坂の街の小さな恋……
〜♪〜 はじまりの春 〜♪〜
第十一話 Birthday
=学園生活=
「ゆえに、この際に用いられる公式は、さっき言った……」
物理という授業を考え出した人はきっと寝不足という定理を忘れていたのであろう、そもそもこんな理論を考えたアインシュタイン博士を俺は全力で恨むよ。
「……法則一として……」
幸作は、目の前で語られている先生の台詞が頭の中にとどまらず、その代わりに眠気というものが随時蓄積されてゆく。まぶたが重い……昨日、結局考えはまとまらず、気がついたら既に空が明るくなっていた。
「……幸作君」
隣の席で麻里萌が幸作のわき腹をひじで突っつく。
「ん?」
どんよりとした目で幸作は麻里萌の顔を見るが、その顔はまるで夢の国で微笑む女神様のように見える。
「駄目よ、起きていないと」
麻里萌は困った顔をしてそう言うが、幸作は力なくそれにうなずき、再びぼんやりした顔で机の上にただ広げられているノートに視線を落とす。
「そこで定義なんだが……」
一瞬頭の中で天使が踊り、その天使が手招きをしていた、こっちにくれば気持ちよくなるよと。幸作の目は半分以上が落ちてきている。
「もぉ……」
隣ではため息交じりに呟く麻里萌の声が聞こえる。
「ねむいぃぃ」
長い時間だった……睡魔との戦いはイーブンといったところだろうか、どうにか最悪の事態は回避することができた。ようやくやってきた休み時間、周りではわいわいと、次の授業の支度をしているが幸作はそのわずかな時間で少しでも睡眠を取りたいという気持ちでいた。
「大丈夫? ひどい顔しているよ?」
隣で教科書の入れ替えを終わらせた麻里萌が幸作の顔を覗き込む。
そのひどい顔の原因を作ったのは君なんだがなぁ……それにひどい顔とはひどい話だ。
心の中で突っ込んではみるが、しかし眠気というのは何よりも勝る武器のようで、幸作は机に突っ伏す。
「なに幸作、夜更かしでもしたの? また漫画でも読みふけっていたんでしょ」
寝不足の種その二が来たな……。
どんよりした表情で顔を上げる幸作の前にはショートカットの髪の毛に、最近色気がついてきたのか耳の真上で一箇所髪をまとめ、ボンボンのついた髪飾りをつけた初音が立っていた。
「漫画じゃないよ……もっと高尚なことだ」
もうこの休み時間に寝ることはできないなと幸作は諦め顔を上げる。
「ヘェ〜、漫画じゃないって……アァ、もしかして……」
初音はわざとらしく口に手をやる。
「なんだよ」
幸作は口を尖らせながら初音を見る、その目は軽蔑したような表情を浮かべ始める。
「……年頃とはいえ、女の子の前でそんな事いうことないじゃない! えっち」
初音はそう言いながら頬を赤らめる。
君が今何を想像したかわかったぞ!
「馬鹿こくな! そんなんじゃないよ!」
幸作も顔を赤らめながら初音に詰め寄る。
「じゃあどういうことよ」
初音は間髪いれずに、そう言い切り返してくる。
……まさかお前達の事を考えて眠れなかったなんていえないし、そんな事を言ったら、さらになに言われるか分からないし、しかし、そのまま放っておけば俺の健全なイメージが汚されてゆくし……否定を繰り返すしかないか。
「それは……もっと高尚なことだ」
幸作は答えに詰まりながらもそう言うしかできなかった。
「なんだ、幸作、そんな事で悩んでいるのか? 言ってくれれば、いつでも俺が手伝いに行ってあげるのに」
その会話をどこで聞いていたのかニコニコと亮が口を挟んでくる。
手伝うって……一体ナニを。
「なにをだぁ! そもそもなんで男のお前に手伝ってもらわなければいけないんだ! 一人でだって……何を言わすんだ!」
幸作はガバッと顔を上げる。
「えっちぃ〜。やっぱり幸作って不潔! 近寄らない方がいいわよ麻里萌ちゃん、幸作のスケベがうつっちゃうよ」
初音はそう言いながら大げさに麻里萌の腕を取り、幸作から離れさせるようにその腕を引く。
「そうなの、幸作君?」
麻里萌の顔もちょっと軽蔑したような表情が浮かんでいる。
俺の健全なイメージが音を立てて崩れてゆく……。
「それは言葉のあやというか……亮、お前のせいだぞ!」
幸作は隣で嬉しそうに微笑んでいる亮に顔を近付ける。
「本当か? でも男同士もいいらしいぞ? 試してみないか?」
亮は、嬉しそうに幸作の肩に手を置き、ウンウンとうなずく。
「ナニを試すんだ! それに、俺にはそんな気は一向にない!」
