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1 | 陸奥記念館 | 山口県大島郡周防大島町 |
2 | 周南市回天記念館 | 山口県周南市大津島 |
3 | 阿多田交流館(回天記念館) | 山口県熊毛郡平生町 |
4 | 岩国航空基地史料館 | 山口県岩国市海上自衛隊岩国航空基地内 |
5 | 防長尚武館 | 山口県山口市大字上宇野令 |
6 | 江田島の海軍兵学校「教育参考館」 | 広島県安芸郡江田島町 |
7 | 潜水艦教育訓練隊資料室 | 広島県呉市昭和町 |
8 | 呉地方隊史料館(旧呉海兵団建物) | 広島県呉市幸町 |
1 | 陸奥記念館 |
山口県大島郡周防大島町大字伊保田 | ||||||||
大正10年に就役した旧日本海軍の戦艦陸奥は世界最高の戦艦として連合艦隊の旗艦、お召し艦として活躍した。戦艦長門の2番艦。ところが昭和18年6月8日、旧東和町(現在は周防大島町)3キロ沖(柱島から1キロ沖)の柱島錨地に停泊中、謎の爆発を起こして1121人もの将兵と共に轟沈した。三番砲塔の下の弾火薬庫が大爆発を起こし、艦体を分断して瞬時に(約2分後)沈没した。沈没の原因は未だに不明である。陸奥は戦後、昭和24年から一部引き揚げを始めたが、水深40メートルを超える海底作業のため困難を極め、まもなく中止された。昭和45年6月、遺族や生存者らの熱意が実り、深田サルベージによって引き揚げが再開。昭和53年6月までの8年間の引き揚げ作業で、将兵の遺骨や遺品と共に、主砲など艦体の75パーセントが引き揚げられた。 陸奥記念館は陸奥の沈没地点を望む丘にある。引き揚げられた遺品や艦の一部、軍刀、銃剣、拳銃など個人装備品、遺族から寄せられた貴重な資料などが展示されている。陸奥の艦首部分や、副砲なども屋外に展示されている。予科連甲飛11期生戦没者慰霊・若鷲の碑もある。11期生124名は実習で陸奥に乗っていて爆沈で亡くなった。 戦艦陸奥は基準排水量 32,720t、全長 251.80m、最大幅 28.96m、馬力 80000馬力、速力 26.7ノット。 |
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陸奥記念館は昭和47年11月にオープンしたが、平成6年3月に現在地に新築移転オープンした。 | 陸奥の副砲。50口径14センチ砲。砲身長7メートル。両舷に9門づつ18門装備していた。射程は14800メートル。 | |||||||||
艦首。昭和47年2月20日引き揚げ。菊の御紋章がさん然と輝いていた。 | スクリュー。4基のうち左舷の内側直径4.2メートル。重さ11トン。材質はマンガンとブロンズ。ブロンズは銅を主としてスズ、亜鉛、マンガンの合金。 | |||||||||
戦艦陸奥の模型。大改装前のもの。 | 艦内食堂でで使用されていたランチ皿、洋皿、スプーン、アルミ弁当など。 | |||||||||
軍刀、南部式自動拳銃陸式、拳銃ケース、14年式拳銃、海軍短剣など。 | 展示室全景。 | |||||||||
陸奥歴代艦長の写真。大正9年7月9日着任した初代の小牧自然艦長から爆沈時の26代・三好輝彦艦長(少将)まで飾られている。なお、米内光政は5代、堀悌吉は8代、吉田善吾は9代、保科善四郎は22代。 | 陸奥22代艦長・保科善四郎の書。硯、万年筆など。 | |||||||||
海軍褒章の皿、各種勲章、海軍士官帽など。 | 山本五十六大将の書。もう1点ある。 | |||||||||
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2 | 周南市回天記念館 | 山口県周南市大津島 | |||||||||
