第十三話(最終話) 二人の想い
=キャンプファイアー=
「少しは落ち着いた?」
既に校庭からは軽快な音楽が流れはじめており、それまで泣きはらし疲れ果てたように腰掛けている麻里萌と、それを慰めるように寄り添っている智也のいる屋上は、すでに茜色から群青色に変わりつつあり、優しく声をかけてくる智也の声に麻里萌はコクリとうなずく。
少しは落ち着いたかもしれないけれど、正直言ってまだ混乱はしている。初音ちゃん、千鶴さん、古瀬さん……みんなは幸作クンの事が好き……当然あたしも幸作クンの事が好き……でも……でも幸作クンは?
まだ日に焼けているようなコンクリートを、見るとも無しにジッと見つめる。
幸作クンはあたしの事が好きだと言ってくれた、でも、あたしは彼の役に立つ事が何もできなかった……そんなあたしの事を、彼はずっと好きでいてくれるの?
校庭からワァという歓声が聞こえる。キャンプファイアーがはじまったようで、少し経つと木の燃えるキナ臭い匂いが香ってくる。
「……笹森さんは、戸田君の事が好きなんだよね?」
隣からフワッとしたコロンと、イヤではない汗の匂いが漂ってきて思わず顔を上げると、真隣にチョコンと座った智也が、優しい微笑を浮かべながら麻里萌の顔を覗き込んできており、その距離は限りなくゼロに近く、体温をも感じるほどだ。
と、智也クン?
「なのに、なんでここに一人でいるんだい?」
優しい智也の視線から、麻里萌は逃げるようにその視線を泳がせる。
「なんでって……そんなの……」
「それで? 笹森さんの回答は?」
ニコッと微笑みながら麻里萌の言葉を遮り、キョトンとした顔を覗き込んでくる。
「…………」
智也クンの言っているその意味はよくわかっている……さっき、智也クンはあたしの事を好きだって告白してきた……それに対する回答を待っているんだと思っている。でも、あたしの気持ちは変わるはずが無い……幸作クン……。
優しい智也の表情が幸作の笑顔にすり替わり、麻里萌は顔をうつむかせる。
「ボクは笹森さんに自分の気持ちを伝えた。それに対する回答を求めるのはボクの当然の権利だと思うよ? だから聞かせてくれ……キミの気持ちを……」
真剣な視線を向けてくる智也に、再び麻里萌は視線を泳がせる。
何をあたしは迷っているの? 答えは簡単な事じゃない。なのに、なんで智也クンの気持ちに対してはっきりとノーと言えないの?
「あたしは…………あたしの気持ちは……」
「でも、ここのキャンプファイアーを一緒に見たカップルは結ばれるというジンクスがあるんでしょ? だったらボクたちも……」
話を聞こうとしないのか、意外にも力のある智也に引き上げられるように立ち上がった麻里萌の視線の先には、人垣の中心で赤々と燃え盛る炎。
キャンプファイアー……ヤダ……幸作クンと違う人となんて見たくない……幸作クン以外の人と結ばれるなんて……絶対にイヤだ……。
顔をそむける麻里萌に対し、智也は穏やかな笑みを浮かべる。
「――だったらなんで笹森さんはここにいるの? 戸田君の事が好きならば、彼と一緒に見ればいいだけじゃないか? 彼の事を探して彼の元に行けばいいだけの事。でも、キミは戸田君ではなく、ここに来るであろうボクの事を選んだと思えるんだけれど?」
無理強いはせずに智也は嫌がる麻里萌の腕を離す。
「そんな……」
そんな事は無い、あたしは……あたしは……。
メガネの奥にある大きな瞳が一気に潤み、ギュッと目を閉じた瞬間、目尻から涙がこぼれ落ち、スカートを握り締めていた手に落ちる。
あたしここでも幸作クンに甘えている……ここにいればきっと幸作クンが探しに来てくれると思っていたんだと思うし、智也クンも来てくれると思っていた……きっと慰めてもらいたいというズルい考え方があたしの中にあったんだと思う。
溢れた涙は止め処もなくこぼれ落ち、足元のコンクリートに黒いシミを作り上げる。
「もう少し時間がたってからにしようか……笹森さんからの回答を聞くのは。まだ、ボクには不利な状況のようだし、キミの弱みに付け入るようでボクも嫌だからね? 正々堂々と戸田君に対峙したいから今回は諦める。でも、キミへの気持ちは変わらないからそのつもりで……」
バフッと肩を抱しめられた麻里萌は驚いたような顔を智也に向けると、涙が伝っている頬にその柔らかな唇が押し付けられる。
えっ?
慌てて唇が触れられた所に手をあて、その驚きによって涙の止まった大きな瞳は、驚きによってまん丸になり智也に向けられる。
「これぐらいは許してくれるかな?」
嫌味のない笑顔を浮かべる智也は、さりげないウィンクをしながら背中を向ける。
「と、智也クン……」
我に返った麻里萌には嫌悪感は無く、むしろ感謝を伝えるような笑顔を浮かべ、その背中を見送り、頬や目に残っている涙を拭い、麻里萌は自らを奮い立たせるように立ち上がる。
「戸田ぁ? そういえば見ていないなぁ……一緒じゃないのか?」
怨めしそうな顔をしながら、手に手をとるカップルを睨み付けている男子生徒に声をかけてみるが、幸作の所在はハッキリしない。
どこに行っちゃったんだろう幸作クン……はっきりと……はっきりと幸作クンに話を聞きたい、初音ちゃんとの事を……。
二極に別れている生徒の間を麻里萌は一人キョロキョロしながら歩きまわり、やがて、その人混みの中に初音の姿を見つける。
初音ちゃん! 隣には?
