(ヤ)のつく高校生

第一話 とんだ意識?


=プロローグ=

「おっ……尾上竜司(おがみりゅうじ)さん……ですね?」

 声を震わせながらオレの事を呼び止める男は、緊張のためなのか蒼く変色している唇を小刻みに震わせており、そのシチュエーションにこの後に何が起きるかがすぐにでもわかってしまうのは、オレが(ヤ)のつく自由業の身であるからこそなのであろう。

「ふん……そうだが……てめぇはどこの組(モン)だ?」

 馬鹿らしそうに鼻で一蹴し、かけている細身のサングラスの奥から人を見下すような視線を向ける竜司。その表情は赤子であれば一瞬にして泣き止み、もしも老人であろうものならば、川の向こう側に綺麗な花畑を見てしまう事になるであろうほどの凄味を持っている。

「お、お、お……」

 ったく……なんだってこんな三下(さんした)野郎を寄こして来るんだかなぁ? 浅草最大のヤクザ者である、『笠上組』の若頭である尾上竜司サマも随分とナメられたもんだぜぇ。

 呆れたように小さく嘆息しながら、さらに竜司が鈍く光る目を眇めると、その眼光に完全にビビッてしまった男は、目をギュッとつぶったかと思うと、おもむろに震える手を懐に突っ込むと、黒光りしている物騒な物(ブツ)を取り出し、その引き金を一気に引く。

 パンッ! パンッ! パンッ!

 爆竹を鳴らしたような軽い破裂音が耳に聞こえたのとほぼ同時に、自分の胸に焼けた鉄槌を突っ込まれたような激しい痛みを感じ、不覚にも竜司の膝は重力にかなわず地面につく。

「ヒィッ! ヒィーッ!」

 その光景に腰を抜かしたようにだらしなく去っていく男の背中を見送りながら、竜司は胸に感じる激痛に顔を歪ませ、身に起きている事を薄れゆく意識の中で冷静に分析していた。

 どうやら拳銃(ハジキ)で撃たれたみたいだな? いわゆる鉄砲玉という奴なのだろう、あの三下野郎は……しかし、腕前は良いようだぜぇ……当たり所はかなり悪い場所のようだぜ。

 一番痛みの激しい場所を震える手で触れると、ヌルッとした感触と一緒に手にはおびただしい量の血が付着しており、それが何を意味するかを理解するには数秒も掛からなかった。

 なんじゃぁこりゃぁ、って、昔見た刑事ドラマでこんなのがあったよな? あの時はカッコよく見えたけれど実際はイテェよなぁ……やっぱり死ぬのかなぁオレは……ヘヘ、わりぃなぁ、夏帆(かほ)。オレはもうダメそうだぜぇ、怨むのならこんな男を旦那にした自分の事を怨んでくれよ? 香花(かのか)の事を……よろしく……頼んだ……ぜ。

 跪く足元には既に体内から流れ出した血が池のように溜まってゆき、薄れてゆく竜司の意識の中にはキツイ顔をしながらも、今まで支えてくれた自分の嫁である夏帆の姿と、愛娘である香花の笑顔がフラッシュバックするように浮かんでは消えてゆき、遠くにサイレンを聞きながら竜司はそっとまぶたを閉じ、その頬には東京では珍しい冷たい雪が降り積もりはじめる。



=悠=

「アンタがもうちょっとハッキリとしないから、みんなからからかわれるんだよ? ってぇ、もぉっ! ちょっとぉ、聞いているの悠(ゆう)!」

 腰に手をやり、裾広がりなショートボブの髪の毛を逆立てているのではないかというような険しい顔でボクの事を睨みつけている女の子は、ボクの家の隣に住んでいる羽成愛果(はなわあいか)。中学校からの同級生であり、ボクの数少ない友達の中でもさらに少なく、唯一の異性の友達といっても過言ではない存在の娘(コ)だ。

