coffeeの香り
最終話 気持ち
=二人の朝 taichi=
「ううん……」
いつもならベッドの中でいつまでもウダウダしている太一だが、今日に限って言えば一気に意識が覚醒する。
そうだ、昨日は暁子がうちに泊まって……それで……。
反射的に太一の顔が赤くなる。
「ん?」
扉を挟んだキッチンから物音がする、それに何やら良い香りも漂ってきており、太一のお腹を刺激する。
「ふん♪ふふん♪……ふふふ~ん♪」
……鼻歌なんて歌わないでくれよ、恥ずかしいなぁ。
太一は近くにあったシャツに袖を通し、動揺していることを悟られないよういつもと同じように接するため一息つきながら扉を開く。
「おはよ……おおぉ?」
太一は目の前に広がる光景に目を奪われる、そこには今までこの部屋で見たことがないんじゃないかというような朝食が並んでいた。
「あっ、おはよ、太一」
台所では暁子がにっこりと微笑んでいる。
「ウン……その、おはよ」
太一は再び顔を完熟トマトのように赤くして席につく。
「へへ、何とか太一が起きてくるまでにここまで作ることができたよ……もぉ、本当に何にもないから『ハセスト』まで行って買ってきたんだからね?」
「えっ? その格好で?」
太一は暁子の格好を見て驚いた表情を浮かべる。その格好は、太一の物であろうワイシャツを着ただけで、その下にはなにも着ていないような……ちょっと刺激強すぎ。
「そんなわけないでしょ? ちゃんとして行ったわよ、その後シャワー浴びて、着替えがなかったから、これ借りたの……」
暁子も頬を赤らめながら太一の顔を見る。
「それはよかった、その格好は刺激が強すぎるよ……」
太一は視線を一箇所に止めてそう言うと、暁子はその視線を追うようにして自分の胸元を見る、そこにはしっかりと谷間が……。
「もぉ~太一のえっちぃ!」
「暁子はコーヒー飲むか?」
ご飯に味噌汁、ホッケの開きを平らげ、満足な和風の朝食を取った後にコーヒーはどうかとも思うが、やはり目を覚ませるためにはコーヒーでないといけない。
太一はそういいながらコーヒーミルを取り出す。
「へぇ、太一が豆を挽くの?」
暁子は感心した顔でその機械と太一の顔を交互に見る。
「あぁ、やっぱり挽きたてじゃないと良い香りは出ないからね」
太一はそういいながらコーヒー豆をその機械の中に入れハンドルを回す。
ゴリゴリ……。
テレビのついていない部屋の中にミルの音が一定のリズムを刻み響き渡る。
「わぁ、良い香りがしてきた……」
暁子はそういいながら鼻を宙に向ける。
「だろ? コーヒー豆も機械で挽くと楽でいいけれど、どうしても熱を持ってしまう、するとどうしても酸味がきつくなってしまうんだ、だから俺はこうやって手挽きするんだよ、面倒でもね」
太一でも自慢げに鼻をひくつかせる。
「へぇ、ウンチク持っているんだぁ、太一でも」
太一もってどういう意味だよ。
「これでよしと……」
太一はそういいながらペーパーフィルターを取り出し、カップにそれをセットし、今挽いた豆を入れお湯を注ぐと、周囲にはコーヒーの良い香りが充満してゆく。
「ホント……良い香り、なんだか落ち着くかも」
暁子はそういいながら太一の注いでいるコーヒーカップに鼻を近づける。
「コーヒーにはイラついた気持ちを沈静化する効果があるって何かの本で読んだことがあるよ、だから俺は会社で飲むのかな?」
太一はそう言いながら今度は自分のカップにお湯を注ぐ。
「あら? そうしたらそのイライラの原因を作っているのはあたしかしら?」
意地の悪い顔で暁子が太一の顔を見る。
「はは、逆だろ? 暁子のイライラを俺が作っているんじゃないか?」
そういうと暁子はにっこりと微笑みながらコーヒーを口に含む。
