氷上のクリスマス

北野スオミ



「なにやっているんだ北野!」

 リンクにコーチの容赦ない罵声が響き渡り、その標的になっているわたしは、氷の冷たさをお尻に感じる。

「す、すみません……」

 何度と言っただろうこの台詞、周囲の選手は心配そうな、でもどことなく安どの表情を浮かべているように見えるのは、きっとあたしが上手くいかないせいなのだろう。

「……集中力が途切れているかもしれないわね?」

 以前オリンピックでメダルを取ったことのあるコーチはそう言いながら、力なく首を横に振り、ため息を付く。

 集中力……以前よく言われた事……、集中力がないから飛ぶ事ができない、集中力がないから満足の行くスケーティングが出来ない……それは自分でも良くわかっている、でも、今はなぜかできない……、それはきっと……。

「……今日はこれまでにしましょう、これ以上やってもきっとダメ、今のあなたには何もできない、あの時できたのはきっと偶然なのよ!」

 コーチはそう言いながら、近くにあったタオルに手を伸ばし、リンクに背を向けると、出口に向かって歩いてゆき、その背中と、今にも泣き出しそうな金髪碧眼の少女の事を、周囲は心配そうに見つめる。

「……スオミ、一体どうしたんだ?」

 コンディションコーチがまるで自分を攻めるような表情でスオミの事を見つめると、スオミはそれに力ない笑顔で答える。

「ゴメンなさい、コーチのせいではありません……自分がダメなんです……」

 肩を落としながらスオミはリンクに背を向ける。



「スオミ、あなた一体どうしたの? まるで心ここにあらずみたいなそんな感じよ? 確かに二週間前にロシアからの遠征から帰ってきて疲れているというのはわかるけれど、それにしては、変よ……なんだか本当に腑抜けてしまっているみたい」

 夕食の席、コンディショニングコーチの顔は、まるで自分の娘のことを心配するお母さんの様な、そんな表情を浮かべながらスオミの事を覗き込む。

「……はい、疲れているのは言い訳になりません……、日本に帰ってきて、なんとなくホッとしてしまったのでしょうか……自分でも良くわかりません……本当にゴメンなさい」

 目の前に置かれているサラダをフォークで突っつきながら表情を曇らせる。

「そっか……まぁ、あまり気に病むことはないと思うけれど、でもね? これだけは言わせてもらうけれど、あなたは、この大会でライバル以上の成績を残さないとオリンピック……『トリノ』に行く事は出来ないのよ? だからコーチはあんな酷い事をいうの……それはわかっているわよね?」

 目の前ではコーヒーを口に含みながらスオミの事をまっすぐに見るコーチの顔……彼女はあたしの事を心配してくれている、それはよくわかっている、でも、今のあたしには何もできないのかもしれない……。

 言葉なくうなずくスオミに対して、コーチは意外な一言をスオミに言う。

「……明日一日練習を休みなさい」

 スオミの顔が瞬時にコーチの顔を見上げる。

「でも、あさっては大会が……休んでいる場合じゃない……」

 コーヒーを飲み干し、ホッとしたような表情を浮かべるコーチは、優しい視線でスオミを見つめる。

「あなたは今何をやっても変わらない……あなたがあの『クワドラプル』を成功させる直前と同じかもしれないわね? なんだか心の迷いがあるみたい」

 その一言に思い当たる事がある。

 そう、あの時と同じかもしれない、その時、何が何でもと思っていた、そう、何が何でも勝ちたいという気持ちがあった……そのせいで、楽しむという事を忘れていたあたしを、思い出させてくれたのは……あなたと、北の大地、でもここは、あなたもいないし、想い出のいっぱい詰まっている北海道の土地ではない。