「そんな事、気にしなければいいだけじゃないか……ただボクは余計な揉め事が起きなければそれで言いと思っているだけだよ……友達同士の揉め事なんて不毛だよ」

 ヒョイッと肩をすくめた悠は、玄関先で光るまだ真新しいローファーに足をねじ込むと、膨れ面をしながら目の前に立つ愛果の事を見上げるように言う。

玄関の段差もあるかもしれないけれど、ボクの身長が百五十二センチ、対する彼女は百六十三センチ。数字だけ見てもその差は歴然で、なんとなく常に彼女に見下ろされているような気になるのがボクの最近の悩みだったりする。

「確かにそうかもしれないけれど、そんな事なかれ主義な性格だからみんな図に乗ってからかっているんでしょ? アンタがみんなになに何て言われているか知っているでしょ?」

素直に怒りを顔で表現しながらも、愛果は遅れまいと慌てて玄関先に置かれているローファーに足を向けると、当たり前のように悠の肩に捕まりながら靴ベラで踵(かかと)を収納する。

それはよく知っているよ。女子から『柊悠(ひいらぎゆう)は、ウケ専』だと言われているらしい。いわゆるボーイズラブモノで美男子に愛される男子がボクという事らしいけれど、実際にはそんな事はないし、ボクはあくまでもノーマルだ。

「別にいいじゃないかぁ、それでいじめられているという訳じゃないし、みんなもからかっているだけで、ボク自身には実害が無いんだから……」

 不満げな表情を作るも、小さく膨らんだ頬は赤く紅潮し、恥ずかしそうにうつむいてしまうのは、悠の鼻腔を刺激する愛果から香ってくる匂いのせい。シャンプーなのか、それともボディーソープなのかよくわからないが、フローラル系の甘い香りが触れられている肩を通し彼女の体温とともに優しく香ってきて、無意識に腰を引いてしまう。

 ――ボクがノーマルなのはこれで証明できるだろ? ボクだって健全で思春期の男なんだ。異性に対して興味があるのは他の男子と変わらないよ。

「でもぉ……」

わざとらしくソッポを向く悠に、愛果はまだ言い足りないかのように口を尖らせ、その頬をさらに大きくと膨らませる。

「それに愛果にだって別に実害があるわけじゃないでしょ? 女の子はみんなボクの事を茶化しているだけであって、愛果には別に関係ないと思うけれど」

 そっけない一言に、それまで膨らんでいた愛果の頬は収縮し、どことなく寂しそうな表情を浮かべながら悠に視線を向ける。

 いけね、言い過ぎたかなぁ……。

 視界の隅に愛果の表情を見た悠は心の中で一瞬反省するが、すでに吐き出してしまった台詞を戻す事はできず、一瞬沈黙が訪れる。

「た……確かにそうかもしれないけれど……でもぉ、悠は悔しくないの? 男としてみんなから冷やかされたりするのが! あたしは悔しいよっ!」

 一瞬の沈黙ののち、既に登校準備が整った悠に遅れまいとコートを羽織る愛果は、再び口を尖らせ口惜しいように唾のかかるような勢いで口を開く。

「それは仕方がない事でしょ? あくまでもそんなのは噂話でしかないんだから、そんな事をいちいち気にしていたらラチがあかないよ。皆も飽きれば言わなくなるだろうし……まぁ、ボクの背が伸びれば多少は違うかもしれないけれど……」

 言葉尻を濁した悠は、色々な意味でのため息をつきながら玄関の扉を開くと、この地方では当たり前に吹いてくる肌を突き刺すような寒風が二人の身体に取り巻いてくる。

 寒っ! 春とは言ってもこの地方じゃあまだまだ先の話だよな?