キャンプファイアーを見る初音の後姿に、麻里萌は息を呑み、必死にその隣にいる人の影に目を凝らすが、うごめく人波にそれが誰なのかわからない。
お願い、一緒にいるのは幸作クンじゃない人であって……幸作クンと一緒にキャンプファイアーを見るのは……あたしなの! だからお願い……。
人混みをかき分けて初音に近寄ると、その隣にいる人物がはっきりと判明し、麻里萌はゴクッと息を飲み込む。
「よかったぁ……幸作クンじゃない……」
力尽きたように肩を落とす麻里萌の無意識に発した声に、制服姿の初音と、その隣にいたラフな私服姿の千鶴が一緒に振り向く。
「麻里萌ちゃん?」
先に声を上げたのは千鶴で、その憔悴しきっている麻里萌に驚いたたような顔をしているが、その隣の初音は、どこか憮然とした顔をしてその顔を睨み付けている。
「……麻里萌ちゃん」
明らかに初音の声には怒気がこもっており、その声に麻里萌はハッと顔を上げる。
「初音……ちゃん」
怒っている……初音ちゃん……。
何事なのかわからない千鶴は初音と麻里萌の顔を交互に見ながら、困ったような表情を浮かべるが、初音の怒りのこもった視線は麻里萌から外れる事は無く、麻里萌もその視線を真摯に受け止める事しかできない。
「…………こーさくならここにはいないわよ……見事にフラれたわよ……これで二回目……」
深いため息と共に搾り出すように言う初音の言葉に、麻里萌は少し意外そうな顔をしてしまい、再び初音にギロッと睨まれ身をすくめる。
「じゃあ……どこに……」
「そんなの知らないわよっ! どうせ麻里萌ちゃんの事が気になっているんでしょ? せっかく千鶴も来ているから、一緒にキャンプファイアーを見ようと思ったのに、慌ててどこかに行っちゃったわよ……ったく、手を怪我しながら……」
手を怪我した? 幸作クンが?
「麻里萌ちゃん……たしかにこーさくはすっごく不器用な奴で、超が付くほどの鈍感野郎だけれど、でも、アイツは嘘がつけない男なんだよ……今朝の事だって、音子の事だってアイツが望んだわけじゃない、あたしたちが勝手にやった事なんだよ。むしろあたしたちからすれば、麻里萌ちゃんがそこまで気が付かなくってホッとしているんだ……短い付き合いでそこまで知られていたら、あたしたちが今まで培った時間が否定されてしまう……麻里萌ちゃんには申し訳ないけれど、麻里萌ちゃんがこーさくの行動がわからなくって当然なんだ……これから知っていく事になるのだろうから……ホント、あいつって後先を考えないで行動をするから、こっちはいつだってヒヤヒヤもんよ……」
肩をすくめる初音に、大体の内容がわかったのか、千鶴も呆れ顔を浮かべる。
「いい意味で真面目。悪く言えば猪突猛進……目の前の事しか見えなくなっちゃう男。それが幸作なのよね? 特に責任があったりすると他の事が目に入らなくなるタイプ……たしか小学校の時だったかしら? 幸作が地域の班長になって、夏休みのラジオ体操の時に風邪をひいているにもかかわらず参加して、肺炎をおこしそうになったのは……」
意地悪い顔をする千鶴の視線に、初音はコクリとうなずく。
「そっ、本当に真面目なんだかなんだかわかりゃしないよ……その度にあたしたちは心配するだけで、その気持ちが報われない……損な役回りかも……」
ニィッと初音の口が歪み、ウィンクをしながら麻里萌の顔を見据えると、千鶴もコクリとうなずき、校門に視線を向ける。
「そうね? これだけ可愛らしい女の子がスキスキ光線を送っていながらも、他の女の子にウツツを抜かすような男は、そろそろ諦めようかなぁ」
「それはイヤ! だって、あたしはこーさくの事が好きなんだから……あたしのこの気持ちは変わらないわよ? たとえ絶望的でもね? 千鶴はどうぞ? どうせあなたの学校には、もっといい男がいっぱいいるんでしょ?」
嫌味っぽく言う初音に、千鶴はプクッと頬を膨らませる。
「そんな事ないよ、あたしだってまだ幸作の事を諦めたくないもん」
そんな二人に麻里萌は思わず顔をほころばせてしまいながらも、踵を返す。
ありがとう。初音ちゃん千鶴さん……あたし二人と友達でいられる事に感謝をする……ちょっと怖い存在でもあるけれど、好敵手っていうやつなのかな? 負けたくないけれど、負けても自分で納得をしてしまう、二人はそんな存在かもしてないよ……。
既に夜の帳の下りた学校を後にしながら、麻里萌ははやる気持ちを抑えつつも、最寄である市電の電停に向かって駆け出す。
でも、あたしだって負けたくない……あたしだって二人に負けないほど幸作クンが好き。
=重なる……=
「まだ帰ってきていないのかなぁ……」
自宅を通り過ぎ、幸作は麻里萌たちの暮らす家の玄関先に佇む。
さっきから前を通る人たちは、まるで可哀想な人を見るような目で通り過ぎてゆく気がして仕方がないよ……たしかにこの後の話しの流れでは可哀想な人になる可能性も残されているんだが、しかし、最悪の結果になったとしても、ちゃんと話をしたい……麻里萌と。
既に麻里萌の帰宅を待ってから一時間近い時間が経過しており、前を通る人も少なくなりはじめている。
どこに行っているんだ? 麻里萌だけではなく、この家に人の気配がまったく無いよ。
見上げる一軒家には暗くなった今でも、見える窓から電気の光がこぼれてくる事は無く、そこに生活があるようには見えない。
お母さんや操だっているはずなのに、なんだか誰もいないようなそんな感じがする……本当に誰もいないのかなぁ……って、嘘だろ?