「……迷いですか……あるかもしれませんね?」

 スオミはそう言いながら席を立つ。

「スオミ?」

 そんな様子をコーチは慌てて立ち上がりスオミの顔を見つめるが、その表情に諦めたかのように力なく首を横に振り、再び席に着くとコーヒーを追加する。



「あたし……どうしたらいいんだろう……なんで出来ないんだろう……」

 自分の部屋に戻り、枕に顔を埋めながら、自問自答を繰り返すが、それに対しての答えが自分の中に浮かび上がる事はなく、心の中はより一層深い所にふさぎこんでいく。

「……あの人がいてくれたら、何か得る事ができるかもしれない」

 スオミは、ベッドサイドに置かれている自分の携帯に視線を飛ばして、それに自ら首を振り否定をする。

 ダメ、いつまでも彼に頼っているようじゃあ……。

 スオミはそう思いながら、その携帯から視線を外し、再び枕に顔を埋める。



「さてと……」

 他の選手が、大会会場に向かうバスで出発した頃、スオミはホテルのフロントを抜け、ショッピングセンターに向かって歩き出す。

 軽井沢の駅前にこんな所があるなんて思っていなかった……、しかもホテルから直結だなんてちょっとラッキーかもしれないな?

 軽井沢駅前にある一流ホテルのフロントからは、有名な店舗が並ぶアウトレットモールが所狭しと並び、目移りするように観光客がそぞろ歩いている。

 みんな楽しそう……、あたしも……。

 スオミの脳裏には、去年の夏に北海道で知り合い、今年の冬に自分を誰よりも励ましてくれた人の笑顔が浮かび上がる。

 そうだ、わたしはあの人が応援してくれたから出来たんだ……、あたしが出来たんじゃない、あの人が後押ししてくれたから出来た。

 そんなスオミの脇を、家族ずれや、カップルが様々な出立ちですり抜けて行くが、スオミの顔が晴れやかになる事はなかった。

「あれ? 北野スオミさんじゃないか?」

 その一言にスオミの顔は曇る。

 また、面白おかしくゴシップ記事を各記者なのかしら?

 その声から身体を隠すように、身をすくめるが、その声はスオミの肩を容赦なく叩く。

「スオミさん、僕だよ!」

 肩を叩かれ見上げるスオミの視線の先に立っているのは、同じオリンピック候補であり、明日からの大会で上位を収めれば間違いないといわれている男子シングルの新星、徳永正樹がニコニコと笑みを浮かべてスオミを見つめていた。

「徳永さん?」

 肩をすくめながら顔を向けるスオミに対し、そんな様子に驚いたのか、正樹は逆に驚いた表情でそのスオミを見つめる、ちょうどお互いに驚いた顔をしているという不思議な光景がそこに広がっていた。

「……」

「えっっと……」

 正樹は、鼻先をポリッと掻きながらそんなスオミの事を見つめると、その視線の先にあった顔は、慌てふためいたように全身を動かす。

「いや、あのですね! 何で、徳永さんがここにいたか不思議で、それにここはスケートリンクじゃありません!」

 ――何を言っているのか自分でも分かりません。人間咄嗟に何を言うのかわからないです。

 自分で言いながら顔を赤らめ、言葉に詰まるスオミは、うつむく事しかできない。

「ハハ、当たり前だ、ここは軽井沢駅前のアウトレットモール、そうして俺は練習をサボったという事、これでおわかりかな? 銀板の妖精」

 慌てたそんなスオミの様子に素直に驚いた正樹は、やがて優しい表情を浮かべて再びスオミの肩をポンと叩く。

「そんな呼び方しないでください……あたしは北野スオミなんです」

 スオミの表情が曇り、正樹の視線からそれる。

「そうだったね……それで?」

 正樹はそう言いながら両手を首の後ろで組みながらスオミの歩く歩調に合わせる。

「それでって……」

 その質問に対してどのように答えればいいのでしょう……。

 困ったような表情を浮かべながらスオミは、再び正樹の顔を覗き込むが、その表情はまるで悪戯っ子の様にニヤニヤし、その反応を楽しんでいるようにも見える。

「へへ、スオミさんもサボり?」

 本当に子供のような表情を浮かべながら正樹はニッと白い歯をスオミに向ける。

「サボりなんかじゃないです……ただ……」

 スオミはそこまで言うと口ごもり、視線を正樹から外すと、なんだかわからない苛立ちが心の中に持ち上がってくる。

「……まぁいいかぁ、ようは今暇って言うことだよね?」

 こみ上げてくる苛立ちが正樹のその一言に勢いを失う。

「いいかって……」

 呆れ顔を浮かべるスオミに対して、正樹は関係ないといった顔でスオミの手を引く。

「デートしよ、僕と!」

 デート……ですかぁ?

