雪の石畳の路……
第十五話 想い……
=最後の夜=
「先輩お疲れ様でした」
有川商店の店先には慰安旅行から帰ってきた一行の姿が見える。
「じゃあ、俺は車を返してくるから」
勇斗が再び車の運転席に座りスタートさせようとするとおもむろに千草が助手席に座る。
「千草?」
勇斗は素直に驚いた表情を浮かべ、助手席に何食わぬ顔をして座っている千草を見る。
「明日はまたあっちに帰らなければいけないの……こっちを案内して勇斗」
ちょっと潤んだ瞳を浮かべる千草に対して勇斗は何もいえなくなってしまった。
「……わかった車は西波止場のレンタカー屋に返すから、帰り道歩きながら案内してあげるよ」
穂波の複雑な表情に勇斗は気がつかないままに車をスタートさせる。
「いい感じね? ここが函館を代表する『赤レンガ倉庫郡』ね?」
歴史を感じさせるには十分な重厚な赤レンガ造りの倉庫が立ち並ぶ一角、平日というのに観光客であろう人々が歓声をあげながら行き交っている。
「あぁ、ここは通称『ベイエリア』といって函館観光の名所のひとつだよ、函館を紹介するガイドには必ずこの景色が写っているよね……この人混みがその証拠だよ」
勇斗はウンザリした様な表情で観光客を一瞥しながら言う。
「うん、こっちに来たら一度来たかった場所でもあるよ」
千草の顔も満足げなもので、話をしながら左右を見ている。
「わりぃな、店の手伝いなんかさせたから、ろくに見る事出来なかっただろ」
勇斗はそう言いながら頭を下げる。
「気にしないでいいよ、あたしが一番見たかったのはあなたの顔なんだから……観光するなんていうのは二の次、目的は達成できたから満足!」
千草はニッコリと微笑みながら勇斗の腕を取る。
「……でも、お詫びの印に何か買ってもらおうかな?」
意地の悪い笑顔を浮かべながら千草は勇斗の顔を見上げる。
「小物がいっぱいあるね?」
赤レンガ倉庫の中にあるアクセサリーショップで千草は歓声を上げる。
「ここは観光客だけではなく、結構地元の人間も買いに来るよ、お土産ばかりではなく洒落た雑貨品なども置いてあるからね? って、聞いている?」
千草は嬉々とした表情を浮かべながら陳列されている商品を手に取る。
「これ可愛いなぁ、これもシックだし、これは今流行の形に似ているし……値段も手頃かも……」
ものほしそうな目で勇斗のことをチラッと見る千草のその仕草はまるで中学生や高校生の女の子のようだ。
千草のこんな表情を見たのは初めてかもしれないな? もしかしたらこれが本来の千草の姿なのかもしれない。もしかしたら俺は千草のイメージを勝手に変えていたのかもしれない、いや、千草が無理に俺に合わせてくれていたのかもしれない……。
勇斗の表情がちょっと曇る。
「ねぇ勇斗、これなんか良くない?」
千草はネックレスを取り上げながら胸に当ててみる。いるかの形をモチーフにしたペンダントヘッドは可愛らしく千草の胸元に収まっている。
「うん、いいね……プレゼントさせて貰えるかな、お詫びとお礼を兼ねて」
勇斗はそう言いながらそのペンダントを見る、以前千草にプレゼントしたネックレスは大人っぽい千草をイメージしたものでそれも似合っていたが、それよりも数倍これのほうが似合うような気がする。
「お詫び?」
千草は首をかしげる。
「アァ、今回の旅行を店の手伝いで終わらせてしまったお詫びと……」
勇斗の次の一言が出てこなかった。
「気にしないでって言ったでしょ? あたしは今凄く満足なんだから」
ニッコリと微笑む千草はそのネックレスを大切そうに持ちながら勇斗に渡す。
「でも、あなたとの函館での想い出にこれは買ってもらおうかしら?」
千草は意地の悪い顔をして勇斗の顔を覗き込む。
「はは、安くって悪いな」
勇斗もその笑顔に微笑み返す。
