない? 近くにスーパーがあるから一緒に……荷物持ちよろしく」
フム、彼女と一緒に買いものかぁ……ちょっと楽しみかもしれないなぁ。
「ここがいつもうちがくるお店、結構色々揃っているのよ?」
さほど大きくないお店には、主婦らしい人たちが俺たちと同じように買出しであろう、買い物カゴをぶら提げながら店の中を徘徊しているが、函館に来てこれだけ生活感がある所に来たのは初めてだな?
「どした?」
周囲をキョロキョロしている俺に対し、彼女が顔を覗かせてくる。
「いや、今までずっと観光地にしか行っていなかったから気が付かなかったけれど、これだけ生活感がある所に来ると、当たり前なんだけれど家庭があるんだなって痛感したよ」
気取った感じがしない店内は、自分の家の近くにあるスーパーとさほど変わりはなく、買い物客の姿も着飾らない、普段着の姿だ。
「まぁね? 毎日そんな所で買い物していたら破産しちゃうわよ……ほら、買い物カゴを持って」
どことなく嬉しそうな彼女は俺の腕を引きながら、他の客と同じようにショーケースに入っている食材を吟味したり、安売りのPOPを見つけてははしゃいでいる。
「ウ〜ン……ねぇ、あなたは朝はパン派? それともご飯派?」
精肉コーナーで立ち止まり、彼女は首をかしげる。
「ウン、どちらかというとパン派かな? まぁ、コーヒーを飲むのが日課になっているんだよね」
朝起きたらとりあえずコーヒーを飲んで目を覚ますのが俺の日課になっている。
「だったらやっぱりハムはあった方がいいわよね? 卵は目玉?」
「いや、作るのが面倒くさいからスクランブル派」
そんなやり取りをしているうちに彼女の顔には笑顔がどんどん広がってゆく。
「ふぅ〜ん……あなたの日常が徐々に見えてきてちょっと新鮮かも……エヘヘ」
彼女はそう言いながら微笑むと、クルッと背を向けてハムなどが置かれているショーケースを覗き込んでいる。
「温子ちゃん、今日は彼氏連れかい?」
野菜売り場にいた恰幅のいいおばさんが彼女に声をかけてくると、みかんを吟味していた手が止まり、慌てた様子で顔を上げる。
「お、おばさん!」
そのおばさんは冷やかすような目で彼女と俺の顔を交互に見ると、その視線にあわせた様に彼女の顔は赤くなってゆく。
「温子ちゃんが彼氏連れでお買い物なんて……隅に置けないねぇ」
キヒヒとニヤついた表情でおばさんはうつむき加減の彼女のわき腹を突っついている。
「そ、そんな……」
「いいって、ふ〜ん……彼氏、今日はお泊まりかい?」
おばさんの視線が俺に向けられると、その視線はより一層好奇心に満ち溢れており、隣にいる彼女の表情は浜茹でにされたカニの様に真っ赤になっていた。
「まぁいいさ、温子ちゃんはいい娘だから泣かせたらダメだよ?」
おばさんの表情が一瞬優しい顔になったが、すぐ元に戻り彼女を茶化している。
「まったく……いいように茶化してくれたわよね?」
店を出ると、五時前と言うのに街は薄暗くなっており、近くの街灯にも光が入り始めて、買い物客はどことなく急ぎ足で自宅に向かっているようだ。
「はは……」
彼女はあの後十分ぐらいは茶化されていただろうか、その名残がまだ彼女の頬に赤味となって残っている。
「あなたはお風呂にでも入っていて、もう沸いているはずだから」
茜木家の台所に俺は今買ってきた素材を置いていると、背後から彼女のそんな声が聞こえてきた。
「ウン、ありがたくいただくよ」
ちょうど身体が冷えてきていた所に彼女の提案はありがたかった。俺は、カバンの中から着替えを取り出し風呂場に向かおうとしたが……。
「風呂場ってどこだ?」
見渡す限りでは風呂場らしい場所は見当たらないが、一箇所光の漏れている場所があり、何の気なしにその扉を開くと、
「ん?」
「えっ?」
その扉の向こうにいたのは彼女で、互いの視線が絡み合う……。俺の視線の先にいる彼女の姿はさっきとは違う……いや、正確に言えばこれから変わるところであろう、白とピンクの縞々模様が目に焼きついた。