 悩んでいるスオミではあるが、既に正樹はその手を引きながら歩き出している。

「でも……コーチが……」

 戸惑うスオミに向けて、正樹は再び白い歯をのぞかせながら、ケラケラと笑う。

「コーチはいないだろ? 怒られるのなら、いっぱい遊んで怒られた方が報われるよ、楽しむ前に怒られるのはつまらないでしょ? 遊んでから怒られようよ」

 まるで気にした様子のない正樹の姿を見て、スオミは一人の男性を思い出す。

 ――あの人と同じかな? あなたならきっと同じ事をいったような気がする……そう、わたしが困った時、あなたはいつもそうやって元気付けてくれた。

 スオミの表情が和らいだ事に正樹は気が付いたのか、口をニィと左右に広げたかと思うとその引く力を強める。

「いこう!」

 その一言が、一瞬彼に言われたような錯覚に陥る。

「ハイ! 楽しんだ者勝ちです!」

 そのスオミの笑顔に、正樹は気おされた様に顔を引きつらせるが、やがて、何かを悟ったように、その顔に微笑が浮かぶ。

「あぁ、そうだ、楽しんだ者勝ちだ!」

 正樹もそう言いながら今度は先行するスオミの後を歩く。



「楽しかったです」

 満面の笑みを浮かべるスオミに、正樹は嬉しそうな顔をしている。

「……どうかしましたか?」

 そんな正樹の表情にスオミは素直に首をかしげる。

「いや、スオミちゃんもそんな笑顔をするんだなと思ってね?」

 軽井沢駅のコンコース、まさかそんな有名人が二人並んで歩いているとは思わないのであろう、周囲の視線は一瞬二人を見るものの、すぐにその視線は違う所に飛んでゆく。それが、スオミにとればとても楽しくって仕方がないようだ。

「エヘへ、照れます、わたしだって女の子です、ショッピングをするのが大好きですよ?」

 スオミの両手に持たれた大きな紙袋がそれを物語っている。

「確かにそのようだな……」

 正樹は疲れきった様な表情を浮かべるが、元気になったスオミのその表情にホッとしたような笑みを浮かべる。

「ハイ! 鬱憤が晴れました」

 本当に楽しそうにしているスオミに正樹がため息を付いていると、ホームからの放送が聞こえてくる。

『まもなく四番線に、長野行きあさま……』

 東京からの到着を告げる放送があったかと思うと、機械的な音を発しながら、細長い電車がホーム身滑り込み、その小さな出入り口から、スキーに行くのであろう色とりどりのウェアーに身を包んだ人が降りてくる。

「そろそろ昼食だけれど、どうする?」

 正樹の意見に対しスオミはウーンと首をかしげ、何の気なしのその人々が出てくる改札を眺めている。

「そうですね……ホテルにかえ……って……」

 スオミの視線がその改札から出てくる人混みの中から、一人の男性を見つめ、その瞳を潤ませる。

「……なんで?」

 やっとの思いでその一言が発せられるが、スオミは既にその視界は涙で歪んでいる。

「どうしたの?」

 スオミの視線を追いかけるように正樹はその視線の先にいる人物を見ると、そこには、正樹からするとうだつの上がらないというか、パッとした感じのしない、いわゆる一般人がキョロキョロと周囲を見渡している。