ポツリと頬に冷たい水滴がつき、顔を上げると普段見えるはずの函館山の展望台が雲に隠れ、街路灯に照らし出され足元でデコボコの陰影を浮かべているアスファルトには、水玉模様ができはじめ、それはあっという間に光を乱反射させるほどになる。
おいおい、今日雨が降るなんて言っていたか? てか、今日は天気予報を見ていないか、なんだか悲劇のヒーローみたいになってきて、ちょっと寂しいかも……。
降りはじめた雨を避けるためにとりあえず大きな木の下にその身体を隠すが、そこで雨をしのぐ事はできず、容赦なく幸作の着ている制服を濡らす。
ったく、一旦家に帰って傘を持ってくるかな? いや……もしもその間に麻里萌が帰ってきたら……ダメだ、何よりも真っ先に麻里萌に会いたい……ダメモトでもいい、麻里萌に会って今朝の初音との事が誤解だという事と、今までの事を謝りたいんだ……結果がダメであれ、それだけはきちんとしたい……それが俺のケジメだ。
降り続ける雨は遠くで雷鳴を轟かし、目の前の道を走り去る車は、遠慮なく出来上がった水溜りをまき散らしながら走り去り、幸作の髪の毛の先からは瞬く間に水滴を滴らせる。
なんだってこんな事になったんだろう……って、俺のせいか……俺がいつもと同じようにしてしまった……麻里萌に対して甘えていた結果のせいだ……もしも誰が悪いというならば、それは間違いなく俺が悪いのだろう。
いくら夏が近付いているとはいえ、既に日のおちている夜の雨は容赦なく体温を奪いさり、寒さを感じるほどになるが、幸作はそこから動こうとはしない。
「できれば早く帰ってきてもらいたいんですけれど……ちょっと寒いかな?」
雨と共に吹き付ける風に、幸作は夏というのにもかかわらず身震いをさせていると、
「幸作……クン?」
家の前で既に濡れ鼠のようになっている幸作の姿に、その小さな身体はピタリと止まる。
「麻里萌……か?」
既に肌の色が透けるほどにワイシャツを濡らしている幸作は、小刻みに身体を震わせながら、驚いたような顔をしているメガネっ娘に視線を向ける。
よかった……もう少し遅かったら、家に帰ろうと思っていた所だぜ……。
「ちょ、ちょっと! そんなにビショビショになっていたら風邪をひいちゃうよ!」
慌てて駆け寄って来た見覚えのある制服は、突然の雨に濡れてビショビショという形容詞が当てはまるようになっているが、さらにびしょ濡れになっている幸作を気遣うように、慌ててカバンの中から鍵を取り出し、扉を開くと小刻みに震えている幸作の肩を押しながら、まだ真っ暗な家の中に招き入れる。
「ちょっと待っていて、今タオルを持って来るから……」
家の奥に入って行く麻里萌に、まるで続くように電気がついてゆき、その光景に幸作は首を傾げてしまう。
ひょっとして本当に誰もいないのか? てか、どう見ても誰もいないだろう……。
玄関先には家の中に飛び込んで行った麻里萌の脱いだローファーしかなく、シンと静まり返った家の中には人の気配はまったくない。
なんでだ? いつもならニコニコした麻里萌の母親と仏頂面をした操が、さりげなく邪魔をするように顔を見せてくるはずなのに、今日に限ってはその気配がまったくない……この家には麻里萌しかいない、そんな感じがするよ。
「ハイ、コレをつかって? 今お風呂をつけたからシャワーを浴びて身体を温めないと風邪をひいちゃうよ……もぉ、なんであんな所にずっといるのよ……」
タオルを頭から掛けて幸作の背後に回った麻里萌が、力任せにガシガシと幸作の頭を拭きはじめ、痛さを感じるほどのその力加減に幸作が顔を振り向かせようとするが、まるでそれを拒むように、麻里萌はその手を幸作の頭から外そうとはしない。
「ま、麻里萌……」
「馬鹿だよ……夏だっていってもこの時間に雨に濡れれば風邪をひくのは、あたしよりも幸作クンの方が知っているはずでしょ? なのに……なのに……」
精一杯の力で頭を押さえつける麻里萌の手は間違いなく震えており、詰まるその声は間違いなく涙声になっている。
「あたし……期待しちゃうよ? 幸作クンがあたしの事を待っていてくれたって……初音ちゃんや千鶴さん……古瀬さんには申し訳ないけれど……あたしの事を待っていてくれたのは幸作クンなんだって……間違いなく幸作クンなんだって」
コツンと背中に当たる麻里萌から生暖かい涙の感触が、冷たく濡れたシャツに染み渡る。
麻里萌……。
グスッと鼻をすする小さな音が聞こえる。
「……いくらでも期待しろよ……俺はいつだって、いつまでだって麻里萌の事を……お前の事を待っているよ……たとえ雨が降ったって、雪が降ったって、いつまででもお前が戻ってくる事を待っている……お前を待っているのは俺だけなんだし、俺はお前しか待たない……」
背中に麻里萌の体温を感じながら唯一触れる事の出来る麻里萌の手に、冷たくなってしまっている自分の手を添える。
「でも……あたしは幸作クンの事をまだよく知らないよ? あたしはもっと幸作クンの役に立ちたいよ! 幸作クンの事をもっとよく知りたいよ……みんなよりも……いっぱい……」
いまだに涙声の麻里萌に、幸作が振り返る。
「そんな事を気にする必要ないだろ? むしろ謝らなければいけないのは俺の方だよ。今まで麻里萌の事に振り向かないでゴメン……いつも麻里萌はついて来てくれるからいい気になっていたと思うし、お前がそばにいるのが当たり前だって思っていた」