「ほらぁ、悠ぅ、ちゃんとコートの前を閉めておかないと寒いよ?」

 寒風に肩をすくめる悠の姿に、愛果は小さくため息を吐き出し、どこか嬉しそうな表情を浮かべながらまるで子供を諭すようにその腕を引く。

 ポヨンって……愛果のが……腕にポニョンって……。

 ほんの一瞬ではあったが、決して大きくない愛果の柔らかな胸の感触を腕に感じ、悠は飲み過ぎてしまったサラリーマン氏のように顔を赤らめるが、当人は気がついていないのか、それともあまり気にしていないのか、平然とした様子で目の前に跪き、かいがいしく悠のコートのボタンを閉めはじめる。

「もぉ、ボクだって子供じゃないんだからぁ」

 赤ら顔の悠は恥ずかしそうにそれを振り切り、細い愛果の指から逃げるように玄関から飛び出すと、そこには除雪された雪がまだ山のように積み上げられ、冬の名残を残している。

「もぉっ! あなたが一人っきりで心配だからやってあげているんでしょ? あなただって今日から高校生なんだから、心機一転で頑張らないと……だめだよ……」

 振り払われたような格好になった愛果は口を尖らせ、逃げるようにスタスタと先を歩いてゆく悠の後姿に、諦めたように小さくため息を吐き出しながら、自分のコートの襟とマフラーを直すために一瞬視線をそらすと、次の瞬間、耳障りな自動車のブレーキ音と共に香ってくるゴムの焼けたような嫌な匂いが鼻をつく。

「えっ?」

 キキィッ〜〜〜〜! ドンッ!

 何が起きたのかわからない愛果が無意識にその音に視線を向けると、その身体が不自然なまでに折れ曲がり、まるで人形のように宙に舞った悠の姿。それはスローモーションで再生しているようにも見え、さっきまで愛果の目の前を歩いていたその小柄な身体は、一気に地面に叩きつけられると、慣性の法則に従うように転がり、やっと止まった時には、その身体からは生気がなくなっている。

「悠?」

 一瞬の事に理解ができない愛果は、目の前でピクリとも動かなくなっている悠の姿を見つめながら力なくその場にへたり込み、呟くように悠の名前を呼ぶが、その声に悠の身体が反応する事はなく、地面と身体の隙間からは徐々にではあるがおびただしい量の血が流れ始めている。

「救急車だっ! 早く!」

 通りすがりのおじさんが声を荒げ、悲鳴に似た近所のおばさんの声が聞こえてくるが、その様子を愛果はまるでテレビの中での出来事のように見えてまったく動く事ができない。

 なに? 一体何が起きたの? 悠がピョーンって……轢かれたの? なんで? 悠が轢かれたの? 何に? 車に? じゃあ、ここに横たわっているのは……悠なの?

 目の前で池のように広がる血の中に横たわり、物体のようになっている悠の身体に愛果が視線を向けると、心の中に一気にその現実が心の中に入り込んできて、心が耐え切れなくなったような悲鳴を上げ、その瞳からは涙が溢れ出し周囲を滲ませる。

「……イヤだ……よ、今日は高校の入学式だよ? ネェ……早く一緒に行こうよ……」

 いまだに納得ができず生気のない顔でフラッと立ち上がる愛果は、すでに動く事のない悠の身体に近づこうとするが、その腕を背後から誰かつかまれ近寄る事ができない。

 邪魔をしないでっ! あたしは悠と一緒の学校に行くんだからっ!

「なんでそんな所で横になっているのよ……早くしないと遅刻しちゃうよ? 今日は入学式なんだから……高校でも同じクラスになろうっていったじゃないのよ……ほらぁ、早く起きて? ねぇ起きてよぉ〜っ! ねぇ、悠ぅ……悠ぅっ!!!」

 後ろから羽交い絞めされている身体はビクともしないが、力の限りに叫ぶ愛果の耳の奥には救急車のサイレンが聞こえてくる。

 早く! 早く来て! そうしないと悠が……悠が死んじゃうよ!