「美味しいぃ~ホント落ち着くわね? ……モーニングコーヒー……かしら」
暁子は照れくさそうに太一の顔を見る。
そんな顔しないでくれよ、やっと落ち着いてきたところなのに……。
「ねぇ……太一」
ソファーに座っている太一に向けて洗い物をしている暁子が声をかけてくる。
「ん?」
太一はなんとなく目を通している新聞を置き暁子を見る。
「……いつ向こうに行くの?」
胸をぎゅっとつかまれるような感覚にとらわれる。
「……年明け早々かな……もしくはもう少し早いかも」
森山の話によると開設に当たって赴任者を早めにその部署に動かすといっていた。
「……あと一ヶ月ぐらい……かぁ、そうだ、泉美ちゃんには連絡したの?」
暁子はそういいながら太一の方を向く、その目はちょっと赤くなっているものの表情は明るい。
「あぁ、一昨日の夜に話をしたよ」
「喜んでいたでしょ?」
「あぁ、耳が痛くなるほど大きな声を出していたよ」
「うふ、良かったなぁ……」
暁子は微笑みながらもエプロンの裾を握り締めている。
「早くパパって呼ばれるのに慣れないといけないわね?」
暁子はそういいながら再びキッチンに向くが、その肩は震えていた。
「暁子……」
太一はそっと暁子を背後から抱きしめる。
「た、太一?」
動揺している暁子を抱きしめる。最初は硬かったその身体も徐々に力が抜け太一に体重を預けるようになる。
「……暁子」
太一の鼻腔をシャンプーの香りが抜けてゆく。
「太一……あたし昨日言ったことは本当だから……酔っていたからじゃない、本当にあなたのことが好き、本当ならあなたと離れて仕事をするなんていや……あたし……あたし……」
暁子の声が涙声になる。
「暁子……俺の気持ちを話していなかったよな……」
太一がそういうと暁子の小さな肩がピクリと反応する。
「……太一の気持ち?」
暁子は聞きたいような聞きたくないような不思議な表情を浮かべているが視線だけは真っ直ぐに太一の目を見つめていた。
「そう、俺の気持ち……暁子と同じ気持ちということを言っていないだろ?」
暁子の目から涙があふれる。
「……同じ? 太一の気持ちはあたしと同じ?」
グシャグシャにした顔を暁子は太一に向ける、その顔を太一はやさしく見つめている。
「そう、同じ……俺も暁子の事が好き……部下でもなく同僚でもない、一人の女性として君のことが大好きだ」
その一言に暁子はハッとして、そして太一の胸に顔をうずめる。
「……う……うれしいよぉ」
……うれしいよぉ、って……まぁいいかぁ、暁子らしくって。
太一は優しい笑顔を浮かべながら嗚咽をこぼす暁子の頭を撫ぜる。
「太一……」
「暁子……」
二人の顔が近づき、唇が重なる、その味は少し涙の味がした。
=太一課長 mana=
「……と言うわけで、真島課長は来月から東京に新しくできる『店舗コンサルティング室』に配属になる」
森山部長、今なんて言いました?
函館事業部全体で行う朝礼で太一の異動が発表される、その中で真菜はぽかんと口を開けたままでいて、その意味を理解できなくなっている。
「三年だけでしたが、みんなといい仕事ができたと思いますし、これからも東京でこの函館事業部の発展を願っています」
太一がぺこりと頭を下げるとどこからともなく拍手が沸き上がる。
「太一課長……なんで?」
朝礼が終わり、部署に戻ると太一のデスクは綺麗に片付いている。
「太一課長?」
綺麗に片付いているそのデスクを真菜が呆然と見ているとみゆきが声をかけてくる。
「太一課長、移動準備で今日ここを出るらしいわね? 昨日の休みに出てきて準備していたみたい……三年だけれど、もっと長くいたような気がするわね」
みゆきの目もちょっと潤んでいる。
「真菜ちゃん、みゆきさん……」
太一課長?