太平洋戦争末期、“天を回らし、戦局を逆転させる”という願いを込めて、 魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりするという特攻兵器、人間魚雷「回天」が誕生した。大津島の回天基地には、全国から20歳前後の精鋭たちが集まり、毎日厳しい訓練を繰り返し、窮地に立つ祖国を守るため、多くの若者がこの基地から出撃していった。 記念館には人間魚雷「回天」に関わる遺書・手紙・軍服・遺影や遺品 約1000点の展示を中心に、回天の歴史や時代の背景、当時の生活などをパネル展示で紹介している。研修室、視聴覚室コーナーなどもあり、回天の心を通じ平和について学習する施設となっている。回天の模型もある。 |
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3 | 阿多田交流館(回天記念館) | 山口県熊毛郡平生町大字佐賀3900-14 | ||||||||||
太平洋戦争の始まった翌年、平生町阿多田に旧海軍の潜水学校が建設された。その後、水中特別攻撃隊(特殊潜航艇「蛟龍・海龍」人間魚雷「回天」)の訓練・基地が設営され、この平生回天基地から若い特攻隊員が出撃していった。 交流館では古代の阿多田半島地域の歴史や、太平洋戦争中の水中特別攻撃隊の訓練基地に関する貴重な資料などが展示されている。平成18年1月11日から、実物大の回天が展示されている。映画「出口のない海」の撮影で実際に使用された実物大の回天一型のレプリカ。また海中で潜水艦から直接回天内部に入れる交通塔(搭乗口)や回天を運ぶトロッコも展示されている。 |
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映画「出口のない海」で実際に使用された回天一型の原寸大レプリカ。金属で出来ており、ほとんど本物と違わない。全長約15メートル。 | 短剣、階級章等も展示されている。「回天」は人間魚雷を発案、兵器に採用するよう上申した黒木博司中尉の提案で命名された。 | |||||||||||
平生基地から6名出撃し4名戦死、2名生還した。また、隊長の橋口寛大尉は昭和20年8月18日午前3時、出撃予定の回天の中で第二種軍装に身を正し拳銃自決した。 | 搭乗員に渡された自決用の短刀「護国」。この短刀と拳銃を所持して出撃した。だが昭和20年6月「轟隊」の出撃からは青酸カリが渡された。 | |||||||||||
平生回天基地司令・澤村成二大佐の所持品。右上の短刀は大佐に万一の事があった場合、夫人に自害するようにと渡された短刀。 | 館内には、敵艦に対する攻撃針路を計算する射角表や、遺品、手紙、回天一型の模型やスクリュウ、平生基地全景の模型、基地通信隊の電鍵など貴重な資料が多数展示されている。 | |||||||||||
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4 | 岩国航空基地隊史料館 | 山口県岩国市三角町2丁目、海上自衛隊岩国航空基地内 | |||||||||||
岩国航空基地は、米海兵隊が管理する日米共同の基地である。基地の歴史は古く、昭和13年4月に旧海軍飛行場としての建設が始まり、昭和18年11月には、海軍兵学校岩国分校が開設された。 第2次世界大戦前の旧海軍連合艦隊の作戦会議が、当地岩国で開かれたと言われ、また、その時に、当時の連合艦隊司長官 山本 五十六大将が認めたと言われる直筆の額が岩国市内の料亭に大切に保存されている。 海上自衛隊を代表する三大史料館といえば、「江田島の教育参考館」、「鹿屋の航空基地資料館」、「佐世保の海事資料館」が上げられ、何れも荘厳な建物に豊富な資料が展示されている。 「岩国航空基地史料館」には、岩国ならではの貴重な資料を展示している。 それは飛行艇。旧海軍、海上自衛隊を通じての飛行艇の歴史、関係史料及び風胴実験に使用した1/10のモックアップ・モデルや平成6年2月に、天皇皇后両陛下の小笠原諸島の行幸啓に際しご使用された品々を1階に、2階には旧海軍コーナーとして、明治43年4月に岩国沖で潜航訓練中に遭難した第6潜水艦艇艇長 佐久間 勉海軍大尉関係の遺品等、旧海軍関係の衣装、写真資料等多数が展示されている。 |