「勇斗、あたし行きたい所があるの」
店を出た頃、街はゆっくりと暗くなろうとしているところだった。
「行きたいところ?」
勇斗が首をかしげていると千草は再び勇斗の腕を取りニッコリと微笑む。
「函館に来たらやっぱり『夜景』を見なくっちゃでしょ?」
函館山から見る夜景かぁ……でも、
「う〜ん、いいけれどあそこにはジンクスがあってね」
勇斗は言い難そうに言い目前のそびえる函館山を見る。
「ジンクス?」
「そう、高校時代に聞いたジンクスなんだけれどね『一緒に夜景を見たカップルは別れる』って言うジンクスがあるんだよ」
苦笑いを浮かべる勇斗に対し千草は一瞬表情を硬くするがすぐに笑顔が膨れる。
「フーン……と言う事は、まだ期待していていいのかな?」
千草はそう言いながら勇斗の腕をしっかりとつかみ顔を見上げる、その表情は東京時代に何度も見た毅然とした千草の顔だった。
「期待?」
勇斗はその顔を見てまるで自分がいるのが東京ではないかという錯覚に陥る。目前には千草がいる、何度か肌を合わせたことのある彼女が……。
「そう、だって別れていないから『別れる』なんでしょ? ということはまだわたしにもチャンスがあるって言う事なのかな? だったらやめておこう、チャンスを無駄にしたくないもんね!」
意地の悪い顔で勇斗を見る千草は心底嬉しそうな笑顔を浮かべていた。
「……」
勇斗はなにも言えなくなり、半端な笑顔を浮かべるだけだった。
「ありがと……そして、ゴメンね」
観光名所のひとつでもある『七財橋』の上で千草は嬉しそうな顔をして微笑む。
「なにが?」
勇斗は潮風を浴びながら大きく伸びをする、硫黄の匂いも嫌いではないが、やはりこの潮風になんとなく落ち着くのはこの函館に住んでいるせいなのだろうか?
「迷惑だったでしょ? あたしのいたこの一週間……穂波さんとゆっくり出来なくって」
千草は橋の上から係留されている船を見つめながらふとした笑顔を浮かべる。
「な、なに言っているんだよ……さっきも言ったとおり、千草が手伝ってくれたおかげで助かったよ」
ちょっとその横顔に戸惑う。
「そうかなぁ、あたしの勘違いだったら良いんだけれど何となくお邪魔虫だったような気がするのよね、あたし……エヘヘ」
千草の横顔は何となく意地悪く、何となく諦めたような表情だった。
「……あのなぁ」
苦笑いを浮かべながらも勇斗の頭の中ではどうだったのかを考える。
本当にそんなことは無かったのか? だったら千草が現れたときに浮んだ動揺は一体なんだったんだ? 邪魔? 誰が? 千草が邪魔だったのか? そんなことを言える立場なのか俺は。
「勇斗?」
まるで墨をこぼしたような海面に時々白波がおきる、その繰り返しを勇斗は見つめながらも勇斗の頭の中では自虐的なことを考えていた。
「ん? アァ、悪い違うことを考えていたよ……」
勇斗は顔を上げ千草を見る、千草の表情は心配そうな顔をして勇斗のことを眺めている。
「ねぇ、勇斗……あたしね、あなたのことが好きなの、そしてこの街……函館という街も大好きになった」
千草はそう言いながら千草は再び闇の海を眺める。
「穂波ちゃん、夏穂ちゃん、一葉さん……みんな良い人ね?」
千草の問いかけに勇斗は声無くうなずく。
「あのね……穂波ちゃんに聞いたんだ、あなた達のこと、そして今の穂波ちゃんの今の気持ちも」
ぎょっとした顔で勇斗は千草の顔を見るが、そんなことはおかまいなしに千草は台詞を続ける。
「そしてわたし達のこと……東京での事も話した」
千草はそう言いながら勇斗の顔を見る、その顔は満足そうな笑顔だった。
「彼女は何も言わないで聞いていたわよ……そして今のあなたがおかれている立場を説明してくれた……愛されているみたいね?」
ウィンクを飛ばす千草に対して勇斗もちょっと落ち着きを取り戻したような笑みが浮ぶ。