振り向くとそこには泣きじゃくっている絵里香の肩をぽんぽんとたたきながら太一が申し訳なさそうな顔をして立っている。
「真菜ちゃん……ごめん、黙っているつもりじゃなかったんだけれど、言い出す機会が取れなくって、ホントごめん」
太一は素直に真菜に頭を下げる。
「そんな謝らなくっても……でも、ちょっとショックです、せっかく仕事が覚えられてきたばかりなのに、太一課長がいなくなっちゃったらあたし……」
「そうですぅ、太一課長がいなくっちゃ三課がぁ……えぐぅ」
絵里香はそういいながら太一の顔を見上げるが、その顔は涙でグシャグシャになっている。
「なに言っているんだ、俺の代わりには川村課長が来るし、俺なんかより奴のほうが頼りになるぞ? それに引継ぎでちょくちょく来るから」
太一はそういいながら再び絵里香の肩をぽんぽんとたたく。
「でも……あたしは太一課長と一緒に仕事がしたいんです!」
真菜ははっきりと太一の顔を見てそう言う。
「それはありがたいお言葉だな……大丈夫、いつだって俺は俺だ、向こうに行っても変わらない、もし困ったことがあったらいつでもこれに電話して来い、相談には乗るよ」
太一はそういいながらポケットから携帯を取り出す。
「みんなの携帯の先にはいつだって俺がいる、仕事以外のことでも何でもいいから困ったらここに電話して来い、三課のメンバーだったら特別に無料で相談に乗るよ」
太一はそういいながら舌を出しておどける。
太一課長……。
「暁子係長は?」
直也が周りを見渡すが、そこに暁子の姿がない。
「えぐぅ、さっき森山部長のところにいましたぁ……ぐしぃ……」
絵里香は涙がかれることを知らないかのごとく泣き続けている。
「太一課長、出張でこっちに来ることもあるんですよねぇ」
函館空港出発ロビーで絵里香がにっこり微笑みながら太一の顔を見上げる、しかしその目は赤く充血している。
「ウン、たぶんこの地区の担当は俺がやるようになるんじゃないかな? 慣れているし」
太一は大きな荷物を持ちながら絵里香の頭をぽんぽんとたたく。
「今度は、あたしが太一課長をお客さんに紹介する番ですね?」
真菜もそう言いながら太一の顔を見上げる。
そう、今までは太一課長にお客さんを紹介してもらっていたが、今度からはあたしが太一課長にお客さんを紹介する番ね。
「そうだな、真菜ちゃんのお客さんを担当できるようにがんばるよ」
太一はそう言いながらにっこりと微笑み真菜の肩をぽんとたたく。
太一課長の癖、この手に何度励まされたか、肩をたたかれることによってすごく落ち着いた、でも明日からその手はない……。
真菜の頬に涙がこぼれる。
「おいおい、頼むよ、笑って見送ってくれよ」
太一は苦笑いを浮かべながら真菜を見ている。
「笑って見送れる訳ないじゃない!」
太一の背後から声が聞こえる。
「暁子……」
ちょっと怒ったような顔をしているものの、暁子の表情はみんなの中では一番冷静のようだ。
「暁子係長」
やっぱり暁子係長も寂しいんだろうな……。
「みんなの気持ちも察してあげなさいよね? そりゃ行くほうはいいかもしれないけれど、残された人間は不安なんだから……あたしだってそう」
暁子はちょっとうつむく。
暁子係長?
「太一……大好きだよ」
暁子はそう言いながらみんなの目の前で太一に抱きつく。
「茅島係長?」
絵里香が驚いた顔でその様子を見つめる。
「あっ、暁子係長って……はぁ」
直也はがっくりと肩を落とす。
「あぁ、太一課長ぉ~……」
哀は今にも泣き出しそうな顔をして二人を眺めている。
「ふふ、やっとね……暁子係長」
みゆきは優しい瞳で二人を見守っている。
「……暁子係長、やっぱり……」
あたしの負け……かなぁ、太一課長に対する気持ち……もしかしたら尊敬とか憧れだけだったのかな?
