自然数「1」と人間


 「数とは何か」という問い自身が漠然としていますので、ここでは最初に自然数について考察します。歴史的に数の始まりは自然数ですし、誰もが最初に覚える数は自然数だからです。自然数というのは、1,2,3,4…と続く数で、人間が一番最初におぼえる数です。日本では幼児でも、十以下の自然数は数えられるようになります。しかし、分数や小数を知るのはずっと後のことです。自然数は物の個数を数えるための数ですが、自然数の大きさを比べる基本的な方法は、一対一の対応です。一対一の対応は、おそらく原始時代から行われていたやり方で、刻み目のつけられた原始時代の骨が発掘されています(1)。数をおぼえ始めた幼児は、手の指を使って数を数えます。例えばお菓子やオモチャなどを手の指に対応させて数えるのです。パプアニューギニアの原住民の研究でも同様で、体の部分に対応させて数を数える部族があります。その次の段階として、棒や石などの物体を用いるようになります。

 パプアニューギニアの原住民には2までしか数えられない種族も存在しており、文明社会における幼児も少ししか数えられません。それでも一対一の対応が理解できれば生活にそう不自由はしません。また言語能力がない人間の乳児や、人間以外の動物に関しても、数の能力は備わっていることが実験的によって示されています(2,3)。こうした数の能力の基本は一対一の対応と考えられますが、それは「1」の基本的性質によって成立すると考えられます。

 「1」の性質についてもっとも深く考えたのは、古代ギリシャ人です。古代ギリシャでは非常に多くの思想家がいて、多種多様な考え方がありましたが、その多くは失われており、今では断片しか残っていません。体系として残っているのは、プラトンとアリストテレスの著作がありますが、最初はプラトンの考えを元に考察します。プラトンは純粋な「1」そのものについて、以下のように述べています。純粋な「1」そのものは、思惟によって考えられるだけで、他のどのような方法でも扱えない(4)。

 この意味を具体的な例を通じて考えてみます。一つのリンゴ、一人の人間、赤という一つの色、ドという一つの音、一時間という時間の長さ。ここで例に挙げたものは、物理的性質はまちまちですが「1」であるという点では共通しています。そこから「1」としての性質だけを取り出して、純粋な「1」という概念を考える事は可能です。ところが人間が純粋な「1」を表現しようとすると困難に突き当たります。普通の人が1を表現する場合、通常は1という数字かイチという音声を用います。どちらも数字または音声であって純粋な「1」ではありません。また、いかなる物体を用いて純粋な「1」を表現しようとしても、それは1個の物体であって純粋な「1」ではありません。そのためプラトンは、数そのものは目に見えたり手で触れたり出来ないと述べ、純粋な「1」としての性質しか持たない概念を「1」のイデアと呼び、「1」のイデアには物理的性質はないと考えました。この問題は大変難しいので、「1」のイデアについては別のページで検討することにして、ここでは「1」の性質に焦点を絞ります。

 自然数を構成する「1」の性質として、プラトンは以下の三点をあげています。第一に「1」が分割不能であること。第二に「1」が変化しないこと。第三に「1」と「1」がお互いに等しいこと。これをプラトンの三原則と呼ぶことにします。「1」はこの三原則を満たさなくてはなりません。ただし、プラトンは理想的な「1」について述べていますので、完全にこの三原則を満たすものは現実には存在しません。それでも人間が「1」という概念を持っている以上、絶対に現実にモデルがあるはずです。そこで私は、理想の「1」になるべく近い性質を持つものを、身近なものの中から探してみました。

 まず最初に議論の出発点として、具体的に何かを数えてみます。なぜなら自然数の普通の使い方は、物の数を数えることだからです。そこで例として、子供たちが野原で小石を集めて、多く集めた者が勝ちとして、順位をつけて遊んでいるところを想定します。具体的に小石を数える時、これはよく考えると難しい問題を多く含んでいます。最初に何をもって一個の小石とするかを定義する必要があります。