「キッ……きゃぁ〜〜〜〜〜っ」
耳の中でハウリングをおこしているかのようにツーンとするが、それと同時に目の前には彼女の拳が迫っていた。
ドグウァア…………痛いじゃないか……。
「ゆっくり温まった?」
タオルで髪を拭きながら台所に顔を出すと、エプロン姿の彼女が味噌汁の味見をしながらこちらに視線を向けるが、その姿に妙に心がときめく。
「う、ウン……お先でした」
彼女はニッコリと微笑んだと思うとコンロの火を消し、満足そうな顔で頷く。
「よし、お味噌汁も完璧!」
その満足そうな表情を彼女は俺に向けてくる。
「これでも結構料理を勉強したんだよ? あなたも料理するって言っていたし、あなたに負けられないもんね?」
ペロッと舌を出しながら彼女はおどけたように肩をすくめ、その様子に再び心臓の鼓動が早くなった気がする。
「さて、後はおつまみ……お店にあったイカ座布団でも食べている? 後肉じゃがを今造っているからそれも……あ、ビール出すよ」
彼女の様子はウキウキといった感じなのだろうか、まるでスキップを踏むように台所を動き回っている。
「温子ちゃん、ちょっとゆっくりしたら?」
俺の一言など聞こえていないのであろう、彼女はコンロにかけてある鍋を見たり、まな板で包丁を動かしたりしているが、何となく心の底が暖かく感じるのはいずれはこれが毎日の事になるのかという安心感からなのだろうか、ふと気が付けば彼女の姿を目で追っている自分に気がつく。
「さっぱりした……ん? どした?」
程よく酔いが回ってきたところに、髪の毛をタオルで拭きながらパジャマ姿の彼女が現れる……酔っていなくとも恐らく真っ赤な顔になるであろう。
「い、いや……」
視線をはずすが、彼女は意地の悪い顔をしてその視線の中に再び割り込んでくる。
「ははぁん、ドキッとしちゃった? 風呂上りのあたしに」
彼女は口を両サイドにニィーっと広げながら俺の顔を覗き込んでくるが、その距離はかなり近くさらに胸の鼓動は早くなる。
「……ハイ」
ここは素直に頷いておいたほうが良さそうだ、そうでもしないと理性を失ってしまいそうで自分が怖い。
「エヘヘ、よかった、こんなあたしでも少しは魅力があるっていうことなのね?」
よく見れば彼女の頬も、湯上りのものとは違う赤みがさしているようにも見える。
「当たり前だよ……」
再び視線をはずす……我が理性はいつまで保つことができるのか、何とか一日持ってくれれば……一日……かぁ。
「どした?」
俺の表情が変わったのが彼女にわかったのだろうか、さっきまでの楽しそうな表情は消え、代わりに少し心配そうな表情を浮かべている。
「……なんでもないよ、さて、初めてかもしれないね? 温子ちゃんと一緒にお酒を酌み交わすのは」
彼女も結構お酒が好きみたいだけれど、不思議と二人で杯を交わしたことはなかった。
「そうね? 今日は一緒に飲みましょ!」
彼女はそう言いながら台所に姿を消す。
「おやすみぃ〜」
彼女はそう言いながら上機嫌な顔をしたまま襖を閉めると、今まで賑やかだった部屋の中がシンと静まり返る。
「ふぅ」
ため息を一つつき、布団に潜り込むと一気に酔いが回ったかのように全身に気だるさが襲ってくる。しかし、その気だるさの理由は疲れや酔いだけではないと言う事が自分でもよくわかっている。
横になり天井を見上げると、そこには少し古ぼけたようなサークラインが下がっており、普段はこの部屋でお義母さんが寝ているという事を聞いた、そうしてその隣の部屋には、今まで一緒に酒を酌み交わした彼女が寝ている。
「ん」
寝返りを打つと視線の先にはさっき彼女の消えた襖が見える。酔いに任せてよく眠れるだろうと考えていたが、どうやら違ったようだな……再び先ほどまで戦っていた邪な気持ちと戦わなくってはいけなくなってしまうな?