たぶん麻里萌はいままで俺に一生懸命な思いをしてついてきたんだと思う、それが当たり前のような気になっていたのは、完全に俺の驕りだ……。
二人は玄関先に座り込み、お互いの髪の毛からはそれまでに濡れた雨によって水滴が垂れてきているが、そんな事も気にもしないで顔を見合わせている。
「そんな事ないよ……あたし、幸作クンの事をこんなにも知らないんだって痛感した。初音ちゃんや千鶴さん、古瀬さんやみんなよりも……だから、もっと幸作クンの事を……」
「そんなに慌てる事はないよ……それを言ったら俺だって麻里萌の事をまだ完全にわかっているわけじゃないだろ? お互いにゆっくりと……ゆっくりとお互いに知っていこうよ……まだ時間はいくらでもあるんだ、慌てる必要はない……俺の気持ちは変わる事はないんだから」
頬に伝う麻里萌の涙を幸作は冷えてしまっている手で拭い去り、その大きな幸作の手のひらの感覚に麻里萌は頬を寄せてくる。
「うん……」
外からはまだ雨の降る音が聞こえる玄関先、薄暗いそこで二人の顔が徐々に近寄る。
「ゴメン麻里萌……寂しい思いをさせて、辛い思いまでさせてしまって……俺はお前の彼氏としては失格かもしれないよな?」
両頬を大きな幸作の手にはさまれながら、麻里萌はその手に自分の手をその上に添える。
「そんな事ない……あたしの彼氏は……幸作クンだけに決まっているよ……あたしはあなただけのものなんだから……」
頬に添えられている幸作の手を、麻里萌はギュッと握り締め、顔をゆっくりと寄せると、
「い、イテェ〜〜〜〜ッ!」
まさに飛び上がると言う形容詞が似合うように幸作が声をあげる。
「こ、幸作クン?」
慌ててパッと離れて、自分の拳のあたりを握りながらうずくまる幸作を、麻里萌は驚いた顔をしながら見つめ、その握っている拳に可愛らしい絆創膏が張られている事に気が付き、さっき初音の言っていた幸作が手に怪我をしているという事を思い出す。
「――――てぇ〜〜〜〜……」
よく見れば、幸作の拳に張られている世界でも有名なビーグル犬の描かれている絆創膏には薄っすらと血が滲んでいるようにも見え、麻里萌はあわててそれを手にする。
「ちょ、ちょっと、幸作クン! これどうしたの?」
小さなその絆創膏ではそのキズを覆う事はできず、所々にささくれている傷口が見る事ができるが、幸作はその経緯を話そうとはしない。
まさか、麻里萌と柏崎の仲をやっかんで、やけになって壁を殴った傷だなんていえないよな? 俺にも一応見栄というものがあるんだ。
口をつぐむ幸作に麻里萌は何かを感じ取ったのか、それ以上の事を聞こうとはせず、血に染まっている数枚の白黒のビーグル犬の絆創膏を剥がし、まだ滲んでいる拳の血をソッとティッシュで拭い、そこに唇をつけてくる。
ちょ、ちょっとぉ?
ペロペロと傷口に舌を這わす麻里萌に対し、幸作はその麻里萌の舌の感触と、必死なその表情に顔を赤らめてしまう。
「もぉ、何をしてこんなになるんだか……痛いでしょ? ちょっと待っていてね? いま、ガーゼを持って来るから……初音ちゃんには悪いけれど……」
言葉の最後の方は幸作にはっきりと聞き取る事はできず、麻里萌によって少し手荒に剥がされた最後の絆創膏の痛みに顔をしかめてしまう。
いま麻里萌はなんて言ったんだ? よく聞き取れなかったけれど、初音がどうのって言っていたような気がしたが俺の気のせいか? どことなく最後に絆創膏を剥がす時、一瞬ではあるが怒気があったような気がして仕方がないのだが……。
「ほらぁ、ちゃんと見せて? あ〜ぁ、こんなになっちゃって……」
救急箱を持ってきた麻里萌はその傷口を見るなり、まるで自分が痛いような表情を浮かべながら、箱の中から消毒液を取り出し遠慮なくその傷口にそれを噴射し、沁みるその痛みに顔をしかめる幸作など気にもせずに、必死な顔をして治療を開始するが、その手つきは優しさを感じさせながらも、痛い場所をクリティカルヒットする。
えと……麻里萌さん? かなり痛いんですけれど……でも、男たる以上は痛いなんていえないけれど……でも痛いッス……!
ジンワリと染み渡ってゆくその痛みに、唇を噛み、拳を握り締めて堪える幸作だが、その限界はあっという間に超してしまう。
「いでぇぇぇっ! ごめんなさい! 痛いです! 俺が悪かった……のかもしれません!」
口を尖らせながら必死の形相を浮かべてピンセットで綿をつまみ、それを血の滲んでいる拳に当てるその手つきは、プロ(看護師)とは違ってやはり素人で、時折直接傷口に強く押し当てられると、それまで治まりかけていた痛みを呼び起こす。
「ゴ、ゴメン……でも、ちょっとここ汚れているから、もう少し我慢してね?」
傷口に付いているホコリや、汚れを丁寧に拭う麻里萌はギュッとその手を押さえながら、真剣な表情でそう毒液を塗りこみ、やがて少し大きめに切ったガーゼを傷口に当てる。
「ハイ、終わったよ? ゴメンね? 痛かったでしょ?」
ホッとしたような顔をして顔を上げる麻里萌は、気のせいか満足そうな表情を浮かべているが、対する幸作は満身創痍のような顔をしている。
ちょっと麻里萌を見る目が変りそうだぜぇ。いつもはポヤァッとしている日なたみたいな女の子と思っていたけれど、結構力ずくの所があるんだな?