真菜はその様子を見ながらため息をつく。
「でも、やっぱり面白くないことには違いがないわよね?」
真菜は頬を膨らませると、隣でみゆきがやれやれと首を振る。
ぶぅ、やっぱりあたしも太一課長の事が好きなんだもん!
=東京…… taichi=
「おかえり~」
玄関を入ると泉美が元気よくお出迎えしてくれる。
「おまえなぁ、そう簡単に人様に抱きつくものじゃないぞ?」
太一がそう言いながら背広を脱ぎネクタイを緩める。
「ぶぅ、だって、パパと一緒にいられるのが嬉しいんだもん」
泉美はそう言いながら太一の腕に顔を摺り寄せる。
東京に来て三ヶ月、やっと引越しを終え、泉美も一緒にこの部屋で暮らすようになった。
「今日は早いね?」
泉美は今日の夕飯であろう鍋をコンロにかけながら太一の顔を見る。
「あぁ、ようやく開設準備が整ったからな、休み明けには本稼動だ」
ここの所、開設準備に残業続きだったが、やっと準備が整い、本稼動できる状態になった。
「よかったぁ、じゃあ明日はお休みね?」
泉美の微笑みにちょっと背筋が凍る。
「あぁ、休みだ、だからゆっくりと休ませてくれ」
ぴんぽぉ~ん。
ちょっと間の抜けたような呼び鈴が鳴る。
「お客さんかな? パパ出られる?」
泉美はそう言いながら太一の顔を見る。
「ヘイヘイ……分かったよ」
太一は渋々といった表情で玄関に向かう。
「どちらさまでしょうか?」
太一はそう言いながら玄関の扉を開く。
「えっ!」
その玄関先に立っていた人物を見て太一は息を呑む。
「な……なんで……」
太一の表情に動揺が走る。
「エヘへ……来ちゃった……」
手には大きな荷物が持たれ、函館の文字の書かれた紙袋も持たれている。
「……来ちゃったって……なんでここが」
太一が狼狽している時キッチンから泉美が顔を出す。
「パパ、だれ? って、あぁ~!」
泉美の顔に笑顔があふれ、次の瞬間その来客に飛びつく。
「わぁ~い、来てくれたんだぁ~」
太一を押しのけるような格好で泉美は来客に飛びつく。
「うふ、来ちゃったよ、泉美ちゃん」
そんな泉美のことをやさしく見つめる笑顔はあの時と同じ。
「エヘ、嬉しいなぁ、暁子さん!」
泉美はそう言いながら暁子の胸の中で笑顔をはじけさせている。
「こっちこそ、場所を教えてくれたおかげよ……泉美ちゃん、ただいま、そして太一も……ただいま」
暁子はちょっと照れたような表情で太一の顔を見る。
「あ……あぁ、お帰り、暁子」
太一のその一言に暁子の目が潤む。
「まさか暁子が来るなんて思っていなかったよ」
三人で食卓を囲むそれは思いのほか華やかだった。
「うふ、泉美ちゃんが新しいここの住所を教えてくれたからね?」
そういう暁子の顔はやさしく泉美のことを見ている。
「ヘヘ、暁子さんなら来てくれるかな、なんて思ったから」
泉美は照れくさそうにそう言いながらから揚げを頬張る。
来てくれるかなって……なんとなく確信犯のような気がするけれどな。
太一の視線に泉美は肩をすくめる。
「パパだって嬉しいんじゃないの? 暁子さんが来てくれて」
その一言に太一の顔が一気に火照る。
「ば、馬鹿な事言っていないで、お風呂に入ってこい!」
太一のその台詞に泉美は逃げるように風呂場に姿を消す。
「……まったく」
鼻息荒い太一の目の前で暁子は楽しそうに微笑む。
「ウフフ、本当に仲が良いわね? やきもち妬いても良いかしら」
隣に座っている暁子はそう言いながら太一の顔を見つめる。
て、照れるじゃないか……そんなじっと見られたら。
太一は視線をそらせる。