「はぁ」
邪な気持ちを抑えるために再び寝返りを打ち、視線をその襖から先ほどのサークラインに移す。
「ん? なんだ?」
見上げているサークラインが風もないのにゆっくりと左右に揺れだしたかと思うと、自分の身体の下から突き上げるような振動が伝わってくる。
「地震か?」
その揺れは比較的大きく感じるものの、今までの経験からすれば大きくって震度四ぐらいであろう。しかし、次の瞬間自分の目を疑う。
「じ、じ、地震……あなた地震!」
硬く閉じられていた襖が勢いよく開いたかと思うと、蒼白な顔をした彼女がいきなり抱きついてきた。
「ちょ、ちょっと温子ちゃん、大した事ないって……」
まるで大きな地震にあったかのような怯え方をする彼女は、目をぎゅっとつぶり、口をかみ締め、体中を萎縮させている。
「地震……怖い」
彼女の怯え方は尋常ではない、彼女が握り締めているよう腕は、かなり痛く感じるほどだし、歯を鳴らさんばかりに震えている。
「……大丈夫だよ、もう収まったから、安心しなよ、ネ?」
なるべく彼女を安心させるように俺は優しく声をかけ、抱きついてきている彼女の背中を軽くぽんぽんと叩いていると、今まで強張っていた彼女の体は徐々に解れはじめる。
「落ち着いた?」
ようやく震えが収まり、俺にその身を任せる彼女はその一言に目を潤ませながら顔をあげ、抗議をするかのように口を尖らせながらうなずく。
「……ウン……」
まるで幼子のような表情を浮かべるかの字の震えは完全に納まったようで、俺は心の奥底でほっと胸をなでおろすが、その瞬間、今まで感じていなかった感覚がいきなり襲い掛かってくる……暖かい彼女の体温に柔らかい彼女の身体、やばい! 今まで優勢だった理性が形勢逆転されそうだ!
「し、しかし以外だよな、温子ちゃんが地震に弱いだなんて」
少し後ろ髪を惹かれる想いだが、ここで彼女の身体から離れないと、きっと俺は狼になってしまうだろう……。
「……あなた知っている? 十二年前にあった地震の事……」
彼女はそう言いながら自分の肩を両手で覆い、まるで震え出すのを押さえるかのようにギュッと握り締める。
「十二年前の地震って……奥尻の?」
「そう『北海道南勢沖地震』の事……」
はっきりした記憶はないけれど、まだ小学生だった時に、北海道で大きな地震があって、津波で多くの人が犠牲になった事だけは知っている。
「……あたしあの時たまたま江差の親戚の所に行っていたの……ちょうど寝ていた時に体が誰かに投げ飛ばされたようになって、気がついたら色々な物があたしの頭の上に落ちてきたの……そうして家から出たら……」
彼女はその時の事を思い出しながら、無意識なのであろう握っていた肩に指が食い込むほどの力で握り締めており、押さえ切れない震えは全身に広がっている。
「……大丈夫だ……俺がずっと温子ちゃんについているよ……怖い事ない……俺がいつでも守ってあげるから……」
俺も無意識だ、小さく震える彼女の肩を見ていたら思わず抱きしめていた。
「……あなた?」
固かった彼女の体から力が抜けてゆくように、その身体は俺の身体にすべてを預けるようにもたれかかってくる。
「心配ないよ……」
彼女の髪の毛からはシャンプーの匂いであろうか、いい香りが漂ってくる。
「……ウン!」
「ん? うぅ〜ん……」
なんかの気配を感じたのであろう、普段なら惰眠を貪っている時間に目が覚める。その目覚めた視界の先には……。
「おっ、お義母さん?」
