アキの恋
=Prologue=
「柏木亜季(かしわぎあき)さん! ぼっ……僕と付き合ってくださいっ!」
夏間近の七月、校庭にある大きな桜の木の下に呼び出された時からこんな台詞が言われるのではないかと少し想像していた。
「エッと、中島君……あたし……」
クラスは違うけれど、この間までは同じ陸上部で一緒に汗を流していた友達、でも、告白されてその関係を崩したくないがために、お座なりに付き合うなんて言う事だけはしたくない。
「ん……」
ゴクリと言う音が中島君の喉の動きと同時に聞こえてきそう、わかっている緊張しているのは中島君だけじゃないの、あたしだって緊張しているんだから。
「あたし……ごめんなさい……」
頭を下げるしかない。
「――はぁ、やっぱり玉砕かぁ……」
そんな一言に慌てて顔を上げて中島君の顔を見上げると、そこには諦めたような残念な様な、そんな不思議な顔で苦笑いを浮かべている。
「やっぱり?」
首を傾げると、背の高い中島君は苦笑いのまま背の低いあたしの事を見おろしてくる。
「そっ、石山たちには話したんだ『柏木に告白する』って」
石山君って確か陸上部の元キャプテンで……。
「石山もお前に告白したんだって? 俺知らなかったよ……」
中島君の顔は照れたようなものに変わるが、きっとあたしは情けない顔になっていると思う。
「ゴメ……ンね……」
声が震えてしまう。
「いや、俺こそゴメン、別にお前を攻め立てる気があるわけじゃないんだ、ただ石山にも言われたんだよ『諦めろ』って」
頬に暖かいものが伝うと、それに気が付いた中島君は慌ててくしゃくしゃになったタオルハンカチをあたしに渡してくれ、体中を使って動揺を表している。
「ゴメン、だから気にしなくっていいよ、ネ? これから中学卒業まで今まで通り付き合ってくれるだけでいいから、ただ俺も告白しておかないと、俺の中にあるモヤモヤがどうにもならなくってだからしちゃって、だから仕方がなかったから、だから気にしないでくれ……」
日本語になっていないけれども、優しい中島君の一言がかえって胸に刺さる、告白しないとモヤモヤが取れない……それはあたしだって同じ事なんだよ……。
=想い人=
「はぁ……」
白い紙を手にして深いため息を付く、その紙には散々たる数字が羅列されており、家に帰る足にカセを嵌められたような気分になる。
「亜季ぃ、どうだった?」
隣の席に座る梨恵子(りえこ)が複雑な笑みを浮かべてあたしの顔を覗きこんでくる。
「最悪……このまま家出しちゃいたいぐらい……受験生だって言うのに……」
中学三年生、来年になれば生まれて初めてといってもいい受験を体験するのだが、まだ実感がないと言うのだろうか、受験勉強に身が入らないというのが現実なんだけれど、現実を目の当たりにさせられると、さすがに慌ててくる。
「アハ……ミートゥよぉ……」
梨恵子はそう言いながら通知表と書かれているその紙をポンと机の上に投げ出し、大きく伸びをすると、思わずその胸に目がいってしまうのは同性としての憧れからなのかもしれないわよね? 大きな胸……Cカップって梨恵子は言っていたけれど、もっと大きいんじゃないかしら? 夏服になってもっと目立ってきたような……。
「はぁ、中学最後の夏休みかぁ、彼氏と一緒に海にでも行きたいのになぁ」
「かっ、彼氏ぃ?」
思わず大きな声を出すあたしに対して教室中の視線が矢のように飛んできて、それを避けるようにあたしは机に突っ伏す。
「あ、あんたいつの間に彼氏なんて作っているのよ」
声を潜めながら梨恵子の顔を見上げると、その顔はいつものような自信満々な顔をしている梨恵子と違い少し頬を赤らめており、同性であるあたしから見ても可愛いと思う。