「……なんで……あなたが?」

 スオミは口に手をやり、悲しいわけではない涙を浮かべ、その男性を一点に見据えている。

「……スオミ……ちゃん?」

 そんな二人の間に入り込むことのできなくなった正樹は、スオミとその男性の間に視線を交互に見ることしか出来ないでいた。

「……あなた……」

 恐らくスオミは無意識だったのであろう、その男性に対して駆け出してゆく。

「す、スオミちゃん?」

 その勢いに気が付いた男性は、一瞬躊躇しながらも、その小さな身体をしっかりと抱きしめる、いや、いきなり飛びつかれて驚き体制を崩しながらも、しっかりとその身体を抱きとめていた。

「びっくりしました……なんであなたがここにいるんですか?」

 周囲の視線を気にしないで抱きつくスオミはそう言いながらその男性の胸の中で、今まで見せた事のないような安どの表情を浮かべている。

「どうしてって、ここで大会があるから、それにこれで上位に入ればスオミちゃんがトリノオリンピックにいける大一番だって聞いたから……」

 彼はそう言いながら隣でその様子をぽかんと見ている正樹の事をちらちら見ている。

「嬉しいです、あなたが来てくれたのなら、あたしは千人力です!」

 スオミの笑顔が最高点に達したとき、正樹が口を開く。

「徳永正樹さんですよね?」

 先に台詞を奪われた格好になった正樹は言葉を失ったまま口をパクパクさせるが、それに対しスオミの隣に立つ彼はニコニコと笑顔を浮かべながら手を差し出す。

「は? はぁ、そうですが……」

 毒気を抜かれたように正樹はお座なりにその手を握る。

「やっぱり! 男子シングルの新星で、トリノオリンピックの最有力候補でしたよね? 徳永さんもこの大会に出ているんですか?」

 彼のその一言に、周囲にいた四十代ぐらいの女性が色めき立つ。

「えっと、その話題は違った所で……行こうスオミさん」

 正樹のその一言に、今度は十代から二十代の男性が色めき立ち、なんとなく険呑な空気がスオミと正樹の周囲を囲い、その二人の間にいる彼は何が起きているか理解できないような表情を浮かべその場の空気を読もうとキョロキョロと見つめているが、やがて、スオミと正樹に牽引されるようにその場から離れてゆく。