視界いっぱいに広がったのは、彼女のお母さんで、その顔は冷やかすような、呆れたという様なそんな表情だった。
「……仕入があるから早く帰ってきてみれば……結構大胆だねぇ」
目覚めた俺に対し、さらに意地の悪い顔を見せるお義母さんは、まるで楽しむかのような表情を浮かべて俺を見ているが……ここで誤解ですといえる状況ではないであろう、隣では、まるで天使の様な安らかな表情で俺の腕の抱きしめながら眠っている彼女。
「えぇっと……」
鼻先を掻く俺の動きに反応するかのように、彼女はさらにその身体をすり寄せてくる。
「ウゥン……」
寝ぼけたままの彼女は目を開け、現状を確認するように周囲を見渡す。
「ん?」
トロンとした顔をしながら、慌てた顔をしているであろう俺の顔と、隣で意地の悪い笑顔を湛えているお義母さんの順に視線を向けると、一気に意識が覚醒したのであろう、表情を一変させ膝元に落ちていた毛布を胸の高さまであげる。
「ちょ……な、なんでお母さんがここにいるのよ!」
なんでって、それは自分の家だからだと思うが……。
「……何を慌てているんだい……もしかして……あなたたち」
お義母さんの表情はワザとらしく手を口にし、まるであってはいけない事がそこで行われたようなそんな表情を浮かべる。
「そ、そんなことないよ……彼はずっと……あたしを守ってくれて……地震があって怖かったから……だから一緒に……」
……一体何を言っているんだか……フォロー不能です。
「本当に何もなかったんだからぁ〜」
台所からは母娘の中睦ましい会話……なのかなぁ? が聞こえてくる。
「はいはい、あんたたちは何もなかった、これでいいんだろ? ほら、早く旦那にコーヒーを持っていってやりな!」
お義母さんにお尻を叩かれながら彼女は不満げな表情を浮かべながらも、コーヒーを提供してくれる。
「ハイお待ち! コーヒーだよ」
彼女のその表情は、物足りなさそうなそんな表情を浮かべているが、その表情の意図を俺にはまだわからないでいた。
「……ありがとう」
とりあえずそう言うものの、彼女のその表情から不機嫌さは取り除かれる事はない。
「温子! 今日はあたしと源さんでお店をやるからゆっくりするといい……旦那と一緒にデートしてきなよ!」
お義母さんのその一言で彼女の表情からさっきまであった不機嫌さが消え、頬には赤みが差している。
「で、でもお母さん……」
彼女は頬を赤らめたまま戸惑ったような表情を浮かべ、台所に立つお義母さんの背中に声をかけるが、振り向くその顔は彼女の事を気遣う優しい母親の表情だった。
「思わないところで時間が出来たわね? これからどうしようか?」
彼女はそう言いながら俺の腕に自分の腕を絡めてくる。
「そうだな……温子ちゃんお勧めスポットは?」
彼女は足を止め思案顔を浮かべるが、すぐにその顔には笑顔が戻り、俺の顔を見上げてくる、その表情に胸が高鳴る。
「エヘ、ちょっと行ってみたい所があったんだ……付き合ってくれる?」
彼女のその表情に首を横に振るわけがない。俺は大きく首を縦に振り彼女の誘導に従いながら歩き出すと、まるでつくしの様にそびえる大小のタワーが目に入る。
「これが新しい『五稜郭タワー』なんだ」
旧五稜郭タワーは、まるで付け合せのように大きな新五稜郭タワーの横に鎮座している。
「そう、新しいタワーは、今のタワーより四十メートルぐらい高い地上九十八メートルあるらしいわ……ちゃんと星の形に見えるかどうかは分からないけれど」
