自我と運動


 人間を一人とする認識は強固なもので、生後かなり早い時期に生じるように見えます。最初は自分自身を一人と認識して、次に母親を一人として認識し、それから他の家族も一人として認識するようになります。しばらくすると家族以外の他人も一人の人間として認識します。 次に幼児の段階では人間以外にもペットの犬や猫なども一匹として認識します。ところが子供は、オモチャにも生命があるように扱います。おそらく生きているように思っているようで、特に動くオモチャには生命がないのを理解していないように見えます。それから子供は、動くオモチャには生命がないことを理解し、ペット以外の哺乳類や鳥類も一匹として認識しますし、さらに爬虫類、両生類、昆虫も一匹として認識します。子供は動く動物には、運動の主体としての自我を感じるように思われます。この自我について検討します。

 数える主体となるのは自我ですし、人間は数える対象としての他人にも存在を認めます。そこで自我の性質を考察します。歴史的には、近代的な自我の概念を最初に記述したのはデカルトです(1)。デカルトはすべてのものの実在を疑いました。その根拠としてデカルトは、夢について述べています。我々は夢の中で、多くの場合は現実の体験をしていると思いこんでます。例えば非常に怖い夢を見ている場合、その最中においては全く現実と区別できません。徐々に目が醒めてくると、これは夢かも知れないと思い始め、最後に目が醒めてから、ああ夢で良かったと思うのです。デカルトは、夢の中では夢と現実が区別できないと、述べています。

 夢の体験は一種の幻覚と考えることができますが、デカルトの時代には自分の体験が現実でない状況は、夢ぐらいしかなかったと思われます。ところが現代では、幻覚を起こす薬物も何種類もあり、機械によるヴァーチャルリアリティも一般的です。さらに脳の一部を電気刺激して幻覚を起こすことすら可能になっており、かなり脳神経を操作できるようになっています。そして人間の感覚は簡単にだまされます。例えば遊園地の三次元映像の恐竜でも、立体視用眼鏡をかけると現実に存在するように見えてしまいます。さらに我々は手品などにも簡単にだまされます。ましてや脳を直接操作されたり、薬物を使用された場合、操作された側には、現実と幻覚を区別するのは困難です。そこから多くのSF小説や映画が作られています。もしかすると、私が現実の体験と思っているのは全て幻覚であって、私は眠らされて脳を電気刺激されて、幻覚をみさせられているだけかもしれません。

 ところがその場合でも、私が存在して私が現実を疑っているということだけは確かです。つまり疑う主体としての自我だけは確実に実在しています。そこでデカルトは「我惟う、故に我在り」を哲学の第一原理としました。ここでの自我は、疑う主体であり考える主体です。この自我は単一でなければいけません。これを精神医学では自我の単一性といい、正常な自我の条件です。このような分割不能の単一の主体としての自我は、人間においては思考の主体です。しかし、進化の歴史を考えると、自我は運動のために発生したものと考えられ、動物の個体を統一的に動かすには自我は不可欠です。自我は中枢神経系に存在すると考えられますが、中枢神経系は動物に特有であり、運動のために中枢神経系は進化したと考えられます。今後の議論において、運動の主体としての自我を議論の対象とします。どうしても思考の主体としての自我を考える場合、言語を使用できる正常な大人の人間に限定されます。それに対して運動の主体としての自我を考える場合、より一般的に単細胞を含む動物全般について考察することが可能です。

 多細胞動物は多くの細胞を統一的に動かさなくてはなりません。そうでなければ体の右側と左側に餌があった場合、体の左側の細胞は左に右側の細胞は右に進もうとすることになり、多細胞動物は身動きがとれなくなります。このような場合でも中枢神経系があれば、どちらに進むのが生存により有利であるか判断し、有利な方に進むことが出来ます。運動の方向を選択するための司令塔として中枢神経が発生し、その延長線上にデカルトの自我が発生したと考えられます。

 この司令塔を自我と考えた場合、それはヤスパースの規定した自我に近いものになります(2)。ヤスパースは自我の重要な四つの性質を挙げていますから、四つの性質について運動の面を中心に記述します。第一に自我は最高の司令塔なので、自分が主体となって行動を決定します。これを自我の能動性といいます。第二に自我は分割できません。もしも自我が二つあれば、二つの命令が存在し得ることになり、前に述べたように人間は動けなくなります。全身を統一的に動かすには、自我は単一でなくてはいけません。これを自我の単一性といいます。第三に自我には時間的連続性があります。人間は生まれてから死ぬまでに、成長し老化しますので、体も心も変化します。それにもかかわらず、人間は一生を通じて、自分自身は同じ人間と考えます。これを自我の同一性といいます。別の名称としては、自分が別の人間に変化することはないという意味で、これを自我の不変性と呼ぶ学者もいます。第四に自我には外界との境界線があり、自我の命令が及ぶ範囲は自分の体に限られます。これを自我の限界性といいます。具体的には皮膚が境界となり、自分と外界を分けます。

 もしも自我が障害されるようなことがありますと、大変なことになります。自我が障害される病気として、統合失調症という病気が知られていますが、この病気には緊張病性昏迷という状態があります。重症の緊張病性昏迷では、患者は全く動くことができず、同じ姿勢を維持します。その状態では、患者は声を出すこともできず、食事もできず、便も尿も垂れ流しの状態となります。ヤスパースは精神科医でしたので、このような患者の自我障害を記述できるように自我を規定しました。そのおかげで、ヤスパースの自我の定義は、デカルトの自我と違って、言語が使用出来ない動物の自我を規定することが出来ます。

 動物が運動するためには、原始的であってもヤスパースの自我が必要です。まず能動性と単一性がなければ、一つの方向を選択して運動することは出来ません。次に限界性は生物には絶対必要です。どんな生物でも外界と区分されていなくてはいけません。最後に同一性ですが、小さな粒子のブラウン運動という完全に不規則な運動と違って、動物の運動にはある程度の時間は一定の方向に進むという持続性があります。それには原始的であっても自我の同一性が必要です。つまり少し前の自分と現在の自分は同じでなくてはいけません。もしも自我の同一性のない動物が存在したとすれば、その動物の運動には連続性がないため、ブラウン運動と見分けがつかなくなります。ブラウン運動は1827年にロバート・ブラウンによって最初に報告されました。ブラウンは水の浸透圧で破裂した花粉から水中に流失し浮遊した微粒子を顕微鏡下で観察して、常に不規則に運動していることを発見しました。微粒子にも単一性と限界性はありますが、能動的に動くことはなく、同一性もありません。

 逆に運動の主体としての自我は、すでに単細胞動物のゾウリムシの段階から存在しなくてはなりません。一つの細胞は一つの方向にしか運動できませんから、ゾウリムシは最初に運動の方向を選択して、次に全体を統一的に動かす必要があります。ゾウリムシには単一性と限界性はあり、さらに能動的に動きますし、一定時間は同じ方向に向かうので、自我の同一性もあると考えられます。例えばゾウリムシが、餌のある方に向かって進む時に、全身の全ての繊毛は協調して動きます(3)。その時にゾウリムシは繊毛の打つ方向を変えるために、膜電位と呼ばれる細胞外と細胞内の電位差を変化させます。つまり単細胞動物といえども、全体を統一する機構が必要ですので、それを自我の原型と考えることは可能です。

参考文献
(1) デカルト:方法序説,谷川多佳子訳,岩波文庫(1997)
(2) ヤスパース:精神病理学原論,西丸四方訳,みすず書房(1971)
(3) 内藤豊:単細胞動物の行動,東京大学出版会(1990)

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