「エヘヘ、この間……あたしから告白したら呆気ないほどに……」
「告白したって、もしかして麻生(あそう)君なの?」
今年に入って何度も梨恵子の口から訊いた事のある人の名前を挙げると、恥ずかしそうにその首をコクリと縦に振る。
「告白したらホッとしちゃって、そうしたら涙が出てきちゃって、彼そんなあたしの肩をそっと抱きしめてくれた、その瞬間もっと好きになっちゃった」
その時の事を思い出しているのだろう、視線を宙に浮かべながら火照っている頬を手で押さえる仕草……可愛いぃ、あたしでもこんなに可愛くできるのかなぁ……でも……。
「そっか……よかったね?」
なんだか梨恵子が遠くに行ってしまったような気がして、自分でも意外なほどにそっけない声が出てしまった。
「うん……で、でもどこか行く時は亜季も一緒に行こうよ、ネ?」
取り繕うように言う梨恵子に対して申し訳ないような気になりながらも、なぜか笑顔が引きつってしまう、あたしってばすごく嫌な娘かもしれない。
「うん、ありがとう、でも梨恵子も麻生君と一緒にいたいのが本音でしょ?」
本当に嫌な娘だなぁ、あたしって……。
「まぁね……亜季も早く彼氏作れば? あんたモテるんだから……」
梨恵子はあたしのそんな台詞にも気にした様子を見せずに、ケラケラと笑いながら意地悪い顔をあたしに向けてくる、それが梨恵子の良いところ……、きっと気にかけてくれているのだろうが、そんな事を微塵にも見せないのが理恵子と言う女の子。
「モテるだなんて、そんな事ないよ……」
これはあたしの本音。
「またまたご謙遜を」
「本当だよ! 梨恵子の方が女の子っぽいし、そのぉ〜……おっぱいも大きいし……」
思わず自分の胸と梨恵子の胸を見比べてしまい、肩に一気に重石が乗っかったようになってしまう。目の前にはたわわな梨恵子の胸、それに比べると自分の胸は、何も遮る事無く床を見ることが出来てしまいそう……あぁ、自分で考えていて余計ヘコんできたかも……。
「そんな事は関係ないでしょ? 少なくってもあんたの方が人気ある事をあたし知っているんだからね? あ〜ぁ、あたしもあんたみたいにモテモテ人生になりたいわよ……」
そんなあたしを見る梨恵子は本気で羨ましそうな顔をして、顔を覗きこませている。
「モテモテ人生って……あたしそんなにモテた記憶ないんだけれど……」
「はぁ〜?」
謙遜ではない、本当にそう思っているのだが梨恵子は口をヘの字に歪め、ヤンキーのお兄ちゃんよろしくあたしを睨みつけてくる。
「な、何よ……」
その勢いに思わず身体をそらす。
「あんたそれマジレス? あんたがモテないと言うのならば、この学校にいる女の子の百パーセント近い娘がモテないという事になっちゃうでしょ?」
梨恵子は呆れ顔をしているが、あたしにはそんな実感はまったく無い。
「はぁ……でも、あんたはそれが天然だったわよね? だからモテるのかも……」
ため息を付きながら力なくうなだれる梨恵子。
「エッ? エッ? エッ?」
「あんたねぇ、自分では知らないかもしれないけれど結構人気あるのよ? たとえば……」
梨恵子はそう言いながら教室内を見渡し、一人の男子の所でその視線を止める。そこには愛嬌のある顔をした男子が他の男子とふざけあっている。
「円山?」
そう、梨恵子が視線を向けたのはこのクラスの中のムードメーカーというのだろうか、男女問わずに人気のある円山公太(まるやまこうた)だった。
「そっ、あいつが亜季の事を好きなのは結構有名な話だよ? それに……」
「ちょっ、ちょっと待ってよ、本当なの?」
次の人物を探し出す梨恵子をすぐに抑止させる。
「何よ……」
抑止された事によって憮然とした表情の梨恵子であるが、あたしだって同じ事よ!