彼女は苦笑いを浮かべるが確かにそうかもしれない。旧五稜郭タワーから見えるのは星型の一角のみで、楽しみにしている観光客はガッカリしてしまうだろう、新しいタワーからはちゃんと見えることを願うよ。
「ハイ! ここが函館の新しい観光スポット『はこだてクイーンズポート』でぇ〜す」
元函館シーポートプラザの跡地が新しくなったらしい。
「この中にはクラッシックカーミュージアムや、ラジコンカー用のサーキットがあるらしいの……あたしはあまり興味ないんだけれど、好きな人はよく来ているみたい、後この中にFMラジオの公開スタジオもあるわ」
クラッシックカーミュージアム……ちょっとそそられるかも知れないが、彼女はあまり興味なさそうだしここはスルーしておいた方が良さそうだ。
「そうしてここが……」
見覚えのある広場にたどり着くと彼女の顔が俺の方に向く。
「……あぁ、覚えているよ……」
夏に彼女はこの広場で自分を苛めるかのように泣きはらしていた、そんな姿がいたたまれなく俺は黙って寄り添っていた、もう彼女のそんな姿を見たくない……彼女をあんな辛い思いをさせて泣かせたくない。
「恥ずかしかったけれど、でも、あの時のあなたの優しさは今でも忘れない……きっと、一生忘れないよ」
そう言いながら彼女はそっと寄り添ってくる、そんな様子を海にプカリと浮かぶウミネコが眺めていた。
「ここは……」
駅前にある『棒二』で彼女の服を物色し、既にお昼を回っていた。
「ここは最新スポットで『ひかりの屋台大門横丁』、帯広や小樽にある屋台村より規模が大きくって二十六店舗が軒を連ねているの、その昔は北海道の玄関口として栄えたこの街も青函連絡船の廃止と共に衰退していったこの土地に、再び活気を取り戻そう地元の有志によって作られたのがここなの」
真新しい関所のような格子壁の中には様々なお店があり、ちょうど空いてきたお腹を刺激するには十分な香りが漂っている。
「これはそそられるねぇ」
腹が鳴るのを彼女に悟られないように歩くが、歩く先々にその匂いは充満している。
「でしょ? 昼に開いているお店のほかにも夜に一杯なんていうお店もあるみたい……このお店のオーナーなんて元ミス函館なんですって」
覗き込めばそこにはきれいな女性がお客の対応に追われているが、その多忙さはこのお店だけではない、多くのお店でお客が店の外まで列をなし、ゆっくりと食事できるような所は見当たらない。
「でも……混んでいるね?」
その一言の、彼女も寂しそうな表情で俺の顔を覗き込んでくる。
「そうね? 別の場所に行きましょうか……」
まるで後ろ髪を惹かれるような表情を浮かべる彼女に、思わず微笑んでしまった。
「ここは……温子ちゃん」
お腹いっぱいにラーメンを食べ、腹ごなしに歩くとそこには、忘れるはずのない小さな公園に足を踏み入れる。
「アハ、覚えている? あなたとはじめて二人できた所……あの時はここに来るときは決まって寂しい時だったような気がする……なんだか久しぶりにここに来たなぁ、それだけあたしは幸せって言うことなのかな?」
紅葉も終わりに近づいている函館山を望むそこには石川啄木が物憂げに佇んでいる。
「……そう思ってもらえると嬉しいね? 温子ちゃんをそんな寂しい思いをさせたくないし、もう寂しい思いをさせないよ」
俺の台詞を聞いてか聞かずか、彼女は丸太を模した柵に飛び乗りながらまるでスキップを踏むようにその上をぴょんぴょんとはね歩く。
「エヘ、ありがと、でもあたしはこれからちょくちょく来ると思うよ?」
