昔、グラストヘイムという城に、一人の若い男がいました。
男は、城に仕える宮廷画家でした。
男は小心者で、まだとても若かったですが、その腕は大変すばらしく、男の描く絵はとても人気がありました。
ある時男はグラストヘイムの王様に、自分の娘、つまりお姫様の肖像画を描いてくれと言われました。
男は喜んでその依頼を受けました。

男は、王様やお妃様の肖像画は描いたことがありました。
しかし、お姫様の肖像画は描いたことがなく、どんな方なのだろうと、ワクワクしていました。

お姫様は、読書の好きな、物静かな女性でした。
とても恥ずかしがりやで、国民の前にもめったに顔を出さない上、お部屋にこもり、幼少のころから身の回りの世話をしていた乳母や、
両親である王様・お妃様以外にはその姿を見せることがなかったため、そのお顔を拝見したことは、城に仕えている男ですらありませんでした。

男が衛兵に連れられ、お姫様の部屋に入ったとき、お姫様は窓際できれいな装飾が施された椅子に腰掛け、一人本を読んでいました。
男はその、窓際にたたずむ清楚な女性の姿が、風に揺れる長く美しい髪が、窓から差し込む光に照らされた、
穢れを知らない真っ白な肌が、その全てが、目に焼きついて離れませんでした。

お姫様は王様から話を聴き、男の方を見て、恥ずかしがりながら椅子に座りなおしました。
男はお姫様に見とれていましたが、王様に去り際に
「ありのままに描いてくれればいい。それで十分すぎるほど美しいからな。」
と言われ、我に帰って、筆を執りました。
王様の言うとおり、お姫様はとても美しい方でした。
まるで無垢な人形のようでした。

部屋には二人だけとなり、沈黙が続きました。
お姫様はもじもじと落ち着かない様子でした。
男が、「どうぞ本を読みながらで結構ですので。」と言うと、お姫様は少し表情が明るくなり、落ち着いた様子で本を読み始めました。
男はその静かに本を読む姿に、また見とれてしまいました。

その無音の時間はとてもゆっくりと流れていたように感じました。
気がつけば、男の真っ白だったキャンパスには、まるで生きているかのような、とても美しいお姫様の姿が描かれていました。

男は、今迄で一番美しい絵が描けたと喜びました。
お姫様も、男の描いた絵をとても気に入りました
王様やお妃様も男の描いた絵にご満悦なご様子でした。

それからというもの、男が王家のご家族の肖像画を描く機会は、前にもまして増えました。
そしてなにより、今まであまり自分から人と接しようとしなかったお姫様が、男を呼んでは、自分の絵を描いてくれと言うようになったのでした。

男はお姫様に呼ばれることが楽しみで楽しみでしょうがありませんでした。
お姫様も、男が来るのが、男が自分の絵を描くのが楽しみでした。

気がつけば、二人はより親しい間柄となっていました。
二人とも謙虚で、優しい性格で、お互いを思いやっていたため、とても幸せでした。
しかし、王様やお妃様には秘密でした。
もしばれてしまえば、男がどんな目に合うか分かりません。
二人は絵を描くために会っては、隠れてお互いの愛を確かめ合うようになりました。

ある日、王様が男に言いました。
「姫の見合いのための肖像画を描いてくれ、今までで一番の物を頼む」
と言ってきました。
男は絶望しました。しかし、男には何の力もありませんでした。
お姫様は絶望しました。
しかし、お姫様にも王様に反抗するだけの勇気も力もありませんでした。

それからというもの、二人は暗い部屋の中で、二人っきりで、見合いのための肖像画を描く日々が続きました。
男が絵を描いている間、二人はまったく話すことはありませんでした。

男は思いました。
「なぜ姫は何も言ってくれない。なぜ本ばかり見ている。何故僕の方を見てくれないんだ」
お姫様は思いました。
「どうして彼は何も話してくれないの?彼はいつもあのキャンパスだけを見つめている。絵の中の私だけしか見てくれないの?」

男のお姫様への捨てきれない思いが、絵へと現れるのでしょうか、どれだけお姫様を描いても、
男は納得するものがかけませんでした。
それどころか、納得できる絵がかけないことが、いつしかお姫様への怒りへと変化していき、絵の中のお姫様の表情は、
だんだんと憎しみに満ちたものへと変わっていきました。

お姫様は男の絵を見て驚きました。
自分はこんな表情をしていたのかと。
彼が私をこんな風に描くなんてと嘆きました。
お姫様は純粋に、彼に出会ったときの、あの最初のころと同じ、あの1枚目のように自分を描いて欲しいと願いました。