綺麗に張られたガーゼに視線を向ける幸作の事を、麻里萌は少し嬉しそうな顔をして見つめており、その視線に気がついた幸作は首を傾げる。
「どうしたんだ?」
「ウウン……幸作クンの怪我の手当てをして、幸作クンがこうやって目の前にいるんだと思ったら、なんだか嬉しくなっちゃってつい……エヘへ」
照れたような顔をしながらも、麻里萌の視線は幸作から離れる事はなく、むしろ幸作の方が恥ずかしくなってしまい顔をそむけてしまう。
なんだかなぁ……とりあえずお互いに持っていた誤解は解けたような気がするけれど……。
「あのね? あたし智也クンに告白されたの……」
それまでニコニコ顔だった麻里萌は表情を曇らせながら口を開くと、それまでさ迷っていた幸作の視線もピタリと止まり、麻里萌の顔に戻ってくる。
「うん……」
まさか聞いていたとは言えない幸作は、その台詞に対してだけうなずく。
「あたし、男の子から告白されるのってこれで二回目……なの」
二回目? って、柏崎の他に麻里萌に告白した奴がいるのか?
一瞬にして顔を険しくする幸作に、麻里萌は一瞬怯んだような表情を浮かべるが、すぐにその表情を柔らかくほころばせる。
「うん、二回目……一回目は……」
少し照れ臭そうながらも、麻里萌の細い指をしっかりと幸作の事を指差し、それを受けた幸作も自らを指差し、ややあってから顔を真っ赤に染める。
「お、俺? って、へぇぇぇっ?」
素っ頓狂な声を上げる幸作に、麻里萌も少し驚いたような表情を浮かべる。
「そぉだよ? あたしが生まれて初めて男の人に告白をされたのは……幸作クンだよぉ」
少しいじけたようにプクッと頬を膨らませる麻里萌の事を、幸作は素直に驚いた顔をする。
そうなんですか? 麻里萌って結構可愛い部類だから、結構そういう状況には何度か立ち会った事があると思っていたよ……でも、たしかにあの時初めてって言っていたような気もしないでもないし……思い出すとはずかしぃ。
見る見るうちに顔を赤らめる幸作に、麻里萌はホッとしたような顔をする。
「……智也クン、とりあえずあたしからの回答はしばらく保留にするって……もう少しあたしの気持ちがハッキリしてから聞くって言っていた」
のやろぉ……俺と麻里萌が付き合っているのを知っていながらそういう事を言うか?
不機嫌そうな顔をする幸作の隣に、救急箱を片付けた麻里萌がチョコンと座り、満面に笑みを浮かべながらその顔を見上げてくる。
「そ、それで? 麻里萌の気持ちがハッキリしていないって……どういう意味なんだよ」
いま麻里萌の気持ちがハッキリしていないと言っていたよな? それは、俺に対する気持ちと柏崎に対する気持ちの事を差しているのか?
「ん、慌てていたのかなぁ……幸作クンってモテるから……」
アゴに指を置き、少し考えるような素振りを見せる麻里萌。
「んな事ねぇべ?」
「あるよ? 幸作クンってモテるから、あたしも一生懸命に好かれようと努力をしたけれど、みんなの方があなたの事を良く知っていたみたいで、全部空回りしちゃった……そう思ったら、今度は自分が情けなくなっちゃった」
「そ、そんなの……」
「でもね? 一緒にいて欲しい人……隣にいて欲しい人は幸作クンなんだって再認識したの、たとえ幸作クンが初音ちゃんや千鶴さん、古瀬さんの事が好きになったとしても、あたしは幸作クンの事が好き、一緒にいてもらいたいって……」
コツンと幸作の肩に頭を乗せる麻里萌は、その瞳を潤ませながら顔を見上げてくる。
「…………その、俺だって、同じだぞ? ちょっと情けねぇけれど、俺は柏崎に対して嫉妬をしていたんだろうな?」
「嫉妬?」
キョトンとした瞳が照れ臭そうに鼻先を掻く幸作の顔を見据える。
「あぁ、あいつは文武両道で格好もいいし、性格もいい。女子に人気があるのも納得できるし、何よりも垢抜けているよ……麻里萌と同じ東京の出身だけある」
虚空に視線を向ける幸作に対し、麻里萌はブンブンと首を横に振る。
「そんな……」
「初めてだよ、男に対してこんなに激しい嫉妬をしたのは……亮や大悟、他にモテる男にだってこんなにモヤモヤした気持ちになった事はない。これがヤキモチという奴なんだろうな?」
自嘲した笑みを浮かべる幸作に、麻里萌は驚いたような表情を浮かべるも、徐々にその表情が笑顔に変わってゆく。
「恥ずかしいけれどよぉ……麻里萌とあいつが仲良くしていたら、この腹の奥がチリチリして、ムカムカして仕方がなかったんだ。男が男に嫉妬をするなんて情けないだろ? だから自分でも認めていなかったけれど、きっと俺は嫉妬をしていたんだ……」
全て言い切る前に麻里萌は幸作の首に抱きついてくる。
ちょ、ちょっとぉ?
「エヘ、嬉しいよ? 嫉妬をしてくれたのって、あたしの事を思ってだよね?」
満面の笑みに変えた麻里萌の顔が上がると、その二人の顔の距離はお互いの息吹を感じるほどまで近く、その近さに幸作の頬はさらに赤らみ、その火照りは顔全体にまで行渡っている。
「麻里萌?」
「あたしも初音ちゃんに嫉妬したよ? すごくモヤモヤした……そのぉ……幸作クンと初音ちゃんがキスをしているのを見たら、いてもたってもいられなくなっちゃったぐらい……」
ちょ、ちょっとぉ?
「ま、まて! 誰が初音とキスをしていたって?」
あまりにもの突飛良もない麻里萌の一言に、幸作はその小さな肩を掴みその顔を自分の目の前に向けると、唾がかかるほどの勢いでその言葉を復唱する。
「……幸作クン……」
口を尖らせながらいじけた顔を作る麻里萌は白い人差指を幸作に向けてくると、一瞬目眩に似た感覚にとらわれ、思わず脱力してしまう。
「いや……もしもそう見えたのであれば誤解だ……俺は初音とキスなんてしていない。確かに誤解を招くような格好になってしまったのは俺の不注意であるが……」
完全に否定しきれないし、俺がなんと言っても誤解をしたのは麻里萌であり、俺がなんと言っても彼女が納得をしない限りは、それが事実になってしまう。
はじめこそ勢いがあったものの、幸作の声は徐々に尻すぼみになっていってしまい、その様子に麻里萌は一瞬不安そうな表情を浮かべる。
「そうなの?」
「天地天命に誓って……」
真剣な表情の幸作に麻里萌はホッとため息を吐き出し、それにあわせたように幸作も安心したようにため息を吐き出すが、いきなり麻里萌は幸作に抱きついてくると、その柔らかな唇を幸作の唇に押し付けてくる。
麻里萌?