彼女はそう言いながら振り向き、ペロッと小さく舌を出す。
「だって、ここはあなたとの想い出の場所……あなたがあたしを救ってくれた場所なんだもん!」
彼女はそういったかと思うと、その上から飛びながら俺の胸に飛び込んでくる、その両目は涙を湛えながら……。
「……だったら、来年の夏……いや、これからずっと夏にここに来るようにしようよ……ずっと二人で」
その台詞の途中で既に彼女の瞳には涙が溢れ、泣き笑いといった表情を浮かべていた。
「……あなた」
そっと胸に手を添え、彼女は嗚咽をもらしながらも笑顔で顔を見つめてくる。
「もう少しゆっくりできればいいのにねぇ」
茜木鮮魚店の前でお義母さんの残念そうな声が響きわたる。
「もぉ、お母さんそんなことを言わないで、彼だって暇なわけじゃないんだから……、来てくれただけでもあたし……」
そこまで言うと彼女は口をつむぐ。
「でもよ、お嬢だって寂しいだろ?」
容赦のないことを源さんは冷やかすように言う。
「もぉ、源さん!」
彼女はそう言いながら手を振り上げ、源さんはそれから逃れるように店の中に逃げ込んでゆく。
「まっ、まぁ、来年の春になればおれもこのお店の店員になるわけだし……ちょっとの我慢……なのかな?」
頭を掻きながらそう言う俺の頬はきっと赤らんでいるであろう、寒いにもかかわらず顔だけがやたらと火照っている。
「店員じゃねぇよ、あんちゃんは立派なこのお店の旦那になってもらわねぇとな!」
源さんは店の奥から嬉しそうにそう言いながらこちらの顔を覗き込んできて、彼女も恥ずかしそうにその後の台詞を待っているようだ。
「……期待に添えるか分かりませんが」
その一言に、三人の視線が自分に集中する。
「……二代目として頑張ります」
お義母さんはその一言に対し大げさなまでに首を縦に振り、源さんは涙を拭いながらその台詞に聞き入っていた、そうして彼女においては涙を断ち切るかのように目をしばたかせながら、こちらの顔をいつまでも眺め見ていた。
「ねぇ、今度はいつこっちに来られるの?」
観光客の入り乱れる函館駅改札口で彼女はそう言いながら、俺の胸に手をそっと置く。
「……次に来る時は、もう向こうには戻らないよ……俺は温子の旦那としてこの場にいることになるからね?」
そう言いながら、彼女のおでこに手をやると、その表情から笑みが消え、その代わりに両目に大粒の涙が光りだす。
「……あなた、本当に後悔とかしないの?」
「後悔?」
「だって、あたしだよ? ガサツだし、はねっかえりだし……」
「……あたしだからじゃないの?」
「えっ?」
「俺の目の前にいるのが温子ちゃんじゃなかったら今頃この街にいなかったと思うよ、俺の大好きなのは……温子ちゃんだけだよ」
「あなた……」
「なんとなく北に来て、大好きになった娘が今目の前にいる……そうしてこれからもずっとここにいる」
『お待たせいたしました、この電車は特急白鳥三十号八戸行きです』
彼女と別れ、今一人東に向かう列車の中にいる。既に暗くなった車窓に映る光はほとんどなく、窓に写るのは、寂しげな顔をした自分の表情だけだった。しかし、そんな顔の中でも一箇所だけ暖かく、今でもその感覚が残っている。
「あたしもそうだよ? 大好きな人が来てくれるまでずっと待っているよ」
彼女の唇が触れた頬にそっと手を触れる。
遠くで汽笛が聞こえる。
彼女のいる街を後にするのは辛いけれど、でも、その辛さが次にあったときの喜びに変わるはず……。
そうして、俺は北へ。
Fin