 まずは石の大きさだけに絞って考えてみますと、極端に大きい石は、持ち運べないので除外されるべきであり、次に極端に小さい石も、砂粒と区別できなくなるので除外しなくてはいけません。ところが、その両方の境界を決めようとすれば、子供同士で言い争いになるに違いありません。さらに難しい問題として、使用している石が二つに割れてしまった場合、子供達は混乱すると思われます。それらを解決しても、石の硬さや色や形をどうするかという問題もあります。おそらく現実に遊ぶ場合、力の強い子供がルールを曲げてしまう場合も出てくるでしょう。結局のところ一個の小石の定義は、その時々の子供同士の力関係によって、少しずつ変わることになると思われます。

 このように物体を厳密に数える場合、多数の人の同意を得るには、多くの解決しなくてはならない問題があります。それに対して数える対象として人間を選んだ場合、そのような問題はほとんどありません。人間は自分自身を一人として認識しており、他の人間も自分と同じ一人と認識します。体が小さくても大きくても一人となり、男性でも女性でも老人でも子供でも一人となります。

 さらに一人の人間を分割しますと、その人間は重傷を負い、体の一部を失って回復するか、死んでしまうかのどちらかで、元来シャム双生児であった場合以外は、二人になるということはありません。逆に二人の人間を、結合させて一人にすることも出来ません。すなわち怪我をしても病気をしても、生きている限りは一人であって、中間の状態はあり得ません。このように人間は数えやすく、人間の数を数える場合は、誰が数えても同じ数となります。

 なぜ人間は数えやすいのでしょうか、その理由をより深く考えるために、一般的な物体は数えられるかどうかを再検討します。石についてはすでに検討しましたので、次は山について考えます。山には多くの種類があり、高い山も低い山もあり、なだらかな山も急峻な山もあります。どこまでを山と呼ぶかは人によって異なっており、何らかの定義が必要です。ところが国土地理院によると、どこまでを山とするかの定義は特になく、市町村からの申請があれば山として地図に載せるそうです。これでは市町村の間で争いにならないか心配です。

 現実の例について考えてみます。日本で一番高い山に関しては富士山であり、これに異論を唱える人はありません。ところが日本で一番低い山となると、いくつも候補があり議論百出の状態です。今のところは大阪市の天保山ということになっていますが、これには経緯があります。天保山は人工山で、現在の高さは海抜4.53mですが、江戸時代末期に作られた当初は高さ20mあり、歴とした山として国土地理院の地形図にも載っていました。ところが、明治以降に徐々に地盤沈下が進んで低くなり、平成5年には地形図から削除されました。それを知った周辺住民の署名運動があり、平成8年には見事復活して、日本で一番低い山として認定されたのです。

 今でも国土地理院の地図に載っている日本で一番低い山は天保山ですが、他にも秋田の大潟富士、徳島の弁天山、香川の御山なども日本一低い山を名乗っており、それぞれに根拠はあります。それでも天保山が国土地理院に認定されているのは、第一に署名運動の効果と思われますが、もう一つは江戸時代からずっと山として認定されてきたという歴史の重みにもよるとされます。それでも本当のところは、大阪人が声の大きさで勝ったような気がします。

 このように自然の地形には境界線がはっきりしないものが多く、定義が困難な場合が多いのです。そこで人工物について考えます。数える対象としては、安い物の代表として新聞、高い物の代表として自動車について考えてみます。これらのものを数える場合、どこまでを1とするかを、はっきり決めなくてはいけません。それを厳密に考えると、非常に多くの問題があることに気づきます。

 例えば新聞を数える場合、通常はその日の朝刊全体をひとまとまりとします。ところが、その日に配られた新聞は当日しか価値がなく、翌日には古新聞と呼ばれ、紙としての価値しかなくなります。そうなると、通常は朝刊全体を1とは数えません。古新聞を物を包む紙として使う場合、新聞紙一枚を「1」とし、小さいものを包む場合などは、半分に切って一枚とする場合もあります。このように新聞または新聞紙を数える場合だけを考えても、どこまでを「1」とするかが難しいのです。最終的には個人の主観で決定するしかありません。

 今度は自動車について、どこまでを一台とするか考えて見ましょう。自動車は高価ですから、修理技術が非常に発達しています。自動車はぶつかると簡単にへこみますが、車体のへこみや傷は、かなりひどくても修理できます。例えば衝突などで、車体の前半分がつぶれた場合でも、自動車修理工場にもって行けば修理してくれます。車体は重要ではなく、走ることこそが自動車の本質だという議論があるかもしれません。ところが自動車はガス欠でも走らなくなりますし、パンクしてもバッテリーが上がっても動かなくなります。その時に動かない自動車を見て、これは自動車ではないとは誰も言わないでしょう。