「千草……」
勇斗は穂波に二人の関係がばれたというショックよりも、千草が今こうやって満足げな笑顔を浮かべていることに感謝に似た気持ちが浮ぶ。
穂波はそれを現実として受け止めてくれた、そうして千草もそれを受け止めた、今まで悩んでいた自分がばからしくなってくる。
「千草……俺は……」
「まだ言わないで!」
千草はわざと耳をふさぐ仕草をして勇斗のことを睨みつける。
「……分っているの勇斗の気持ち、ウウン、東京にいる時も気がついていたのかもしれないでもそれを認めたくなかった……今でも認めたくない」
不意に千草の両目から涙がこぼれ落ちる。
「だって、認めたらわたしの好きな人がいなくなってしまう、そんなのは嫌、だから認めない、わたしはあなたのことが好き……その事実だけは曲げたくない、だから今までと同じ長距離恋愛しようよ……恋愛じゃないけれど、でも同じように……」
千草はそう言い勇斗の胸に抱きつき、嗚咽をこぼす。
「ねぇ、二人でお台場に行ったときの事覚えている?」
どれ位時間が経ったのだろうか、しばらく二人でその場にいたような気もするしわずかな時間だったような気がする、唯一分る事は千草は泣きついた後、あっけらかんとした顔をしていたということだけだった。
「お台場? アァ、クリスマスの時だったよな……」
去年のクリスマス、二人は多分にもれずにクリスマスデートをした。そのときのスポットがお台場だった。
「そう……人がいっぱいいてうんざりしちゃったよね?」
千草は勇斗の顔を見上げながら微笑む、その微笑に勇斗は微笑を返しながら思い出すように宙を見上げる。
「アァ、カップルばかりでなにを見るわけでもなく早々に退散したよ」
どこからこんなに人が集まってきたんだろうというぐらいの人ごみ。道路は大渋滞しているし回りはカップルばかり、手をつないで歩くことすらできなかった。
「ウフ、そのとき見たレインボーブリッジ覚えている?」
確かお台場海浜公園だったかな? ここでもカップルばかりで人の頭越しに眺めた記憶がある、しかも周りでは盛り上がったカップルがキスしたりしていた。
「人の頭越しに見たレインボーブリッジだろ……」
勇斗はちょっと照れたように言うと千草も苦笑いを浮かべながら勇斗の顔を見上げる。
「そう、あの時勇斗は『クリスマスにお台場なんてこない』なんて怒っていたよね?」
「アァ、うんざりした」
基本的に俺という人間は人ごみを嫌うタイプだからな。
「でもわたしはまた行きたいのよねぇ」
千草はそう言い海に視線を移す。
「あの時勇斗と見たレインボーブリッジ、お台場のイルミネーション……もう一度あなたと見たい、大好きな人と一緒に見たあの景色は忘れない……」
千草はそう言いながら勇斗の胸に抱きつき、勇斗の口に自分の口をつける。
「ち、千草?」
不意をつかれた勇斗は驚いた表情ですぐに離れた千草の事を見つめているだけだった。
「ヘヘ、久しぶり……」
千草のちょっと照れたような表情を浮かべながら勇斗の顔を見つめる。
「ただいまぁ」
有川商店の玄関先に勇斗の声が響きわたると穂波が出迎える。
「お、お帰りなさい先輩」
気のせいか息を切らしているようにも思えるが。
「どうしたんだ?」
じっと見る勇斗に対して穂波はその視線から目を背ける。
「いえ……別に……」
「お姉ちゃんお兄ちゃんがなかなか帰ってこないから心配していたんだよね?」
夏穂が横から意地の悪い顔を見せる。
「ちょ、ちょっと夏穂」
怒ったようにいうものの穂波の表情は照れているように真っ赤になりあまり怒っているようには見えない。
「アハ、心配性ね穂波ちゃんは」
千草は微笑みながら穂波を見る。その表情に穂波はほっとしたような表情を浮かべる。
「ちょっとキスしただけ」
ち、千草?