 死。その言葉が心の中に浮かんだ瞬間、愛果は力が抜けたようにその場にしゃがみこんでしまい、その視線の先には、いまだにピクリとも動かない悠の身体が横たわっている。

 なんで……なんで悠がこんな目にあわなければいけないの? 神様お願い、どんな形でもいいから悠の事を助けて……お願い……。

 肌の色が真っ白になるほどの力を込めて手を組み、祈るような思いの愛果は物言わなくなってしまったその悠の身体を辛そうに見つめる。



=夢? 現実?=

「こ……ここは?」

 ゆっくりと眼を開くと、そこには眩いばかりのライトが自分に向けて当てられており、その周囲では白衣を着た医師団やナースが忙しそうに動き回っている。

 ――オレは助かったのか? あれだけの鉛玉(なまりだま)を喰らっていながら……それにしても体中が痛くって仕方がねぇぜぇ。まるで全身筋肉痛の酷いやつになったみたいだ。脳から発せられる信号を身体がことごとく無視しているようで、動かす事ができねぇ。

 唯一動かす事のできる目で周囲を見渡せば、そこはどんな人間が見てもわかるような病院の光景であり、白衣の天使たちが忙しそうに動き回っている。

 ヘヘ、結構レベルの高い病院に連れてきてくれたじゃねぇか……意外に可愛娘ちゃんのナースがいっぱいいるぜぇ……ってイテェッ!

 フワフワと揺れるナースのスカートと、チラチラ見えるストッキングに覆われた太ももに、思わずスケベ心に動かしてしまった手に感じる激痛に身体をよじると、その動きによって意識が戻っている事に気がついた医師が横たわっている竜司の顔を遠慮なく覗き込んでくる。

 うぜぇなぁ。オレは白衣の天使の姿しか見たくねぇんだよ。

フワフワチラチラなナースの姿を遮るように割り込んでくる医師に対し、竜司は精一杯に嫌な顔を浮べ(ているつもり)る。

「よし、意識が戻ったのなら大丈夫だろう……キミ、わたしの声は聞こえているかい?」

 どことなくホッとしたような顔をしながら医師はそう言うと、ペンライトのような物を目に当てながらこちらの反応を伺っている。

「……聞こえ……る……」

 精一杯のその声に、慌ただしかった周囲の動きが一瞬止まり、それまで緊張していた病室の空気が一気に和み、医師団がホッとしたような顔を見合わせていると、次に恰幅の良い偉そうな顔をした医師が覗き込んでくる。

 だから、オレはこんな油ギッシュな野郎の顔を見たいわけじゃねぇんだっ!

 しかめっ面を浮かべ(ているつもり)る竜司だが、そんな事はお構いなく、広い額にうっすらと粘液性のある汗を浮かべる医師が口を開く。

「キミの名前は?」

 あぁん? オレの名前だぁ? そんなの決まっているじゃねぇか……オレの名前はオ・ガ・ミ・リュ・ウ・ジ……って、あれ? なんでだ? 頭の中でははっきりとわかっているのに、口が自分の思うように動かない? 何でだ?

 頭で思っている言葉が声にならず、ただ口をパクつかせているだけの竜司を見た医師団は、落胆したような顔をして互いの顔を見合わせるが、偉そうな顔をした医師は、気を取り直すような顔をして意外な一言を発する。

「――キミの名前は柊悠(ひいらぎゆう)。十五歳。綾南学園高校商業科の一年生だろ?」

 小さく首を振り、どことなく同情するような口調で言う医師に、それまでまどろんでいた竜司の瞳が徐々に覚醒する。

 だろって……ちょっと待ってくれ。オレは尾上竜司(おがみりゅうじ)。浅草にシマを持つ笠上組の若頭だぜ? いわゆる『ヤクザ』者(モノ)だ、そんなオレがなんだって高校生なんだ?

 意外すぎる医師の一言に、無意識にガバッと起き上がろうとする竜司の身体を数人の医師やナースに押さえつけられる。

 なんだってこんなヒョロヒョロした医者や、可愛娘ちゃんナースたちに押さえつけられなきゃいけないんだ? いつもならもっとゴツイ相手をはねのけていたというのに……って、そう言えば、二メートル近かった身体がやけに小さく感じるのはオレの気のせいなのか?