「……あなたがスオミさんの彼氏さんですか」

 旧軽井沢の入り口にある『六本辻ロータリー』近くにある小さな喫茶店に身を隠すように三人は息を潜める。

「ハイ、彼はあたしの恋人です」

 あっけらかんと言うスオミに対して正樹は呆れた表情をしながら、その隣でなかなか息が整わない彼の事を見る。

「……さすが……だね? 俺も何か運動しないといけないな……はぁ」

 出されたお冷を一気に飲み干す彼に対し、スオミはその隣でニコニコと笑顔のままでいる。

「それで、その彼氏さんはスオミさんの応援に駆けつけたと言う事なんですか?」

 どことなく不機嫌な顔をする正樹に対し、スオミの頬は赤らみ、はにかんだような笑顔を浮かべながら、その回答を心待ちにするような表情でその彼の顔を覗き込む。

「まぁ、そうなのかな? スオミちゃんが世界に羽ばたく瞬間をこの眼で見ていたいからね?」

 彼のその一言に、スオミの頬はさらに赤らみをまし、正樹はさらに不機嫌な顔になる。

「でもよかったね? あんな所でファンに囲まれたら危険だったよ」

 どことなく刺のある言い方で正樹がそう言うと、スオミの表情も翳る。

「ハイ、あんな所でいっぱいの人に囲まれたら、それは酒池肉林です」

 スオミの台詞に、彼と正樹は顔を見合わせ、一瞬周囲に沈黙が流れる。

「……プッ……ククク」

 二人の目の前にいる正樹は、笑いをかみ殺すように口に手を当てるが、それが堪えきれなくなるように吹きだす。

「アハハハ! スオミさんって、結構お茶目なんだね?」

 その一言に訳が分からないかの様にスオミは助けを請うような眼で彼の顔を見上げるが、その表情も苦笑いを浮かべている。

「……スオミちゃん、それ使い方間違っているよ……」

 そんな彼の一言にさらに訳が分からないといった表情をするスオミを見て、正樹は諦めきったような穏やかな表情を浮かべる。

「スオミさんはそんな笑顔がとても似合っているよ……」

 正樹は手元にあったコーヒーをクイッと飲みながら笑顔を二人に向ける。

「えっ?」

 その台詞の意味を理解できずにスオミと彼は顔を見合わせる。



「どうしたの?」

 自信を持って向かったリンクでスオミを待っていたのは絶望にも似たものだった。

「……」

 ショートプログラム、いわゆるジャンプとスピン、ジャンプコンビネーション等の八つの要素を二分四十秒以内に構成して演技するだけのことだが、開けてみれば五位、かなりフリーで頑張らなければ上位に食い込むのは難しい状況だった。

「スピンはミスるし、着地の柔軟さはない……今までで最悪の出来と言ってもいいわね? まだ予選の方がいい出来だったわよ」

 肩を落とすスオミに対し、コーチは容赦ない言葉を投げかける、しかしここで優しい言葉なんて必要なかった。

最悪の出来というのは自分が一番良くわかっていること、そう、このリンクに立つまでは自信があった、でも開けてみれば、自分の中にあるリズムと身体が全くあっていない、何回も修正しようとしてみたが、それは悪い方に流れていくだけで、終わり間近ではもうがたがたで、泣き出したくなるほどだった。

「……明日頑張るしかないわね?」

 コーチはため息を付きながらスオミの方をポンと叩くと、観客席の一箇所に視線を動かし、それに習うようにスオミの視線も動く。

「あっ!」

 親指の先ほどにしか見えないけれど、そこには彼がいる。よく表情は見えないけれど、雰囲気はなんだかすごくがっかりしているみたい……あたし、あなたの事をがっかりさせちゃいました……。

 スオミの心の奥から、切ない気持ちが混みあがってきて、その気持ちがスオミの視線をゆがめる。

「……彼はあなたのそんな落胆した顔が見たかったわけじゃないと思うわ、今日はゆっくりしていい、練習もしない……明日本番で全てを出し尽くして」

 コーチはそう言いながら再びスオミの肩をポンと叩く。

 全てを出し尽くす……今まで全てを出していないという事なの?

 スオミはその言葉が理解できないようにコーチの背中を見つめていると、会場が一気にわき上がる。その銀板の中心でポーズを決めていたのは正樹だった。

 すごい……観客席のみんなが立ち上がって彼に向かって拍手を送っている……。

 スタンディングオベーション、その演技を湛える最大の賛辞を受けている正樹は、はにかみながらも堂々としている。

 彼とは世界が違う……彼は間違いなく世界に招き入れられる存在、そしてわたしは……。

 不意にスオミの頭にフィンランド時代のライバルで、幼馴染のハンナを思い出す。

 彼女は間違いなく次のオリンピックに出てくる……ずっと成長しているはず……それに比べてあたしは一体どうなの?

 スオミの眼が潤む。

 あたしは……もうだめなのかしら……。

 目を潤ませていたものがこらえ切れずに頬を伝ったかと思うと、スオミの頭にタオルがかぶさってくる。

 えっ?

予想もしていなかったその状況に、今までの事を忘れたようにスオミは顔をあげると、そこには、こんな顔を一番見せたくなかった人の顔がそこにあった。

「あ、あなた……?」

 驚きの表情を浮かべているスオミに対して彼は、ニコッと微笑みながら頭にかかっているタオルをスオミの顔にかける。

 これじゃあ前が見えません……。

「惜しかったね? 俺がいたのがよくなかったのかな?」

 タオル越しに彼の声が聞こえ、その台詞を否定しようとタオルを取ろうとするが、頭の上に彼の手が乗り、タオルを取り除く事ができない、かろうじて自分の足元が見えるぐらいだった。