「へんなドラマがここで生まれているみたい、やっぱり麻里萌ちゃんこの男の近くにいない方がいいわよ、きっと両刀遣いかも……」
「初音ぇお前は何を言っている、麻里萌、誤解だぁ!」
幸作の悲鳴に似た声が教室中に響き渡る。
「いや、しかし、今世の中では『ボーイズラブ』というものも流行っているらしいし、ちょっと、その辺りについよく聞いてみたい気がする」
啓太がそう言いながら、ノートを持って幸作の席に合流する。
「だったら、お前が実体験すればいいべ」
なに目をキラキラさせているんだ、この男は……俺の周りには、こんな変な友達しかいないのか? それも悲しくなってくるぜぇ。
「何々、誰と誰がボーイズラブ? ちょっと話を聞かせて」
後ろの席で小説を読んでいたクラス委員の湯田芽衣子(ゆだめいこ)が嬉々とした表情で話しに加わる。
「なに、委員長ってこういうの好きなの?」
初音が驚いた表情で芽衣子の顔を見ると、芽衣子は嬉しそうな笑顔をたたえながらうなずく。
「可愛い男の子と、かっこいい男の子の禁断の恋、これはきっと日本の新しい文化になるといっても過言ではないわね?」
恍惚の表情を浮かべながら芽衣子は一気にまくりたてる。
……この娘も変だ……絶対に変だ! 普段は頭の良い大人しい娘だと思っていたが……なにを根拠に日本の新しい文化なのだかがよく分からない。
幸作は再び机に突っ伏す。
「まぁ、否定はしないけれど、実際に目の前で起きるとそれは……」
初音も苦笑いを浮かべながら芽衣子の顔を見る。
「だろ? 委員長が許可してくれるのであれば、僕はいつだって……」
亮は、理解者を得たという大義名分のためなのか、いつにも増して饒舌になっている。
「許可します! 啓太君もその様子をイラストにしてくれないかしら?」
許可しますって……。
「御意のままに……ということだ、幸作諦めたほうがよろしくないか?」
啓太の視線と、亮の熱い視線が机に突っ伏している幸作に突き刺さる。
「相手は幸作君なの? いいわねぇ、男くさい男の子、幸作君と、線の細い色男、亮君の組合せかぁ、あたしも小説書こうかしら、色々と話を聞かせてもらうから、その時はよろしくね?」
芽衣子はニッコリと微笑みながら、そう言い幸作の顔を覗き込む。
「勘弁してください、お願いですから、これ以上俺をいじめないでください……」
いつから俺はこんなキャラに変わってしまったんだ?
幸作は机に突っ伏しながら深いため息を一つつく。
=バイト先にて=
「おはよ〜ございます……」
疲れきった表情のまま幸作と麻里萌は喫茶カレイドスコープの扉を開く。
「おはよ〜ございまぁっす」
それに対して麻里萌は元気いっぱいだ。
「おはよって、なんだか好対照なカップルだなぁ……なんだかつかれきった男と、その横でニッコリと微笑む彼女……幸作尻にひかれたのか?」
マスターが苦笑いを浮かべながら幸作たちを向かい入れる。
「カップルだなんて……ねぇ」
麻里萌がマスターのその一言に頬を赤らめる。
「あらぁ、でも幸作君はまんざらでもないって言う顔をしているけれど?」
厨房からは杏子が意地の悪い顔をしながら顔を見せる。杏子のお腹はまだ目立たないものの、『慣れる為』に着ているマタニティー服をカッコよく着こなしている。
「そんな事ないよぉ……多分」
幸作も頬を赤らめる。
「俺も物理的に麻里萌ちゃんのお尻にひかれたいかも……」
マスターの呟きが、生憎と言うのだろうか、杏子の耳に届いてしまったようで、杏子の目がつりあがる。
「……何を言っているのかな?」
今までの声から、確実に一オクターブぐらい下がった杏子の声に、マスターは飛び上がって驚く。
「一人言でぇっす」
マスターは、しっかりとひかれているみたいだな? 杏子さんに……。
幸作は同情の目でマスターを見てしまう。
「こんちわ〜」
カランと、扉が開かれるとそこには、制服姿の元気な千鶴が立っていた。
「やぁ、千鶴ちゃん、今日は早いね?」
マスターは気軽に声をかけるが、なんとなく、今の幸作は千鶴に声がかけづらい。
「ウン、今日は部活休みだったから……麻里萌ちゃんこんにちは」
にっこりと千鶴は微笑みマスターに答え、笑顔そのまま麻里萌に声をかける。
「こんにちは、千鶴さん……初音さんに連絡できました?」
麻里萌もにっこりと微笑み千鶴を見る。
「ばっちり、後で来るって! はぁ〜い幸作……なによ、元気ないなぁ」
寝不足の種その三が何を言うか……ちょっと待て、今初音がどうのいっていたが?