「だって、高校生でしょ? 悠クン」

 マスク越しながらもそのベビーフェースぶりがわかる一人のナースは、それに似つかわない大きな胸を揺らしながら無遠慮に覗き込んでくる。

 ちょ……ちょっとまてやぁ?

「コラァ! 誰が『悠ちゃん』じゃ! オレは竜司じゃぁっ! 浅草のヤクザもんでぃ!」

 痛みをこらえながらやっとの思いで開く口から聞こえる声は、それまで地獄の傍から響いてくるような野太い声ではなく、女の子のような、どこか爽やかさえ感じるような声で、竜司は心の中で首をかしげながらも周囲を睨みつけていると、最年長であろう医師団のトップらしき老医師は、小さく嘆息しながらナースから借りた一枚の手鏡を竜司の前に差し出す。そこに映っている顔は、閻魔様でも裸足で逃げ出すような見覚えのある人相の悪いものでは無く、いままで見た事のない整った顔をした少年の顔で、その表情は自分の意思を表しており、自ら動かす白魚のような指はその女の子のようにも見える顔を弄る。

 ちょ、ちょっと待ってくれよ……これってばウソだろ? この鏡に映っているのがオレだというのか? 自慢じゃないけれども泣く子が黙ってヒキツケを起こし、どんな人混みの中でも歩きやすい状況を作ってくれるような厳つい顔(ツラ)をしていたオレ様の顔が、いつの間にこんなヤサ顔になっちまったんだ?

 頭に包帯を巻かれ、痛々しそうに絆創膏だらけになっている顔は元々色白なのであろう、さらに血の気を失っており、まさに顔面蒼白という形容詞がピッタリと当てはまるような顔色をしており、ポカァンと口をあけている。

 この子は女の子……なのか? いや、よく見れば、喉元にわずかにのど仏があるようにも見えるし、男(やろう)……というよりも……男の子なのか?

 周囲の医師たちは竜司の反応に一斉に顔を見合わせると、喧々諤々(けんけんがくがく)と議論をぶつけ合っているが、一人機械を操作している豊乳ベビーフェースなナースは、そんな論議に参加する事なく唯一表情を表現する事のできるその瞳を細くして竜司を見つめている。

「へぇ、悠ちゃんがそんな言葉遣いするなんて思っていなかったなぁ。でも、そんなワイルドな悠ちゃんも結構イカしているかもしれないな?」

 豊乳ベビーフェースナースはウィンクしながらそう言い、絆創膏で覆われている竜司の鼻先を指で突っつきながら顔を近寄らせてくると、消毒液とは違う甘い香りが香ってきて、無意識にその顔が熱を帯びるのがわかる。

 な、なんだぁ? 自分の意思に反して反応しやがる……。

 大写しになる豊乳ベビーフェースナースのわずかに見える表情と、オトコの部分を刺激するような香りに竜司は目をそらしてしまう。

「フム……だいぶ記憶の混乱があるようだな……まぁ、それは致し方がない事であろう、あれだけの事故に遭っていながらも、命があっただけで良かったと思ってくれ」

 医師団はそんな乱暴な結論を出したのか、一人の年長者らしき医者は竜司に向かってそう宣告すると、まるで逃げるように病室から出て行く。

「ちょぉ?」

 ちょっと待てや! 事故って……オレは拳銃(ハジキ)で撃たれたんだぜ? 恐らく敵対している片桐組のチンピラに撃たれたんだっ! そんな物騒な事件を単なる事故扱いするほどに、この国は寛容になったのか? それに記憶が混乱って、そう言う問題じゃねぇだろ? 記憶が混乱したら顔が別人になるなんていう話は無学なオレでも聞いた事ねぇぞ!