「そんなにいるわけないじゃないのよぉ〜」
そう言いながらも、自分にも少し思い当たる節があるのは事実だったりして……、この前中島君に告白されて、石山君にも……。
「いるよぉ〜、あんたが気付いいないだけ! まぁ、そんなあんたに惚れているちょっと男連中に同情するよ」
梨恵子はため息を付きながらあたしの顔を見つめてくると、顔が火照ってくる事がわかる。
「そんなぁ〜」
きっとあたしの顔今頃真っ赤になっているだろうなぁ、でも、別に男子が嫌いとか言うわけじゃないの、石山君や、中島君は嫌いではないし、円山だってどちらかと言うと好きなタイプなのかもしれない……でも、違うの……あたしが好きなのは、もっと違う人……。
「――き……亜季?」
いつの間にかぼんやりしていたのであろう、気が付くと梨恵子の顔があたしの真正面にある事に気が付くと、その梨恵子は再びため息を付きながらあたしの顔を睨みつけてくる。
「ゴ、ゴメン」
慌てるあたしの事を見て梨恵子は少し大きめのその口を意地悪そうに歪めると、その顔を近づけてこそっとあたしに耳打ちしてくる。
「なによぉ……なんだかんだ言ってもあんたにもそんな人が……キヒヒ」
梨恵子の言っている意味が分からず首が傾くと、途端に梨恵子の手が小気味いい音とともに背中を叩く。
「いったぁ〜ぃ、何するのよぉ〜……夏服だから痛いんだよ?」
頬を膨らませながら抗議の顔を梨恵子に向けるが、相手である梨恵子はニヤニヤと冷やかすような笑みを浮かべている。
「キヒヒ、そっかぁ〜……あんたもそんな人がいるんだぁ……」
なんだか自己完結しているようなんですけれど……しかもすごい誤解をしているようなんですが……まぁ、半分は誤解じゃないかもしれないけれど。
「ちょっと、誤解よぉ〜!」
=Mail=
「だから誤解だって言っているでしょ?」
生暖かい風の吹く函館ベイエリア、海からの風はいくらか涼しいと言っても夏らしい事には変わりない。そんな中を梨恵子とあたしは金森倉庫にある『ヒストリープラザ』の中にある雑貨店で、二人仲良くお買い物の真っ最中。
「はいはい、わかりましたよ、あたしの考えは誤解でしたと……あぁ、これ可愛くない?」
絶対にわかっていない……さっきから誤解しっぱなしと言うのは長い梨恵子との付き合いの中でよくわかっているつもり。
「うそよぉ……って、ホント可愛いかも……」
アクセサリーのお店にあるウィンドーの中に可愛らしいネックレスが陳列されており、そのうちの一つがあたしの目に留まる。
「でしょ? 可愛いよね?」
シルバーのハート型のネックレス、あたしはあまりこういうのは付けないんだけれど、キャミなんかを着た時に胸元にこういうのがあるといいかもしれない。
「うん、でもちょっとお値段が……」
見ればそのお値段は結構な額……中学生の身分でたやすく買える金額ではない。
「うん……あ〜ぁ早く高校生になってバイトをすれば、こういうやつを簡単に買えるんだろうけれどなぁ、今は親から貰っているお小遣いをこまめに貯めて買うしかないし……」
梨恵子はそう言いながら財布とにらめっこし、すぐにため息をつく。
「まぁね、でもその前に高校に受かると言う事が最重要課題だけれど」
自分で言ってヘコんだわ……そうよね? まずは高校合格が第一歩なのよね?
「新川……と柏木?」
後ろ髪を惹かれる思いでそのお店から離れると、不意に背後から聞き覚えのある声に呼び止められ振り向くと、そこには学ラン姿の男子が少し頬を赤らめて立っている。
「麻生君?」
「健吾?」
隣にいる梨恵子の顔があたしの目の隅で赤くなるのがわかる。
「な、何しているんだよ二人で……」
明らかに梨恵子に話しかけており、あたしが邪魔と言わんばかりの顔をしている麻生君。ヘイヘイ、邪魔者は去るようにしますよ。
「梨恵子の買い物のお付き合いをしていただけだよ、じゃあ、あたしは帰るから残りの買い物は麻生君とご一緒にどうぞ」
可愛いなぁ梨恵子、照れくさそうにうなだれて、顔を真っ赤にして……。
「ふわぁ!」
赤レンガの外壁が並ぶ『金森倉庫』から出ると、海から強い風が吹き上がってきて慌ててスカートの裾を押さえる。観光客の多い場所でスカートをめくれ上げると言うのは、観光客に土産話を作るようなものよね?