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5 | 防長尚武館 | 山口県山口市大字上宇野令784 | |||||||
山口駐屯地は昭和31年、山口市に開設され現在は第17普通科連隊が基幹となっている。 山口市は歴史的に、大内氏が1363年この地に館をかまえて以来「西の京」と呼ばれる華やかな「大内文化」が開花した地です。また幕末期には毛利36万石の藩庁が置かれるなど、駐屯地周辺には多数の文化遺産が見られる。日露戦争やマレー半島上陸作戦で活躍した旧陸軍歩兵第42連隊が駐屯した地であり、今日においても陸上自衛隊第17普通科連隊は県民から深い信頼と敬愛を集めている。 駐屯地の史料館は「防長尚武館」として観光名所となっており、寺内正毅、寿一親子元帥の元帥刀・勲章をはじめ、多数の歴史資料を展示しており、県内外から多数の見学者がある。 |
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6 | 江田島の海軍兵学校「教育参考館」 | 広島県安芸郡江田島町 |
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英国のダートマス、米国のアナポリスと並ぶ日本帝国海軍のメッカ江田島にある鉄筋コンクリート造2階建ての海軍兵学校「教育参考館」はギリシャ神殿風建築様式により昭和11年(1936)に完成した。旧日本帝国海軍の栄光と海軍軍人の功績をしのぶ歴史的資料が多数展示されている。 第二次世界大戦終戦前には約4万点の帝国海軍の資料が保存されていたが、終戦時、一部の貴重な資料を厳島神社、大山祗神社等に奉納した。その他の資料は進駐軍による没収を恐れ焼却処分された。現在は、返却された資料等約1万6千点が保存されているが、その中から約1270点が展示されている。 日露戦争での日本海海戦で画期的なT字戦法でロシヤのバルチック艦隊を壊滅させた英雄・東郷平八郎元帥、太平洋戦争における真珠湾攻撃の山本五十六元帥の遺髪を はじめ、明治以降の海軍将星の肖像・日清、日露戦争、太平洋洋戦争の各種資料・絵画、神風・回天特攻などの特攻隊員の遺書などが展示されている。 栄光の日本帝国海軍の戦史資料では、日清戦争で東洋一の清国艦隊を、日露戦争でロシヤの極東艦隊、バルチック艦隊 を全滅させ帝国海軍の戦史資料。1941〜1945年(S16〜20)の 太平洋戦争では、真珠湾攻撃でハワイに突入した「特殊潜航艇」、敗戦色濃くなって実施された特攻作戦の「回天」「神風」の特攻隊員の遺書、 遺稿の数々が展示されている。 大理石盤三枚からなる「海軍特別攻撃隊銘碑」 もある。碑には、太平洋戦争で、祖国防衛のため肉弾となって突入した、海軍特攻隊員2633名の氏名が聖徳太子御親筆の法華経の文字の中から選んだ文字で刻まれている。 |
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7 | 潜水艦教育訓練隊資料室 | 広島県呉市昭和町4−10 | |||||||||||
海上自衛隊潜水艦教育訓練隊の関連施設。アレイからすこじまの道路向いにある全国唯一の潜水艦教育訓練施設の中に、 戦前・戦後の潜水艦の部品や、潜水艦に仕組みを説明したパネル、 大型模型などが展示されている。 | |||||||||||||
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8 | 呉地方隊史料館(旧呉海兵団建物) | 広島県呉市幸町1−1呉教育隊 | |||||||||||
海上自衛隊呉地方隊の広々とした敷地の中にあるレンガ造りの建物で、 かつて兵舎の一部。館内には、戦後の掃海部隊の歩みを詳しく伝える史料がある。 |
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