「まぁ、とりあえずそういう事だから、ゆっくりと横になっていてね悠ちゃん」

 豊乳ベビーフェースナースも竜司のかけている布団を直すと、手をヒラヒラと振りながら医師団の最後尾につくように病室を出て行こうと背を向ける。

「ちょっと待てぇ! オレは一体どうなっているんだ?」

 痛みをこらえ竜司は精一杯大きな声を出しているつもりだが、体中の痛みのせい&このミニマムな身体のために思ったような声が出せていない事にはまだ気が付いていない。

「なに?」

背を向けたその手をつかもうと身体を動かすが、その瞬間体中に電気が走るような痛みが駆け抜け、無意識にその動作を止めている竜司に豊乳ベビーフェースナースは振り向く。

「っくっ……これは一体どういう事なんだ? どうしてこんな事になったんだ? 説明をしてくれ、ここに映っているこの男の子は一体誰なんだ?」

 体中を駆け巡る痛みに対して顔をしかめながらも、自分の身に起きた事が全く理解できない竜司は、手に持っている手鏡に映り、不安そうな表情を作り上げている顔を指で突っつき、助けを請うようにそのナースに話しかける。

「――キミの名前は柊悠。私立綾南学園商業科一年B組出席番号は十三番。高校の入学式の日の朝に自宅前で車に轢かれて、この東山病院に救急搬送されたマヌケな男の子という事。ついでに話しておくと、キミはあたし……森仲明日香(もりなかあすか)の実の弟……」

 諦めたように明日香はマスクを外してその顔の全容を見せると、その顔は予想通りの幼顔ではあるが、さっきまでの優しい表情ではなく、大きな瞳からは止め処もなく涙が溢れ出し、その頬はグッショリとその涙で濡れそぼっている。

 柊悠……高校一年生……いや、オレは尾上竜司だ……浅草のヤクザ者だ。

 幼顔を涙でクシャクシャにしている明日香に動揺しながらも、竜司は心の中で否定を繰り返すが、しゃくりあげながら咽び泣く姿を見ていると、否定をするたびになぜか心が痛む。

 なんでだ? なんでたかがナース一人の泣き顔だけでこんなにもオレが罪悪感を覚えなければいけないんだ? 他のオンナにはもっと酷い事をしてきたオレがだぜ?

 戸惑う竜司の目の前で大声こそ上げないものの、明日香は瞳から落ちる涙を拭う事なく、どことなく似ている顔を真っ直ぐに見つめている。

「本当はあたしだって泣き叫びたかったよっ? いくらあたしが嫁に行って離れて暮らしているとはいえ、あたしたちはこの世の中で残された唯一の血が繋がった姉弟なんだよ? 実弟がそんな無残な姿で搬送されてごらんよ! 普通でなんていられるはず無いじゃないかぁ!」

 その時の状況を思い出したのか、明日香は白衣の裾をギュッと握りしめ、その涙に濡れた長いまつげを伏せる。

「だから……良かったの……本当に……あんたが無事で本当に良かったよ……」

 包帯に巻かれた竜司の手を取ると、それを涙にまみれた頬に摺り寄せる。

 温かいな……これが肉親の絆という奴なのだろうか……小さい頃から親のいなかったオレには無縁のものだと思っていたけれど……意外に心地のいいものなんだな? でも……、

 手に触れる心地のいい温かさにソッと目を閉じると、今までに感じた事のない温かな感覚が心の中に広がっていくような気持ちになるが、しかし、今の自分は彼女の期待に添う事が出来ないという事実を伝えなければいけないという気になる。

「――でも、オレは……アンタの弟じゃない……アンタには申し訳ないがこれだけはハッキリと言っておく。オレは柊悠じゃない」

 言い難い気持ちの方が先立つが、オレは柊悠なんていうカタギの人間じゃない。オレは世間から後ろ指を指される浅草のヤクザ者だ……そんなカタギの人の名前を騙(かたる)るほど落ちぶれていないつもりでいるし、オレなりのポリシーを持っているつもりだ。