「もしも初音ちゃんとキスをしていたらこれでおあいこ。していなければあたしの勝ち」
少し恥ずかしそうに顔を離す麻里萌の身体を、幸作はギュッと抱しめる。
「こ、幸作クン?」
「であれば麻里萌の勝ちだ……俺は麻里萌としかキスをしない……」
穏やかに離す幸作の声に、麻里萌はニッコリと微笑むと二人の顔が再び近付き、今度はゆっくりとした動作で唇が重なる。
「あたしも……幸作クンしか……あなたが一番好き……」
熱にうなされたように呟く麻里萌の言葉に幸作は体の力を徐々に抜いてゆき、二つのシルエットは、重力に従うようにゆっくりと重なり合ったままソファーに倒れこんでゆく。
「俺もだ……おれも麻里萌の事が一番好きだ……絶対に離したくない……」
のぞきこむ幸作の瞳には覚悟を決めたような表情を浮かべた麻里萌の顔が映りこみ、その顔を見上げる麻里萌の大きな瞳には、優しい顔をした幸作の顔が映りこんでいる。
「うん…………離さないで……あたしの事を離さないで……」
大きな瞳が熱く潤みはじめると、幸作が麻里萌のメガネを優しい仕草ではずし、それが合図になったかのように二人は再び唇を合わせ、自分の体重を支えていた幸作の腕から力がゆっくりと抜けると、その大きな身体は小さな麻里萌の身体の上に重なり、お互いに激しくなっている鼓動を直接身体で感じるようになる。
「麻里萌……俺……」
初めて見るメガネをかけていない麻里萌の表情は、熱く憂いを持ったようにも見え、その艶っぽい表情に幸作は若い感情が弾ける。
「……うん……今日は誰もいないから……」
それって……そういう意味に取ってもいいのか?
恥ずかしそうに消え入るような声で呟く麻里萌の言葉がなにを意味するのかわかった幸作は、ゴクリと息を呑み込むと、腕の中に収まっている小柄な身体との間にある隙間をさらに埋めようと腕に力を込めはじめると、
『電話だよっ! 電話だよっ! 早く出ないと切れちゃうよっ!』
テーブルの上に置かれていた麻里萌の携帯が、けたたましい声で着信を告げ、二人の身体はまるで硬直したように固まる。
「…………と」
「………………えと」
完全にその着信音(声?)によって、いままでの盛り上がっていた二人の雰囲気は完全に払拭されてしまい、恥ずかしそうにお互い顔を見合わせると、どちらからでもなく身体を離す。
「……もしもし」
盛り上がった雰囲気が一気に消沈してしまい、どことなく気まずい雰囲気が流れている中、麻里萌は渋々と携帯を開くとその電話に出る。
「操? どうしたの?」
突然の素っ頓狂な麻里萌の声に、幸作は無意識に背筋をピシッと伸ばしてしまい、携帯を片手に持つ麻里萌に視線を向けると、少しオドオドしたような視線を幸作に向けている。
「……ん、わかった、何か作っておくよ……じゃ」
はぁぁぁっと深いため息を吐き出しながら、麻里萌は携帯を折りたたむと、なぜかガッカリとしたような表情を浮かべて幸作の顔を上目遣いに見上げてくる。
「えと……急に操がこれから帰ってくるって……泊りが中止になったみたいで……」
雨の音のかき消されてしまいそうな小さな声の麻里萌の言葉に、幸作はあからさまにガッカリしたような表情を浮かべてしまう。
くそぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ! またかぁぁぁぁぁぁっ! またオマエかぁぁぁっ! いつだって俺の事を邪魔するのはオマエなのかぁぁぁぁぁっ!
胸の内で悪態をつく幸作だが、目の前で申し訳なさそうに目尻に涙を浮べて、身体を縮めている麻里萌の姿を見ると、それまで毒づいていた自分が恥ずかしくもなり、なんとなくどうでもいいような気になってしまい、思わず微笑みかけてしまうと、麻里萌もホッとしたようにはにかんだような笑みを浮かべる。
まぁ、むしろよかったのかな? 未遂とはいえ、そこまで麻里萌は俺の事を思ってくれているという事で納得をして……でも、ちょっと惜しかったよなぁ……。
まだ顔に赤味を残したままうつむく麻里萌の頭を、幸作は苦笑いを浮かべながら眺める。
=エピローグ=
「やぁ、笹森さん、今回の学園祭では大活躍だったらしいね? おかげでウチのクラスは閑古鳥が鳴いて、気合の入っていた女子たちが残念がっていたよ?」
長髪に中性的な顔立ちをした隣のクラスの学園祭実行委員である神蔵大悟は、穏やかな笑みを浮かべながら机に頬杖をつきながら、その柔らかな視線を麻里萌に向けている。
「アハ……アハハ、あたしは何も……」
どことなく視線をキョトつかせながら、困ったような表情を浮かべて、その隣で仏頂面を浮かべている幸作の顔と、大悟の顔を交互に見比べ、言葉に詰まったように麻里萌は顔を引きつらせながら曖昧に答える。
「そんなに謙遜する事はないよ? 既に学校の中ではすごい噂になっているんだよ? 『二年C組の笹森さんってすごく可愛い』ってね? まぁ、ボクは前からそう思っていたから、いまさら何を言っているのという感じなんだけれどね?」
さりげない大悟の一言に、麻里萌は大きな瞳をさらに大きく見開き、隣の幸作は危うく座っていた椅子から転げ落ちそうになる。
さ、さりげなくきわどい事を言わなかったか? この色男……見てみろ、周囲の女子が向ける麻里萌への視線が一気に険しくなったぞ?