「それより、会社はどうしたんだ? 忙しい時期だろう、今頃は」
そうだ、去年までは俺はこの時期会社に泊まりになる事もしばしあった位に忙しい筈だ。
「……ヘヘ、辞めちゃった」
辞めちゃったって……。
「辞めちゃったって……お前、何で」
素直に驚いた表情を浮かべる太一に対し暁子はちょっと自嘲した様な表情を浮かべている。
「だって! ……だって……」
暁子は赤い顔をしながら太一のことを睨むが徐々にその顔はうつむいてゆく。
「……おい、暁子」
暁子は力なくうつむき、太一の肩にもたれかかる。
「……だって、太一のいないあそこで、あたしなにもできないよ、太一がいたからあたしができたの、太一のおかげなの、太一がいなかったら……あたしなにもできない」
暁子はそう言いながら熱い視線を太一に向ける。
「だからって……辞めなくっても……」
太一はそう言いながら暁子の肩を抱く。
不意に力の入っていた暁子の力が抜けたような気がする。
「ううん、駄目、辞めなければ……そうしないといつまで経ってもあたしと太一の関係は『上司』と『部下』って見られる……あたしの行きつきたい所は、あなたが毎日入れてくれるコーヒーの香りのする所……」
暁子のその一言に太一の顔に笑顔が膨らむ。
「……暁子、お前……まさか……その……」
ヤベ、何動揺しているんだ? 俺って……でも……。
「…………ウン」
暁子は落ち着いた様子で太一の肩にもたれかかり、そうして太一の顔を見上げる。
「……あたし、泉美ちゃんのママになれるかな……」
暁子……そこまで……。
太一が口を開こうとした瞬間に風呂場から泉美の声が聞こえてくる。
「いいに決まっているじゃない!」
風呂場から泉美がタオルを巻いただけの状態で暁子と太一に抱きつく。
「い、い、泉美?」
太一が目を白黒させているのも構わずに泉美は涙をこぼしながら二人から離れようとしない。
「これからもよろしくね……ママ」
その一言に暁子の目から涙が溢れ出す。
「泉美ちゃん……ありがとう……こっちこそよろしくね?」
暁子と泉美はまるでその場で抱き合うように泣き崩れる。
「泉美……暁子……」
太一はその様子を見つめながら二人をぎゅっと抱きしめる。
きっと暁子も一大決心をしてここに来てくれたはずだ、俺ができることは、暁子のその気持ちに答える事だけだ。
暁子の嗚咽に泉美の鳴き声が重なり、そうして太一の眼にも熱いものがこぼれ落ちる。
そうだ、これからは、俺は愛しい娘と、そしてこんな俺を愛してくれた女性を全力をかけて守っていかなければいけないんだ、それが俺の使命なんだろうな。
太一はそう考えながら自分の胸に顔をうずめている二人を見つめ、得も言えない幸せ感を感じていた。
=エピローグ=
「太一課長、一番にご自宅からです」
オフィスで今年入った新入社員の女の子に声をかけられる。
「はいよ……ハイ……泉美かぁ……そうか、生まれたか!」
太一のその声に周囲からお祝いの言葉が飛んでくる。
「ウン……ウン……男の子だな……分かった、すぐに行くよ」
電話を切るとこの部署の上司である中山が声をかけてくる。
「太一、生まれたのか……良かったな、おめでとう、すぐに奥さんの所に行ってこい」
中山はそう言いながら太一の手を取り我が事のように喜ぶ。
「中山室長……サンキュ、次はお前の所だよな?」
太一はそう言いうと、照れたような表情を浮かべながら中山は手を振る。
「うちはまだ先だ……仕事命な女だからな? お前が羨ましいよ」
中山がそう言うが早いか、太一が背広を取るが早いか、太一は脱兎のごとくオフィスを後にする。