「そんな事ありません、あなたがいたせいだなんて……」

 再びスオミの瞳から涙がこぼれ落ちる。

「……でも、スオミちゃんチラチラッと俺の事を見てくれたよね? 何回か目が合った」

 それは事実です、あなたに見てもらいたいと思ったから、あなたに最高の演技を見せようと思ったから……。

 スオミは彼の力に従いながらリンクを後にし、今自分で否定した言葉を思い出す。

 あなたに見せたい最高の演技……それでいいの? あなたに対してだけの演技なんて見せて、他にも多くの人が応援してくれているはず、その人たちは……。

「おかしいよなぁ〜、俺の中では一番だと思ったけれど……途中でおかしくなったのは何でなんだろう?」

 彼は真剣に悩んでいるようで、首を左右に振る、そんな仕草にスオミは思わずふきだす。

「ウフ……おかしくなんてないです、それがあたしの実力だったんです」

 スオミは満面の笑顔を浮かべながら彼の顔を覗き込む。

「そんな事ないだろ? スオミちゃんの実力を持ってすれば……」

 不満げな顔を浮かべる彼に対し、スオミはニッコリと微笑みながらその口に細い人差し指を当てる。

「そんな事ありません……でも、もしかしたら本当にあなたがいたからよくなかったのかしら?」

 スオミの一言に彼の顔が曇る。

「……ゴメン」

 歩みをピタリと止めながら、彼はしょげ切ったような表情でうつむいている。

「そ、そんなあやまらないで下さい、おかげであたしなんだかわかったような気がします」

 慌てたように手を振りながらスオミはそれを否定する。

「わかった?」

 彼はそう言いながらも、キョトンとした表情を浮かべ、その表情にスオミはクスクスと笑い出す。

 ウフ、本当にあなたって不思議な人です、励ましてくれてそれに気が付いていないようです、そんな人には……。

 スオミは背伸びするようにその人の頬に唇を触れる。

「……わたしは演技をしていたんです、だから途中で思うようにいかなくなって慌ててしまったんです、だからあたしじゃなかったんです」

 頬を染めながらスオミは自分の取った行動に照れる。

「……演技? あたしじゃなかった?」

 彼は相変わらず隣でキョトンとしている。

「大丈夫です! 明日は演技しません……なるようになるさ、です!」

 スオミの言葉に彼は首を傾げるだけだった。



「北野スオミ、日本」

 クリスマスの当日、女子フリースタイルの行われる会場にわたしの名前が響き渡ります。

 静まり返るリンクに、ピアノの音が優しく鳴り始める。曲は『夏の記憶』

「ウン!」

 曲の変わり目、わたしは力強く足元の氷を蹴り、大好きなあなたとの想い出を思い出しながらこのリンクを滑ります。

 静かな曲のため、スオミの耳にはそのピアノの音よりも大きく自分の蹴る氷の音が聞こえる。

 そう、あたしはあなたがいるから一生懸命あなたに対して見せようと『演技』をしていたんです。でも違う、あたしはこの会場に来ている人に対して演技を見せるけれど、でもあなたに対しては演技を見せない、自然に動くわたしの事を見てもらいたい……それでダメなら、あたしはもうこの世界をやめます、その時あなたはわたしのことをもらってくれますか?

 スオミは思わずスピンをしながらそんな事を考え、頬を赤らめる。

 でも、わたしはそっちの方がいいのかな? だって、ずっとあなたと一緒にいることができるんですもの、これ以上の幸せはありません。

 曲が徐々に佳境に近づいてくる事を知らせてくる。

 いいも悪いもこれしだい、ただ今わたしは最高の自分をあなたに見せたい。

 曲は佳境に入ってきた。自分の最高のものを見せる正念場に向けてスオミは氷を蹴る力をこめると、ちょうどその視線の先には愛おしく、そして何よりも自分の事を応援してくれる最高の応援団である彼の顔が見える。

 あなたはいつも悩んでいるわたしを救ってくれました……あの夏あなたに出逢ったから今のあたしがあるんです、だから……だから……今だけは。

 従来であれば審査員の前で行うそのクライマックスを、常識では考えられない場所でそれを行うスオミに、会場に一瞬どよめきが起きる。

 リンクの片隅、審査員から離れたその場所でスオミは自分最高の演技を迎える。

「ス、スオミちゃん?」

 観客席にいる彼の声がまるでスオミの耳に届くようだった……いや事実聞こえたのかもしれない。

「見てください、これはあなたに対してのせめてものお礼です」

 勢いよく滑り、自分の思った場所でジャンプ。

 よし!