その台詞に周囲にいた一同の視線が二人に注がれる。
「せ……先輩」
穂波は素直に驚いたような表情を浮かべる。
「お、お兄ちゃんと……千草姉ちゃんが……」
夏穂は顔を真っ赤にして二人の顔を交互に見ている。
「あ、兄貴ぃ」
和也はまるで敵を見るような目で勇斗のことを睨みつける。
「はぁ……」
一葉はなんだかうらやましそうな顔で二人を見つめている。
「…………」
有川家に重苦しい空気が流れる。
=二度目の……=
「はぁ……」
風呂からあがると居間には既に人影が無い、和也と夏穂は既に自宅に帰った。和也はあれからずっと俺のことを睨みつけていた様な気がするが気のせいであろうか……千草は言いたいことだけをいって部屋に戻って行った、明日の朝一番の飛行機で帰るから早く寝るといっていた。
「あら?」
居間でくつろいでいるとパジャマ姿の穂波が顔を出す。
「ん? どうかしたのか?」
既にみんな寝ているだろうと思っていたために勇斗はちょっと驚く。
「いえ、ちょっとのどが渇いたからと思いまして……先輩はビールですか?」
穂波はニッコリと微笑みながら勇斗の回答も聞かずに冷蔵庫に向かう。
「ハイどうぞ、先輩帰りはずっと運転だったから疲れたでしょ? ありがとうございます」
登別からの帰りはずっと勇斗が運転して帰ってきた。別に気を使ったとかそんなのでは無く気がついたら帰って来てしまったと言った感じだったが。
穂波は勇斗の前にグラスを置きそれにビールを注ぐ。
「サンキュ……穂波は?」
穂波が持ってきたのはビールだけだった、確か自分ののどが渇いたから起きてきたのではなかったのかな?
「あっ……そうでした、アハハ、ドジですねぇ」
穂波はそう言いながらペロッと舌を出し再び冷蔵庫に向う。
「アハハ、そうなんですかぁ?」
BGM代わりについているテレビをそっちのけで穂波は話している、まるで、今まで話せなかったうっぷんを晴らすかのように。
「そうさ、大変だったんだぞ就活……」
その話にのる勇斗も同じように話す。
「あっ、ビール無くなってしまいましたねぇ」
穂波はそう言いながら何度目かの冷蔵庫に足を向ける。
『次のニュースです、大手メーカーで……が倒産しました』
倒産、嫌な響きだ、特に個人経営である勇斗たちにとってみればすぐそこにあるような気がする。
「また倒産ですかぁ……」
勇斗にビールを注ぎながら穂波はテレビを見つめる。
「……あぁ、嫌な話だ」
勇斗ははき捨てるようにテレビから視線を外しリモコンでテレビを消す。
あまり聞いていたくない話だ。こういう大きな会社は偉そうな人間が頭を下げれば良い事なのだろうがうちのような個人商店は、翌日から路頭に迷う事になる。
「……先輩頑張りましょうね」
穂波はそう言いながら小さくガッツポーズを作る。
「ははは、アァ、頑張るさ! 穂波や一葉さんを路頭に迷わせないように頑張るしかないよな」
勇斗はグラスに入っていたビールを一気にあおる。
「はい、あたしは一生このお店で働きたいです、みんな一生懸命なこのお店が大好きですだから失いたくないです……」
穂波はそこまで言うとうつむく。
「穂波?」
穂波の肩がかすかに震えているような気がする。
「……だからもう先輩のことを失いたくない……たとえ兄妹になってしまってもあたしの気持ちは……あたしの気持ちは変わらない……」
呟くように言う穂波の台詞は勇斗にははっきりと聞こえている。
「あたしの気持ちは……昔と変わらない……先輩のことが好き……大好きです!」
次に顔を上げた穂波の顔は涙でグシャグシャになっていた。
「穂波……」
勇斗はそんな顔をしている穂波の肩をそっと抱きしめる。
「だから……だからぁ」
穂波はとめども無くこぼれる涙を拭おうとせずに勇斗の胸に顔を埋める。
「……」
勇斗はそんな小さな穂波の身体を受け止める。
「もうどこにも行かないでください……もう誤解しないでください、あたしの気持ちは、あの「いか広場」で言った時と変わらない……」