 さらに自動車の心臓部に当たるエンジンが壊れた場合を考えてみます。古い車などでオーバーヒートしたりすれば、ラジエーターの水は沸騰し、エンジンは焼けてしまいます。最悪の場合であれば、エンジンを丸ごと取り替えなくてはいけません。ところがそうして修理すれば、自動車は再び走り出すのです。つまり、エンジン、車体、タイヤ、電気系統など、どこがやられても自動車は修理可能です。このように自動車はゾンビのような存在で、いくら壊れても再生可能なように見えます。そうすると、一台の自動車を「1」でなくする。すなわち廃車にするかどうかを、決定するのは持ち主しかありません。どの段階までを一台の自動車として認めるのか、人によって違います。それを統一するためには、自動車の定義は法律に従うしかなく、廃車になればスクラップと見なすしかありません。それを決定するのは持ち主ですから、持ち主の主観を法律が追認するという形です。

 個人の所有物は個人の主観によって一個が決定され、地形の場合はかなり政治的に規定されます。それに対して、地形や人工物でなく夜空の星であれば、誰が見ても一つの星は一つに見えて数えやすいように思えます。私が子供の頃には太陽系の惑星は9個と決まっていました。誰もが長い間、それは自明のことと考えていて、未知の惑星が発見されて惑星の数が増えることはあっても、減ることがあり得るとは想像できませんでした。ところが最近になって、冥王星が惑星から格下げになってしまい、惑星は8個に減ってしまいました。惑星の定義が変わったからです。その経緯は以下の通りです。最近になって、質量が冥王星と比較し得る天体が相次いで発見されたため、これらを惑星と呼ぶべきかどうかという論争が起こりました。それを解決するために、2006年8月にプラハで行われた第26回国際天文学連合総会で、惑星の新しい定義が決められました。その結果として、冥王星は惑星からはずされたのです。このように宇宙の物体ですら数えるには定義が必要であり、将来の科学の進歩によって定義は変わる可能性があります。

 こうして色々な例を考えると、あらゆる物体には定義または法律が必要であって、それがなければ物体を規定できないということが分かります。それに対して人間を数える場合に、人による違いがほとんどなく、将来に変化するとは考えられません。その理由として考えられるのは、人間が自分と他人を同じ人間として認識すること、人間が分割不能ということ、生まれてから死ぬまで同じ人間であること。これらは、人間が本能的に感じるのであって、定義されたり法律で決められたものではないからです。つまり人間が数えやすいのは、本能によって規定されていると考えられます。

 最後に、人間はプラトンの三原則を満たすはずなので、より詳細に検討します。第一の分割不能という点に関しては、人間の一部の細胞を分離して培養することは可能です。ところが培養細胞は人工的に生かされているだけなので、普通の人はこれでは人間が分割可能とは認めないでしょう。心臓、肝臓、脳などの重要な臓器は一つしかなく、これらの臓器がない状態では人間は独立して生きられません。現在の技術では、全ての重要臓器が揃っている状態でないとシャム双生児の分離手術も出来ません。そう考えると、人間は分割不能としても異論は少ないでしょう。第二の不変という点に関してですが、人間の細胞は常に入れ替わっており、人体を構成する物質も新陳代謝します。そこで重要になるのは自我の同一性です。自分は同じ人間だという意識があり、自分の経験に関する記憶の連続性を伴います。これは幼児の頃から発生し、精神が健康であれば死ぬまで続きます。第三のお互いに等しいという点に関して、人間の遺伝子は誰でもほとんど同じであり、人による違いはわずかで、遺伝子全体の0.1%以下です。さらに人間は、自分と同様の自我を持つ存在として、他の人間を認識します。その意味では人間はお互いに同等ですので、それが民主主義の根拠となっています。

参考文献
(1) B. Butterworth: The Mathematical Brain, Macmillan(1999)
(2) S. Dehaene: The Number Sense, Oxford University Press(1997)
(3) k. Devlin: The Math Instinct, Basic Books(2005)
(4) プラトン:国家, 藤沢令夫訳,岩波文庫(1979)
(5) N.A.キャンベル・J.B.リース:キャンベル生物学,小林興監訳,丸善(2007)

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