夏休みの初日、学園祭の反省会と銘打った実行委員会の解散式、面倒臭いながらも会議室の中には慰労をかねて各クラスの代表委員が集まっており、約半数いる女子の目的は、コレを機に神蔵大悟とお近付きになれればという淡い期待を寄せていたのであろうが、予想にもしなかった大悟の一言にその表情を一気に険しく変えている。
たしかに可愛い事は俺も認める(←のろけ)が、お前みたいな色男の一言と言うのはかなり衆人に影響を与えるという事を自覚してもらいたい。
「や……やだなぁ、神蔵クンったら冗談ばかり言ってぇ……あたしなんかよりも可愛い女の子いっぱいいるじゃないのよぉ……」
助けを請うように麻里萌の向ける視線の先に立った女子連は皆一応に髪の毛をいじったり、顔を作ったりしているが、大悟は意に介したような素振りも見せず、そんな女子連に視線を向ける事無く麻里萌の事を真っ直ぐに見据えている。
「いや、ボクは笹森さん……麻里萌さんが学校の中で一番だと思っているよ?」
おいおい……そんな焚き火の中にロケット花火にネズミ花火をブレンドしたような危険物を突っ込むような事を言わないでもらいたいんだけれど……てか、まさか……。
一瞬にして教室内の空気が張り詰め、夜叉のように顔をゆがめた女子連の視線が麻里萌に向き幸作の顔が蒼ざめると、次の禁断の一言が中性的に整っているその唇から発せられると、周囲の人間(女子は九割九分)から思考を取り除く。
「ボクは麻里萌さんの事が好きになってしまったみたいだから……」
その場に居合わせた人間は全て氷付けにされた新巻鮭のように固まり、気のせいか真夏の暑苦しい教室の中の気温が一気に数度下がったようにも感じるが、そのスイッチを押した当事者である大悟はニコニコと微笑みながら、オドオドしている麻里萌の顔を見据えたままでいる。
…………デフラグ中……しばらくお待ち下さい……って、待てるかぁっ! なんだってぇ、柏崎だけでなく、神蔵まで麻里萌の事をぉぉぉっ?
凍てついた氷を振りほどくように動きはじめる幸作の事を、大悟はフフンと鼻であしらいながら、自身ありげな視線を向けてくる。
「自分の気持ちには嘘がつけないタイプなんだよね? ボクって」
シンと静まり返りながらも、どこからともなく女子のすすり泣くような声がいたる所から聞こえてくる教室の中では、静かにながらも闘志を燃やしたような大悟の視線は、麻里萌にではなく、間違いなく幸作の顔を見据えていた。
宣戦布告という奴なのか? よりによってなんでこんなに色男ばかりが麻里萌の事に惚れるんだよ……って、仕方がないのかな?
「幸作クン……」
助けを請うような顔をする麻里萌に対して、幸作は諦めたようにため息を吐き出す。
「えと……」
教室の窓からは綺麗に晴れ渡り、夏らしいスカイブルーの空が広がっているが、机ではよくその顔が維持できると思うほどにずっと仏頂面のままでいる幸作と、これまたずっと困ったように眉毛を八の字にしたままでいる麻里萌が教室で帰り支度をしている。
なんでこうなっちゃうのかなぁ……せっかく幸作クンと仲直りできたっていうのに、これじゃあ元の木阿弥だよぉ。
心の中て小さくため息を吐き出すと、教室の扉が勢いよく開かれる。
「あれぇ〜? なんだ、戸田たちもいたのか?」
顔を見せてきたのは大汗を掻きながらバスケ部の練習着を着た音子で、驚いたような顔をして幸作と麻里萌の顔を代わる代わる見ている。
「あぁ、学園祭の打ち上げだよ……ったく、こんな事なら来なければよかったぜ」
吐き捨てるように言う幸作に、音子は肩をすくめながら麻里萌に近寄ってくる。
「何かあったのか? やけに機嫌が悪そうだが……」
声を潜めながら音子が声をかけてくるが、その実情を話すには少し抵抗のある麻里萌は、つい言いよどんでしまい、その様子に何か感付いたのか音子は目を眇める。
「どうやら、あんたに理由があるのかな?」
切れ長な音子の目がさらに鋭く麻里萌を睨みつけてくると、困ったように口を開く。
「エッとぉ……神蔵クンが……そのぉ……が好きだって……」
その声は蚊の鳴くよりも小さく、まるでノミが粗相をしてしまったような声に、音子は津軽海峡よりも深いため息を吐き出し、恨みがましい視線を麻里萌に向ける。
「いいわねぇ、笹森はモテモテで……じゃあ、あたしも思い切っちゃおうかな?」
思い切る? なにを?
顔を上げる麻里萌よりも早く、音子は幸作に声をかける。
「戸田ぁ!」
ちょ、ちょっと古瀬さん? 何を言うつもりなの? まさかよね?
慌てて声を上げようとした瞬間、すでに音子は幸作に声をかけている。
「んだ?」
相変わらず不機嫌そうな顔のまま、幸作はまるで睨みつけるように音子を見据える。
「エッとぉ……そのぉだなぁ……」
それまでの勢いを一気に落とした音子は、いつになくモジモジと可愛らしい素振りで視線を床に向けていたが、やがて意を決したように目をギュッとつぶる。
「あたし、戸田の事が好きかも知れないっ!」
…………やっぱりぃ……。
「おにいちゃん! いつまでもダラダラと寝ていないでよねぇ? ただでさえ洗濯物が増えるのに、おにいちゃんのシャツだけでも洗濯機いっぱいになっちゃうよ?」
「きゃっ!」
目覚めたくないのにあまりもの暑さによって目が覚めるというのは、これほど不愉快な事はないよな? しかも郁子に叩き起こされるというオプション付きだぜぇ……って、きゃ?