不意に穂波は顔を上げる、その距離はわずかしかなくお互いの息がかかるほどの至近距離だ。
「……千草さんとキスしたって言っていましたよね?」
穂波の顔が近づきそうして勇斗の唇に穂波の唇が触れる。その唇は涙が混じっているのだろうかちょっと涙の味がする。
「……」
勇斗はその唇の味に目を瞑る。
「……エヘヘ、初めて先輩とキスしてしまいました……先輩昔から何もしてくれないから自分から思い切ってしちゃいました」
穂波は照れたように顔をうつむけながら気勢を張ったように言うが、その言葉の節々は震えていた。
「これでおあいこですね? あたしだっていつまでも良い人じゃありません、あたしは千草さんに先輩をとられたくない、だから……」
「お前はお前だよ……」
穂波の台詞を遮る。
涙をたたえている穂波の顔を見たくない、そんな気持が無意識に働いたのであろう穂波の小さな頭を自分の胸に押しやる。
「先輩?」
その小さな頭は躊躇しながらも反発する感覚は無い。
「正直言うと今の自分の気持ちはわからない……でも、この函館という街が何もかもを洗いざらしにしてくれるような気がする……俺の生まれた街なんだ……そしてこの街には待っていてくれる人がいることにも気がついた……だから」
勇斗はそう言いながら穂波の頭を軽く叩く。
「……だから?」
潤んだ瞳で見上げてくる穂波の表情に勇斗の気持ちは高鳴る。
「だから……俺は」
「勇斗ぉ……」
二人の目の前には穂波のパジャマであろう、可愛らしい格好をした千草が寝ぼけ眼で立っている。
「千草?」
「千草さん?」
二人はパッと離れながらも口からは異口同音の言葉が発せられる。
「……仲が良いのはわかったけど、明日送ってくれること忘れないでね?」
千草はそう言い残しながらトイレに姿を消す。
「・・・・・・千草さん、寝ぼけている……のかな?」
いや、あれは絶対に寝ぼけているな? そう断言できる自分にちょっと嫌気がさすが隣では穂波が苦笑いを浮かべている。
「アハ、千草さんちょっと可愛いかも……」
穂波は頬を赤らめながらも千草の去っていった方を見つめている。
=エピローグ=
「じゃぁまたね?」
千草の一言に和也はちょっとしんみりした顔を浮かべる。
「また来てね? 千草姉ちゃん」
夏穂はセーラー服をたなびかせながら千草に手を振る。
「ウン! 絶対に来るよ、今度こそお義姉ちゃんと呼ばせてあげるからね?」
ちょっと待て、今すごい事を言わなかったか?
「う〜ん、それは嬉しいような……困ったような……ねぇ、お兄ちゃん」
赤い軽自動車の運転席に座っている勇斗は苦笑いを浮かべながら夏穂たちを見る。
「さぁ、早く学校に行きなさい、遅刻するわよ」
ちょっと怒ったような表情を浮かべる穂波にはいつもに無い迫力を感じる。
「……はぁい、和也兄ちゃん、いこ」
その迫力に押されたかのように夏穂は肩をすくめて和也の袖を引っ張る。
「ウン……千草さん、その……絶対遊びに来てくださいね?」
真剣な表情を浮かべる和也に勇斗と穂波は首をかしげる。
「ウフフ、来るわよ……絶対に」
千草の笑顔に和也は複雑な表情を浮かべつつその千草に背を向ける和也、学校に向うその背中には寂しさが浮かんでいた。
「預ける荷物はこれでいいのか?」
大きなトランクを函館空港の出発カウンターに置く勇斗の一言に千草は言葉無くうなずくだけだ。
「千草さん、これ持って行って下さい、函館名物の『いかそうめん』これ美味しいんですよ?」
どこで買ってきたのか穂波は箱に入った真空パックのいかそうめんを千草に渡す。
「ありがとう……穂波ちゃん」
微笑む千草だが、その目には光がない。
「あの……あたし協定は守ります正々堂々と千草さんに勝ちたいです」
その一言に千草の瞳に光が戻り、にっこりと微笑む。
「……言ったでしょ? あなたが有利なのは間違いないけれど、負けるつもりはまったく無いわよ、むしろ不利な方が優勢なのかもしれない」
その一言に穂波はニヤリと微笑みながら千草に向けて手を差し出す。