「何度か来たよね?」
少し苔むした赤レンガを見つめながら、フッとため息が出てしまう……そう、ここには何回かあの人と来た事がある、一緒に買い物をしたり、遊覧船に乗ってみたりもした。
「でも、あれだけはまだ一緒に見ていない……」
既に茜色に背景を変えた函館山。地元では有名なジンクス『函館山からの夜景を見たカップルは別れる』と言うもの、だからあの人と一緒に行った事はない……まぁ、カップルじゃないから別れる以前の問題なのかもしれないけれど、なんとなく気になっている。
「なに言っているんだろうあたし……あの二人に当てつけられたせいかな……なぁんて」
そう、あたしが今考えなければいけない事は、いまカバンの中に入っている問題のブツ(通知表)と、来年の高校受験だけよ……。
『メールだよ! 早く見て!』
携帯がメールの受信を告げてくる。
「どうせ梨恵子でしょ、オノロケメールなんて見たくな……エッ?」
折りたたみの携帯を開くとその液晶画面に浮かび上がっていた名前は、いまさっきまで頭の中で思い描いていた人物からだった。
「嘘……なんで?」
思わず小走りになりながら、近くの市電乗り場に向ってしまう、ポケットにしまう事ない携帯を持ちながら。
「なんだっていうのかしら……」
十字街の電停から市電に乗り込み、席に座りながら胸の動悸を押さえるように胸にその携帯を押し付ける。
『夏休み取れたよ〜、八月一日にはそっちに着くから待っていてねぇ』
意を決しながら、開き見たそのメールにはそんな内容の事がつらつらと書かれている。
「クス、相変わらず軽いメールね?」
まるで同級生の女の子とのメールのようなそんな内容の文章に思わず笑みがこぼれてしまい、何度となくその字列を眺めてしまう。
「エヘ、そっか……来るんだね函館(ここ)に……」
思わず呟きながら窓に映る自分の顔を見ると、恥ずかしいぐらいに顔はニヤケ、頬は熱があるのではないかと言わんばかりに赤くなっている。
=すきなひと=
「ただいまぁ〜!」
いつになくハイテンションなのは自覚しているけれど、やっぱり自分の気持ちには嘘がつけない。嬉しいものは嬉しいんだもん!
「お帰り亜希」
いつになく出迎えてくれるお母さんの顔も華やいでいるような気がするのはあたしの気持ちのせいだけなのかしら?
「エヘヘ、ただいまぁ……」
「ずいぶんとごきげんねぇ……期待してもいいのかしら?」
お母さんはそう言いながら、その右手をよこせといわんばかりに差し出してくる。その瞬間に一気に現実に引き戻された。
「あっ……いえ、その件に関しては、今後の課題と言う事にしておいて頂けると助かるかもしれないかな……」
「フフ、何の事かしら?」
あたしの芳しくない通知表の内容がわかっているみたい、だからそんな不敵な笑みを浮かべているんだわ。
「あんたねぇ、こんな成績で中学浪人でもするつもりなの? 行ける高校なくなるわよ?」
グッ、痛い所をついてくるわね……あたしだって中学浪人なんて死んでも嫌だ、あたしは高校生活をエンジョイしたいし、できる事ならばそのまま大学まで言ってキャンパスライフを堪能したい……まぁ、あたし次第なんだけれどね?
「――ハイ……がんばらせていただきます……」
とりあえず神妙な顔だけは作っておくしかないだろう、そうでもしなければきっと夕食の時間までお説教が食込んでしまうのは、長年培ってきたあたしの勘。
「まぁ、あたしだって人の事を言えないし、お姉ちゃんだって高卒でしょ? あまり過大な期待はしていないけれど、せめて高校だけでも出てちょうだいよ?」
今にも泣き出しそうな顔をしているお母さん、あたしだって、せめて高校ぐらいは卒業したいよ……お姉ちゃんだって……そうだ! お姉ちゃん!
「ネネ、お母さん!」
「なに!」
思わず顔をニヤケさせてしまったのがいけなかった、お母さんの目尻がさらにつり上がる。
「ううん、なんでもない」
その勢いに少し膨れながら、あたしは自分の部屋に戻る。
「確かにそうかもしれないよね……勉強しないと、やばいかもしれない」
目の前に突きつけられた現実。それを机の上に置き制服を着替えはじめる。
『電話だよ! 早く出て!』
今度は携帯が電話の着信を知らせてくる、誰だろうこんな時間に……間が悪いなぁ。
「もぅ……」
ちょうど上着を脱ぎ捨てた所で携帯を開き見ると、その画面に浮かび上がっているのはさっきメールをくれた人から……当然慌てて着信ボタンを押す。
「もしもし……」
そう言いながら自分のしている格好に気がつき、思わず身体をモジモジさせてしまう。だって上半身裸(ブラはしているけれど)なんだもんそうして電話の向こうには……。
『よぉ亜希ちゃん、今大丈夫かい?』
受話器の向こうから聞こえてくる声に不思議と肩の力が抜けてゆくのが分かる。なんだかホッとする声……でもこの状態ははっきり言って見せられるものじゃないわよねぇ? だからといって『ダメ』ともいえないし……。
「うん、大丈夫」
思わずそう言ってしまった。
『よかった……メール見てくれたかなぁ』
なんだか照れくさそうに話す電話の向こうの相手、なんだかあたしの格好を見られているみたいでちょっと顔が火照る。
「ゴメン、ちょうど電車の中だったからまだ返信いていないの……ちゃんと見たよ」
着替えてからちゃんと返信しようと思っていたのに、お母さんのお説教が長かったから……。
『見てくれたんだったらいいんだ、いつもならすぐに返って来るのに、なかなか返ってこないからちゃんと届いていないのかと思って電話しちゃったよ』
照れくさそうに鼻先をいま掻いているんだろうな……その様子が目の前に見えるようだよ?