着ているTシャツは汗でびしょ濡れになっており、無意識になのだろうその裾を捲り上げ、胸元まで素肌を露出し、その光景に慣れていないゲストが小さな悲鳴をあげている。
「って、なんで麻里萌がいるんだよぉ、それってずるくねぇかぁ?」
「ずるいとかの問題じゃないでしょ? おにいちゃんがシャンとしていればおねえちゃんだってそんな恥ずかしい思いをしないですんだのよ? 全てはおにいちゃんが悪いっ!」
まだ完全に覚醒しきっていない頭を必死にこっちに呼び戻そうとしながら、幸作は重たい身体を起こし、まだ顔を赤らめながら視線を逸らしている麻里萌に向く。
「ハイハイ、俺がわるぅございました……てか、こんな時間にどうしたんだ?」
まだ完全に目の醒め切っていない幸作は、ボォリボォリと胸を掻きながら眠たそうな目を麻里萌に向けると、クハァ〜と大きなあくびを浮べると、恥ずかしそうにうつむいている麻里萌を代弁するように郁子が呆れたように答える。
「バイトのシフトが今日から夏休みバージョンなんでしょ?」
「いらっしゃいませぇ」
カランとカウベルが鳴り響く『喫茶カレイドスコープ』。夏休みに入り客の色も地元の人間だけではなく、観光客であろう人間も増えはじめている。
「やぁ、笹森さん」
数人の観光客のいる中、店に入ってきたのは夏の爽やかさを持ったような笑顔を浮かべている智也で、その姿に店の一部からため息のようなものが聞かれる。
「智也クン? どうしたの?」
滅多に店に来る事のない智也の登場に、麻里萌は素直に驚いたような顔をしており、グラスを拭いていた幸作の表情も少し不機嫌なものになる。
「うん、ちょっと観光地巡りをしようと思ってね? 知り合いとここで待ち合わせなんだ。戸田君アイスコーヒーをもらえるかな?」
カウンター席に座り、爽やかな笑みを湛えたまま幸作にオーダーをする智也に、幸作は憮然とした表情のままでアイスコーヒーの作成に着手する。
「しかし良い街だね? この函館って、落ち着けるような気がするよ」
カウンターに頬杖をつきながら麻里萌の事を見つめるように話す智也は、既にお店の中で注目を浴びる存在になっていた。
「うん、あたしも大好きだよ?」
くそぉ……馴れ馴れしく麻里萌に話しかけやがってぇ……コーヒーの中にタバスコでも突っ込んでおいてやろうか?
物騒な事を考えている幸作の耳に、再びカウベルの鳴る音が聞こえてくる。
「いらっしゃいませぇ……ってぇ?」
いつもであれば爽やかに感じる麻里萌の声が途中で引っくり返り、その声に幸作も手を止めて出入口に顔を向けると、そこにはカジュアルシャツを着た中性的な顔立ちの男が立ち、可愛らしささえ感じる笑顔を麻里萌に向けていた。
「やぁ、麻里萌さん」
再び店の一部からため息が吐き出されたのを幸作は聞き逃さなかった。
「な、なんで神蔵クンが?」
「よぉ、大悟! こっちだ」
キョトンとした顔をする麻里萌の横から、智也が大悟に向けて声をかけ、さらに麻里萌の顔がキョトンとして、店の中にはさざ波のようなざわめきが浮かぶ。
「うん、戸田君、ボクはアイスティーをもらえるかな?」
一瞬女の子に言われたような錯覚に陥りながらも、幸作はコクリとうなずく。
「幸作、あの二人か? 麻里萌ちゃんの事を狙っている色男って……どっちなんだよ」
視線を美青年と呼ばれるであろう智也と、美少年と言う言葉が当てはまっている大悟に向けながら声を潜めてマスターが幸作に耳打ちしてくる。
「両方……」
口を尖らせ憮然とした顔の幸作は、まるで吐き捨てるように言う。
「りょ、両方って……麻里萌ちゃんモテモテだなぁ……って、クワバラクワバラ……」
感心したように言うマスターの顔を、鬼のような形相で睨みつける幸作、その勢いに気圧されしたマスターはスゴスゴと厨房に戻ってゆく。
「もしかして、智也クンの待っている人って……神蔵クンなの?」
お冷を提供しながら麻里萌が声をかけると、眩しいばかりの笑顔がイケメン二人から発せられ、その勢いに麻里萌もおもわず後ずさる。
「うん、そうだよ? 大悟とは最近仲良くなってね?」
「そぉ、街の案内をボクがかってでたという事なんだよ」
方やレーザービームを仕込んであるのではないかというような白い歯を見せながら微笑み、もう片方は女の子のような柔らかい笑顔を浮かべており、そのたびにお店の中では黄色い歓声が沸きあがっているようにも聞こえる。
「で、でもクラスが違うのに……」
眩いばかりのイケメン二人の笑顔に、麻里萌も気圧されしたように苦笑いを浮かべる。
「それはね? 二人の利害が一致したとでもいうのかな? いわゆる紳士協定を智也と締結したんだよ……打倒戸田君というね?」
イケメン二人の挑戦的な視線を感じた幸作は、その挑発に乗るような顔をする。
いくらイケメン野郎でも、俺は負けないぜ? たぶん……。
お互いの勘違いですれ違い、元に戻った二人の気持ち、しかし、その二人の行き先は、まだまだ晴れ渡った夏の青い空のように晴れ渡ってはいない。
新たなライバルも登場して、二人の行く末はどうなるのか……。
Fin