 苦渋が込められているような竜司(悠)その一言に、明日香はハッと顔を上げて竜司(悠)の顔を間近に見つめると、その表情が嘘をついているようなものではない事に気がついたのか、それとも俄かに信じられないのか小さく肩をすくめる。

「本当に? ……本当なの? あなたは本当に悠じゃないの?」

 どことなく寂しそうな明日香の顔をまともに見る事のできない竜司は、顔を明日香から背けながらその質問に対してコクリと首を縦に振る。

「あぁ……」

 申し訳ないが、オレはアンタの知っているような優しい弟、柊悠なんかじゃない……すれ違うみんなが揃って嫌な顔をするヤクザ者なんだ。

 そむけられた顔を心配そうにのぞき込んでくる明日香に対し、竜司はいままでに感じた事のない空虚感に襲われ、思わず小さくため息を吐き出す。

「――信じてもらえるかどうかわからないが、オレの名前は『尾上竜司』。東京浅草にある『笠上組』というヤクザ者の若頭だ。歳は今年で四十になるオヤジだぜ……」

 わりぃな……あんたの期待を裏切るようで……しかし、これが事実なんだよ……。

 うつむきながらも真剣な顔をして話す悠を見る明日香の顔が、ゆっくりと経緯を話す竜司の言葉に徐々に強張ってゆくのがわかる。

「四十……ヤクザ……」

 呻くような明日香は、竜司(悠)の爽やかな声とは裏腹な台詞を復唱し、さっきまで涙で濡れていた瞳はさらに大きく見開かれてゆく。

「あぁ、世の中で嫌われ者のヤクザ……それがオレだ」

 まともに明日香の事を見る事の出来ない竜司は目を伏せ、自嘲気味に吐き捨てる。

 自分でもわかっている。いわゆるならず者だ。普通の社会が健康な身体だとすれば、オレたちみたいな存在はその健康な身体に巣食うガン細胞みたいなものだという事は……。

 何度とその存在を否定されてきた竜司は、すでに慣れっこになったように吐き捨てるが、目の前で真っ直ぐに見据えてくる明日香は表情を変える事がない。

「ふぅ〜ん……」

 それまでの竜司の経緯を聞き終えた明日香は、それまでこもっていた肩の力を抜くと、ため息とも言えない息を吐き出しながら瞳を閉じる。

「わかっただろ? どこでどうなってこうなっちまったかは知らねぇが、あんたの目の前にいるのはあんたの知っている男じゃないん……だ」

 ヤクザ時代によく吐いた相手を突き放すような台詞。しかし、今回のその台詞は対する人間では無く、その言葉を吐き出した自らの胸を激しく揺さぶり、痛みにも似たその動揺に竜司は思わず顔をしかめてしまう。

 なんだってさっきからこんなに胸が痛むんだ? オレがこの娘に対して申し訳ないという気持ちになっているという事なのか? んなバカな事ありえねぇ。それまで円満だった家庭が、オレの一言で一家離散になっちまったとしても、全然良心の呵責になんて苛まれた事なんてなかったオレがだぜ? そんなの絶対ありえねぇぜぇ?

 湧き上がってくる感情に戸惑ったような表情を浮かべていると、明日香は同情するような柔らかい笑みを浮かべると、サラサラの髪の毛に覆われた悠の小さな頭を自らの大きく膨らんでいる胸に押し付け、再び大きな吐息を吐き出す。

「――やっぱり悠は悠だよ…………安心した……」

 両頬を包み込んでくるような柔らかな肉感に一瞬竜司のスケベ心がもたげ上がるが、全身に染みわたるような明日香の体温と、頬に零れ落ちてくる熱く感じる涙に、その荒んだ心が浄化されるような気持ちになる。

「昔からそう……あなたは素直で優しい子なんだよ……」

 ポフポフと頭をなでられると、心地の良いその手の重みに思わず目を閉じてしまう。



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