「あぁ、パパ、こっちだよ……今ママも移ってきた所だよ……ほら」
産婦人科の病室の前にはセーラー服を着た泉美が太一を見つけ手招きする。
「ウン……」
太一はちょっと緊張した面持ちで病室に入ると、そこには少し疲れたような表情を浮かべながらも、なんだか幸せそうな表情の暁子がベッドに腰を据えていた。
「あっ、太一……来てくれたんだぁ……エヘ、これから授乳だって……ちょっと緊張だよ」
暁子は太一のことを見て嬉しそうな表情を浮かべる。
「ウン……」
太一はそう言いながら暁子の手に抱かれている小さな命を見つめる。
「うふ……男の子だって、あなたの勘は外れたわね?」
太一はずっと女の子だと言い張っていた。
「いいだろう……五体満足に生まれてきてくれれば俺はなにも言わないよ……お疲れ様……そして、ありがとう」
太一のその一言に暁子の眼が一気に潤む。
「……どういたしまして……あたしこそありがとう、あなたの子供を生ませてもらえて、あたし、幸せです」
暁子の頬に涙がこぼれる。
「真島さん、初めての授乳ですよね?」
看護師がそう言いながら暁子に声をかける。
「ハイ……」
暁子は緊張した面持ちで看護師と今生まれた我が子の事を見る。
「うふ、そんなに緊張することはないですよ……」
看護師は苦笑いを浮かべながら暁子のことを見つめる。
「そうかな……わぁ……」
暁子の胸に抱かれた赤ちゃんは暁子の胸に顔をうずめてコクコクとお乳を飲み始める。
「ママ、赤ちゃんがおっぱい飲んでいるよ? ねぇ……!」
泉美はそう言いながら暁子の顔を見るがその表情を見て絶句する。
「……ウン、見ているよ……力強く……いっぱい飲んでね?」
暁子の眼からは涙がこぼれ落ちている。
「お母さん、その涙が、お母さんになった実感なんですよ……」
看護師のその一言に暁子はただうなずく。
「さて、北斗君のお部屋は……こっちよ」
部屋の中に作られたベビーベッドの置かれた一角、そこにはさまざまな人から贈られたお祝いの品が置かれている。
「泉美、あまり北斗をいじくるなよ?」
太一はそう言いながら苦笑いを浮かべる。その隣には新たな家族である北斗がスヤスヤと暁子の腕の中で眠っている。
「ウフフ、泉美も北斗が家に帰ってきて嬉しいんだものね? 太一はやっぱり女の子の気持ちが分かっていないんじゃない?」
意地の悪い顔を浮かべながら北斗をそっと暁子はベビーベッドに横にさせる。
「さて、やっと我が家に帰ってきたわね……あら?」
暁子は手元にあったお祝いの電報に手を伸ばし微笑む。
「どうかしたのか?」
太一がその電報を見ると苦笑いを浮かべる。それには、
『近日中にお邪魔します! 暁子係長、あたしまだ諦めたわけじゃないですからね!』
それは真菜からの物だった。
「だって……太一、どうする? 真菜ちゃん今でもあなたにきっとホの字よ?」
意地の悪い顔をしながら暁子は太一にそういう。
「そういわれてもなぁ……」
「あぁ、今まんざらでも無いって言う顔していた……浮気もの!」
「そんな顔してねぇべ!」
「ううん、今『真菜ちゃんかぁ』って言う顔していた!」
「そんなこと……」
暁子は太一に食って掛かるような顔をして問い詰め、太一もそれにしどろもどろになりながらも応戦する。
「ほらぁ、そんな事言っていると、北斗が起きちゃうよぉ」
ベビーベッドの中で北斗がぐずりだす。
「しぃ~」
三人で口元に人差し指を当てる。
キッチンからは太一の入れたコーヒーの良い香りが部屋中に香っている。
FIN