お姫様は鏡を見てはキレイになるようお化粧をしたり、最初、出会ったときのように静かに本を読んでみたりしました。

しかし、男はどうして化粧をするのか、どうして本ばかり見て自分を見てくれないのかと、とうとうお姫様に怒りをぶつけてしまいました。
それどころか男は、お姫様がいつも読んでいた本を奪い取り、切り裂いてしまいました。

お姫様は突然の男の怒りに、そして本が破られたことに言葉を失い、涙しました。
そして、その日を境に、男とお姫様が出会うことはなくなりました。

お姫様は後悔しました。
どうして彼の思いを考えてあげられなかったの?
王様に「見合いはしたくない、彼を愛している」と言う勇気もないのに、自分の弱さに目を向けず、彼に何かを求めてしまったの?
どうして化粧なんてしてしまったの?
それはやはり、あの頃の・・・彼と出会ったあの頃の私とは変わってしまったからなの?
もう、あの頃の私とは違ってしまい、化粧をして隠さなければいけないほど心が醜く汚れてしまったからなの?
今の彼の描く私は、本当の、弱くて、醜い私なの?

お姫様は、鏡に向かって何度も問いかけました。
化粧をした自分をみて、それがやになり、泣きながら化粧を落としましたが、
化粧はきれいに落ちず、鏡に映ったその醜い姿が、自分をあざ笑っているかのように感じました。
お姫様は思いました。
どうして私は穢れてしまったの?
どうすれば私はあの人が望む、あの人にふさわしい、清らかな私に戻れるの?
お姫様は何度も鏡の中の自分を見ました。
あの1枚の絵の自分を思い出し、何度も何度も思い出し、そしてそのたびに、どうしてこんなになってしまったのだろう、
どうすれば私たちは元に戻れるのだろうと、苦悩し、そして絶望しました。

次の日、お姫様はご自分で毒をお飲みになり、鏡に寄りかかるかのようにこときれていました。
鏡には、その本来の色とは違い、どす黒く変わり果てた、お姫様の唇を鮮やかに染めるはずの紅で、こう書かれていました。
もどりたい」と・・・

男は後悔しました。
どうしてあんなことをしてしまったのか。
どうしてお姫様のことをもっと考えてあげられなかったのか。
どうして自分はこんなに弱いのか。
王様に見合いをやめてくださるよう陳情する勇気もないくせに、自分への怒りをあろうことか愛するお姫様にぶつけてしまうとは・・・

男は、お姫様から奪い取り、破り捨ててしまった本の切れ端を必死で集めました。
まるで、それを全て集めれば、お姫様が帰ってくるかとでも思っているかのように・・・
あの日、お姫様に始めてであった日に戻ることが出来るかと思っているかのように・・・
しかし、本の切れ端をいくら集めようとも、お姫様が戻ってくることはありません。
あの日に戻ることはできません。

男は嘆きました。
男は夜、お姫様の部屋へと忍び込みました。
そして、あの・・・出会った頃の、あの1枚の絵を・・・あの日のお姫様を求めて、部屋の中をさまよいました。
しかし、その絵が見つかることはありませんでした。
不信な物音に気づいた衛兵によって、男は捕らえられました。

男はそのとき、すでに正気ではありませんでした。
絵を、お姫様を求めて、うわごとのように何かをつぶやき、焦点の定まらない瞳で、もう見えるはずのない姫の笑顔を求めていました。

男は処刑されました。
男は処刑されるとき、どんなに衛兵に拷問されようとも、本の切れ端のようなものを決して離そうとはしませんでした。
男は死ぬ間際、こうつぶやきました。
あの日の私たちはどこに・・・」と・・・

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グラストヘイムは、今はもうありません。
栄華を極めたその荘厳かつ堅固な城は、今はもう、荒れ果て、見る影もありません。
もう誰もいないはずのその城の中で、あるとき旅人が不思議なものを見たそうです。

1枚の鏡が、宙を浮いて、城の中をさまよっているのです。
鏡の中からは、すすり泣く女性の鳴き声が聞こえました。
旅人がその鏡を覗き込むと、醜い自分の姿が映し出されたのだそうです。
旅人は恐ろしくなって逃げ出しましたが、去り際に、鏡の中からこんな声が聞こえたのだそうです。

どうして私は醜いの・・・
どこにあの日の私はいるの・・・
あの絵は・・・どこにあるの・・・


別の旅人が、自分も不思議なものを見たといいました。
1冊の本が宙を漂っているのを見たのだそうです。
本は、まるで何かを求めているかのようにさまよっていました。
旅人は、本がこう言っているように感じたと言います。

どこにあるんだ・・・
あの日の私たちは・・・
あの絵は・・・どこに・・・


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グラストヘイムは滅びました。
そして、グラストヘイムに何が起こったのか、今どこに、彼らの求めるものがあるのか・・・
それは誰にもわかりません・・・

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