「ゴメェ〜ン、ちょっとお母さんに小言を言われていて……でも来られるんだ、今年はダメかもなんて聞いていたから」
以前に聞いた話では、今年はちょっと行けそうにもないって訊いていて、ちょっとガッカリしていたのよね?
『うん、何とかね? やっぱり亜季ちゃんに逢いたいから……なぁんてね』
そう言う声に、まるであたしの顔は音を立てたように赤くなる事がわかる。
「ちょ、ちょっとぉ……照れちゃうよぉ」
これは本音……顔の周りの気温が一気に上昇したよう……。
『ハハ、わりぃ……でも、来年受験だか亜希ちゃんも大変なんだろ?』
「そんな事ないよ! あたしだって全然大丈夫だから、ホント大丈夫……」
ハハハ、大丈夫なのかなぁ……。
『そうか? そう言ってくれると俺としては助かるんだけれど……』
「うん、ホント大丈夫だから!」
何をそんなに慌てているんだろう、あたし……やっぱりそうなのかな? 来てくれるだけでこんなに嬉しいだなんてやっぱり自分の気持ちはそうなんだろう……わかっていたんだ自分の気持ち、でも否定したい気持ちはある、だって……だって……。
『そっか……まぁ亜希ちゃんの足手まといにならないようにするようにするよ』
茶化すように言うその電話の相手はきっとあたしの気持ちなんていらない筈……ううん、知られたくない気持ちもある……だって……。
「だぁ〜いじょ〜ぶ、そんな事で足手まといになるような亜希ちゃんじゃないよ? それよりも今回行きたい所とかってあるの?」
そう、彼はこの函館の街から遠く離れた所に住んでいる人。
『ん、今回はあまり考えていないんだ、市内をブラブラしようかなって考えているぐらい』
彼はそういいながらクスッと微笑んでいる、そんな姿が目の前に見えるよう……そんな事を考えながら着替えを再開させるが、片手でそれを行なってが思うように進まず、やがて……、
「そっか、だったら新しい名所でも案内しようか……キャァ〜ッ!」
あまり突っかかる事のない胸の膨らみに、それまでしていた下着がそのままストンと落ち、思わず目の前に彼がいるかのように胸を隠す。
『なっ、何だ? どうしたんだ?』
電話の向こうの彼はそう言いながらも、きっとあたしの声に驚いて携帯を耳から離しているだろう……我ながら大きな声が出たと思うわ……恥ずかしい。
「な、なんでもない……ちょっとした出来事よ……」
いそいそとその布を持ち上げながら定位置に装着するが、顔の火照りが元に戻る事はない。
『だったらいいんだけれど……』
ため息交じりの彼の声に、見えもしないのに両手を振る。
「うん、わかったじゃあいいお店リサーチしておくよ」
そう言いながら終話を告げるボタンを押すと、それまでの緊張しながらも落ち着いたような空気が払拭される。
「えへ、一年ぶりかぁ……」
歳の離れたあの人は、いまは東京の空の下、だけれど必ず真っ先にあたしに連絡してきてくれる、それだけで幸せになれちゃうだなんてやっぱりあたしが子供だからなのかなぁ……。
「あ・い・た・い……よぉ〜」
いまあたしが彼に抱いている淡い気持ちは、本当にソレなのかわからない、だけれどこんな気持ちになったのは最近じゃない、ずっと前からの感情が育ったもの。
「あなたに逢いたい……この気持ちが伝える事は出来ないかもしれないけれど、あたしはあなたと一緒にいられるだけで幸せになれるんです」
頬に暖かいものが流れ落ちる……そう考えるだけでホッとできる、やっぱりあたしの気持ちはそうだと思う……ううん、そうだと思いたい……。
「あたしはあなたが好きです……恋をさせてください……」
口にするとさらに肩から力が抜けてゆく……淡い気持ちがはっきりした瞬間なんて案外とアッサリとしているものなんだ、もう少しトキメキとかあるんだと思っていた……あたしの初恋。
「そっか……やっぱりそうだったんだ……あたしはあの人の事が好きだったんだ……アハ……アハハ! なんだぁそうだったんだぁ……」
――でもあの人は、あたしより十歳も年上の人……あの人にあたしの思いを伝える事なんて出来ない……あたしの初恋は……絶対に叶う事なんてない。
「――なんだってあんな人を好きになっちゃったんだろう……」
のそのそと室内着のワンピースに袖を通す。むき出しになった肩にひんやりとした空気が冷たいけれど、なんとなく火照った身体には心地がいいかもしれない……そう、あたしの火照った頭を冷やしてくれないかしら……。
「叶うわけなんてないのに……」
=そして……はじまる=
「くはぁ〜……」
普段であれば絶対に眠っている時間、寝坊しないように目覚まし時計を三つもかけたんだけれども、それが鳴る前に目が覚めるなんて奇跡かもしれない……。
「さてと!」
ベッドから勢いよく跳ね起きるともう一度大きく伸びをする。ウン! 今日もいい天気!