「初音がどうしたって?」
幸作は驚いた表情で千鶴を見る。
「なに言っているのよぉ、今日はあんたの十七回目の誕生日でしょ? だからみんなで、お祝いしようって言っているの!」
誕生日? 俺の? すっかりと忘れていたぜぇ、ここの所色々在り過ぎたしな。
「なぁに、忘れていたの? もぉ、こんなに可愛い女の子三人があんたの誕生日を祝ってあげるって言うんだから、ありがたく思ってよね?」
千鶴はそう言いながら幸作にウィンクを投げかける、その隣では麻里萌も楽しそうに、そして嬉しそうな顔で微笑んでいる。
「毎度ぉ〜」
扉が開くとそこからは威勢のいい声が上がる。
「ちょっと初音ぇ、ここはお寿司屋さんじゃないんだから、もうちょっと落ち着いて入ってこられないの?」
千鶴は、その扉で苦笑いを浮かべている初音に向けて呆れた表情を浮かべる。
「エヘヘ、つい癖で」
初音は照れ笑いを浮かべながら、カウンターに座る。
「はいよ、バースデイケーキだよ……あたしのお手製のケーキ、幸作君の給料から引いておくからお嬢さん方は心配することないわよ」
杏子が厨房から少し大きめのケーキを持って千鶴たちの座っているカウンターに置く。
「杏子さん、それってマジ?」
幸作は手にしていたエプロンを落としそうになる。
ただでさえ生活費でいっぱいいっぱいなのに、ここで給料を差っ引かれたら郁子に合わせる顔がないよぉ。
「うふふ、冗談、これはあたしたちから幸作君への誕生日プレゼントよ」
杏子は優しい笑顔で幸作の顔を見る。その表情は幸作から見るとまるで母親のような感覚で何となく心がくすぐったくなる。
「ありがとう……」
幸作は素直にペコリと頭を下げる。
「幸作、うちの嫁に惚れるなよ?」
マスターが意地の悪い顔で幸作の顔を見る。
この顔もそうだ、なんだか親父に冷やかされているような感覚……みんな俺のことを色々と気にかけてくれているんだなぁ。幸作はちょっと目頭が熱くなる。
「な、なに言っているんだか、おノロケは十分だよマスター」
幸作はそれが悟られないように厨房に入る。手を洗いうがいをしてといういつも行う儀式のほかに、今日は顔も洗う。
「幸作君、どうかしたの? 顔なんて洗って」
タオルで顔を拭いているとき麻里萌が顔を見せる。こんな顔は見せられないよな?
「いや……」
幸作の声が一瞬裏返る……。
かっこ悪い、泣きそうになっていたことがバレバレじゃないか。
幸作のその声は明らかに涙声だった。
「幸作君?」
麻里萌はその声に過敏に反応する。
やべぇ、完全にバレているよ……。
「なんでもないって……さぁ、仕事だ」
顔を拭く振りをしながらも、目からこぼれおちる涙をタオルで拭う。こんな情けない顔を麻里萌には見せたくない。
「……幸作君……ウン! 今日もガンバロー」
麻里萌は幸作を気遣ってか、そ知らぬ顔で一緒に右腕をおどけたように高く突き上げる。
「おうよ!」
幸作はそう言いながら麻里萌のあげた右手に手をあげハイタッチを合わせる。
「うふ」
そんな様子の幸作に麻里萌は笑顔を向ける。