「ヘヘ、あたしだって負けません、今までより気持ちが強くなりました!」
その一言に千草は躊躇するが、すぐに笑顔を浮かべ差し出された手を握る。
「勇斗! 絶対にまた来るからね? それまでにはっきりしておいてよ」
意地悪い顔で千草は勇斗の顔を見る。その目尻には涙がたたえられている。
「な、何をだよ……」
嘘だ、自分の気持ちをはっきりさせないといけない、そんな事は分かっている、穂波にしても千草にしても俺に好意を持ってくれているのは良くわかっている、この二人に重要なのは……俺の気持ちだけ、ただ嫌なのはその言葉に対し苦笑いしか浮かべることしか出来ない俺だけ。
「期待はしていないけれどね? じゃあ、穂波ちゃんまたね!」
「はい、千草さんもお元気で」
そんな勇斗の不安を裏切るかのように穂波と千草は笑顔で別れ千草は搭乗口に足を向ける。
「そうだ勇斗……ちょっと」
そう言いながら千草は振り向き勇斗を手招きする。
「ん?」
きょとんとしながらも顔を向ける勇斗に向け千草は口をその頬につける。
「?」
「!?」
当事者である勇斗は呆気に取られた表情、穂波においては意表をつかれた表情を浮かべつつも、思いっきり膨れた顔を浮かべる。
「ヘヘ、やっぱりおまじないしておかないとね? 勇斗は私の勇斗って」
そう言いながら再び搭乗口に向く千草の肩はわずかながら震えているように見える。
「……千草さん」
搭乗口に姿を消す千草の背中を見つめながら穂波が呟く。
「穂波行くか?」
少し寂しそうな顔をしている穂波に勇斗は声をかける。
「はい! 今日も仕事です」
穂波は勇斗に向けて作った笑顔を向ける。
「先輩……」
元町にある有川家に車を置き、再び自宅兼お店のある函館駅に向けて二人寄り添い歩き出す。頬を撫ぜる風は暖かく勇斗が函館に戻ってきた時とは大違いだった。
「ん?」
勇斗は視線をそのままに穂波の次の台詞を待つ。
「あたし、早く先輩のことを『勇斗』と呼びたいです」
足元を見ながら穂波が言う。
「……俺はいつでもかまわんよ、俺もそのほうが嬉しいしな」
その一言に穂波は顔を上げる。
「本当ですか?」
穂波の顔は困惑したような、でも嬉しそうな笑顔を浮かべている。
「アァ……いつまでも先輩じゃあな」
苦笑いを浮かべる勇斗の顔を穂波は少し頬を赤らめながら見つめる。
「はい、頑張ります」
にっこりと微笑む穂波の顔は高校時代に見たあの笑顔と同じだった。あの時に見たあの茜色に染まる石畳の路でいつも穂波は微笑みながら俺を待っていてくれた、そうして今でも俺のことを待っていてくれる。俺はその気持ちに応える事が出来るのだろうか。
「なぁ、穂波……あの頃を覚えているか?」
勇斗は足元の石畳を見ながら穂波に声をかける。
「……高校のときですか?」
穂波はそう言いながら勇斗と同じように足元に視線を落とす。
「アァ、お前はいつも待っていてくれたよな」
勇斗の足が止まる、それにあわせて数歩離れた所で穂波も足を止める。
「はい、いつも『まだかな?』なんて思って待っていました、そのとき見た景色は今でも思い出します……ただボォーッとしていただけなのかも知れませんがあの時間が懐かしく思います、そしてあの時見ていた景色も忘れられません……変ですよね? いつも見ている景色なのにあの時の景色はとても思い出深いです」
振り向く穂波の頭ではポニーテールに束ねた髪がふわっと揺れる。
「……そうかもしれないな、好きな人と一緒に見た景色は普段とは違ったものに見えるものなんだだからその景色は忘れることが出来ない」
勇斗の視線の先には活動を開始した函館の街並みが広がる。
「はい、だからあの景色を忘れないんでしょうね? そして今見ているこの景色もきっと忘れることができなくなると思います」
穂波も嬉しそうな顔をして勇斗の視線を追う。
雪の消えた石畳の路、函館の街には当たり前にあるこの石畳の坂道を今二人で歩く、何気ないこの景色が二人の心の中にいつまでも残る。
Fin