「おはよぉ〜」
まだ早いキッチンではお母さんがなにやら朝早くからすごいご馳走が用意されている。
「あら? 亜季がこんな早くにおきるなんて珍しいじゃないのよ……どうしたの?」
怪訝な顔をしながらお母さんがキッチンから顔を出す。そこまで言う事なの? あたしだって早起きする事ぐらいあるわよ……眠いという事は否定しないけれど。
「たまたま目が覚めちゃったのよ……」
心の中で舌を出しながら洗面所に入り込み、愛用の歯ブラシに歯磨き粉を乗せる。
「そう? ちょうどよかった、だったら料理手伝ってね?」
ゲッ! そう来たか母上様……あまり得意じゃないのよねぇ料理って……。
「ふわぁ〜い……」
洗面所で苦笑いを浮かべながらも自分の顔や髪の毛をチェックする。
「フム、髪型よし、口には磨き粉ついていない、笑顔もよし、顔色……ちょっと赤いけれど許容範囲内だと思う……」
いつもよりの入念なチェックを行い、洗面所を後にする。
「何を手伝えばいいの?」
やる気はあまりないものの、一応お母さんに声をかけておくのは今後自分の動きを良くするため、そうでもしないと『勉強』の一言で何も出来なくなっちゃう。
「そこに『朝取イカ』があるでしょ? それの『ゴロ』をとって皮をむいておいてちょうだい」
中学三年年生の女の子にそこまでを期待しているんですか母上様……。
「どうしたのよこのイカ……本当に鮮度良さそうだけれど……」
浅黒く、吸盤をあたしの腕に吸いつけてくる見るからに新鮮なイカを目の前にそう言うと、母上は自慢そうに鼻をヒクつかせている。
「お父さんが知り合いの漁師さんから貰ってきたのよぉ、朝市に行こうかと思っていたんだけれど助かっちゃった……それを『イカソーメン』にして……」
興味無さそうにテレビを見ているお父さんではあるが、どの表情の片隅にはちょっとワクワクしているような色が見えるのはあたしの気のせいなのかしら?
「そう……」
母上の中では様々なメニューが出来上がっているようだけれども、まだ吸い付いてくる吸盤に悪戦苦闘しながらイカの解体をしているあたし……あまり可愛いものではないわよね?
「さて、もうすぐ着くわね?」
お母さんの一言に近所にあるマンホールの蓋がガタンと音を立てる。それは我が家に人が来たという証にも感じられる。
「ん、来たな?」
お父さんは興味無さそうにだけれども、真っ先に席を立ち玄関に向かい、お母さんもエプロンで手を拭きながらその後に続く……そうしてあたしはというと……。
「ちょっとイカ臭いの? あたし……」
今までイカを解体していたのだから仕方がないのかもしれないけれども、なんだか自分の身の回りがイカ臭く感じ、もう一度洗面所で手を洗う……完全に後れを取った。
「お帰り千穂、遠路はるばるお疲れ様ぁ」
お母さんの弾んだ声が玄関先から聞こえる。
「大輔君もお疲れ様……大変だっただろう」
不器用な言い方ではあるがお父さんも労をねぎらっている……そうして一歩出遅れながらもあたしは自然に笑顔が膨れて逢いたかった人の顔をまっすぐに見る。
「お帰りお義兄ちゃん!」
Fin