 スオミは心の中でガッツポーズを作り、自分のしたいように身体が自然と動く。

『ク、クワトラプル……』

 場内のアナウンスがスオミの耳にかすかに聞こえてくるが、それどころではない、自分の中では最後のフィニッシュに向けて一直線だ。



「なんであんな所で、あんな最高のジャンプを……」

 最高の賛辞を背中で受けながらリンクサイドに戻ってきたとき、スオミを出迎えたコーチは、困ったような嬉しいようなそんな複雑な笑顔を浮かべながらスオミを見つめる。

「ハイ、あそこがあたしの中では最高のポイントでした、よく言うじゃありませんか『終わりよければ全てよし』と、あそこでなければあのジャンプはできませんでした」

 悔いない顔でスオミがそう言うと、コーチも諦めきった表情でその場所を再度見つめる。

「……あなたにはオリンピックなんかよりも、あの人の笑顔が一番なのかしらね?」

 意地の悪い顔をしてスオミのわき腹を突っつくそのコーチに対して、

「ハイ、そうですね? わたしの最高の場所はあそこなんです……それに……」

「それに?」

 コーチははにかんでいるスオミの顔を覗き込むと、その顔は弾けたように明るくなる。

「今日はクリスマスです、サンタさんもプレゼントを持って来てくれるはずです!」



「スオミちゃん……」

 沈痛な面持ちの彼に対し、スオミはどんな顔で応えていいのかわからず、とりあえず笑顔を浮かべているものの、その笑顔もちょっと引きつっている。

「あは……あはは……」

 スオミにしてもそうだった、どのように対応して良いのかわからない様に、とりあえず笑顔を浮かべているみたいな感じでいるその二人の机の上に置かれているメダルの色は……。

「大逆転……だよね?」

 彼はそう言いながら金色に輝くメダルを改めて見つめる。

「日本のサンタクロースはちょっと意地悪かもしれません……」

 恨めしそうに見つめるスオミは思わずそんな口をついてしまう。

「意地悪? サンタクロースが? そんなことはないだろ? スオミちゃんがトリノに行く事ができたんだから、最高に親切なサンタクロースからのプレゼントだよ」

 彼は何もなかったようにそう言いながら嬉しそうにわたしの顔を覗き込んできますが、わたしからするとやっぱり意地悪です。

「ハァ……これでまた……」

 スオミは嬉しいような、それでもちょっとつまらないようなそんな複雑な表情を浮かべながら彼とそのメダルを見ながらため息を付く。

 あなただけのわたしじゃ無くなってしまうのですね?

 周囲にはクリスマスの音楽が流れているものの二人の間にはまだそれを祝う雰囲気ではなく、まだまだお預けのような状態が続く……。

「でも、最高のクリスマスプレゼントだよ? 俺の恋人がオリンピックに出るなんて、驚きだ」

 恋人……。

 その一言にスオミの頭の中は真っ白になる。

 でも、そのうち……恋人ではなく……。

 スオミの出した答えに自ら顔を赤らめる、そんな様子に彼は首を傾げるだけだが、いつかはわかるであろう、自分の……。

「ハイ、わたしもビックリです、こうなったらあなたもトリノに応援に来てもらわなければいけませんです!」

 スオミはそう言いながらそのメダルをそっちのけに、メダルよりも大切なその胸に抱きつく。

 そうです、金メダルは国の為になるかもしれませんが、気持ちはいつだってあなたを思っています……そう、あなたの為にあたしは滑るんです。


fin